言葉、距離

「場」は観測行為に依って現れる、とするのが私の立場である。ふたつの「個」、AとBの間には、それぞれにとっての勾配がある。それが重なっているとは、私にはどうも思えない。「個」がふたりいれば、それぞれ別の関係性があるのではないか。
偽装部 - ポケットのなかは暗くて、帽子がみつからない - 「場」トーと元「個」

これに対する返答「ネコプロトコル - 関係ABを観測するCがいてはじめて場が発生する。」もとてもおもしろくて、今日の後半はほとんどずっと、この2つのエントリについて考えていた。

上記引用部分に書かれていることは、私の「言葉」に置き換えてもまさしくと思う。では、観測者Cを必要としない「場」というのはありえるのだろうか?
「A'」のいるところは、それに少し近いんじゃないかと思う。私と「私」という意味ではなく、この場合はある程度の距離をおいたA自身のことだ。「場」にあがっている限り、Aは自身の姿を見ることができない。自分の言葉がBに届くまでのあいだに変容してしまうことを避けられないAは、A自身の言葉もまた、Aによって発された時点で変容してしまうことに気付けない。それに気付くのはいつだって新しいA、つまりかつてのAが「A'」になってしまってからのことなのだ。
「A'」の世界にピントをあわせるには距離が必要になる。しかし距離をおいてしまえば、Aはもう「A'」と同じ場にあがることはできないし、Aの言葉は「B'」には届かない。既に切り離された世界を、Aは観測者Cとなることではじめて「見る」。見ることができるようになるまで、どのくらいの距離が必要になるのかは計れないけれど、そもそも私は私の、AはA'の視線を借りることでしか世界を見る事ができないのではないだろうか。
Aと「A'」の距離を一時的に縮めるものとして、例えば文字を使うことが、できるかもしれない。それは同時にAと「B'」の距離を縮めるかもしれないし、Bと「A'」の距離を縮めるかもしれない。そんなふうに、世界は向かい合う鏡に反射する光のなかに、場の幻影を生産し続けているのかもしれない。
ただ、Aと「A'」の空間だけが、場を産むことができない関係として残る。その「場」からは逃れることができない。だからこそ、言葉は観測者を求めて、溢れるのだろう。
新しい一歩は、常に彼らに追いつくためにある。その先には、もしかすると、2つの場が重なっていたと、信じるときがあるのかもしれないな、と思う。

 神保町さぼうる

神保町の交差点そばにある、喫茶店さぼうるが好きです。
店の入り口にある赤いコイン式電話にチラと目をやりながら「さぼうるでさぼるか…」などとだじゃれをひとりごち、店内に入れば中2階と地下と地上階に、所狭しと小さなテーブルと椅子が並べられた空間がひろがる。席についてみれば案外広い、両手におさまるスペースは安心感があって、ロールパンと干物がならぶ豊富なメニューを眺めながら、毎日通っても飽きないかもなあとか、思う。
神保町へは週にいちどくらい行くようがあるのだけど、そのたびに、最近はもっぱらさぼうるで、いちごのジュース(おいしい)を飲み、ひとやすみするようになった。でもこのままいくと、そのうち、ビールとか頼んじゃうんじゃないかと思う。そんな雰囲気のお店でもある、