イチニクス遊覧日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

0000 | 00 | 01 |
2001 | 01 | 02 | 08 |
2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 11 | 12 |
  □これまでの日記一覧

2007-06-30

[][] amato amaro/basso

amato amaro (EDGE COMIX)

amato amaro (EDGE COMIX)

「クマとインテリ」の続編短編集。それはもう格好のよいひとたちがたくさん出てきます。

それぞれのお話で、人と人の間にある気持ちが、ふくらんだりちかづいたりはなれたり、するのが見えるようで、なんともせつない。その微妙なやりとりは、かならずしも恋というものだけでなく、そもそも名前をつけられるようななにかというよりは、「引力」に近いのだなと思う。たまたま同じラインを手に取った人同士の、力加減が、ドラマになるんだなー。

そして、ここに描かれるひとたちを格好良いと思う私は、むしろ紳士になりたいと、わりと切実に思ってしまったりします。

[] 少女漫画の「恋愛」とコンプレックス

7月号のIKKIで読んだ、「金魚屋古書店」第37話「乙女の謎」が印象に残っている。乙女ロードを舞台にしたお話で「ボーイズラブがないと生きていけないの」という女の子が出てくる。そしてその話を聞いた男がいう台詞がこうだった。

「でも、わかってはもらいたいんだろ。

自分の事を たった一人の 誰かに。

生きてれば 当たりまえの 望みだよな。

読んでねーけど そんな感じの 漫画達だ。」

かつて、少女漫画で描かれる恋愛の主流(というか多く)は、「冴えない私」が「選ばれる」お話だったように思う。

例えば、今からするとかなりイメージ違うけど、くらもちふさこ作品にも「白いアイドル」があったように、特に70年代の恋愛ものにはそういった恋愛に対して受け身である話が多かったように思います。(でもこの年代の少女漫画はあまり読めていないのでなんともいえないのだけど)

そして、「白いアイドル」と同じ単行本に収録されている「メガネちゃんのひとりごと」は、メガネというコンプレックスを「メガネは君の魅力だぜ」と言われることで自分を肯定するお話になっている。つまり「冴えない私」という劣等感が、選ばれるということによって補われるお話ともいえる。

私が漫画を読みはじめたころ(80年代前半)の少女漫画を思い出すと、幼なじみとか、「運命の出会い」や「初恋」からの恋愛もの(例えば「ポニーテール白書」や、「星の瞳のシルエット」「月の夜・星の朝」)が目立つ。ここで女の子と男の子の立場はほぼ平等であって、どちらかが選ばれるという立ち位置ではない。

そしてこの頃、「純情クレイジーフルーツ」(や「星の瞳のシルエット」)のように、複数キャラクターの視点を通して、ひとつの物語の中の、誰に感情移入するかを読者が選べるような作品が増えてきたように思う。

これは少女漫画における個性(コンプレックス)の肯定なんじゃないかなと思う。そして、いきなり飛んで90年代後半「ハッピーマニア」では、主人公自身がコンプレックスも抱えたまま「選ぶ側」に立つお話になっている。しかし、そこにあるのは選ぼうとしているのにもかかわらず、選ばれようとするアンビバレンツ。安野モヨコがこのあとに「花とみつばち」という男性視点からの恋愛漫画(?)を描いたのはすごくわかりやすい転換だった。

つまり、少女漫画(女性誌にかかれているものも含む)では、もう「選ぶ」お話が主流になっていて、選ばれるために拘泥するお話は描きにくいんじゃないだろうか…。

「恋をするって人を分け隔てるという事じゃない」

よしながふみ「愛すべき娘たち」

という言葉は、その気分を端的に言い表している。物語の中で克服されてきたコンプレックスを、個性という言葉で克服しても、現実ではそれが「選ばれる」理由にはならなかった。つまり、選ばれなかったものは、「分け隔てる」という行為自体を忌避するようになる、ということなんじゃないだろうか。

そして、最初の「自分のことを、たった一人の誰かにわかってほしい」という台詞は、そのコンプレックスを共有できる相手と出会いたい、という言葉に思える。理解でもなく、許しでもなく。そんな関係がボーイズラブをあらわしているのならば、それが異性愛で描きにくく(共感を得にくく)なったのも仕方ないのかなと思うのだ。つまり、それは向こう側だからこそ「わからない余白」を残せる物語なのかもしれない。*1

そして先日、本屋で見た少年漫画(?)の帯に「平凡な主人公と美少女が…」という文字を見つけて、この温度差は、すれ違っているのかそれとも近付いているのか、どっちなのかなとか思いながら、もうちょっと考えてみたいなと思っています。

でも、まずは「金魚屋古書店」でとりあげられていた「コンプレックス」という作品を読んでみたい。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

ハッピー・マニア 1 (祥伝社コミック文庫)

ハッピー・マニア 1 (祥伝社コミック文庫)

関連

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070213/p2

*1:ただ、私はボーイズラブといってもよしながふみや雁須磨子、西目丸(かわかみじゅんこ)basso、あたりの作品を読んだことがあるだけなので、印象は偏っていると思うけれど。

2007-06-29

[][] 山へ行く/萩尾望都

山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

シリーズ「ここではない★どこか」の第1巻。SFを中心とした短編集です。

読んでいると、これがいつの作品だかわからなくなる雰囲気だけれども、それは萩尾望都さんがそれだけ長い間ぶれずに作品を生み出し続けているということだと思う(なにしろ私が物心ついたころにはすでに人気作家だったのだし)。ただ、ぶれないとはいえ、この不思議な語り口をなんといったらいいのか、いまだによくわからない。何かすこしづつずれていて、物語もけして予想したようには進まない。目くらましのようで、しかし最後にはきちんと着地する。

たとえば、第1話「山へ行く」は、山へ行こうと決心した主人公が結局家に帰ってくる、たった16ページのお話なのだけど、ものすごく長い間翻弄されていたような気持ちになる。そしてこの会話の密度。「くろいひつじ」も多くの登場人物が一斉に会話する、奇妙な高揚感のあるお話だったけど、場の空気のようなものに流されそうになったところで物語の視点が飛ばされる、この肩すかしがまたなんとも萩尾望都らしい(らしいとかいっていいのかわからないけれど)と思った。「メッセージ1」と「メッセージ2」も、この収録順が逆だったらきっときれいにまとまっていたはずで、でもこの順だからこそ、何かを覗き込んでしまったような、ぞっとする感触がのこる。

もっとも印象にのこったお話は、最後に収録された「柳の木」。萩尾望都さんの絵柄はけっして好みではないのだけど、ほとんど会話もないこのお話の、言葉にならなかった部分の大きさにぐっときた。

たとえば「茶の味」のスケッチブックのような。

[] どこへ行っても全部いいとこさ

どっちがいいとかそっちがいいとか決めるのが最近苦手で、どっちもいいよねと思ってしまう。どこ行っても全部、いいとこに思える。それならば、偶然の足取りにまかせて、なんでも来て見て触ればいいじゃない。なんて誘われても、時間は有限だからこそ、ついつい同じもの好きなもの知ってるものばかりを身の回りにおいてしまう毎日ですけど、

するといつのまにか、それらから遠ざかっているような、ひんやりする気分になったりして、遠ざかっているのか、おいていかれてるのか、ばっちり世界は幸せ、あふれてんのに足りないような、

そしてふと、自分のそばでなくて、あちこちに、大事なものがあることに気付く、その繰り返しのような気がしている。

好きはもちろんこれまでの上にあるのだけど、だからといってじっとしていなくて、きっと少し先に、あるんだと思う。それを追いかけて、ふらふら、今日も誘われて、やあやあって見知ったものと何度も出くわして、そしてもっと好きになれたら面白いですね。

2007-06-28

[][] 第2回ガンダーラ映画祭「美しい国へ」Bプロ

f:id:ichinics:20070627222350j:image:h150

短編ドキュメンタリー映画祭「第2回ガンダーラ映画祭」*1リバイバル上映に行ってきました。下北でやってたときに逃し、ロフトプラスワンも逃し、もうだめかって思ってたらアップリンクではじまったのでよかった。まずはお目当ての作品のあったBプロから。

面白かったです。ずっと前のめりで見てた。私がドキュメンタリー映画を好き*2な理由のひとつは、映画を見終わったあと、見なれた町や人々を、ものすごく新鮮に感じられることだと思う。見えてなかったものが浮かび上がってくるような、あの感覚は今日の帰り道にもあった。

『この作品のタイトルは「石仏さん」です。』(古澤 健)

石仏(名字)さんを追うドキュメンタリー。語られていくにつれどんどん得体の知れなくなって行く石仏さんの話は面白かったし、複数の場での話が一本にまとめられてく編集もおもしろかった。古川日出男の小説みたいだった。けど、挿入される監督の言葉がどうしてもしっくりこなくて、特に「奇跡」って言葉にしてしまうと、イメージを先走らせすぎるなと思いました。

童貞。をプロデュース2 ビューティフル・ドリーマー』(松江哲明

これはすごくたのしかった。素材も編集もすばらしく妥協がない。そして、こういう「人」の面白さこそが、ドキュメンタリーの醍醐味だよなぁと思います。まだ1は見てないんだけど、会期中にぜひ見たい。

ただ、この2は一応1とは別の人物を中心に撮影されたもの。この「人物」がとにかくいいんだ。登場するある人物もいっていたけれど、なんていうかさわやかだ。さわやかっていうか、真摯というか、例えば、アイドルに恋焦がれるのは(現実の女性を追いかけるよりも)純粋なこと、と語るとこなんてたいへんグッときてしまった。そして、「あの」シークエンスは、以前samurai_kung_fuさんが書いてらしたように*3トゥモロー・ワールド」超えてたよ。ぜひ見てみて前のめってほしいです。ラストもよかった。うれしくてにやにやしてしまいました。

『俺の流刑地(略称・俺ルケ)』(村上賢司

渡辺文樹監督を追うドキュメンタリー。渡辺監督のゲリラポスターもまた「見なれた町が面白く見える」もののひとつだし、この「俺の流刑地」も「童貞。」と同じく、「人」の面白さを痛感する映画だった。しかし映画を見終えたあと、具体的にはラストシーンを見て浮かんだのは、私が、個人的にドキュメンタリーに惹かれるもうひとつの大きな理由、大学時代に自分で作ってたりしたときの楽しかった気持ち、だった。その浅さを揺さぶられたような気がした。そして、かつての同級生で、今も映画やドキュメンタリーを撮っているひとたちのことを考えた。意味とか価値とかじゃないものについてはなす、あのひとたちへの、入り交じる気持ちは、でもなんだか心地がよかったりする。勝ってほしい。

[] 気が遠い

フジにいくために、近頃はだいぶ前倒しで仕事をしてたのだけど、その週末によりによって出張入るかもーなどといわれて頭が真っ白になった。かも、なのは部署で誰かが行けばいいということなのだけど、中途とはいえ一応新入りである自分がわがままをいうわけにもいかず(いちおう言ったけど)、で、もやもやしている。かも、という宙づり状態で放置されるのがいちばんやだ、と思うけど、結論でていけないとかはもっとやだし。

なんてつまづいてしまったせいか、今週はやたらと気が遠い。

毎朝リストをかき、消化しているはずなのに、何かを忘れているような気分。

いちど全部消してまっさらにして何書くか考えたい。たとえば山行って、音楽聞いてお酒飲んで寝て起きていい天気だったりして、そんな雰囲気の場所で。

*1http://www.imagerings.jp/gandhara2007_scedule.html

*2:それほどたくさんの作品を見れてるわけではないですが

*3http://d.hatena.ne.jp/./samurai_kung_fu/20070328#p2

2007-06-26

[][] 「群青学舎」2巻/入江亜希

入江亜希さんの短編シリーズ。シリーズというより短編集なのだけど、どこか連なっているような印象。たとえるなら、ある女の子の本棚みたいな。

とても良かったです。

群青学舎 二巻 (BEAM COMIX)

群青学舎 二巻 (BEAM COMIX)

「ニノンの恋」
魔法ででもきれいになって、すきなひとにじぶんをみてもらいたい、という気持ちのいじらしいお話。恋をすると女の子はきれいになります、なんて、ほんとならどんなにかいいだろって思うけど、そんなのあてにならないから、逃げ回って、小さくなってかくれる。そんなニノンが笑顔になるカットがとてもすき。すきなひとがきれいっておもってくれるなら、それだけでいいんだ。
「時鐘」
いのちを知る。というおはなし。あの雪の日の廊下のカットとかいいなぁ。
「北の十剣」
ある王女のクロニクルを描く全5話のシリーズ。素敵でした。ひとつひとつの話をつなぐ短い番外編が、すごく映像的な編集になっていると思った。第4話のマントのシークエンスもすてきだなぁ。あとラストシーンがすき。
「彼の音楽」
音楽が大好きで、でも失敗ばかりしてる男の子の話。これにも後日談がついてて(コーヒーのCMかっと思ったけど!)、ああーやさしいなとおもいました。やさしくされるとなくわ…。でも彼がちゃんとむくわれるのは、かれの真摯さゆえ、ってうのも誠実。
「続ピンク・チョコレート」
表紙のカットがすてきすぎる。お手伝いさんのやりとりも、ドアの前の酒盛りも。みやこさん!

1巻にもちょっとあったし、2巻では「北の十剣」以降の作品に付録されているサイドストーリーは、まるで読み終えた本の続きを考えるしぐさのようだなと思う。自分で考えたお話のつまった本棚から、時々物語を取り出して眺めるみたいな、この親密さが作品をつないでくような気がする。

[] 細野晴臣トリビュートアルバム

祝・UFO飛来60周年!の、豪華キャストによるトリビュート・アルバム。

とても具合が良いです。トリビュートアルバムって、大きく分けると「わりと原曲に忠実な」ものと「プレイヤーの個性を楽しむ」ものとにわかれると思うんですけど、この二枚組アルバムはそのどちらとも違う。

それぞれの曲にあたらしい空気を送り込みつつ、プレイヤーの個性とアルバムのイメージがちょうどいい具合にバランスをとっている。とてもたくさんのひとが参加しているアルバムながら、全員でひとつのアルバムを作っている手触り。どこからきいても良質の音楽がぎっしりつまったアルバムで、末永く愛聴できそうです。タムくんによるアートワークもすてき。

Disc1では、まず「風の谷のナウシカ」にやられた。虫の音、聞こえるなかにただよう嶺川さんの声がすてきだ。「Omukae De Gonsu」はトイボックスみたい。World Standard + 小池光子「三時の子守唄」も、小池さんの声がきもちいい。

Disc2では、ヤノカミ(矢野顕子レイ・ハラカミ)による「恋は桃色」がよかった。大好きな「銀河鉄道の夜」(といぼっくす)の曲が入ってるのもうれしい。というかこれ細野さんの曲だったってしらなかったなぁ。「蝶々さん」(The Woodstock Vets)こういうのによわいです。ごきげん。

そのほか、全部の曲がお気に入りといってもいいくらい気に入ったアルバムでした。でも、なぜか「はらいそ」からの曲がひとつもないのね、ちょっと残念。

kissheekisshee 2007/06/27 21:01 細野さんのトリビュート、とてもいいですね。寄せ集めなのに、これだけいいのは、やはり元がとてもいいからということと、参加なさっているかたがたが、細野さんにとても魅力を感じているからなのでしょうね。
細野さんのトリビュートに、友だちが参加しています。「日本の人」を歌っている、寺尾紗穂さんです。このあいだ、『御身』というフルアルバムを出しました。あたたかくてかなしい、不思議な美しい作品です。寺尾さんの声には、希望とあきらめが入り混じっているような、不思議な魅力があります。

ichinicsichinics 2007/06/28 01:48 kissheeさんこんばんは。「日本の人」はHISでしたっけ。懐かしい曲でした。この女性の声が寺尾さんですよね。「希望おあきらめが入り混じっているような」というたとえもすてきだとおもいました。アルバムもぜひきいてみたいです。

2007-06-25

[][] エイリアン9/富沢ひとし

おもしろかった!これもまたついった経由で噂をきいて読んでみたんですが、ああまだ知らないものたくさんあるなぁってうれしい読書でした。

エイリアン9 コンプリート (チャンピオンREDコミックス)

エイリアン9 コンプリート (チャンピオンREDコミックス)

物語は、ある学園を舞台に、主人公が「エイリアン対策係」に任命されるところからはじまる。エイリアン対策係は6年生の女の子3人。ボウグという共生型エイリアンとともに、他のエイリアンをラクロスのようなネットで捕まえるのがお仕事。

エイリアンてなに? なんでエイリアンがいるの? 地球はどうなってるの? という疑問がじりじりと明かされていく抑制された展開はページをめくる手をはやらせるし、読者が想像できる余地の割合も絶妙。そして、主人公の「恐怖」を軸にすることで周囲の人物に関する説明を必要最低限度に保ち、物語の勢いをつけている。

そしてこの「かわいらしい」絵柄も重要な演出のひとつだと思った。今でいえば西島大介さんに通じるような、現実味のないかわいさと残酷さのギャップ。でも西島大介さんの作品が常になにかの暗喩めいた雰囲気をまとっている(ので私にはいつもよくわからない部分が残る)のにたいして、この「エイリアン9」で描かれる「かわいさ」は物語と有機的に絡みあう。だからちゃんとこわい。

リアルってなに、ってことはひとまずさておき、リアルな映像で見せるリアルな物語と、デフォルメされた映像で見せられるリアルな物語では、その演出効果のベクトルが違う。そして、この「エイリアン9」はそのギャップを利用して、自分ってなんだろう、という疑問を発したときの、ぞっとするような心もとなさ。を描いているんだと思う。

面白かった。筋は全く違うんだけど、なんとなくダン・シモンズの短編集に入ってた「最後のクラス写真」を思い出したりした。アニメ版もみたいです。

[][] もやしもん5巻/石川雅之

かもすとはどういうことか、がメインだった(だった?)1、2巻を経て3、4巻でちょっとした転換があり、ドラマが動いてきた感じのする第5巻。相変わらず読みごたえのある漫画だと思った。

もやしもん(5)おまけ付き (プレミアムKC イブニング)

もやしもん(5)おまけ付き (プレミアムKC イブニング)

今回印象に残った飲食物はプルケ。メキシコ帰りの川浜が伝授する竜舌蘭からつくるどぶろくで、作り方はよくわかんなかったけど乳酸菌好きとしてはぜひ飲んでみたいと思いました。マッコリみたいな感じかな。

それから印象に残った人物は亜矢さん。

「がんばってね 世界のすべては次男が回しているのよ」

「はい? な何なんスかそれは」

「長女として真面目な人生を期待されている女のヒガミよ」

というコマに書き文字で「長女は深い愛担当さ」と書いてあったのがすてきと思った。長女のはしくれとして見習いたい気持ちはあります。

あと、54話の学園祭開門シーン。農大はわりと近所なのですけど、無料配付(今もやってるんだろうか)はもらえたことないです。勝てる気がしない。

[] そしてちょっと風邪ひいた

土曜日はすごくあつかったから、ベッドにだしてあるのタオルケットだけで、寒いなあ、って思いながら、片足突っ込んだままの夢の中はたのしい気持ちだった。寝起きに携帯いじりながら、遠ざかるその夢の気分を反すうしてみる。あれはいつのことでもない。いいゆめ、って全部過去の記憶から引っ張り出してくるものだと思っていたけど、ほんとうはそうじゃないのかもしれない。

時間はまっすぐな線上にあるのではなくて、シャーレの中で分裂する細胞のようなものなのかもしれない。だとしたら、なんて考えてたら、また眠ってしまって、なにかあたらしくて懐かしいものの、夢をみた。ほんの5分。

f:id:ichinics:20070624042154j:image:h200

2007-06-24

[][] 「300」

ichinics2007-06-24

監督・脚本/ザック・スナイダー

フランク・ミラー作品の映画化。

スパルタの300人の精鋭と、圧倒的な軍力を誇る帝国ペルシアとが戦う「テルモビュライの戦い」を描いた物語。物語の筋はシンプルだけれど、効果的に配置された伏線、フラグをアクセントとしながら、映像の快楽を突き詰めたような作品だった。スパルタ兵士のかっこよさを、脳内だけでなく共有できるものとしてアウトプットしてみせてくれる映像の圧力。それだけを見せようというストイックさもまたスパルタ的だと思った。

100万に対して300人で挑むというと、まるで捨て身のようだけど、スパルタ王レオニダスはちゃんと勝てる算段をつけて挑んでいる。アクションシーンでも、スパルタ軍がどのように戦っているのかをきちんと見せてくれるのがよかった。300がひとつになって一糸乱れぬ攻撃をくり出す。その瞬間にはぞくぞくするような快感があったし、盾、槍、剣を「使える」とはどういうことなのかが見て感じられる映像だと思った。ラスト近くの、背中合わせの二人の戦いなんかは、舞踏のようなうつくしさだったな。

そりゃ勝つわ、と思うし、勝てるかも、という期待をさせてくれる。スパルタの強さに説得力があるところが、とくに良かったです。

そして、そこには意志統一の力強さもある。ひとつの目標に向かって士気をたかめ、鍛錬を積んできたことに自負があるからこそ、向かって行ける。強さこそ正義、といわんばかりの自信にあふれた目。筋肉は裏切らないのか。そうなのかもしれない。

[] 「場」のイメージ(&25日追記)

先日(id:ichinics:20070614:p1)引用させていただいたsfllさんのエントリの続きで、図解をされているものがあげられていたのですが、それを読んで私は完全に「場」と「閉鎖系」にはじまるいろいろをごっちゃにして読んでいたことがわかりました。申し訳ないです。

とてもイメージしやすい図解でした。

偽装部 - ポケットのなかは暗くて、帽子がみつからない - 「場」トーとか元「個」の続き

それで、ちょっと自分のイメージしてたことも図解してみようと思ったんだけど…これがものすごくむずかしい。なんかもうアウトプットした時点でかわっちゃうのがもどかしいので、たぶんもうやらない、と思う。でも、せっかくつくったものはとりあえずあげてみる貧乏性。

たたみます。

続きを読む

ichinicsichinics 2007/06/25 15:38 うーややこしくてすみません。たぶん私は1つの語をいろんな意味で使いすぎなんだと思います。頭にあるときは理解できてるつもりなんですけど、言葉にして出すと穴に気づくな。でも、この気づく視点が「A’」てことなんだと思います。自分を他人として見れる。その客観を目的に使う場合は、たしかに非公開を選ぶほうが適しているのかもしれませんね。イメージとしては、非公開が冷凍庫で、公開はかもされまくるぬか床みたいなかんじかなー。って考えてるとどんどんずれて…。

2007-06-23

[] 「場」としての言葉

tokyocatさんの「年金の長いトンネルを抜けると選挙であった」という文章を読んで、そういえば春にいった言語学講座の感想を書いてなかったなと思い出した。というか、感想をかけるほどまだ理解できていないというほうが正しいのだけど。ひとつだけ、ものすごく身にしみた話があって、それはやはり「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の文章を引用していた池上嘉彦さんの「認知言語学」講座だった。

その講座でもらったプリントにはこう書いてある。

日本語の表現は〈主観的把握〉:話者は現場に身を置いて、自分に見えていることを言語化する。話者自身は言語化されない。

英訳の表現は〈客観的把握〉:話者は現場の外に身を置き、自分に見えていることと同時に、見ている自分をも言語化する。

パラドックス:〈主観的把握〉と〈客観的把握〉とは結果的に同一の言語化の仕方で表現されうる(略)。読む人の立場からすると、どの程度容易に、ゼロ化された話者を想定し、その想定された話者に自らを重ね合わせることができるかによって読みもかわる。

言研春期講座「認知言語学入門」配布資料より/池上嘉彦

そして「古池や 蛙とびこむ 水の音」という句を例にあげ、一見「客観的把握」であるようにみえるこの句は、実は「主観的把握」に基づいて言語化された表現(話者が言語化されていない)であるということを解説していた。読者はその場にいた「人物」に自己投入することでこの句に「感動」したりする。

この話がすごく面白くて、でも自分はそれを日本語という言語の仕組みの面白さとしてとらえているのか、単に言語の面白さとしてとらえているのか、考えてみると後者に近い。

例えば上の句を英訳するとどうなるんだろう?「古池のほとりで、私は蛙が水に飛びこむ音を聞いた」などというと日本語では「私」のイメージに引きずられてしまうところがあるので、「The sound that a frog jumped into the pond」とかかな? でもそうすると、「音」だけが強調されてしまう。

この句の英訳を見せても、英語話者の平均的な反応は「それが?」というものである、と講座で解説されていたけれど、それは英語話者と日本語話者の差異というよりは、上記引用に「英訳では」と書かれているように、「訳すこと」の不自由さのように感じる。

ただ、言語化されていない主語があることで、(特に日本語の話者にとっては)そこに自分を投入できる場を見いだす/見いだしやすくなるのではないだろうかという気はしている。そして、私は、そのように「言葉」が話者から切り離され、思いを投影する「場」としてある感じにすごく興味があるのだけど、「The sound〜」としてしまうと、その「場」はあらかじめ「音」を指し示してしまうだろう。

「古池や 蛙とびこむ 水の音」という句に、のそのそと歩をすすめ、古い池のほとりにたどり着くかえるの様子、鮮やかな跳躍、そして音と、その後にのこる静寂まで、思い描いてしまうのは、たぶん、この句の「場」が広く設定されているからだ。そして、その広さ、曖昧さ、枠のなさは、日本語独特なのかもしれない。

きっと英語にも、「場」を広く設定するやり方はきっとあるんだろうけれど、それはもっと具体的なものになんじゃないだろうか。いつか、英語を話す人に質問してみたい。

しかし、それがどんな言語にしろ、言葉を通して「自己投入」することができるっていうのは、ほんとうにすごい能力だと思う。そして、その「場」を通して、重ねることのできるものがあるんじゃないのかな、あったらどうなるんだろう、と考えています。

関連

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070423/p3

[] 猫まっしぐら

ともだちの家にこねこがやってきたというので、早速会いにいってきました。

ヤーこねこってほんどにいいものですね。子どもの運動会に向けてハンディカム買っちゃう親の気持ちがわかるような気がします。もう、すべての瞬間がベストショット。「週刊こねこ」(ない)の表紙みたい、とか、よってたかってメロメロになる。

うちの子はハタチ過ぎ、というのは何回か書いたことがあるのですけど、つまり子猫だったころも二十年以上まえということで、そんなんほとんど覚えていないわけです。でもひさしぶりに子猫と遊んでたら、おもわずうちの猫の名前でよんじゃいそうになったりして(先生に向かって「おかあさん」とかいっちゃうのと同じような感じですね)、ああーそういえばあの子も昔はこんな手のひらサイズだったのよねとか感慨深くもなって。

そして、ふとしたときの表情に気持ちの移り変わりのようなものを見ると、やはり猫にも成長があるのだなと思う(当たり前ですけど)。子猫の落ち着きのなさと大人猫の注意力とおばあさん猫の気まぐれとではまったく違うし、その変化はヒトの成長の仕方と同じものに見える。けれど、はたしてそれが「肉体的」なものなのか、「意識的」なものなのか、どちらなのかしら、両方じゃないの、とか考えながら、とりあえず、かわいいは正義なだと思いました。

f:id:ichinics:20070623210707j:image:h150

暴れまくってたので写真ほとんどとれなかった。眠ってるときだけおとなしい。

2007-06-22

[] V.V.SLOW?

ichinics2007-06-22

「かなしいうわさ」さん*1で知った、ヴィレッジでうってるP-VINEとのコラボコンピ。監修がやけのはらさん*2で、ジャケットは本秀康さん。同時発売の「V.V.Middle?」は石原まこちんさん、「V.V.Fast?」は小田扉さんのイラストで、このスロウはコラボはアンド小学館なんじゃないかとか一瞬思う。

視聴して悩んで、でも「V.V.SLOW?」を選んだのは、初回限定のおまけについてる監修者mixCDにひかれてってのもあります。

本編もだけど、このミックスCDがいいんだなー。夏!夏!今夜はとても上機嫌。

[][] 「この恋は実らない」/武富智

この恋は実らない 1 (ヤングジャンプコミックス)

この恋は実らない 1 (ヤングジャンプコミックス)

武富智さんの漫画は、ずーっとまえに短編集読んだことあるだけなんだけど、新刊ででてたこれがちょっと気になったので、読んでみました。

主人公はモテ男、ヒカル。二十歳にして抱いた女は数知れず、だけど彼女いない暦二十年。そんな彼がはじめて好きになった人は、純真無垢なお嬢様、百合子。

どう…なんだろうなぁ。「HはH、恋は恋だろ?」という主人公が、この女の子を好きになってそして、というその先にはとても興味がある。し、ちょっと感想をみてまわるとその先が面白い漫画みたいなんだけど、百合子以外の女の子の描かれ方が、どうにもひっかかるっていうか、百合子よりファンタジーに思えてしかたない。

でもこういう話は、男女逆のパターンでも「男遊びばかりしてた子がはじめて好きになったひとは、クラスでも目立たない、でも優しい男の子で…みたいのがあると思うんだけど(完全にイメージ)、そういう場合に出てくる「その他の男性」のパターンがぜんぶ「下心のひと」である感じか、と思うとしっくりくる。

女のコはファンタジーが好きだね

というヒカルの台詞は、面白い。それを意図的にやるから、ヒカルはモテなんだなーとか思う。そして、それはきっと男女に関わらずで、だから全編、男女総入れ替えしてもほぼ印象がかわらないだろうなと思う漫画だった。

2007-06-21

[] きょうもあつーいいちにちになりそうです

f:id:ichinics:20070619131240j:image:h300

まだあじさいの季節なのにな

[] なんで今日電話したかといいますと

久しぶりにあった日はビールで握手した。また飲もうって誘ったらビアガーデンにつれてってくれて、ピッチャーやらピッツァやらで山盛りの、ぐらぐらするテーブルを押さえながら、話をしたのが、夏。電車のドアがしまる瞬間に、こくはくしたっていってた。遠い街の子に、こくはくしたんだってさ。ねえ、って、ちゃかすよりもその欲というかエネルギーがうらやましく思えて。

次に会うのもきっと久しぶりなんだろうけど、私がビアガーデンといって思い出すのはあの日のぺらっとしたアルミの質感と、床に散らばった枝豆のからと、やけにきれいなビールのこはく色、ごしに。酔っぱらって、同じ話何度もして、でも話しながら、話の少し先を話しあえてるような気がしたりもしたんだ。その、ねむたそうなくうきが、好きで。あれからもう2年たったってのに、びっくりして。

[][] ゲーデルの哲学/高橋昌一郎

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

この本は、ゲーデルの人生をおいながら、サブタイトルにつけられた「不完全性定理と神の存在論」について書かれた本です。

哲学関係の本を読む時に、私は自分の「歯の立たなさ」を、数学的知識/センスがないせいだと思いたがるフシがあって、それでもなんとなく見える部分だけで満足してしまいそうになる。でもこの本の誠実さは、読み終えた瞬間にそのような自分を反省させる切実さがあり、もう一度、最初から読み返してみた。それでもまだ分からない部分、例えばp215は記号からして読めない、のだけど、それでもこの本はかなり平易に、数学の知識がなくても理解できるように平易な「言葉」で書かれていると思った。

第一不完全性定理
システムSが正常であるとき、Sは不完全である
第二不完全性定理
システムSが正常であるとき、Sは事故の無矛盾性を証明できない。/p59

つまり『「万能システム」が、論理的に不可能であることを証明している/p65』のが、ゲーデル不完全性定理なのだ、というのはとてもわくわくするし、希望だと思う。なんて感覚的なことをかくとおこられてしまいそうだけど、先を見たい気持ちと、その先には手が届かないでほしいというのは嘘をつくところなく、両立してしまう欲求なのだ。

神の存在論

ここで最も面白く感じたのは、アンセルムスについての話だった。

神学史上、アンセルムスが高く評価されたのは、神を「それよりも大なるものが可能でない対象」と明確に定義した点にある。これによって、彼は、キリスト教の神の概念を確立し、「スコラ哲学の父」と呼ばれるようになった。/p206

以前「「神」を信じることは、その実在や宗教を信じることとは違うのかもしれない」というエントリを書いた時に、思ってたイメージと「それよりも大なるものが可能でない対象」というのは近いけれども、「事実において存在しなければならない」という結に達するアンセルムスの展開も、ゆえに「神は存在しない」とするグリムの定理も、どちらにもしっくりこなかった。

ここで「大なるものが可能でない」というのは「考えることができない」という意味であるとp205に解説されているけれども、このような考えの限界を神とするのは私にとってとても自然なイメージに感じられる。けれど、その後につづくゲーデルの存在論的証明の部分は残念ながら読み解けず、もうちょと時間かけて読む。

不完全性定理と理性の限界

ここでテューリングマシンがでてきて、ああやっぱり不完全性定理は希望ににてるとおもった。なにも人間が「機械と同等である」というのを「感情的に」否定したいわけではない。ただ、ゲーデル

思考は、アルゴリズムに還元できない。人間は、テューリング・マシンを上回る存在である。/p252

という仮説の位置にたつことではじめて、万能システムの可能性を考えることも可能になると思うのだ。

ゲーデルの「神の存在論的証明」にしても、その背景には、本人しか理解できない理由があったように思えてならない。/p244

という筆者の言葉こそが、それをあらわしていると思う。それはたぶんある。その見えなさを追い求めたのがゲーデルの哲学なのではないか。私はそんなふうに読みました。

2007-06-20

[] tide of stars/DE DE MOUSE

TIDE OF STARS

TIDE OF STARS

ちょっとまえの暑い日、出先からかえる途中に休憩しながらモバツイっていたら、キュン死といううわさを目にしたので、レコード屋に直行。即買ってしまったこのアルバムですが、その後も順調にパワープレイされています。

CDプレイヤ発、銀河鉄道の旅アルバムとでもいいたくなるような、スペイシーかつキュートナ音楽。ブレイクビーツにエレポップをまぶしたファンシーな音づくり…ってなんのことやらだけど、選ばれる音色のさじ加減が絶妙に親しみやすい、懐かしい未来みたい。

「Tide Of Stars」などは、シューティングゲーム(というかツインビー?)の最終面みたい。とかちょっと思いました。キラキラ。そして宇宙へ消えていった…!

D

[] 風のつよい日で

f:id:ichinics:20070617140811j:image:h200

陽射しが強くて、まぶしくてあつくて、プリントアウトした地図をひたいにかざしながらあるいて、ベンチで時間調整して、のむカルピスウォーターはもうぬるくて、うんざりしそうになりながら、でも緑の濃いこの季節は好きだなと思う。

ブナ科コナラ属、プレートの文字や校庭のはしの水飲み場に立てかけられたモップ、頭上の教室から聞こえてくるピアノの音と合唱に、反応するこの気持ちは、きっと感動というものにちかい。おくれて聞こえる笑い声。

奥の奥の離れまでたどり着き、ふるびた階段を踏み締めるように5階まで、ぜいぜいいいながらのぼる。先生のちょっと裏返った声と、腕まくり。本に埋まった部屋、風にあおられた白いカーテンからのぞく緑色。ひんやりした廊下、振り返っても誰もいない、しんとしたまっすぐの向こうにともる赤いランプ。

ほんとうに、学校という空間には感傷をかきたてるものばかりあってまいる。

2007-06-18

[] 無防備ショック

まず第一に「彼女が、無防備胸元への男の視線に気付かない鈍感さ・天然さ」を持っていること。

第二に「男が胸元無防備を指摘できるくらい神経が図太い」こと。

そして第三には「彼女が無防備指摘をいやな顔せずに素直に受け入れられる」こと。

とくにこの第三の項目はこうも言いかえられる。胸元無防備指摘を男のエロさ・男の罪に還元せずに、純粋に指摘として処理できること。これはつまりその男を信頼してるってこと。もっといっちゃえば、男のことを好きじゃないと絶対にダメなのである。

ジャンル「無防備少女」。なんて見たときない。 -

少女じゃないけどいるじゃない。あなたのそばにいたじゃない…。

無防備元少女。それは「お母さん」です!(元じゃダメとかいったらお母さん泣くよ…)

ちょうどおあつらえ向きな情景を土曜日お昼の喫茶店にて目撃したのですけど、それはだいたいこんな感じでした…。

「あっ、あんたのコーヒー、あわがハート形じゃない!

 ……しゃれてるのねぇ。味違うのかしら?」(のぞきこむ)

「……あー、飲んでみる?」

「えっほんと? じゃ、えんりょなく…」(身を乗り出して交換、携帯で写真とる)

「……つうかさ、それどうにかしろよ、胸元。ありえねえ」

「むなもと?…あらら、ごめんねぇ!ほらもう最近暑いでしょう?」

そして豪快にグイッとされる様子が、想像つく人も多いんじゃないでしょうか。お母さんだって元少女。みんないずれは無防備元少女になるんですよねきっと…。とまあ、そこまではよくある感じです。母親と2人きりで買い物…ちょっと照れくさい息子…。なかなか微笑ましい光景です。

ただ、問題は次に息子が言った台詞でした…。

「だからってノーブラとかやめてくれよ、マジで…」

の、の、ノーブラ?? って思わず二度見。母親は「タンクトップきてるからだいじょうぶよ」とかいっているけれども…そうか? そうなのか?

スレンダーなキュート系お母さんだったので余計びっくりだったけど、もしかしたらそういうものなのかもしれない。うちのかあさんもそうなのかもしれない。

ただ、向こう側が見えちゃった息子さんのキブンを想像していたら、なんとなくではありますが、わたしもちゃんとしなければ、そう思わされたりしたのです。草々。

[][] ディアスポリス1〜4巻

漫画:すぎむらしんいち 原作:リチャード・ウー

ディアスポリス-異邦警察-(1) (モーニング KC)

ディアスポリス-異邦警察-(1) (モーニング KC)

もう4巻がでてた。安定して面白い。

物語の舞台は、近未来の日本。「裏警察」の警官、久保塚が、「貧しさや政治的事情から国に住めず、国を追われ、あるいは荒廃した母国を離れ、それでも難民認定はされず仕方なく異邦人となった」人々を守る中で、様々なトラブルに立ち向かう様を描く。

臓器密売疑惑を追う「闇の奥」。人身売買と契約を裏切ったものへの報復を描いた「黒く長い腕」のシリーズ。そして地下教会と留学生崩れの犯罪集団と対決する「ダーティーイエローボーイズ」が4巻までで完結。次は女詐欺師の話のようです。

原作付きは久々な気がするけど、それでも完全にすぎむらしんいち作品になるのは、やはりこの画面の表現力が圧倒的だからだと思う。特に今回の、まるで香港ノワールのようなアップテンポで混沌とした物語は、すぎむらさんの絵柄にぴったり。

たとえば、すぎむら作品の魅力でもあるセコくて必死で、でも味のある人々の生っぽい描写は、この漫画でも存分に味わえるし、躍動感のある線はキャラクターを当然のごとく描き分ける。うまい。「ホテルカリフォルニア」でも思ったけど、すぎむらさんは、お話の中で動いている人数が多くなると、場面転換や繋ぎのうまさが際立つな。短編と長編の違いは、すぎむらさんの場合だと、そのまま描く人数の多さな気がする。

そしてたとえば、香港やタイや中国を旅行しているときの、あの粒子の粗い空気や建物の奥の暗がりを、コマの向こうにも感じる。

映画のようだ、というのが漫画にとっての褒め言葉なのかどうかはわからないけれど、映像的な漫画だと思う。ぜひジョニー・トーに映画化してほしい。

ペースダウンせずにこのまま突っ切ってほしいなと思います。

2007-06-17

[] mass of the fermenting dregs !!!!@残響祭

残響レコード主催のイベント、「残響祭」に行ってきました。

6/17(日)渋谷O-east残響祭vol.3』

出演者: te' / scraps of tape(from SW)/

YOU.MAY.DIE.IN.THE.DESERT(from USA) /

perfect piano lesson /naan / ルルル / hologram /

texas pandaa /apnea / people in the box /

mass of the fermenting dregs /9mm Parabellum Bullet

open/start: 14:30/15:30

今日のお目当ては、mass of the fermenting dregs。このバンドはtwitterid:amnさんに教えていただいたんですが、初めて聞いた「If A Surfer」で完全にハート鷲掴まれたので、めちゃめちゃ期待して行った。それがまさか、1バンドめだなんて!

開場が14:30とかいって早すぎるよねぇ、なんてお昼食べてから開演ぎりぎりに入ったら、もう音が聞こえてくる。あわててかけてってステージ前。女の子たちはすでに荒れ狂っていた。

……この衝撃をなんて言っていいのかわかりません。言葉が追い付かない。音圧でぶわっと鳥肌がたったまま、体ごと繋がれて振り回されてる感じだった。ドラム、ギター、ベース3人の演奏が、がっちりシンクロしてる。ブレイク、解放、疾走、呼吸。顔を見合わせてうっとりと笑いあったりする、その様子に息をのむ。前にのばす、手の、あともうちょっとの焦燥。あっという間の約15分が終わった瞬間、膝がガクガクしちゃうくらいかっこよかったです。もっともっと見たい。くやしいくらいにすてきすぎる!

好きな音楽はたくさんありますが、こんなふうに衝撃を受けることができるってのはほんとなかなかないことです。うれしい。

終わってすぐ物販行って、3曲入りのCD買ったんだけど、そこに書いてあった「kirametal」という文字を見て、ああそうか、この音はキラメタルなんだなとか思う。何かバンドにたとえて説明してみたいけど難しい。ギターの音色とかは、たぶんNumber girlが好きなひとは好きな音だと思うし、Dischordぽい雰囲気もある。でも、マスドレに感じるのは、ストイックな強靭さではなくて、しなやかでキラキラした強さ。参った。

そして、このマスドレさんは、なんとFRF'07 ROOKIE A GO-GOにも出演が決定しており(しかも私が行ける3日めの出演だそうで!うれしい!)、さらにさらにデイブ・フリッドマンプロデュースでNYレコーディングも決まっているそうです。ちょう期待!

HPはこちら→ http://sound.jp/motfd/menu.html

myspace→ http://myspace.com/motfd

f:id:ichinics:20070617220838j:image:h100

15:30からだったので、てっきり夕方にはおわるイベントかと思っていたんだけど、タイムテーブルを見ると終演は21時とあってびっくりする。ステージがふたつあって交互に演奏していく形式だったのでセッティング待ち時間とかほとんどなかったのは良かったんだけど、時間が経つにつれ眠り込んでる人もちらほら。

私は父の日ケーキを買ってかえる約束していたので、残念ながらラスト3バンドを残して帰ってしまったのだけど、ほかにも好みのバンドは多かったので、また残響祭にはきてみたいと思います。以下、感想メモ。

ルルル

3バンドめに出演したルルルも初めて聞いたバンドでした。ドラムを中心にギター、ベース、ギターが向かい合う。4人ともうまいなぁ、なんて思いながら見ていたら、やがてやってくる拡散。それまでジッと演奏してた4人が、解き放たれ躍動する様は見応えがあった。絵になるバンド。

YOU.MAY.DIE.IN.THE.DESERT(from USA)

アメリカからの3ピースバンド。ルルルの直後だからか、演奏のゆるさが目立ってしまったけれど、ベースがメロディをとるような展開が面白かったような気がする。感情のおもむくままプレイっていう印象だった。

perfect piano lesson

ボーカルが、あんまり好みではないかなーと思ったんだけど、それでもひきこまれるとこのあるバンドだった。演奏もうまいしトリッキーな曲もいい。なんかすごくメジャー感があるのに、凝りまくった音づくりってのがミスマッチで面白いなぁ。なんかすごく失礼なこといってるようですが、たぶん違う場所で見たらもっとすなおにほめられてると思う。うまくいえない。

naan

かっこよかった。二人組ながら実に多彩な音づくり。ループギターにのせて、ギターの人がトランペットとボーカルを、ドラムはところどころでボーカルをいれ、縦笛(ケーナのような)を吹く。轟音ポストロックともいえる音だけど、二人でいくつもの楽器を扱いながら、それぞれの音がとても繊細に配置されてるのがわかる。お経を読むような声、哀愁ただようトランペットに、中南米を思わせる笛の音。レーベル主催のイベントだけあって雰囲気かぶるバンドが多かった中、このnaanの個性は際立ってたと思う。

ichinicsichinics 2007/06/19 01:54 kovjpさんはじめまして。コメントありがとうございます! 昨日のマスドレさんはやばかったですね!わたしは初めてライブみたのですが、ほんとかっこよかった…。はやくまたライブみたいです。

2007-06-16

[] ZAZEN BOYS@日比谷野外音楽堂

f:id:ichinics:20070616162142j:image:h150

一週間前には雨の予報だったのにもかかわらず、すばらしい晴天。リハーサルの音を聞きながらビールを飲み、開場を待つ。この日をほんとたのしみにしてた。

新ベースを搭載した新生ZAZEN BOYSは、「Take Off」で幕開け。その後に続く曲も、全ての曲にテコ入れしたのが分かる、新アレンジの連続でした。ライブのたびに新しい発見のあるバンドだけど、今回はとくにリズムや音の入れ方をかえてきている感じがして、脱皮仕立ての生っぽいつややかさを思うライブだった。

向井さんのキーボードは音数が増え、カシオメンのギターからは聞いたことのないリフが飛び出す。面白いところに音が落ちる。新メンバーの吉田一郎さんは、ちょっと堅いというか緊張している感じがしたけど、ドラムのそばに立って、向井の動きをジッと見つめ、確実に音を支えている。ヤンキーのアグレッシブなベースとは全く印象の違うベースで、最初の5曲くらいは、観客も手探りするような面持ちで見守っていた、と思う。でも「Hard Liquor」をやったあたりから、見た目にも余裕がでてきたように感じたし、「Cold Beat」では、ステージ上の4人が向かい合って息をのむ、この集中こそがザゼンだよなと思ってうれしくなった。新生ザゼンは、音色よりも、リズムの取り方が新機軸であるような印象を受けるのは、やはりこのベースの個性によるところが大きいんだろう。 柔らかな鉛のような音がヤンキーだとしたら、鉄パイプみたいな音、とか思う。この先どんどん個性が見えてくるんだろうなと思うと、とても楽しみです。

そして今日、冴えまくっていたのは、なんといっても松下ドラム。刻むバスドラと締まったスネアの音が荒れ狂う竜巻きのように曲をうねらせる。軽やかで重いドラム。まだ柔らかさの残る新曲群でも、松下ドラムはたよりになるエンジンとして曲を引っ張っていく。そこに色をのせるギター、ボーカル、ベース。ツアーの終わりにはまたAXでライブがあるそうですが、その時にはこれがどんな音になっているのかと思うと、そわそわしてしまう。早くみたい(チケットとれますように!)!!。

そして新曲。覚えている限りで書くと、まず最初に披露されたのが〈忘れてしまった〉を繰り返す「YUKATA」。続く「DARUMA」は乗りにくいビートのまんまつんのめって走り抜けるみたいな、かっこいい曲だった。これからライブの定番になりそう。それから「ナベ&サダ」というインストはめずらしくコンパクトな曲。「〜シティ(タイトル忘れた)」「don't wanna be with you」ではカシオメンがコントローラーのようなもので音を出して演奏していた。音色としてはディスコに近くなって、なんとなく3rdの後に続く傾向が見えてくる。まだレコーディングの予定とか立ってないっていっていたけど、きっとこのツアー終了後には見えてくるんじゃないかなと期待しています。

「Friday Night」「RIFF MAN」で一気に舞い上がった後、アンコールは新曲「雨宿り」から。カシオメンはまたコントローラーだったけど「ギターカシオメーン」て紹介されててちょっと笑いがおこる。そして「KIMOCHI」で終演。

なりやまない拍手! カシオメンがでてきて挨拶して、それでもなりやまない拍手に向井登場、無言で手を振って去っていった。

やー、ライブってほんとうにいいもんですね。楽しかった!

f:id:ichinics:20070617005749j:image:h150

2007-06-14

[] 言葉、距離

「場」は観測行為に依って現れる、とするのが私の立場である。ふたつの「個」、AとBの間には、それぞれにとっての勾配がある。それが重なっているとは、私にはどうも思えない。「個」がふたりいれば、それぞれ別の関係性があるのではないか。

偽装部 - ポケットのなかは暗くて、帽子がみつからない - 「場」トーと元「個」

これに対する返答「ネコプロトコル - 関係ABを観測するCがいてはじめて場が発生する。」もとてもおもしろくて、今日の後半はほとんどずっと、この2つのエントリについて考えていた。

上記引用部分に書かれていることは、私の「言葉」に置き換えてもまさしくと思う。では、観測者Cを必要としない「場」というのはありえるのだろうか?

「A'」のいるところは、それに少し近いんじゃないかと思う。私と「私」という意味ではなく、この場合はある程度の距離をおいたA自身のことだ。「場」にあがっている限り、Aは自身の姿を見ることができない。自分の言葉がBに届くまでのあいだに変容してしまうことを避けられないAは、A自身の言葉もまた、Aによって発された時点で変容してしまうことに気付けない。それに気付くのはいつだって新しいA、つまりかつてのAが「A'」になってしまってからのことなのだ。

「A'」の世界にピントをあわせるには距離が必要になる。しかし距離をおいてしまえば、Aはもう「A'」と同じ場にあがることはできないし、Aの言葉は「B'」には届かない。既に切り離された世界を、Aは観測者Cとなることではじめて「見る」。見ることができるようになるまで、どのくらいの距離が必要になるのかは計れないけれど、そもそも私は私の、AはA'の視線を借りることでしか世界を見る事ができないのではないだろうか。

Aと「A'」の距離を一時的に縮めるものとして、例えば文字を使うことが、できるかもしれない。それは同時にAと「B'」の距離を縮めるかもしれないし、Bと「A'」の距離を縮めるかもしれない。そんなふうに、世界は向かい合う鏡に反射する光のなかに、場の幻影を生産し続けているのかもしれない。

ただ、Aと「A'」の空間だけが、場を産むことができない関係として残る。その「場」からは逃れることができない。だからこそ、言葉は観測者を求めて、溢れるのだろう。

新しい一歩は、常に彼らに追いつくためにある。その先には、もしかすると、2つの場が重なっていたと、信じるときがあるのかもしれないな、と思う。

[] 神保町さぼうる

神保町の交差点そばにある、喫茶店さぼうるが好きです。

店の入り口にある赤いコイン式電話にチラと目をやりながら「さぼうるでさぼるか…」などとだじゃれをひとりごち、店内に入れば中2階と地下と地上階に、所狭しと小さなテーブルと椅子が並べられた空間がひろがる。席についてみれば案外広い、両手におさまるスペースは安心感があって、ロールパンと干物がならぶ豊富なメニューを眺めながら、毎日通っても飽きないかもなあとか、思う。

神保町へは週にいちどくらい行くようがあるのだけど、そのたびに、最近はもっぱらさぼうるで、いちごのジュース(おいしい)を飲み、ひとやすみするようになった。でもこのままいくと、そのうち、ビールとか頼んじゃうんじゃないかと思う。そんな雰囲気のお店でもある、

2007-06-13

[][] シュガーな俺/平山瑞穂

シュガーな俺

シュガーな俺

平山瑞穂さんの本を読むのは「ラスマンチャス通信」以来。「黒いシミ通信」時代に新作情報など見ていたのに、なんだか機会を逸してしまい、やっと手に取ったのがこの「シュガーな俺」でした。

この作品は平山さん自身の体験に基づいて書かれた「糖尿病小説」。電子書籍@niftyで連載されてたものです。

正直なところ、「ラスマンチャス通信」のイメージとはずいぶん違ったので、最初はめんくらいました。けど、読んでいるといつのまにか食事に気をつけていたり、無性にお酒が飲みたくなったりして、この切実なリアリティは、やはり体験に基づいているからこそなのだろうな、と思う。その文体にも、誰かの日記を(平山さんのブログというわけではなく)読んでいるような、手触りがあって、それはもしかしたら横書きの媒体で連載されたからなのかなあとか思った。

関係ないですが、知り合いにシュガーというあだ名の人がいたので、読む前は、佐藤さんの話かと思ってた。

[] 醒めるまで

落ちる夢を最近見ないでしょう、それは大人になったからなんだよとあの人はいったけれど、ふうん、と相づちをうつ、私は今朝も落ちる夢をみた。

手すりに捕まりながら、下の暗闇をみないように、息をきらしながら錆びた非常階段をのぼる。手が滑る。手のひらの汗を拭おうと、すっかり鉄臭くなった手を手すりからはなした瞬間、足下が落ちる。目が覚めた私は、ふくらはぎをさすりながら、破傷風のことを考えている。落ちる時、わたしは錆びた破片に触れなかっただろうか。気になって、ふと手のひらを見てみると、そこには傷ひとつなく乾いていて、ああそうかあれは夢だったのかと思う。ただふくらはぎだけが夢を現実のものとして受けとめ、緊張を解くことができないでいる。

足が痛いからもう歩けない、と枕に顔を埋め、落下の感覚を反すうする。落ちるような気もするし、びくともしない気もする。なにしたかったか忘れて、沈みかけた瞬間、名残をおしんでいた眠気が顔をだし、浮力となって漕ぎ出せば、もう階段は遠い。それは大人になったからなんだよ、とあの人がいう、夢を見た。

2007-06-12

[] やることリストと視覚と錯覚

毎朝、仕事前に「今日やることのリスト」をつくるのは、やることを忘れないためというよりは、やったことを消すため、という意味合いのがおおきい。忘れないためのものは他にもいろいろあるけど、それには大まかな目的のほうが書いてあって、やることリストにはほんとに瑣末な、たとえば送らなくてはならないメールのあて先を、羅列してあったりする。

なんでそんなことをするかといえば、こなした量を目で確認したいからだよなと思う。真っ黒だったリストが赤線でうまっていくのがうれしい。

そういえば、この前、たまたまつけたテレビで、インタビューされてた人が(お医者さんだった)「これがスケジュール帳で」と、真っ黒に塗りつぶされたノートを開いてみせていた。つまり、やることリストをノートに書き付けて、おわったものは黒く塗れというわけらしい。

「この頃はかなり燃えてましたね」と、真っ黒なページを指していう。ボールペンでぐりぐり塗りつぶされているので、テレビのこちらがわからも、紙がよれよれになってるのがわかる。

それを見ていて、ああ、そうか、やることリストを消して行くのには、頭の中で、とめおかれてる事項を消去していく,ちょっと大げさだけど「儀式」の役割もあるのだなと思った。見えないものを見える形に描き出し、消す。その作業を目で確認することで、頭からも消える。

それはたとえば、オレンジ色の砂糖水がオレンジジュースに感じられるとか、そういう錯覚とおなじようなものなのかもしれない。「視覚」からのインプットって、他の経路より直接繋がる感じがして面白い。意識より先にある感じがする。

[][] バス走る/佐原ミズ

バス走る。 (BUNCH COMICS)

バス走る。 (BUNCH COMICS)

バス停をテーマにしたコミック・バンチでの連作と、他社で発表したものをあつめた短編集。装丁もこってるし紙も上等。カラーページも多い豪華な本です。

佐原ミズさんの描くお話には、基本的に悪い人がでてこない。お話もやさしいものがおおい。

この本に収録されてる短編作品では、ストーリーよりも、その空気感が印象に残るものが多くて、たとえば、この主人公はこの先としをとってもきっと、何度も繰り返しこの光景を反芻するんだろうなっていう、特別な瞬間ばかりが集められている。

特に良かったのは男の子と女の子の視点が交互に描かれる「ナナイロセカイ」の2編。どちらも、お互いに思いを寄せあっているのに言い出せない二人が、相手に告白するまでを描いている。目が、あったりあわなかったり。そらしたり追い掛けたりを眺めているだけで、なんかもう甘酸っぱさで胸がいっぱいになりました。

[][] 欲望バス(文庫版)/望月花梨

だいぶ前にでてたものみたいだけど、文庫版を見つけたのでつい買ってしまった。

欲望バス (白泉社文庫)

欲望バス (白泉社文庫)

望月花梨さんの描く物語(の多く)に共通しているテーマは、デビュー作のタイトルにもある《境界》だと私は思う。デビュー作の『境界』は、小学生の女の子が、親友に彼氏ができて、どんどん大人びていくことに戸惑うお話だった。そこで「境界」という言葉があらわしているのは、「子供でもない/大人でもない」場所/時間のことなのだけど、それと同時に、きっと「自分と他人との間にある境界」でもあったのだと思う。

幼い頃は、自分が他人ではないということを、よくわかっていなかった。

女の子であって、男の子ではないというのがどういうことなのか、いまいちピンとこなかった。

学校での時間と一人でいるときの自分が、一続きでいられた不思議。

そしてそのふたつが分け隔てられるときの摩擦や葛藤を、望月花梨さんはまるでいまそこにあることのように、切実に描いている。

…私は思春期の女の子が気持ち悪い。

些細なことですぐつるむし怒るし泣くし

とても不安定で無気味な生き物に見えます。

「コナコナチョウチョウ」

自分が「私」であるということを知るときというのは、他人もまた「私」であることを知るということなのかもしれない。そして、そのきっかけは、たとえばこの物語の主人公がチロに出会うように、「他人」との間にある境界を、こえられない、そのもどかしさを知ることにあるんじゃないだろうか。

そうだあれはこんな感じだった、と、そんなことを思いながら読む。

2007-06-11

[] 逆転裁判4

逆転裁判4(通常版)(特典無し)

逆転裁判4(通常版)(特典無し)

ずいぶん長いことかかりましたが、やっとクリア。

今回はDS版ということで、DSならではの機能を生かした新しい「操作方法」があるのだけど、これは正直、あんまりいいと思わなかった。たとえば、指紋検出をする時には、証拠品にタッチペンで粉をかけ、マイクに息を吹きかけることで粉を払うという作業をすることになるのだけど、その場面が外にいるときに発生すると、そんなのやれないわけですよ。電車内でDSに向かって「フーッ」とかやれないです。

あと、以前あったサイコロックにかわるものとして今回は「みぬく」というのがあるわけですが、「つきつける」でひとつずつクリアしていくサイコロックにくらべて、あんまり推理してる気分になれないのもちょっと残念。

なんてぶつぶつ言いつつも、物語的にはやはり面白くて、最終話までいくと、それなりのカタルシスがあるのはよかった。

個人的な感想としては、ちょうど「奇術師」を平行して読んでいたので、マジックが出てくるのも楽しかったです。

[] その続き

先日、紆余曲折あって高校生と話をすることになった。遠くの学校まで行って、事務室に挨拶をして、校内に入る。先生と打ち合わせたあと高校生たちと話をする段取りになっていた。

校内に足を踏み入れた瞬間、自分の体が、ぐっと重くなったような気がしてひるむ。そこが私の通っていた高校というわけではないのだけど、学校特有の空気ははっきりと感じられたし、だからこそ、それがもう私になじまないということに、今さら気付かされてしまった。誰もいない渡り廊下から見える校門には警備員の人の背中が雨に煙っていて、その向こうを車が通り過ぎていく。たとえば「リンダリンダリンダ」という映画の中にあった雨の校舎は、私がそこにいたときの学校と重ねあわせることができたのに、この場所にいる私はあきらかに今で、これから大人として、高校生と話をしなくちゃいけないなんて、何か悪い冗談のように思えた。

好奇心に満ちた目は、私を霞めるだけでちゃんと見ない。先生越しに、「ねえ今日この人が話するの」みたいなことを問う。その照れ隠しのような態度は、この場所と解け合って柔らかい。

もし私が彼らだったら、きっと私は生まれたときから大人のように見えるのだろうし、別れればきっとすぐに忘れるだろう。それよりも大切な、クラスメイトとのやりとりや持ち物や放課後に、すぐに埋め尽くされるだろう。

そんなことを思いながら、ああそうか、あの頃の自分はそんな風に大人を見ていたのだと思った。学校の外で会うのとはちょっと違う、学校にいる大人は、なんというか出来上がりのような気がしてた。そして今さらながらに、結局、年をとっても出来上がりにはならないんだなということを、思う。

それが申し訳ないような、可笑しいような気分で、教室を後にする。校門を出た瞬間、思わず足取りが軽くなったのは、なんでか考えない。

2007-06-10

[][] 大日本人

ichinics2007-06-10

監督:松本人志

おもしろかったし、楽しかった。好きな映画だなと思いました。

「頭頭」とか(見たのは10年くらい前だけど)ちょっと苦手だったし、ダウンタウンが、松本人志が好きか、といわれるともうよくわからないよねぇ。なんて思いつつ映画館に見に行くつもりはあんまりなかった。でも先日、たまたま見た「スマステーション」のインタビューで、なんとなくだけど好きな映画かも…と思わされたので、見に行ってきました。

物語は、大日本人であるところの大佐藤(松本人志)を追う、カメラとインタビュアーの視点から、ドキュメンタリー「風」に描かれる。タッチでなくて「風」なのは、あきらかにそれを仕掛けとして使っているからだし、松本人志独特の、ちょっとハズした受け答え、問い返しなどは、あまりになじみ深いもので、ドキュメントには感じられない。

でも、もしこれを、松本人志じゃなくて別の俳優、もしくは初めて顔をみるような人が、やってたらもっと全然違って見えるんだろうなと思う。「スマステーション」のインタビュー内で、「出演はしたくなかったんだけど、それじゃあ金は出せないみたいなこと言われ…」という話があったように、それが、本来思い描かれていた「大日本人」なのだろうし、そのへんフィルタをかけずに見ることのできる(たぶん)外国の人などはどう受け取るのか、気になるところです。

それでも時折、松本人志という名前を思い出さずに大佐藤だけが画面が見えるときがあって、例えば最初に大佐藤が家の敷地内に入っていく場面の、きたないきれいさ。それからsamurai_kung_fuさんの感想(「ゾンビ、カンフー、ロックンロール それでも犬は肛門を見せる「大日本人」」)でも挙げられていたけれど、発電所に向かう大佐藤が、スクーターで坂道を上って行く後ろ姿を後続のカメラが延々と映す場面、そのフレームの両端に見える禍々しい看板の文字の意味を解する瞬間は、ほんとゾクゾクした。

ほかにも発電所員へのインタビューシーンとか、「儀式」のあほらしさとかを描くやりかたとかすごく好きだ。そして、そのような「素の面白味」と、コントラストをつけて描かれるのが「大日本人」部分。

たぶん同じく「スマステーション」のインタビューで「ヒーローものをやりたかった」と言っていた(ような気がする)んですが、ヒーローという存在を、情景だけをねじって素の人間と地続きに描くことで、切なさとおかしみを滲ませていてそそられた。このモチーフで、もっと掘り下げて欲しかったな、なんて後ろ髪ひかれつつ、終盤は突然のちゃぶ台返し。あれを、面白いだけで見ていいのか、それとも意味を読んでいいのか、思わず照れ隠しかと勘ぐってしまいそうな戸惑いもあれど、あれはやっぱり、ヒーローもの、というこの作品ならではのおとしまえなのかなと理解することにしました。

そして、理解できなくても、満足はできるもんだなと思った。

「スマステーション」インタビューでは、今後、もし映画をとるとしたら? という質問に対して、松本さんは「時代劇のドキュメンタリーとりたい。AVもおもしろそう」なんて答えていた。この映画をみて、ああそれすごく面白そうだなと思った。

2007-06-09

[] Theピーズ 20周年記念ライブ@SHIBUYA-AX

朝起きて雨降ってるの見て、ちょっと笑ってしまった。

まだ耳はじんじんしているし、頭もぼんやりしてるんだけど、まずはTheピーズにお祝いと感謝を。そしてまとまんないだろう感想を書いてみようと思います。

開場直前、AXは見たことないくらいの大混雑だった。年齢層も幅広い。あちこちから「最初に見たのは中学のころで」とか「若い子もきいてるんだなぁ」とかそんな話が聞こえてくる20周年ですよ。あまりの蒸し暑さにビールがすすむ。つめたくておいしいいい。エンジンかかってわくわくそわそわ、開演を待つ。

1発めは「生きのばし」。ライブがはじまると、思わずうわぁーって笑ってしまう。うれしい時、人は顔がゆるむみたいです。快調。ギタードラムベースボーカルが、一気に溢れる力強い演奏。ああピーズって楽しいなぁて笑いながら踊ってた。

例えば「君は僕を好きかい」という曲を歌うときの、放り出すような、ふてくされたような歌い方。最後、ブレイクに入るドラムの音、そして最後に「君は僕を好きかい」って終わって、「オナニー禁止令」へ。意味なんかなイエー! なにこのかっこよさ。(ああ言葉でいうのって難しい!)

今日はゲストもたくさんきていて、それぞれ1、2曲づつ参加していく形式でした。アビさんやはるくんの前フリがいちいち面白い。

前半*1のゲストでは、峯田さんの「バカになったのに」が似合ってた。それからトータス松本の「実験4号」、あとフラワーカンパニーズのキューちゃんがドラムを叩いた「脳ミソ」もよかったなぁ。でもなんといってもYO-KINGの「やっとハッピー」は泣けた。そのあとにやった「カラーゲ」(アビさんのリクエストらしい)もかっこよかったです。

後半ゲストでは、トモフスキー「シニタイヤツハシネ」がいろいろすごかった。最初おおやっぱり声が似ている!と思ったのにすぐ歌詞わすれて鼻歌になってたりして、長いリフレインできりきり舞い。自由すぎる。その後、「時間よ止まれ」(あの)やりながら民生さんがでてきて、「底なし」。くはー。

でもゲストコーナー終わるたんびに「ピーズは三人だぜー、もっとやらせろい」みたいなこと宣言せずにはいられないはるくんにまた笑う。なんつーか幸せなライブだ。

私がピーズを聞いてるときの気分ていうのは、ほんと「とどめをハデにくれ」という曲に集約されてるような感じで、そりゃヘコむときもたくさんあるんだけど、もっともっともっとくれよって思いながら、へらへら笑っちゃうのは、それはうれしいからなんだよなと思う。それでいつのまにか勇気づけられてる。だいじょうぶ。

昨日の屋根裏には行けなかったんだけど、そっちでも20曲以上やって、という話が途中でてきて、それで今日はたぶんね、30曲以上やった。みんな汗だくです。今日はホント、20周年で、お客さんいっぱいで、ゲストもいっぱいで、そういうのうれしいけど照れくさいんだよねってはるくんは言ってて、拍手しながら、もっともっと大きな拍手が鳴らせればいいのになって思ってた。うまく言えない、この感謝が拍手で伝わればいいのにな。

30周年ライブは、アビさんの「デブジャージ」で開幕するらしいです。イエー!

*1:随所にゲストコーナーがあったのでわけかたてきとーです

chibamachibama 2007/06/10 04:09 「とどめをハデにくれ」ぼくも死ぬほど勇気づけられた曲です。
しかしYO-KINGの『やっとハッピー』、トモくんの『シニタイヤツハシネ』・・・うらやましすぎる! AX行きたかった!!(チケットとれなかったのです)

ichinicsichinics 2007/06/11 13:40 ゲストの参加は、じつは私も当日サイト確認して初めて知ったんです(事前告知あったのかな?)。びっくりでした。トモフスキーの『シニタイヤツハシネ』は、盛り上がりすぎ、というかなんかもう大笑いさせてもらって。ほんと幸せなキブンになりました…!!

2007-06-08

[] 「ゼロ年代の想像力」第1回を読んだ

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

先日はてブで知った記事「さて次の企画は - 95年エヴァンゲリオン文化圏の終わり−−知的な塹壕としての「ゼロ年代の想像力」スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」完結について」を読んで興味をもち、SFマガジンを買って、「ゼロ年代の想像力」を読んでみた。

はじめに、この連載の目的を簡単に説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、ゾンビたちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の「いま」と正しく向き合うこと、そして来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。

宇野常寛「ゼロ年代の想像力」

そして『新世紀エヴァンゲリオン』におけるシンジくんの引きこもり気分が支持されたのが90年代後半の「気分」。対する、ゼロ年代前半の気分は「セカイ系」ではなく、99年の『バトル・ロワイアル』から『Fate/stay night』 『デスノート』に至る「決断主義」「サバイブ感」である……というのが、第1回の流れだったように思う。

時代の「気分」というものは確かにあると思うし、自分も少なからずそれに影響されてきたと感じているけれど、ここで語られてる「気分」が社会的なものなのか、ある文化の中でのものなのか、それとも文化と社会は結びついているという前提/定義の上でのことなのか、私にはわからない。それは自分の視線の届く範囲が狭いせいだと思うのだけど、それでもその範囲の中で、ちょっと考えてみたくなった。

『新世紀エヴァンゲリオン』

私が「ゼロ年代の想像力」を読んで、まず感じたのは、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、ものすごい影響力があったし今も語られ続けている作品ではあるけれど、「エヴァのような」作品ていうのは、実はすごく少なかったんじゃないかなということだった。ここでいう「エヴァのような」というのは90年代後半の気分としてあげられている「引きこもり」の気分のことだ。

つまり『エヴァ』の「引きこもり気分」は、「こんなカルトで不透明な社会での自己実現は信じられない」という若者の気分を代弁していたのだ。加えるならば、同じく『エヴァ』で「社会」という物語の衰退の替わりに前面に押し出された「自己(の内面)」という物語(それも俗流心理学的なトラウマ論)が、同じく九〇年代後半に流行したサブ・カルチャーの「気分」の主流となっていく。

宇野常寛「ゼロ年代の想像力」

エヴァのような作品はたくさんあった。でもそれはここで「加えるならば」の後に書かれている「自己の内面」を描く物語としてのエヴァらしさや様式であり、エヴァに続いた作品は概ね「自己の内面」から外へ、それこそ決断し、出ていく物語であることが多かったように思う。

それらはどれも、思春期の全能感と現実/社会との間にある拘泥をどう描くか、という物語であって、その現実/社会の描かれ方こそが、時代の気分、なんじゃないかと私は思う。シンジ君にとっては父親だったし、ナオ太にとっては「当たり前のことしかおこらない」毎日。そして今見てる途中だけど、たぶん「少女革命ウテナ」も世界のはての外へ行く物語なんだと思う(っていうかどちらも榎戸さんの脚本だ)。

ただ、『エヴァ』が特殊だったのは、それが「主人公が閉じる方向へ向かう」という物語だったからじゃないか。だとすれば、その点において「エヴァのような作品」は少なかったと思うし、だからこそ、そのカウンターとしてその後に続いた作品が拘泥からの脱却というテーマに集中したんじゃないのかな(実際そんなに集中してたのかはわからないけど)、とか思った。

デスノート

「ゼロ年代の想像力」で「決断主義」「サバイブ感」を象徴するものとして挙げられる作品の多くを、個人的には「ゲーム」ものとして捉えています。つまり、ある一定のルールがあり、その上にのせられたキャラクターが動く様子を楽しむエンタテインメントとして「ゲームもの」を読んでいる。

例えば、私は「デスノート」をとても楽しく読んだけれど、登場人物の誰にも感情移入しなかったし、その状況を自分の現実と重ねあわせることもほとんどしなかった。そもそも、その必要性を感じなかった。だから「気分」としてエヴァと比較するのは、ちょっとピンとこない。

むしろ現実/社会に対する「苛立ち」を「サバイブ感」に展開させていった舞城王太郎のような立ち位置のほうが、21世紀初頭の空気に近いんじゃないのかなーとか思う。ただ、「ひぐらしのなく頃に」などは、ルール主体の「ゲーム」ものという基盤と自己の内面を繋げてみせた作品という点で、新鮮だった。けどそれは「Fate」とかやってないので、比較できない。

また「自分が閉じること→世界も閉じて行く」という流れとは逆に、閉じていく世界の中で、日常を肯定するという方向へいった『ヨコハマ買い出し紀行』のような作品もあって、そちらの方が個人的な「気分」には近かった。

よしながふみ

しかし、その「サバイブ感」に続くものとして「よしながふみ作品」を位置づけることには、ちょっと戸惑ってしまう。

冒頭にあげた「ゼロ年代の想像力」を読むきっかけとなった記事では、『フラワー・オブ・ライフ』について

まだ消化しきれていない私が本作のテーマを一言で述べることは難しいが、それでもあえて一言で言うのであれば、

《セカイ系や特別な自分》を包含し癒し包み込む、『日常の豊かさ』を見つめ直そう

というのが大きなテーマだ。……いや、この一言ではあまりにこぼれてしまう物が多すぎて、自分の語彙と時間の少なさを痛感する。

たとえばそれは、

優越感ゲームに陥りがちなメタ視点・メタ批評ではなく、多視点・群像劇的な視野こそが閉塞感を打ち破る

と言ってもいいかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/./otokinoki/20070531/1180589181

と書かれている。これは、なんというか、それはそもそも「現実/世界」と対決しているわけではないからじゃないかなぁと思う。少年もの/少女もの、と区分けして考えることはあまり好きじゃないんだけど、少女漫画の多くは、とりあえず70年代くらいからずっと、エヴァにあったような思春期の全能感/それを手放す過程を描いてきたと思う。そこに描かれる、自分と、自分の性を受け入れる過程をシミュレートする、というのは今でも少女漫画の読み方として支持されているんじゃないだろうか。

よしながふみのストーリーテリングの巧みさについては、まったくもって同意するのだけど、「日常の豊かさ」の肯定、というのはなにもよしながふみの特別ではなく、むしろ、王道でもあると思う。何の王道か、と問われても、これと言えないのがもどかしいのだけど、それは以前「少女漫画的日常」さんから孫引き引用させてもらった、よしながふみの「フリースタイルvol,2」での言葉に現れていると思う。

「頑張ればなんとかできると、いくら少年漫画を読んでも思えない人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかってことを、それは恋愛だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女漫画は提示している。」

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070122/p3

私の「今の気分」は、と考えてみると、まだ漠然として捕らえ所がないし、言葉にしてしまうのがこわいようでもある。ただ、ここでよしながふみさんが言っているような「それぞれの答え」のおもしろさに興味を持っていることは確かで、もしも、それが流れなのだとしたら、少年漫画/少女漫画の垣根は、今後さらに薄れていくのかもしれないな、と思っている。

ともかく、面白い作品であれば、それが時代の気分にあっていようがいまいが楽しめるのは、過去の作品が物語っていると思う。そして、そこから「気分」を読み解くということにも興味はあるので、「ゼロ年代の想像力」も続きを楽しみにしたいと思います。

2007-06-07

[][] チェーザレ1〜3巻/惣領冬実

「ふだん漫画は読まないんだけど、歴史物がすきでねえ」、というおじいさん(というか上司)にかしていただいた。

チェーザレ 破壊の創造者(1) (KCデラックス モーニング)

チェーザレ 破壊の創造者(1) (KCデラックス モーニング)

私はあんまり歴史に興味がない…わけではないんだけど、歴史ものだからすき、という感覚はよく分からなくて、特にその好きの理由が史実に忠実かどうか、になると、楽しめるかどうかが自分に知識があるかどうかになってくるのではないかと思うし、私はそんなに歴史に興味がない…わけではないんだけど、読むなら同時に時代背景まで解説してくれてキャラクターもたっている、つまりある程度演出されてるもののほうを選んでしまうのは、要するにフィクションとして楽しみたいのだと思う。

チェーザレ」にいままで手を付けなかったのは、そのへんが曖昧だったからで、表紙からしてなんだかすごくストイックな漫画のような佇まいだったし、実際、1巻を読んでる間は、しょうじきちょっぴり退屈でした。

それでも、素直でかしこく、つつましく大胆な、アンジェロの視線と、そこから描かれるチェーザレ・ボルジアの人となりは興味深く、彼方にあった世界史の授業内容を記憶から引っ張り出して面白くなってきたのが2巻。3巻にたどり着く頃にはかなり人間模様が把握できてきたし、裏切りの予感、人の目論み、のような展開も見え、やっぱり人間模様こそがドラマを生むのだねなんて、わくわくしつつ読み終えました。

[] 果音

明治から新発売の新食感グミ。グミ大好きっ子であるところの私も早速買って食べてみたのですが、これがとても、おいしいです。

CMやらキャッチコピーを見ていると、どうもその食感の方ばかりプッシュしているように感じるんですが、グミなのにさっくり、て食感はたしかに楽しいのですけど、それよりもやっぱりこのグミのおいしさは、ジューシーさにあると思います。

まるでジュース飲んでるみたいな味。ジューシーとはこういうことかってくらいのジューシーさです。ゴクゴク食べまくっていると、2分くらいでなくなります。

2007-06-06

[][] 人類は衰退しました田中ロミオ

人類は衰退しました (ガガガ文庫)

人類は衰退しました (ガガガ文庫)

タイトルからすると、ちょっと意外で、表紙からすると、わりと納得な一冊だった。つまりあとがきにあるメソッドにきっちりのせられた感じではありますが、でもじゅうぶん、楽しんで読みました。

人類は衰退していて、すでに旧人類となっている世界。新人類である「妖精さん」たちとヒトとの「円滑な関係構築」を生業とする新米調停員の女の子が、物語の主人公です。かわいらしいお話なので、ぱっと思い付いたのは、メモルだったけど、とくに後半、ちょっぴりSFな結末を迎えるあたりは竹本泉作品のイメージに近い。アイデンディティーを重視せず、集合すればものすごい力を発揮するけれども、またすぐ離散してしまうという妖精さんたちののんびりした刹那さは、そういやタチコマみたいでもあるなぁとか、思う。

ひとつのお話としてまとまってはいるけど、まだ導入部じゃん、とも思えるところでお話が終わっているので(そしてあとがきにもあるように張られたままの伏線もあるので)、続きがあればいいのになぁと思うんだけど、どうでしょう。あるのかな。

田中ロミオというひとについては、私はまだ「CROSS†CHANNEL」をやったことがあるだけで、あのイメージしかないのだけど、でもそれでも言葉遣いの端々に、ああ、と思う語り口があったりする。そろそろ夏です。

[] 知らない町

めずらしく、外出する用事が重なった1日。会社にいたのは朝のカイギと、昼に荷物置きに戻った1時間くらいだった。仕事をお願いしたりされたり借り物したり、用向きはいろいろだけども、行ったのはど こも初めての街ばかりで、ひさしぶりにゆっくり、ひとりでぼんやりしたような気がする。もちろん、人と会っている間のことではなくて、場所から場所へ移動している間のことだけど、たのしかった。

江東区。約束の時間より少し早く着いたので、近くにあった団地中の、ベンチに腰掛ける。背後には小さな公園があって、振り返るとそこで遊んでいた子どもと目があった。2、3歳といったところだろうか。 ぐらぐらしたおぼつかない直立のまま、ぽかんとこちらを見つめている、その視線を遮った鳩が驚くほど高く、早く飛んだ。熱いので日陰に入り、おもちゃ屋の店頭にならぶ値下げ商品をじっくりと眺める。その脇には、しんとしたゲーム機が並んでいて、「ゲームは6時で切ります」と書いてあるひからびた張り紙と、このゲームを楽しみに下校してくるのだろう少年との攻防を思い、彼が今の私くらい大人になっても、そのゲームのことを、6時前の攻防を覚えていますようにと勝手に願う。

大田区。電車と比べると、バスの車内にはくつろいだ様子の人たちが多くて、それはきっと、駅と家を直接つなぐような地元の人が乗るものだからだ、とか思う。アナウンスに耳をすませるわたしの緊張は、なんだか外国にいるみたい。バスを降り、地図を持ってうろうろしていると、親切な白衣の人が私の探していた建物まで案内してくれて、ありがとうと後をついて歩きながら、そのひとの白衣の裾がひらひらとめくれるのを見ていた。

神奈川県。ここでも少し早くついたので、通りかかった書店で時間を潰す。ただ時間を潰すつもりが、その品揃えの良さにちょっぴり感動して、探してた本、一冊だけ買う。ベンチが見当たらなかったので、バス停でバス待つふりして立ったまま少し読んで、にやけた顔のまま、お願いごとをしにゆく。山盛りの資料の山、今にも崩れそうなのをそっと、見えないように押さえつつ、お話を聞く。

世田谷区にもどる。ぎゅっと建物のつまった路地を歩きながらなんだかほっとしていた。喫茶店で本を読み、コンビニのおじちゃんといつもの挨拶をかわし、満開になった山吹の前を通ると、とおくで蛙の鳴き声が、聞こえたような気がした。

 ピカピカユカイ

なんでそんなにかわいいの…! いちどみはじめるとどろぬまのごとく見続けてしまう。

D

そういえば私がGB版ポケモンをやったのもピカチュウのかわいさにまいってたからだったな。それなのにずいぶん長いことピカチュウでてこなくて憤慨したりしたのを思い出した。てのひらにのせると「ぴかちゅう」と鳴く人形かってもらったりもしたけど、そういえばあれどこいっただろう。

人形もかわいかったですけど、このうごくおどるピカチュウのかわいさには勝てません。やわらかそー。かわいいー。

2007-06-05

[][] SWAYIN' IN THE AIR /雁須磨子

雁須磨子さんの高校生の男の子2人組、 といえば「のはらのはらの」と「いちごがすきでもあかならとまれ」がすごく良かったので、これもと思ってかいました。

SWAYIN' IN THE AIR (バーズコミックス ルチルコレクション)

SWAYIN' IN THE AIR (バーズコミックス ルチルコレクション)

キスしてみたら、蹴りまでいれられたので、ギャグということにしておく。そこからはじまるお話。筑と夏目は親友で、親友のまま筑の思いが、ずうっと続いている。「のはらの」や「いちご」の相手の一挙手一投足にどきどきするような気持ちの描き方に比べると、ちょっとイメージしづらいとこもあるんだけど、最終話の、とくにラスト2pのまとめかたは、ああこれが今につづいてんだなって思う、すばらしさだった。

1994年の作品なので、絵柄も今とはかなり違ってた。でもどこか力の抜けてる心地よさや、独特のリズム感は、この頃からちゃんとあって、なんだか安心してしまう。

絵柄以外で、特にかわったなーて感じるのは、女の子の描き方。BLだからかもしれないけど、男の子二人の関係に、真正面から女の子のからんでくるのにちょっととまどった。そして、そのキャラクターも、男の子たちの描かれ方に比べると、奥行きがない。でも4話め、夏目の田舎に行く話で、夏目を好きなイトコ、かのこが登場することで、雰囲気がかわる。

鈍感な夏目は、筑の気持ちにもかのこの気持ちにも気付かない。夏目と腕を組むかのこを見ながら、「嫉妬心はおこらなかった。かのこはけなげだ」と思う筑はきっと、かのこを見ながら、自分を見ている。その感じは、私が筑の夏目に向ける視線を追うのときっと同じようなことで。

つまり、ただ恋する視線を描くという意味で、やっぱり、雁須磨子さんの描くBLはどこまでも少女漫画なのだなぁと思った。

過去感想

「いちごが好きでもあかならとまれ。」
http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070405/p3
「のはらのはらの」
http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20060619/p1

toukatouka 2007/06/06 01:37 雁須磨子は天才ですね。せっかくの日曜日に窓から入ってくる風が心地良くてお昼過ぎまで二度寝してしまう、そういうときの布団の肌触りの心地良さみたいな漫画を描きます。
この話なんか特にそうで、もう「傑作じゃないから素晴らしい」としか言いようがない。

ichinicsichinics 2007/06/07 00:36 雁須磨子さんも、どんどん好きになります。心地よさ、と、プレゼントあけるまえのワクワクした感じが、なんど繰り返してよんでも、ちょくせつ感じられるような読み心地。まだ読んだことのない単行本があるのがうれしいです。

2007-06-04

[][] グーグーだって猫である/大島弓子

グーグーだって猫である (3)

グーグーだって猫である (3)

第二巻から、いつのまにやらもう5年。大島弓子の新刊が読めるしあわせを噛み締めつつ、ゆっくりと、でも一気に読んでしまった。

本屋さんでさんざん探しまわって、ペットエッセイコーナーでこの新刊を見つけたときは複雑な気分になったけど、読んでみるとああこれ大島さんの漫画だノっ、て実感できる内容で、うれしい。タマも元気になってなにより。

この3巻は、おもにタマの成長と5匹の子猫との出会いと別れがお話の中心になっている。特に印象に残ったのは、大島さんに拾われた5匹の子猫のうち、黒猫白足袋の、お母さんにつれられてきた女の子に引き取られた子猫が、「ヤマト」と名付けられるエピソードで、それは以前、わたしのうちにいた黒猫も、ヤマトという名前だったからという単純な理由なんだけど、どのお話を読んでいても思い出すのは我が家の猫たちのことばかりで、たぶんきっと、猫と暮らすというのはそういうことなのだ、と思う。

我が家には、今はもう寝てばかりの、20歳すぎのおばあさん猫がいる。もともとのら猫だった彼女が、うちの子になってからの20年間にも、我が家の人々はたびたび猫を拾ってきた。しかし、気難しく、縄張り意識の強い彼女とうまくやれたのは、そういえばヤマトだけだった。それはたぶんヤマトだけが雄猫だったからだと思ってるのだけど、おおむね気難しいタイプの多かった我が家の雌猫に比べて、ヤマトはなんというか元気溌剌な子で、私の母親の肩に乗っかって散歩いったりね、その踏み締める足のなんてかわいいことノ! てみんなに愛されてた。

でも私は大島さんみたいに、ちゃんと猫を見れてたかなって思うと、全然だめだ、と思うし、そもそも私は何にでも愛情を注ぐということがへたで恥ずかしい。ただ、大事にするというのは、ただ好きという気持ちだけでできることではないときもある。

3巻を読み終わって、タマと、タマによりそって眠った5匹の子猫の、そのたたずまいを思い出す。そこに注がれる視線にすこしだけ、勇気づけられるような気がして、早足で家に帰る。彼女は今日も眠っている。ときどき不機嫌そうにこちらを見る。

[] 満員電車

私が通勤に使っている路線は都内でも屈指の混雑状況で知られていて、特に平日朝7時から8時にかけての殺伐は、まさしく冷凍都市のそれであり、つり革にぶら下がって眠る長身のサラリーマンと、その肘をこづくサラリーマンと、おりる人と乗る人の流れが渦を巻き人のいらいらを増幅させ、声をあげて喧嘩する人とそれを見つめる無表情な人々とはちきれそうなドアに寄りかかって携帯を眺める大学生と、そのすべてが一触即発のあやうさで運ばれてゆく、奇跡的なまでの不協和音。かつて同級生だったT君が卒業間際のある日「俺は満員電車に乗らない人生を選ぶ」と言った、その台詞を当時の私はは何を大げさなと思っていたのにもかかわらず、毎朝最初の電車から次の地下鉄に乗り換える間、ほぼ毎日その台詞を思い出していることに気付いているし、世の中にはきっとたくさんのT君がいてそれを思い出しているのも私だけじゃないはずだ。

でも時折、誰かと誰かが挨拶したり、笑ったり、ぶつかった人どうしが会釈をしていたりキオスクのおばちゃんとかわすお金の受け渡しだったり、そういったやりとりに出くわすだけで、半径2メートルくらいの範囲ではあるけれどもほっとした空気が流れるのも本当で、何がいいたいのかよく分からなくなったけど、つまりできるだけほっとしたいよねということです。声出していこう。ちょっとだけ。そっと。できるだけ。

IMAOIMAO 2007/06/05 20:34 実家のマンションが、大島弓子の仕事部屋に使われていた事を知ったのは30も過ぎてからでした。(しかも下の階!?)サイン貰っておけば良かったー・・・と大島弓子読む度にちょっとだけ後悔^^

ichinicsichinics 2007/06/06 00:40 すてきな街にご実家があるのですね…! いいなぁ。もしも大島弓子さんにあえたら、聞いてみたいことがたくさんあるのだけど、きっと話しかけられないんだろうなぁとも思います。

IMAOIMAO 2007/06/06 03:03 たぶん、すれ違ってはいるのでしょうが、何しろマスコミに顔出さない人なもので・・・BS漫画夜話で言っていましたが、漫画家のいしかわじゅん氏はわざわざサインを貰いにいったそうです。「おおしま」と手書で書かれた表札が可愛らしく、大島弓子らしさを感じました。

妄想探偵妄想探偵 2007/10/21 00:07 今日、理研で撮影してましたよ。
映画化するみたいです。

2007-06-03

[][] あるスキャンダルの覚え書き

ichinics2007-06-03

監督:リチャード・エア

原作:ゾーイ・ヘラー

イギリスの中学校を舞台に、新任美術教師シーバ(ケイト・ブランシェット)と、お局様的先輩教師バーバラ(ジュディ・デンチ)の関係が描かれる。「彼女の恋の相手は15歳だった」というキャッチコピーから、てっきり道ならぬ恋の物語なのかと思いきや、愛猫とともに孤独な生活を送るバーバラのシーバに対する「執着」が物語の中心だった。

シーバと出会い、彼女の観察日記を書き綴るバーバラは、シーバの生徒との不倫をネタに彼女を独占しようと囲い込むのだけど、この歪んだ愛情のかたちをどうとらえるかで、物語の印象はかなり変わってくるだろう。

バーバラはシーバの社交辞令を真に受けて日記に書き、家に呼ばれて喜び、信頼されていることに高揚し、彼女に会えた日の日記に金星を貼る。確かにいびつだし、その執着はけしてシーバへの愛情ではない。しかし、この映画が、疑似恋愛としてかわされる少女の友情(ex「蝶々の纏足」/山田詠美)、だったらきっと雰囲気はまるで違っていたし、実際この物語は少女のままで愛情の矛先をどこに向ければ良いのかわからないバーバラと、たまたまその餌食になったシーバという「ごくふつうの」女性の物語に見える。依存関係というのは、相手と気持ちのバランスが釣り合わないだけでこんなにも惨めなものになってしまうのだな、と、空恐ろしい気持ちになる。

だからこそ、私はバーバラが最後まで救われないこの映画は、いったい何だったのか、見終わって正直困惑してしまった。

たとえばこのバーバラの役が、ジュディ・デンチでなければ、サイコスリラーになっていたのかもしれない。それにもっとおどろおどろしく描く方法はたくさんあった。

それなのにそれをしていない。それなのにバーバラは最後まで何も変わらない。物語には変化が必要だ、なんて思わないけど、変化しないのでは、映画が描きたかったのは「こわさ」なのかと思えてしまう。

個人的には、シーバの受難などどうでもよくて、ただ独占欲にとらわれ、嫉妬に狂い、相手に依存してしまうバーバラがこわかったし、だからこそ救われて欲しかった。

見終わってあっけらかんと「こわかったねー」と言いあう女の子たちを尻目に、ただひたすら気持ちが重くなった。何故かはうまくいえない。

[] 「Pullhair Rubeye」/Avey Tare & Kria Brekkan

Pullhair Rubeye

Pullhair Rubeye

Animal CollectiveのAvey Tare と、その奥さんで元MumのシンガーKria Brekkan(Kristin)によるコラボレーション・アルバム。

全編まるごと(たぶん)逆回転というサイケデリックな音づくりがみせるのは、スピーカーで聞くよりも、ヘッドフォンで、しかもできることなら海辺でうたた寝しながら聴きたいような夢心地の風景。粒子のあらい音に浚われる酩酊感が気持ち良くて、でも目が覚めたら足首まで潮が満ちていた、なんて、すこしひやりとする危うさもある。

とても映像的な音楽で、このアルバムを聴いた人の頭に浮かんだイメージを繋ぎあわせて見てみたいな、と思う。

感想を見て回ると、多くの人のイメージには、重なる部分がありそうだし、でもそれがイメージである限り、同じものでありえないというのはわくわくする。そして、夢がスキップしていくようなその映像を身終えるときもきっと、すこしひやりとするんじゃないだろうか。

2007-06-02

[][] 時間・タイムマシン・私/「アレックス・タイムトラベル」

以前「男が読んでもおもしろいと思われる少女マンガを挙げてください」というはてな質問で、質問者の方が「今読みたいのは「アレックス・タイムトラベル」みたいなの」と書かれていたので気になって買いました。そういえば、私の友達で少女漫画好きな男の人も、陸奥A子清原なつのが好きだっていってたけど、そのへん何か共通点があるのかな?

アレックス・タイムトラベル (ハヤカワ文庫 JA (669))

アレックス・タイムトラベル (ハヤカワ文庫 JA (669))

表題作「アレックス・タイムトラベル」は、15歳にしてタイムマシンの研究をしている主人公アレックスが、友人の “行方不明”にまつわる謎を調べるうちに、いまいる場所では「記憶」までが管理されているということを知る。自分の記憶すらほんとうなのかわからないまま、タイムトラベルを続けるアレックス。彼の見る風景を短編シリーズで描いていくこの形式は、たとえば山下和美さんの「不思議な少年」に近いものがある。

ところで、タイムトラベルを題材にしたSFでは「過去に干渉してはならない」というきまりがセットで描かれることが多いと思います。(私は、H・G・ウェルズの「タイムマシン」を読んだことがないのだけど、あの作品でもそのような解釈に到達するんだろうか?)

そして、そのようなSFになじみが深いせいか、未来が過去に干渉すれば、現在がかわってしまうというのは、実際タイムマシンがない世界でも自明のことととしてとらえられてるように感じます。でなければ、物語は現実を肯定することができないし、現実を肯定しなければ、タイムトラベルをすることのできない読者がおいていかれてしまう、というのはちょっと考えればすぐにわかる。でも、それだから「歴史に干渉してはならない」というのでは、ちょっとつまらない。

だからこそ「タイムトラベル」を題材にした物語では、「過去を書き換えること」の是非が、物語の中心として描かれることが多いのかもしれません。

旅のはじまりは自由をもとめての出発だった

管理された社会で生きるのがいやだったのに

しらないうちにぼくは品行方正

律儀なタイムトラベラーになっていたんだ!

「思い出のトロピカル・パラダイス」

例えばこの先にタイムマシンというものが発明され、過去を書き換えるということがおこったなら、この今も変化しているはず。でも、変化していることを知らずに一連のものとしてとらえているのなら、それはやはり一続きの今なのだし、と考えていくと、何度も繰り返したどり着く「いまここ」の唯一性に、ふたたび戻ってきてしまう。

このお話でタブーを侵したアレックスは、もといた世界から弾き飛ばされてしまいます。しかし、もといた世界とひと続きの(と感じられる)意識だけは残っているアレックスの言葉は、過去を肯定するというよりも、未来へ希望を残すものになっていて、だからこそ、タイムマシンのないここでも共感のできるものになっている。どこがほんとうなのかわからない、いろんな角度から読むことができるお話で、そんなふうに思考の例題を与えられる面白さっていうのが、私にとってSFを読む楽しみの大きな部分をしめているなあと、再確認した作品でした。

関連

歴史をかえてはならないという倫理

[] 目が溶ける

昨年末からずーっと、世の中では風邪がはやっているようですけど、わたしなんか平気だわ、元気ってほどでもないけど、風邪はひいてないわ、おやまあ、と思っていたらとうとう捕まってしまった。金曜のよる、ヤキニクを食べてテンションあがりまくったまま帰宅して起きて、なんか頭痛いのはふつかよいだと思ったら風邪だったみたいです。

だから土日はあほみたいにねた。眠り続けてたまに布団のなかでDSして、ってほんとどんなこどもだよと思うけどさ、いいじゃん風邪引いてるときくらいこどもでいいじゃんかーとかって逆切れしたくなるのは調子悪い証拠。目の奥が乾いてる。肩が重い。膝とか肘とかがだるい。ポカリスエットがのみたい。

で今日もそれは続いてるんだけど、いざ会社にきてみたら調子が悪いわけでもなくて、かといって熱が下がったわけでもなく、なんだか良く解らない感じのまま、今週がのりきれればいいなぁと思っていたりします。

2007-06-01

[] 求めよ、さらば与えられん!

昔、人は攻撃されると、剣で戦い盾で身を守ったといいます。

もしかしたら今でも、剣と盾で戦っている人たちはいるのかもしれませんが、いざ自分が戦うとなったら、ピストルや、大砲や、できるだけその敵から離れる手段を、選ぶ人のほうが多数なのではないでしょうか?

なぜならば。

なぜならば、盾が進化していないからだ、と私は考えます。矛盾は常に、盾が打ち負かされる可能性をゼロにできません。だからこそ防御をする人は盾に絶対の信頼をおけないのです。

例えば、盾に似たものの1つに、傘があります。

昨日、私は夕立を避けながら、やっとの思いで駅にたどり着き、電車を乗り継いで地元の駅まで帰って参りました。けっこうな時間だったと思います。疲れていたのでバスに乗る事にしたはいいものの、なかなか発車しないバスのなかで、私はいつの間にか、うたた寝をしておりました。

ハッと目が覚めると、そこが私の降りるべき停留所でした。「おります、」と言って慌ててバスをおりると、そこは雨。しかも傘が無い。行かなくちゃ…君に逢いに行かなくちゃ〜

ともかく。傘をなくした私は為す術もなく雨に攻撃されるままであり、雨をしのいで歩いた数十分前が台無しになり、服も鞄も、ずっしりとぬれてしまったわけです。

思えば、傘。その不完全さはちょっと原始的すぎないか、と常々*1思っておりました。鉄の塊が地を駆け、空を飛ぶ時代です。インターネットはすごいらしいです。インクが最後まで使えるボールペンだってあります。しつこい汚れもスッキリです。

それなのに傘。片手は塞がるし濡れてるし足下はびしょ濡れになるし…。主に価格方面でしか改良されてきていない気がします。

でも、それをいったら洋服だってそうですよね。いつまで布なんだと。ねえ。で、ふと考えてみると盾的なものはたいてい、防ぎきれない穴があるように作られているように思います。や、盾的なモノって何、と聞かれても、よくわからないんです。自分を守ろうとするときに使うモノのこと、としか答えられません。でも。完全な防御はない、ということはつまり、完璧な攻撃もないわけです。それはつまり、求め、与えられる可能性は、戦いにはないということをしめしていないでしょうか?

傘を完璧に近付けることは、たぶん雨を攻撃することです。雨を攻撃することは、最終的に雨から守りたかった自分を攻撃することになる……。

そんなの使い古された詭弁かもしれません。

ただ、世界には様々な発明と、真理が溢れていて、世界を革命する力は、完璧な防御を求めることでは得られないのだと、すっかりウテナ脳になったわたしは考えたりします。

求めるものから遠ざかる攻撃という防御ではなく、必要なのは雨との共存なのかもしれません。そもそも雨に濡れることは悪いことなのか?

そう問うことから革命ははじまるのかもしれません。

まぁ、嫌なんですけどね。でも雨に濡れない人生なんて、味気ないよねと思えるような気はして、もしかしたら、その結果がこの傘なのかもしれない。

そんなことを思ったりする、梅雨のはじめのうやむやでした。

f:id:ichinics:20070501133006j:image:h150

[][] ロッポンギ

金曜日といえば朝からわくわくなはずなのに、今日は一日落ち着かなかった。

でも結局、土曜日にならないと落ち着くかどうかもわからない話になったので、さっさとあがって焼き肉の会へ。

少し遅れて六本木駅。かの有名なアマンドっていうのがどこにあるのかもよくわかってないくらいなじみのない場所なんだけど、1人で店に向かう最中、視界に日本人がほとんどいないことにまず驚いた。表通りにはバッカナーレっぽい店はなかったけども、ヨナさんみたいな店員さんはじっさいいそうだなーて思うようなテンションの町。でも裏通りに入るとちょっとこわい。

f:id:ichinics:20070601202357j:image:h150

で、今日行ったのは、友達がおすすめしてた「巨牛荘*2という焼肉屋さんです。プルコギがおいしいんだよ、ときいたときは、プルコギねぇ…と思ってたんだけどね、なめててすみませんでした。すごくおいしかったよ…!

私は遅れて行ったので焼き肉は鳥とカルビしか食べてないんだけど、どっちもやわらかくてタレもちょうどいいあまさ。カルビは脂がのっててとろっとろ。

そしてプルコギ。山型でふちに溝がある鉄板に、水をそそぎ、鉄板の上に肉をのせていく。んで焼けたところをキムチと一緒にレタスに包んで、ぱくっといただくわけですが、もーおいしい! やわらかい。味付けもさっぱりしてるのにウマ味たっぷり

f:id:ichinics:20070601205916j:image:h150

で、肉を食べ終わったあとは、たまった肉汁うどんを投入して焼うどんにして食べる。真っ白だったうどんが見る間においしそうな色になって、でも食べてみるとちゃんとコシがあって、おいしいんだ。あっマッコリもたくさんのみました。

なんか写真うまくとれないので全然伝わらないと思いますが、ともかく、肉ってほんとうにいいものですね。食後のアイスコーヒーもうれしい。

ごちそうさまでしたの後は、あまりにも満腹なので、表参道までぶらぶら歩く。いろんなお店に、いろんな人がいる。酔っぱらった頭のまま見たものを口にし、たくさんの家があって、窓のたくさんある家はいいねなんて言って、路駐ばかりの道を通り、なだらかな坂をのぼった先に、見知った表参道があった。わたしのおなかも膨張しておりますが今夜の月もだいぶ、ぼやーんと広がっている。