もつ鍋会

ストーブつけなくてもいいくらいだった昨日の朝と、吐く息、はたけ、 そら、みんな白い今日との、どちらに裏切られた気分なのかなんてのはさておき、鍋とかいいすねぇ! と思った今日が待ちに待った「もつ鍋会」だなんてなんておあつらえ向き。なのに、スミマセン間違えました、とか、今日発送、とか、で、文句いってやるぞと乗り込んだら「さむかったでしょうー?」なんて、矛先かわされて、上司がちょっこしきれる。慌ただしいーな、と思ったら待ち合わせ時間を過ぎていた! ので小走りで向かった中目黒のもつ鍋屋さん。かけつけ一杯ね。うまー。 キャベツうまー。もつやわらかー。辛くしちゃう? おじやにしちゃう? なんてまあとにかく潔く食べまくって満足してちょっとしたイライラとかすぐ忘れる。ごちそうさまして外出たときの、ひえた空気とあったかい顔。

 「やってくる」存在

他人、つまり自分ではない「人」の存在を知っているとはどういうことだろう。
目に見える人。触れることができる人、は、いることを知ることができる、とする。ではTVにうつっている芸能人はどうだろう。実際に見たことはなくても、画面の中で動いているのを見れば、その人は存在する、ということができる? それでは二次元はどう? なんていったら笑われるだろうか。では、例えば小説家はどうだろう。覆面小説家。編集者以外は誰も顔を見たことがないその人物の書いた物語は確かにここにある。読んだ。面白かった。この小説家はすげえ! というときの小説家は、存在している?
私は、している、と思う。
それはなぜだろう。その確信の根拠はなんだろう。
たとえば、その小説家が編集者本人だったり、なんてのはありそうだけど、猿が叩いたタイプライターによるものだったりしたら、そりゃ動揺するだろうし、でもそのことで小説家の存在はゆるがないような気がする。それは「私の心の中にいる」、とかそういうことではなくって……と否定したいけど、つまりはそういうことなのかもしれない。というか、それはその存在が、自分の意識に配置されているということで、そのいみでは、満員電車で「触れあう」人々よりも、例えば漫画の登場人物((それを作者という個に集約させることもできるだろうけれど)の方が、よっぽどリアルに「やってくる」存在のように感じる、し、少し前にどこかで、ブログを読む時そこに「人」を見るのはどうかみたいな話を読んだことがあったのけれど、そのエントリの内容は別として、それは見るかどうか以前にあるんじゃないのかなと思う。ただそれは定義するということではなくって、実はぜんぶうそでした! とかいうことがあったとしても、それは新たにやってきた情報なんじゃないか、ということ。
けれど、そうやって「配置」される/されていることに気付くまでには、ある程度の過程が必要な気もしていて、これはこのごろ考えている「言語」の話につながるはずなのだけどまだよくわからない。