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  □これまでの日記一覧

2007-09-30

[] 夕食を待つ

日曜日、夕方の少し手前の半蔵門線に乗っていた。

向かって右手の座席には、母娘が肩を寄せ合い、唐揚げの話などしている。唐揚げがいちばん好きだ、でも毎日ではあきるでしょう、あきないよ、ほんとに? 初恋が永遠に続くと思っていた頃のような、あっけらかんとした確信をもって娘が断言する唐揚げ愛に、母親はゆっくりと笑っている。どこか上の空で、中刷り広告など眺めるふりしながら、頭の中ではきっと唐揚げビジョンが広がっている。そんな顔だった。それを見ている私は、ふたりとも色がしろいので、使う鶏肉はササミだわ、なんて思うが、ササミを食べると色白になるという話は聞いた事がない。

その母娘から眠っている人をニ人ばかりはさんで、向かって左手の座席には喪服の親子が座っている。優しげな父親と、その膝にもたれる娘、雨だからだろうか喪服にスニーカーを履いているのが、どこか学校の先生を思わせる母親の、三人ともがぞれぞれに、ひとめで家族だとわかる、よく似た顔をしていた。女の子が話しかけているのは、私の妹の向こう側に座っている女性で、おそらく彼女の祖母なのだろう。地下鉄だから見えないの、という一言がうっすら聞こえた以外は、地下鉄だからかその会話を聞き取ることはできなかった。ただ私は、あの女の子にはまだ、その喪服の意味はわからないのだということを、思う。はしゃいでいる。世界はたぶん、彼女を中心にして回っている。

その世界に、含まれていない私は、ぼんやりと、妹の見た夢の話を聞いている。お母さんが、すごい太る夢みたんだよ。ひどいね。ほんとすごかったんだって、ポルコくらいだもん。そりゃやばい。でしょ。ま、夢だ。聞きながら、時折、ジッと目を閉じる喪服の父親の仕草が、誰かに似ているなと思う。その誰かって、わたしの父親だ、と渋谷駅で降りるときに気がついた。

電車を降りた妹が「せつないね」と眉をひそめる。「何が?」「あのおばあちゃんの話だよ」夢の話をしながらも、ちゃんと聞いていたのかと驚いて「私にはまったく聞こえなかった」とこたえる。

妹の話では、どうやら、あのおばあさんは今日、あの三人家族の家に、泊まる予定らしかった。それを「ぜったいだめ!」と女の子が言いつづけていたらしい。「『じゃあ晩ご飯抜きでもいーい?』とかいっちゃってさあ」と妹が言う。「そしたら、おばあちゃんが『お願い,もうおじいちゃんもいなくて、さみしいのよ』っていったんだよね」

それを、妹はせつないと言ったのだった。「それで最後には、お風呂場でもいいから、っておばあちゃん言ってた」

それから私たちは、買い物をして、二度目のエヴァを見て、帰宅して晩ご飯を作って、食べた。豚肉とタマネギとしめじを卵とじにした、他人丼、のようなものを食べながら、旅行中の母親が太って帰ってくる夢の話をまたした。

唐揚げの子は、きっと唐揚げを食べただろう。おばあちゃんと孫も、そろって食卓を囲んだはずで、願わくば、その食卓のにぎやかさが、女の子の言葉をゆるしてくれればいいのにと、いつかの自分の振る舞いを思いだし、図々しくも願う。

風呂に入りながら、タイルに丸くなることを想像する。それはやっぱり、さみしい光景だと思った。

 コメントいただいて考えたこと

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killhiguchikillhiguchi 2007/10/01 19:14 夕暮れの半蔵門線の一齣。いいエッセイですね。年寄りのいない家庭で育った子供は得てして自分のうちに年寄りが侵入するのを嫌がりますね。私の幼馴染みもそうでした。子供には老いたものが何か醜く感じられるのでしょうか。家庭が老いに浸蝕されるようにでも感じられるのでしょうか。老人と子供は境界の外にいるとされて、少年小説でも少年と老人は仲良くなるものとされているのに、当事者にはそうではないのかもしれません。家族共同体と一体で未分化で「行く」者と家族共同体から分離して消えて「去る」者。そんな非対称があるのかもしれません。
 ヱヴァはまだ四国には上陸していません。
 ささ身を食べと色が白くなるという思いを聞いて、黄色のクリームを「ひよこいろ」と言っていた「よつばと!」を思い出しました。

tkfmstkfms 2007/10/01 21:13 はじめまして。ときどき読んでいます。
小学生くらいの頃自分は祖父や親戚が苦手で、盆や正月、法事などで隣町に叔父・叔母と共に住む祖父(父方)の家に行くのが億劫で、会っても敬語で喋り、例えばこの女の子のように「会いたくない」とか「来て欲しくない」と思っていてもそれを口にすることは決してできなかった。
できなかったというか、その頃の自分にとってそういうことは「禁忌」であり、それは学校の先生の言うことや、授業の始まりや終わりの「起立、気をつけ、礼」という儀式(?)にいわく言いがたい強度を感じていた(つまりそれらは「絶対」だった)のと似ている。
つまりやけに生真面目だったわけで、この話は「せつない」けれど、こどもの頃の自分を思い返してみると僕にはどこかうらやましくもあります。一緒に住んでいた母方の祖母は大好きだったのですが。

ichinicsichinics 2007/10/01 23:55 killhiguchiさん、tkfmsさん、コメントありがとうございます。ちょっといろいろ考えていたら長くなってしまったので、上にお返事あげてみます。

2007-09-29

[] 夏の終わりの花火

金曜日までは半袖きて、それでもあつい、なんて思っていたのに、一気に冷え込んだ土曜日。調布の花火大会にいってきました。花火大会なんて、ここ数年ゲームの中でしか行ってなかったから(それ行ったっていわないけど…)ほんと楽しみにしてた。

小雨降る中、それでもやるってお知らせ聞いて、よかったって向う途中の京王線は、同じく花火を見にいくのだろう人たちでいっぱいで、雨だけど、みんなちょっとづつ顔がほころんでいた。長袖だけど、寒いけど、今日まではまだ夏の気分て顔して、電車をおりる。

会場に向かう途中で寄ったコンビニでは、宴会用品がばっちり展開されていて、スナック菓子とかも祭り開け(納品された段ボールの腹に窓あけてある)で並んでて、楽しい。「来月は花火大会だからさー」て、これら発注したんだよな、店長が。そんで雑誌棚取っ払って、並べたんだよなって。そういうの考えるだけで、楽しい。それに、道路沿いのあちこちで宴会してる人がいたりするの見ると、自分もお祭りにきたんだな、なんて思ってうきうきする。ビールもってこーい!と叫びたいのを堪えて歩く。

渋滞の先、やっと花火会場に入ると、急に視界が開けて、川があった。

川原に座り込んでビール飲みつつ、市長さんの挨拶が流れる中、土手の上にならぶ屋台とか眺めてたら、カウントダウンがはじまる。すーっとまっすぐ火がのびて、あがった花火の大きいこと。空白の空見ながら、思い描いてるよりずっと大きくて、歓声が上がる。やっぱ花火は大きいのがいい。傘差しながら河原に、土手に人が鈴なりになって、空見てるって、すごく不思議だけど、小雨なんて気にならないくらい、花火って大きいのね、とか思う。

途中、屋台に食べ物買いにいったとき、土手の上で見てる人たちの空見上げた顔が、花火に照らされるの見て、なんだかちょっとうれしくなってしまった。それで、そういえば屋根の上で傘さしながら花火見てる木村伊兵衛さんの写真、あれ好きだったなということを思い出す。あの写真は後ろ姿だったけど、あそこにうつってた人たちも、きっと同じような顔してたんだろう。

花火のあとは、一緒にいったひとのおうちにお邪魔して、飲みました。飲むとザルな記憶がさらにザルになってしまう私は、何をしゃべったかあんまり覚えてないのだけど、後からちらほら思い出すことで、ちょっと笑ったりしてる。それから、そのお邪魔した部屋がとてもきれいでね…。ものが溢れた自分の部屋思い出してものすごく反省したり。

要するに、とても楽しかったです。これでようやく夏にさよならできるような気がする。こんにちは秋といいたいとこだけど、寒すぎてまるで冬みたいだ。

f:id:ichinics:20070929185945j:image:w200

2007-09-28

[][] サイボーグでも大丈夫

ichinics2007-09-28

監督:パク・チャヌク

ファンタジーをパク・チャヌクが撮るとこうなります、という、どこか実験的な風味の残る作品だったと思います。「復習三部作」で、わりと残酷なお話を描いてきたイメージからすると恋愛ファンタジー&コメディなんて意外なようだけど、いざ見てみると「親切なクムジャさん」の、特に冒頭部分と近いところがあって、違和感はない。ああこういうのをやってみたかったのかな、とか思う。舞台、というか漫画っぽい構図や人物配置で作り込まれた画面はとても楽しくて、演劇的な演出が映える。

物語は、自分がサイボーグであると信じ、食事を摂らなくなってしまった女の子と、精神病院で出会った男の子のやりとりを描いたもの。この主人公の女の子は、エキセントリックな役柄を自然に、楽しく演じていてとてもよかった。特に泣き顔がかわいくてね…。よし、なんとかしてあげたい!て思ってしまうような魅力があった。

ただ、この女の子に恋する男の子のことが、私にはよくわからなかったのが残念だ。

この映画の雰囲気は「恋愛睡眠のすすめ」(id:ichinics:20070504:p1)ととてもよくにていて、ちょうど男の子と女の子のキャラクターを入れ替えた感じだった。しかし、この映画のヒロインに恋する男の子の病の設定が、いまひとつ曖昧に感じられた。例えば、物語の中盤で、ヒロインの感情を請け負う場面があるのだけど、それが誰の感情なのか、もうちょっとはっきり描いてもよかったんじゃないかな、とか。もちろん、あの作り込まれた映像は、この物語全体が比喩であるということなのかもしれないけど、だとしても物語の視点が男の子の方に移る切り換えが曖昧だったように思う。もしかすると、韓国語がわかってみていたら印象が違うかも、と思う場面もあった。

ただ、この女の子が、男の子に受け入れられることで、一歩をふみだすあのクライマックスは、とても印象にのこりました。うそでもいいんだ。いまのいま。それを約束してくれるだけで自由になれる。そんな切実さを感じられた。

なのであそこで終わってもよかったんじゃないのかなあ、と、おもいます。

それにしても、この監督はヒロインを魅力的に描くのがうまいなあ。かわいいだけじゃなくて、すこしグロテスクなところがいいんだな、たぶん。クムジャさんまた見たいです。

[][] ピクニック/雁須磨子

雁須磨子さんの1999年くらいから2001年くらいまでの、わりとエロっぽい短編を集めた作品集。

「あこぎなたましい」を読んで、雁さんのBLは、いいなあと思う。この恋愛一歩手前のどきどきする感じとか空回りとかの描き方がほんとうまくて、冒頭の「食えない寿司」の話からして、絶妙すぎる。やっぱり(物語として読む)恋愛ものの醍醐味は、手が届きそうで届かない、ってとこだよな。なぜって、そういう状態が一番、物語を必要としているからだと思う…!

あと「ぎゅんぎゅんのこころ」(←すごいタイトル…)にでてくる男の子の、相手おこらせといて、どう思われてんだろーて想像して、いきなり「おれのことあんまきらわないでよね〜〜!」ってすがりつく、この独特の間も大好きです。

ピクニック (F×COMICS)

ピクニック (F×COMICS)

2007-09-27

[] 消えません

私が通勤に使っている電車は朝も夜もとにかく混んでいることで有名な路線で、ラッシュの時間帯には人と触れあわずに乗ることなんてほとんど不可能だったりする。たとえば、向かいあうカップルの間に入ってしまったり、同じくらいの身長の女の子と向かいあって詰まってしまったりすると、かなり気まずい。それでも、中学生のころからずっと同じ路線を使っている私は、それなりにうまい詰め込まれ方というのも心得ているつもりだった。

ただ、時には想定外の出来事というのもある。

例えば、昨日の帰りの電車で、とつぜん手首を掴まれたのもそれだ。

思わず振払ってしまったものの、あれ、わたしやっちゃった? さわっちゃった? と思い、見てもいない「それでもボクはやってない」が脳裏をかけめぐった。

それは、隣に立っていたカップルの女の子の手だった。女の子も驚いたようで、私に向かってかるく会釈をした後、笑いながら彼に向かって説明をはじめた。私と肩を触れあわせたまんま、私の頭上に顔がある彼に向かって、「ゆーくんの手かと思って手、掴んじゃったー」とか説明をしている。

うん、ものすごく気まずい。気まずいので目をそらそうと思うのだけど、首がまわらないので視線だけそらす。でも、ちらっと目を向けたタイミングに、まー、キスとかしてるし…。で、ちょっと消えたいとか思った。

数分後、やっとのことで電車をおりて、やれやれって歩き出してふと、掴まれた左手の感触を思い出す。そこでよりによって、そういえば、人と手を繋いたのって久しぶりかもねー、とか考えてしまって、また消えたいとか思った。

って話を妹にしたら「おねえちゃんきもい」っていわれたので、人生って理不尽だなと思いました。

[][] ノーミュージックノーライフの思い出

タワーが「ノーミュージックノーライフ」というキャッチを使い始めた当時のこと。

東京の片隅にある町のCD屋で、レコード磨いたり、レジ打ったり、検品発注品出し査定まとめてドン!な日々を送っていた私は、自分のこの生活もまた、ある意味音楽で飯をくうということであって…、ノーミュージックノーライフであるといえなくもないよねえ、なんて冗談みたいなことを思いつきで口にだし、同僚に鼻で笑われたことがあった。

「じゃあ、お前にとって音楽はどんだけのものなんだよ」

その同僚は、私より5つくらい年上の文学青年然とした人で、普段からそんな(相当青臭い(いまなら赤面しそうな))ことを、真顔で聞く人だった。そんで、同じく青かった私も、わりと真剣に答えを考えてみたのだけど、結局うまい答えを思い付くことはできなかった。

もちろん、音楽はわたしにとってとても大切な存在だったし、音楽のない生活なんて考えられなかった。けれど、改めて考えてみると、私と音楽の間には、いつも届きそうで埋まらない距離があった。もしかしたら、ほかのひとに聞こえている音と、私に聞こえている音は、全く違うんじゃないか、なんて疑うこともあった。

ただ、「じゃあ、カトウ(仮名)さんは?」と問い返したときに、彼がいった台詞のことは今もよく覚えている。彼は音楽のことを、

「一本の紐」

といったのだ。いっぽんの、ひも……ですか。 私は瞬間、黙り込んだ。そのこころは、という疑問よりも先に、なんだそのメタファーっぽいの…という戸惑いの方が先にあったので「なるほどねえ」なんていって、その話は終わった。

それから数年後、まあなんだかんだで、私はとても落ち込んでいた。自分を客観的に見ることが難しいくらいに落ち込んでしまって、いろいろ迷惑かけたりもしたはずで、だからあんまり、思いだしたくもない。

でも、そんなふうになってやっと、音楽って、そうか、自分の気持ち次第で形のかわるものでもあるんだなと、思えたような気がする。与えられるだけ、提示されるだけのものではなくて、もっとごう慢に、自分のために、引き寄せていいのかもしれない。そうやって音楽を聞きまくって、本を読みまくっていたら、いつのまにか引き上げられていた。あー、これって平和なんだな、なんて具合に。

そして、あの感じを例えるなら、紐を掴む、というのに近いのかもしれない。もしかすると、カトウ(仮名)さんは、そういうことをいっていたのかもしれない。なー、なんて、まあ確認するすべはないんですけど、思った。そして、それこそが私の感じていた、距離なのかもしれません。

それからさらにずいぶん経った今も、私は自分にとって音楽とは、なんて一言でまとめることはできない。ただ、それは、なければならないものというよりは、あることを喜ぶもの、というのに近いような気がしている。

だったらもうちょっと、うちのCD棚、整理できるはずなんだけどね。

2007-09-26

[] 「The Reminder」/Feist

THE REMINDER

THE REMINDER

カナダ出身のシンガー・ソングライター、Feist の2nd(たぶん)アルバム。

フジでのライブが良かったときいて、その後ナノのCM曲聞いたりで気に入り、ついにCDを買いました。

一瞬、ジョニ・ミッチェルみたい、と思ったのだけど、ジョニよりはかなりはかない声だと思う。けれど柔らかな陰影は深く印象を押し広げるようで、長く耳に残る。楽曲も、バラエティに富んでいるようでブレない芯があり、そのうえポップだなんて、単純に、よくできたアルバムだなと思う。幅広い層に受け入れられそうな音だ。あの、いまド忘れしちゃったんですけど、女性ジャズシンガーで、数年前にブレイクした人を思い出した(曖昧すぎる)。

だからこそ、というのは非常に贅沢な話ですが、もうちょっとプライベートな感触が欲しくもなる。例えば Emiliana Torrini みたいに、と思うけれど、いやいや、このメジャー感こそが魅力でしょうとかも思う。とくにナノCMの曲「1 2 3 4 」は、思わずフィル・スペクターみたいだな、なんて思ってしまうような、後半にかけての音の重なりにはゾクっとするし、なによりこれは私が大好きなエンドロールソングであるし。(映画のエンドロールで流れるようなって意味です。音階を下がっていくメロディはエンドロールでもある率がとても高い)

セカンドアルバムにして、すでにベテランのような風格、なんて陳腐な褒め言葉に聞こえるかもしれないけど、ほんとにそんな感じだった。

[] 誰かに

たぶん何度も同じことを書いているので、いい加減ちょっと照れくさい。でもやっぱり、私は日記を書くのが好きだなーと、思う。ぼんやりと考えていることを、文章にして出して、見る、その作業が好きなのもあるし、それをこうしてネットにあげることができる、っていうのは、その贅沢になれてしまった今でも、時折、これってすごいことだよなぁって、すこし驚く。

誰かに見てほしい、という気持ちはもちろんあるけれど、それは、口に出すこととはまた違う。会話は、その場の重力に流れるところが大きいし、言葉も選ぶ。むしろそうやって言葉を焼べて、つなげてくような感じに、なったらいいなあと思っている。

逆に、一人で、自分のためだけに書く日記は(私の場合)記録とか整理に近くて、それはそれで実用的なのだけど、あてもなく誰かに、と思って書きはじめたくなることというのは意外に多いし、それを、あてもなしに書けるのが、ネットのいいところ(のひとつ)なんじゃないだろうか。

まあ、たとえば酔っぱらって、誰かに電話したくなるような衝動に近い。何かおもしろいものを見たときに、思わず隣の人と、顔を見合わせてしまうような、その一歩手前の気分で。

時には予想もしていなかったようなうれしいことがあるし、もちろん反省することやへこむことだってある。でもだからこそ、少しの期待と緊張感をもって、書くことができる。

少しの期待は、もしかすると大それた期待かもしれない。でもそれは、すでにかなっているのかもしれないし、かなうかもしれない、と思えるだけの広さが、あるような気もする。

そんなことを思わせてくれる文章を、今日読みました。

2007-09-25

[] 松竹谷清@下北沢ラカーニャ

土曜日に吾妻さんのライブにゲスト参加されていたの見てグッときて、そしたら月曜にもラカーニャでライブあるってんで行ってきました。

例によって古本売って古本買って、お茶でも飲むかなって会場の前通りかかったら、ちょうどきよしさんが「おれめしくってくるからさー」なんてラカーニャから出てきたとこだった。、いいなぁ、いい感じ、とか思いながら喫茶店にて開場を待つ。下北沢は夕暮れ、鼻先に楽しげな感じをただよわせたひとがたくさん、歩いている。少し懐かしい。

当日券だったので少し遅れて入場して、空いてた一番前の席に、ここいいですかって、座る。隣の女の子と、少し話したりしながらビール。「よく(きよしさんのライブ)くるんですか?」「いえわたし、おととい初めて知ったばかりなんですよ」なんて、ビールを飲みながらにやにや笑ってたら「お酒お好きなんですね」なんていわれて照れる。すてきな女の子でした。またライブで会えるかな。

やがて、場内が立ち見もでる大盛況(ラカーニャからは、できればくる前に予約してね、とのことだった)になった頃、人混みかき分けてセッティング、ライブがはじまりました。

今日の編成は、松竹谷清(Vo&G)松永孝義(Bass)ピアニカ前田(ピアニカ)エマーソン北村(Key)。

いやーよかったです。松竹谷さんの歌は、その歌詞はまるで流れてくる言葉をたった今とらえたかのようなさり気ないものなんだけど、それをおいてくるような、ひとことひとことを踏み締めるような歌い方が、やはり、とても好きだ。そしてとにかく楽しそうなのがいいよね。見てて嬉しくなるし、今日は一番前に座ってたからしょっちゅうそのニッコリが目の前にあって、照れた。

「バッパーズライブのときは一人走っちゃってサ」なんて笑ってたけど、あれはあれで、としても、今日はお互いの呼吸合わせながら、たまに脱線したりの、気持ちいいライブを見せてくれました。

途中の休憩では、前田さんと二人でステージに座り込んで楽器いじったりしてて、目の前座ってたから話しかけてくれたなんかして、私もひとりでいったくせによく笑った。そしてみんなにお酒のおかわりが行き渡ったの見計らって第二部突入。最後までとても楽しい、やさしいライブでした。

HPでライブ音源きいてから行ったのですが、楽しみにしてた「ロックユアベイビー」がやっぱり最高によかったなあ! あとアンコールでやった「A列車でいこう」も楽しかった。

終演後は入り口でがっちり握手してくれたきよしさん。私も「絶対またきます! 」なんつって、ちょっぴり小走りでかえりました。興奮すると小走りになるんです。いい週末だった。

HPこちら → http://www.uxmac.com/bahia/

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[] どれもこれもすきで困るのである

なんとなくで、久々に山之口貘さんの詩集をちらちらと読んでいる。いちにちひとつ、でも、その日を覆ってしまうような気持ちがあって、たとえば誰かに宛てたラブレターを盗み見てしまったような、そんな詩がとても多いのを、かつての私はどこかうらやましく読んだものだったけれど、今はずいぶんと心持ちがかわって、その切実に、ただかきたてられるみたいだ。

つまり……とかいってみたくなるけれど、感想で包んでしまうのは惜しい。

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そんで今日の月。雲に覆われた月って、見てると足場が裏返るような感じだ。

海とか、いきたいなあ。ハムトースト食べながら、あてもない手紙書いたりしたい。

2007-09-24

[] なんかいい夢見た

目が覚めるまで、その日が暑いのか寒いのか判断できない、ババ抜きみたいな日々が続いていて,目を覚ましていちばんに、くしゃみをしたら足がつった今朝、枕に顔を埋めて足をさすりながら、そういえばついさっき、ちょっといいことあったよね、と思う。あったの知ってんだよ、とか思って、にやにやする。夢だけど。夢なのはわかってるけどもう一回、あの感じを味わいたい、って手をのばしながら目を閉じて、指先の芝生の色が、見えそうでみえなくて目を凝らした瞬間、いつのまにか眠ってしまっていたことに気づいて飛び起きた今朝その2。満員電車に揺られもせず詰められている中でも、その感じを反芻しつつ、それがだんだんと遠くなっていくというか、あのこそばゆいような感覚はもうなくなっているのに、無理矢理引き止めようとしているその自分のおもむきのなさに残念な気持ちになってまた目が覚める今朝その3。あれがほんとだったらよかったのにねと思うけど、あれがなんだったのかもう思いだせない、すでに午後。

[] TGS2007行ってきた

最近ほとんどゲームやってないくせに、ミーハーなので行ってきました。そういえばミーハーって言葉は最近聞かないですけど、まあ、わたしのTGS行く気分を一番的確に言い表しているのはやっぱりミーハー、だと思うわけで…。

同じくミーハーの血をわけた妹と一緒に早起きして幕張へ向かい、最初に試遊したのはビューティフル塊魂。うん、相変わらず楽しい。これはX-box360で出るのですが、正直プレステのコントローラーよりもやりやすいかもな、と思った。これは買うだろうしやります。

スクエニコーナーでは、ムービーを見た。楽しみにしてるFFタクティクスA2の発売日が10月25日と分かって満足。あとはDSで出るらしいドラクエ4の映像が懐かしすぎた。ドラクエは3、4が一番熱心にやった気がする。特に4は章ごとにキャラクターがたってるとこがすきだったなあ、とか。勇者の影うすいよね、とか。それから、弟が好きなスターオーシャンの新しいのの映像もなかなかきれいだったけど、弟いわく、なんかもう別物、らしい。あと、FF13の情報見てて思ったんだけど、私はどうもFFX辺りからのあのCG絵の表情がどうしても好きになれないみたいだと今回やっとわかったので妹がさんざん泣いたとおすすめするテンツーはたぶんこの先もやることはない、かな。ところで、後から気付いたことだけど、ドラクエ9の情報を見忘れた。

その後、会場をぐるぐるまわってみて、目に付いたものもいろいろあったんだけど、個人的にはぐっときたのは「Little Big Planet」*1くらい。そんな感じで、いまひとつ盛り上がれないままに会場を後にしてしまいました。もちろん個人的な好みの話なので、メタルギアの新しいのとかダンジョンとかコナミがおしてた「TIME HOLLOW」っていうアドベンチャーとか、いろいろ、目玉っぽいのはありました。なんとなくだけどセガが勢いあったような印象(曖昧なことをいってすみません)。

そろそろ、ここ数年で一番時間を費やしたゲームがGSっていう記録を塗り替えたいので、とりあえずはFFA2に期待です。

2007-09-23

[] 私の二週間

修理にだしていた携帯が戻ってきた。

画面がつかなくなっていたから、てっきり液晶が割れたと思っていたのだけど、店員さんの説明を聞くに、ディスプレイにつながる基盤みたいなものが初期不良だったとかいうことで、うやむやに、無償で修理してもらえた。

データも元通り。

ほっとするとともに、約二週間時間のとまっていた携帯をいじっていると、どこか不思議な気持ちにもなった。過ぎてしまった週末の予定、書きかけのメール、見にいくつもりでブックマークした映画、仕事でいくはずだった場所への乗り換え案内。

すべてもう終わってしまったことだし、そこから二週間分の記憶は、この携帯にはない。ついさっき目の前で消された代替機のデータが記憶だとしたら、私はいま、二週間遅れの場所に巻き戻っているんだなー、なんて妄想してみるものの、ま、携帯を自分の一部みたいに感じるのもしゃくだなと、すぐに思い直す。それでも、そんな気分になるくらいに、携帯は多くの情報のつまったものでもあるのだから、今後は落としたりしないよう、気をつけようと思います。この反省を忘れないようにしなくちゃね。

代替機のデータを消去する前、ここからうつすデータとかありますか? と店員さんに聞かれた。特にないけど、せっかくだしな、って移したたったひとつのデータを、私の失われた二週間の記憶のかわりに、のせとこうと思います。

f:id:ichinics:20070925002048j:image:h200

代替機のデータフォルダにあった唯一の写真。

[] 吾妻光良&The Swinging Boppers東京キネマ倶楽部

いってきました! たのしかった!

ライブに誘っていただいたときには全く知らなかったのですけど、ちらりと音源を聞いてみたら、こりゃーもう絶対楽しいよねと思い、ぜひぜひとつれてっていただきました。感謝。そんで実際見たらやっぱり楽しくって、なんていうか、まあ世の中には楽しいもの、おもしろいもの、まだまだたくさんあるのよねえ、ということを改めて実感した次第です。

ついてまず一杯、はどう考えてもウイスキー混じりのビールで炭酸も抜けてて、笑っちゃうような感じでライブが始まって、一発目は「最後まで楽しもう」だったかな。たぶん。

吾妻光良&The Swinging Boppers は、ビッグバンド・ジャズのような編成で、ジャンルでいうとジャンプブルース、っていうらしいです。確かな腕前と、そのうえで遊びのある演奏がとても心地よい。バンドのみなさんは、ほとんどが別のお仕事をしつつ音楽を続けている方々とのことで、丸みがあるというか、とにかく音楽をすることの楽しさに開けているこの雰囲気は、だからこそ、なのかなあと思う。なんて、そんなこといっちゃうのもおこがましくなるような大船っぷりで、テキトーな調子でギターかえたり、たしなむていどなんてビール飲んだりしつつ、繰り広げられる吾妻さんのトーク(MCっていうかトーク)にいちいち大笑いしながら、ライブはどんどん進んでいく。

まあこの写真を見ればなんとなくわかる感じです(バッパーズのみなさん→ http://www.jvcmusic.co.jp/boppers/profile.html)。いいなあ! この写真の中でいうと、中段の右端の方が、「海外赴任からかえってきました!」って紹介されていたのですが、そのときのこう、面映いような表情が忘れられないのです。

なんだか曲のこと全然かいてないですが、いやほんと全部良かったよ。ま、CDも買うからおいおいまた。そしてまたライブやるときはぜひ行きたいです。

ところで今日は何人かゲストがきていたのですが、その中のひとり、松竹谷清さん*1の歌が、これまたすばらしくって、あの声張り上げて投げ出すような、あの歌い方が、わたしはとてもとても好きで、これはちょっと特別だ、と思いました。例えばハルくんや、イルリメ鴨田さんの歌を思い出すような感じ。

とてもいいライブでした。楽しかった。

2007-09-22

[] じっと手を見て目をそらす

最初に、わたしはわたしであってほかの人ではないのだ、ということに気付いたのは、いつのことだっただろうか。

残念ながら、私はその瞬間を明確には覚えていないのだけど、ただ、たしかに幼い頃の自分は、もっと曖昧で、いろんなものと混じりあっていた。

お風呂に入ればゼラチンのように溶け、冷蔵庫から出した麦茶を飲めば体の内側を落ちていく冷たさが空気にまで広がるようだった。母親に手を添えられて書く文字の、意味はわからなくても次にどう動くのかはわかるような気がしたし、友達と遊んでいてもつい、そのことを忘れてダンゴ虫を集めるのに夢中になったりした。

そんなふうに、世界に寄りかかって境目もおぼろげな日々を過ごしていた間は、案外長かったような気がする。

しかしやがて、思っていることは、自然にわかってもらえるものではなく、外に出そうとしなくては伝わらないのだということを知り、漠然と、わたしとわたし以外は何かが違うということを悟ったものの、それが実感に至ったのはもう少し後のことだったはずだ。

記憶がザルな私は、それがいつかをちゃんと思い出すことはできない。でもたぶん、それはわかりたいと思うことだった。

たとえば友達が、何を思っているのか、考えているのか、それを知りたいという気持ちでいてもたってもいられなくなり、しかしそれが確実なものとして手に入らないのだということを痛感したとき。そして、わたしのこの背に腹は代えられなさは、わたしだけのものなのだということを知ったときの、あの体を切り離されたようなひんやりとした感じは、しかし同時に心強いものでもあったはずだ。

つまり。この気持ちがわたしだけのものである、ということは、それが自分だけのものではない、ということを示しているのかもしれない。みんな自動的に生きて行動しているわけではなくて、だから、こんなふうにうまくいかなかったりわからなかったり、わからなくて困ったりしているんじゃないのか。

あーそっか、と思う。あの感じはなんとなく、世界が裏返しになるような瞬間だった。

まあ、今でもそういうの時々忘れるんですけどね。でも、たぶん、何かが腑に落ちる瞬間ていうのは、けして普遍的なことではなく、何かひとつのことに躓いて、それをじっと見てしまうときのような気がする。

ああ、手のひらにはしわがあるのだなあ、おや、となりのひとのしわとはかたちが違うじゃないですか、とか、そんなふうに。

ichinicsichinics 2007/09/25 00:35 rbさん、お久しぶりです(以前コメントくださったrbさんと同じ方でなかったらごめんなさい)。あの時、と私にはちゃんと思い出せないのが残念なんですけど、腑に落ちる感じっていうのは、いいですよね。上に書いたみたいなのって、書いたそばから、でもそれだけじゃないよなあって思ったりもするんですけど、なんかわかる、といっていただけると心強いです。

rbrb 2007/09/27 18:59 以前のrbです(笑)

>書いたそばから、でもそれだけじゃないよなあって思ったりもするんですけど

言葉に書いて、伝えたかったことの一部が、自分から離れた途端、何か伝え足りないと感じたりすることってありますよね。わたしもよくそうなります(汗;)。

言葉にして書いた途端に、自分は観察者の位置に立つからでしょうか…。

ichinicsichinics 2007/09/29 01:58 あ、よかった(笑)コメントありがとうございます。
そうそう、こう外に出すと、その瞬間になにかなくなってしまうというか、足りなく感じてしまうことがありますよね。でもまあ、結論を急いでいるわけではないので、また考えてみようと思います。ゆっくり。

2007-09-21

ichinics2007-09-21

[][] サッドヴァケイション

監督:青山真治

とてもよかったです。よかったと思いながら見れてほんとうにうれしい。

ユリイカ」は小説もふくめ、私にとって本当に特別な作品だっただけに、「Helpless」「ユリイカ」に続く北九州サーガ最終章として作られたこの映画の、テーマが「母性」と聞いた時には正直なところ不安もあった。

けれど実際に映画がはじまってみると、あっという間に引き込まれるこの「北九州っぽさ」。会話のひとつひとつが、嫌みなく自然で心地よい。懐かしいひとたちがいて、彼らの上にひとしく時間が流れたことを感じる。続いている部分と、新たに開いたかのように見える部分と、その陰影に圧倒的な存在感がある。中でも、浅野忠信さん演じる健次はすばらしかった。恋人といるときには、届きそうで届かない背中を見せるくせに、母親と相対する場では、あっさり飲み込まれてしまう、その小さな肩。

石田えりさん演じる母親を見ていると、母性とは恐ろしいものだな、と、思う。時折、その表情が、まるで生暖かい沼のようにうつる。それと同時に、「男の人は好きにしたらええんよ」というあの台詞には、予告でみていたときの印象とはまったく違う、物語の流れのなかで、非常に納得してしまうところがあった。

健次の人生とは、青山監督の言葉からひけば、

「鳥の糞のように落下してくる理不尽な死とそれとほぼ同じ確率で手に入る満足の発見との、ミリ単位の競合だった」/「ホテル・クロニクルズ」より

という感触に近いのではないか。そして、それに立ち向かおうとする様は、不器用なまでに真っ直ぐだ。

そして散り散りになっていく彼らに、苛立ちの一端を垣間見せるのが、あの台詞だったのだと思う。

しかし、母性という「場」として彼らを迎え撃つには、やはり笑わなければならないのだろう。この映画に登場する女性たちの表情には、そう思わされる迫力があった。

2007-09-20

[][] 泡日/高浜寛

泡日

泡日

最近「凪渡り」(id:ichinics:20060620:p1)を読み返したついでにこれも、と再読してみた。まーとにかくびっくりしたのは、高浜さん女の人だったのかーってことで、でもまあそういわれてみても特に印象はかわらないのだけど、著者近影もあるのに気付かなかった自分に、びっくりした。あと、いまさらだけど、このひとの画面の雰囲気は、少し福山庸治さんのものと似ているかもしれない。なんてことも思う。

ともかく。

短編集としては「凪渡り」のが好きだけど、この本に収録されている「FUNNYFACE'S FAMILY」が好きで、でもこのラスト2ページの意味は、今回再読してやっとわかった。ある小学生の別れを描いたこの話では、「奇面組」の連載終了をモチーフにしているというところが、世代を限定するとはいえ、読む側の記憶とつながる感じがして面白い。その点では9.11をモチーフにした「我らの世代が生きのびる道を教えよ!」は、その瞬間の描き方が印象的だっただけにその後があいまいに感じられて残念だった。けれどそうとしか描けないことだったのだとも思う。

思い出すのは個人的なことばかりだ。

[] 文章が楽譜だったら

考え中(id:ichinics:20070918:p2)、のつづき。

文章を読み書きすることと、声について考えてみる。わたしは、流し読みのようなことをしているときでも、拾った言葉はたぶん音に変換しているし、こうしてキーボードをうちながらも頭の中では声を発している。だから意味の通りやすさよりも前に、感覚的に句点読点をうつ。

つまり、ここにある、ぱっと見はただの文字の集合でしかない文章たちも、それが書かれる過程で思い描かれた、リズムというものを(ささやかながら)持っている。ということは、書かれてある文章とは、意味の前に、楽譜のようなものとしてある、と言うことはできないだろうか。それはもしかしたら、日本語特有のものなのかもしれないけど、と考えていて、ああ声に出して読みたい日本語ってのはそういうことだったのかなーとか、思う。知らないくせに適当なことを思う。

ともかく、文章を読む時、黙読する時、頭で声を出してしまうわたしの癖というのが一般的なのか、それともそれは単に不器用なことなのかわからないけれど、たとえばわたしのこの日記を、読む人がいたとして、その人の読むリズムは、わたしの思い描くそれと似ているだろうか。私が読むだれかの文章は、その人の思い描くテンポを、追いかけているだろうか。

もしそれが重なるのなら、言葉をとおして意味に触れるのと同じくらい、近いことなんじゃないだろうか。

会話として、その場で交わされる言葉とは違う、書かれた言葉だからこそのやりとりというのが、その辺にあるような気がするので、もうちょっと考えてみたい。

[] 「皇国の守護者」の連載終了はもったいない

連載では読んでないので、なんとも信じたくない気持ちのままなんですが、「皇国の守護者」が最終回を迎えてしまったという話をきいて、がっくりしています。もったいない。まだぜんぜんこれからってとこなのに! もうあの新城がこれ以上描かれないなんて残念すぎる。

まあ5巻がでてからと思ってたんだけど、とりあえず納得いかねえ、てことだけ書いときたくなったので書いておきます。ほんと、今いちばん楽しみにしてる漫画だったのに。

…………考え直しませんか?

1巻からの感想→ http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070308/p1

UNDERCURRENTUNDERCURRENT 2007/09/21 02:50 はじめまして。ZAZENライブ記や漫画評など、いつも楽しく読ませて頂いてます。僕も昨日、久しぶりにZAZEN観てきたんですが、イチニクスさんの17日の記事を読まずに行ってしまったことに気付きちょっとがっくり。そして皇国連載終了を知って2度がっくりしました。記念?コメント。
皇国は作者が新人だったり原作が長すぎることなどから、少しは予感があったんですが… それにしても早すぎますね。

killhiguchikillhiguchi 2007/09/21 09:18 黙読をするとき頭の中で声を出すというのは一般的なことではないかと思います。印刷革命によって音読から黙読へ変わったときに、自己の内面で音を出すことを近代人は覚えたというのはよくいわれることです。
 でも、音に出して読むことは別に意味があって、言葉のリズムを身体化する、精神を血肉と化すという面があると思います。印刷技術の発明後も、日本では漢文脈では音読がまずは読書の初めとして使われていたのはそのせいでしょう。意味は分からなくとも繰り返し声に出す。そのことで漢文のリズムや精神が内在化される。お気に入りの歌を現代人が口ずさむようなものだと思います。「声に出して読みたい日本語」もその伝統を引き継いでいるのでしょう。名文を声に出すことでカノンを血肉と化すことに意味があるのでしょう。
 そのような漢文脈の伝統とは別に、現代日本語ならではの特徴は、漢文訓読文以来明治以来できた、漢字仮名まじり文で、そのせいで「読み飛ばし」が可能になります。重要な語句や概念は漢字で書かれてあることがほとんどなので、そこだけをさっと眺めて文意を理解することが可能なのです。私などはほとんどこれです。全体を見てポップアップしてきた語句を磁石で砂鉄を吸い取る要領で把握します。外国の文章を読むときにはこれができないので困ります。
 「皇国の守護者」残念です。新城のさらなる「防衛」戦や人間ドラマを見たかったです。

TrouTrou 2007/09/21 22:33 前に、声帯の手術をした人は、しばらく黙読もしちゃいけない(声帯が動くから)という話を読んだことがあって、「そうなのか!」と驚いたことがあります。
いわゆる速読法というのは、この声帯の動きを止める「視読」に切り替える方法のようなのですが、なんだか少し寂しい感じがします。

ichinicsichinics 2007/09/22 02:02
>>UNDERCURRENT さん、はじめまして。ザゼン!の感想!はいつも暑苦しくおはずかしいですが、昨日、てもしかしてあのリキッドのでしょうか。うらやましい…。チケットとりそこねてしまったのです。皇国ほんと残念ですよね。はー、ほんと考え直してほしいです。

>>killhiguchiさん。興味深いお話をありがとうございます。事故の内面で音を出すことを覚えるまえ、ひとが物思いにふけるとはどういうことだったんでしょうね? 考えてみるととても不思議な気持ちになります。それから「読み飛ばし」は私もよくするのですけど、漢字とともに接続詞や文末を別レイヤで拾ってることが多いような気がしますね。このやり方も、きっと経験から学ぶのでしょうが、誰に教えられたわけでもない(たぶん)というのが面白い。「皇国」は本当に!残念です。もったいない。

>>Trouさん、こんばんは。ああ、そうなんですか。やはり黙読は声とつながってるんですね。それじゃあ、子どもの頃、声を意識せずによめと教えられたのは速読のことだったのかもしれません。まあ、テストで早く問題文を読むとか、そういうときに使うためだったのかもしれない。これからは気にせず頭の中で音読しようと思います!

2007-09-19

[][] 人のセックスを笑うな山崎ナオコーラ

長らく読んでみたいと思っていたナオコーラさんのデビュー作が、文庫になってたので買いました。奥付をみると、文庫になったの結構まえみたいだけど、たまたま面展されてたので気付いた。

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

一気に読める、とてもなじみのよい小説でした。読みはじめてすぐに考えたのは、これが女性によって書かれた、男性視点の物語であるということ。男性作家による女性視点の物語、というのは現代に近い作品で「リアル」さを強調されればされるほど、どこか落ち着かないような、気がする。けれど、それはきっと私が作者の性別を知ってしまっているせいでおこる摩擦なのかもしれない。そういうものは自分にもあるんだ、ということをよく思いだす。では、この小説を読む男性は、この男性の視点をどのように感じるのだろう。先入観のありなしは感じ方に差をうむだろうか…。そんなことを考えながら読んだ。

物語の中心にあるのは、美術専門学校に通う十九歳の主人公と、専門学校の講師である三九歳のユリとの恋愛、だ。この年齢のバランスは、奇抜であるように見せかけつつ、実は主人公を受け身の側に置く仕掛けでもあるのだろう。そのことで、主人公の視線を、自然に受け入れられる。つまり、この小説で、作者は自分の知らない性を描こうとはしていないのだと思う。

このことを、高橋源一郎さんはあとがきで

「男性中心社会」への反撃としての「女性言葉」の奪還が、その本質において攻撃的であるとするなら、女性化しつつある男性を肯定するこの小説は、その本質において攻撃性を持たない。それが、攻撃的な(いや権力的な)「男性文学」に抗する真の「女性文学」であるなら、この小説以前には、「誰もトライしていなかった」のである。/p155

と絶賛している。個人的には、山崎ナオコーラさんの特別については全面的に賛成だけれど、「攻撃的/権力的」な言葉に抗する女性の視点、という意味では、小説よりも漫画という表現でのほうが、ずっと先を行っているのかもしれない。まあそれは余談だ。とにかく、とても面白い小説です。

それと、昨日「真鶴」を読みおえたばかりだからか、主人公がユリに夢中になる心持ちを、どこかあの物語と重ねて読んでいた。例えば

しかし恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ。オレのファンタジーにぴったりな形がある訳ではない。そこにある形に、オレの心が食い込むのだ。/p60

こういうところは、「真鶴」での、「まじりあってとけあって」いたいという心持ちとぴったり重なるのではないか。

そして結末まで読んで、あらためて二つの物語の近さを感じるとともに、この言葉はすんなりと、受け入れられると思った。たまたま手に取ったに2作品連続で、ほとんど同じ言葉を提示して終わったっていうのは、不思議だった。

「虫歯と優しさ」

同時収録の短編。この小説もとてもすきです。こちらは、女性である男性が恋人の男性とわかれそうである、という状況を描いたもの。歯医者で診察を受ける描写と、恋人とのやりとりを重ねるやりかたがとても気が利いているし、この物語も、結末がとてもよかった。あの場面が私は大好きだ。でも、私はどちら側に感情移入しているのだろう、と考える。どちらにでもなる。たぶん。

[] タクシーのおっちゃん

仕事の打ち合わせに、熊谷まで行った。

5時ですねーはい大丈夫です、なんて軽く返事したはいいけれど、熊谷というのがどこだかよくわかっておらず、やっと降り立った駅からのバスが一時間に一本!ということがわかると、もうタクシーに乗るしかなかった。

焦って思わずピンとのばした自分の右腕が可笑しい。乗り込むと、運転手さんも振り返ってニカッと笑った。60代くらいだろうか。骨張った腕にしっかりと筋肉がついている。そんなことに気付くのは、おっちゃんが腕を座席の背にかけつつ運転しているからだった。

「おねえさんどっからきたの? 東京? ゴクローサンだね」

こちらがハラハラしてしまうくらい、半身こちらに向けたまま運転する。それでも、運転はさすがに手慣れたものだった。両脇を流れる田園風景に見とれていると、すぐ「熊谷すめば?」と声がかかる。

熊谷といえば、今年の夏は暑かったらしいですね。そうだよーテレビたくさんきたよ。熊谷はね、夏暑くて冬寒いの!でもそれ我慢すればヘーキだから。熊谷住みなよ。東京なんてさ、空気きたないでしょ、熊谷住んだら元気になるよ。あ、でも桜が終わる頃には黄砂で空茶色になるんだよね、だから目医者さんもうかるの。おねえさん、目医者と結婚して熊谷住みなよ。

少々風邪気味なうえに、午後いちにあった健康診断で若干気分が悪くなっていたのだけど、おっちゃんの快調なおしゃべりに相づちをうっているうちに、なんとなく気分が晴れやかになってくる。この町に住む自分を想像する。ラブレターなどを渡しに行くために自転車を漕ぐ、中学生の私が通り過ぎる。あせってこけてたんぼに突っ込む。振り返ると飛んでったラブレター追いかけてよろよろあぜ道を走ってゆく私が遠ざかる。

「この辺、もうすぐホンダさんの工場ができるんだよね。そんで三万人、募集してるんだってさ」

そうしたら、きっとこの風景もかわるのだろう。そして私も「この辺もかわったよね」みたいなことを言うのだ。

それもいいかもしれない、と思う。右手側がゆっくりと暮れていく。空がひろかった。

TrouTrou 2007/09/20 16:03 こんにちは。こないだ「虫歯と優しさ」を読み返したら、夢の中のおばあさんに「私の優しさになってください」っていうところがよかったです。一読目でも思った気がしますが、すっかり忘れていました。

ichinicsichinics 2007/09/20 22:18 Trouさんこんにちは! あの、おばあさんの夢から、ラーメン屋に誘われ、そこで話をする場面にかけては本当に、大好きです。あの、自分の気持ちのどうにもならなさみたいなのをすごく久しぶりに思い出して、でもそれをこんなふうにやさしく描くことができるってすごいと思った。ちなみにナオコーラさんはTrouさんの感想読んでからずっと読もうと思ってたんですけど、やっとです。ほかのも読みたいな。あと映画楽しみですね!

TrouTrou 2007/09/21 22:28 楽しんでいただけてよかったです! 映画は来年の頭みたいですね。楽しみです。

2007-09-18

[][] 真鶴/川上弘美

真鶴

真鶴

久しぶりに、川上弘美さんの小説を読んだ。

川上さんの小説は、好きだけど、なんとなく引きずられるようなところが少し苦手だ。そして、この本は、今まで読んだ川上さんの作品の中で、もっとも、引きずられる物語だったように思う。

さみしくなる話だった。でもその感じは久しぶりで、やっぱり少し苦手とか思いながらも、夢中になって読み終えた。

主人公、京と、その母と娘の百。女ばかりの家族と、恋人の青慈、そしていなくなった夫、礼。その人の輪の中で描かれるのは、人と人とを分け隔てる境の話だ。

家族になって、からだとからだの境界もはっきりしなくなって、百とわたしと礼の三人でまじりあってとけあっていると思っていた。/p217

この器のある間は、人はたぶん混じりあわない。けれど、その後はどうだろう。そんなことを思いながら寄せて返す、その感触が少し恐ろしい。けれどつい、ジッと見入ってしまうような、あの長く引きのばされる瞬間のことを考える。届きそうで届かない、もどかしくていらいらする。それはたぶん、器を保てなくなることの恐ろしさととても近い。

この家、男の子がいないから、と言いながらノートパソコンに男名前をつけた百のことを思いだす。あのころの百は、もういない百だ。いたけれど、いないもの。

それでは夫はどうなのだろう。失踪した夫の、失踪してからの姿を知らないので、ぷつんと何かが切れてしまっている。夫は「もういないもの」ではなく、「まだいないもの」だ。

まだいないもの。いつか、あらわれるかもしれないもの。

過去の中に姿を消すことのできるものは、今あるものばかりだ。今ないものは、過去の中に消すことはできない。どこにも消すこともできない。不在なのに、いつまでたっても、なくならない。/p105

ほんとうに、そうだろうか。そうだったらいい、と、そうであってはならない、が同じくらい湧いてきて、ああでも続いていくとはそういうことなのかもしれないなと思う。私はまだそれを知らないだけだ。

読み終えて、何ともいえない、さみしいような気持ちを持て余しつつ、でもそれは自分の器を思い出すことでもあって、少しだけ、心強い。

日がかげり、すぐにまた日差しがもどる。三人の、顔から肩にかけて、窓越しに光がさしている。身をかがめると、ちょうど光が額のあたりにきて、冠のようだ。同じ冠をつけ、同じ血をわけた、歳のことなる三人の女。/p254

[] 考え中

なんか上に書いた本の感想が、そんなつもりはないのにやたら湿っぽいような気がしたのでバランスをとりたいと思うのだけど、まったく何も浮かばないので、最近考えていることをダラ書きしてみます。ええと、今はとにかく旅行にいきたいです。オープンチケットでいたいだけ向こうにいるという旅がしたい。とはいえ、たぶん三か月くらいで満足できる気がするので、できれば半年働いて半年休む生活だったらいいのにと思うんですけど(のこり三か月はぼんやりします)、仮にそれが可能だとしても半年ぶんの給料で食べていけるかというとそれもきびしいので、だったらせめて、年に一か月くらいはまとまった休みがあればいいのにノと思います。そういえば昔、タイで出会ったフランス人のおじさんは、フランスだと一か月休みがあるの珍しくないよ、みたいなことをいっていたのですが、よく考えたらなんで私はフランス人のおじさんと会話できたんでしょうか。結構長いことしゃべってた気がするけど、フランス語は全くわからないから、たぶん英語で話したんだろうな。英語はまったく得意じゃないけど、ある程度の期間英語ではなし続けていると、なんとなく単語が浮かびやすくなったりするので不思議です。そのあたり、もしかしたら言語の切り替えスイッチみたいなものがあるのかもしれない。聴覚より視覚の方が印象としては強い気がするけど、会話においては視覚より聴覚の方が頭と密接に結びついているような気がする。いや、聴覚というより言葉の出し入れを同時に行っている感じはまた別の感覚のようで、それはもしかすると文章を読んで理解するよりも、速い反応かもしれない。なんでだろう、ということを考えながら眠りたいと思います。

おきて

↑よく考えてみたらここで「視覚」ていってるのは文字媒体のことで、でも言葉というのは文字より音の方が先にあって、しかしその音も視覚に助けられて理解されるというとこを忘れていた。ともかく文章を書いているときですら、どこか声で考えているようなとこがある。むかし小学校だかのときに黙読しながら頭の中で声だしてるから遅いのよ、みたいなことをいわれたことがあるけれどみんな黙読は音無しなんだろうか。それはまた今度考える。

2007-09-17

[] double punch@日比谷野外音楽堂

ZAZEN BOYSクレイジーケンバンドの対バンイベントに行ってきました。

開演時間ちょっと前に行ってビール飲みつつ待ち。客層はなんとなくだけど、クレイジーケンバンドのファンのが多そうな印象。そもそも、この2つのバンドのファンてのは重なってるのかよくわからない。どうなんでしょう。

MCに杉作J太郎さんがきていたのだけど、エヴァのことばかりはなされていました。それもまたよし。

ZAZEN BOYS

ザゼンがスタートして、ちゃんと場内一斉にわくのをみて、安心する。そんでも出だしから「Hard Liquor」で突き放すザゼン。向井さんはほんとアウェーでいきいきする人だなと思う。「再生不能のビッデオテープ」やって、今回のライブツアーで定番だった新曲群も織りまぜつつ、まったくよそ行きでないセットリストがザゼンらしい。けれど、ザゼンでよそ行きのセットリストなんてものがそもそも成立するのかって考えてみたら、このノリにくい曲を連発するのがむしろよそ行きなのかもしれません。後方の席に座っていた女の子が「ノりにくいっ!」て叫んでたけど、でもその声は楽しそうだった。

今日の席はベース側だったので、いつもよりクリアにベース音が聞こえてきたんだけど、吉田さんのベースの特徴、っていうのがやっとつかめてきた気がする。特に「COLD BEAT」は、ちょっと驚くようなラインだった。松下さんをジッと見てあわせ、開けるそのタイミングを静かにとらえる。ザゼンのライブはかなり即興が多いように感じられるけど、その実綿密に構成されたものをお互いに前のめりでぶつけあうようなところがある。それはヤンキー時代もそうなんだけど、今の音は、そこからさらに、緩さを削ぎ取ってソリッドに緻密にまっすぐとどく。ヤンキーの方が色気のある音だけど、吉田さんの雰囲気、持ち味をいかしてライブは進化していくだろう、という安心感がある。初めて日比谷で吉田さんのベースを聞いたときはちょっと堅いかと思ったけれど、それがこんなふうに一本になるとは。こういった驚きこそが、ザゼンのライブをおいかける醍醐味だなと思います。

クレイジーケンバンド

実はクレイジーケンバンドの曲って、まともに聞いたことがあるのがこの前ヴィレバンでかった「V.V. Slow?」に入っていた「メリメリ」だけで、あとはドラマの主題歌になったのとか、あったけど基本的にテレビってあんま見ないので知らなくて…。それでもさすがの風格というか、豪華なエンタテインメントを見せてもらったような気がします。ルーツをしっかりと感じさせる楽曲と演奏に、オリジナルの物語をのせてくのがこのバンドの魅力なのかなーとか思った。「なんめいさまですか見ればわかるでしょひとりだよ〜」とかいう曲がよかったです。ごめん、でもそれ二曲目とかだと思う。あとちょっと酔っぱらっててあんまり覚えてないんです…。

途中でビールおかわりに行く間も、ふらふら踊ってたって大丈夫なのが野音。とても楽しい夜でした。

ところで、何度目かのビールのおかわりにいったら、小銭を溝に落としてしまって、ああ、といつものあきらめの良さを発揮しそうになっていたら、店員のおばさんが網持ち上げるの手伝ってくれて、しかもつめたい水を手にかけてくれた。感謝。あの水の冷たくて気持ちいいことといったら!

蒸し暑い9月の夜。あともうちょっとだけ夏でいいですか。

2007-09-16

[] 下北沢、日曜日

漫画を売りに古本屋へ向かう途中、踏切が開くのを待つために日陰に寄ると、あとをついてくるひとがあった。黄色いTシャツをきた、ふくよかなおばあさん。なんとなく会釈をかわし、ふたりで肩を並べる。「あついわね」「ええ、九月なのに」

そのまま、下北沢名物であるところの開かずの踏切を見据えつつ、気の遠くなるようなあつさにぼうっとしていると、不意に「きらきらでしょ」と声がする。見るとおばあさんの手にはめられた指輪が、アスファルトにきらきらと光を落としていた。

「ところでその大荷物はどうしたの?」「本を売りに行こうと思ってるんですよ」「売れるの?」「ええ、まあ捨てるよりはいいか、ってくらいですけど」「でもあなた、そのお金でまた本買うんでしょう?」「そのとおりです」「だと思った!」

踏切が開くと、「じゃ、わたしオオゼキ行くから!」と手を挙げて、そのおばあさんはしゃくしゃくと渡っていった。その足取りとともに光が揺れた。

しかし今日の場合、本を売ったお金はお茶代に消えた。のどが乾いて乾いて、もう限界というところまで自分を盛り上げ、向かったかき氷やさんがおやすみだったので、近場のアイスコーヒーで手を打ったのだ。つまりその代金に消えるくらいにしかならなかったのだけど、いい。のどが潤えばいい。

その後、連れと合流し、夕方のライブまで買い物でもするか、とそのまま下北を歩いていたら、ふと、目の前からシャボン玉の大群が押し寄せてきた。思わずカメラを取り出したが、光に消えてしまって、なかなかうまく映らない。うーん、とあきらめようとしたところに、寄ってきたおじいさんが「シャボン玉なんてうつるの」と訊くので、むきになって、撮る。結局、あまりうまくうつらなかったのだけど、デジカメの画面を拡大して見せたら、「すごいなあ今のカメラは」と言ってくれたので、たいへん満足した。

f:id:ichinics:20070916155737j:image:w350

ま、すごいのはカメラだね、なんて笑いながら、さらに歩いていくと、ひざに大きな猫をのせたおじいさんがいて、思わず寄っていって「猫ですか?」と訊く。「さわれば」と誘ってくれるので、お言葉に甘えて、さわった。鼻先に手を伸ばすとあごをあげる仕草がかわいい。「写真、いいですか」といったらどうぞどうぞといってくれたので、撮る。あとからあとから、猫に釣られた人々の列ができる。当の招き猫は、ときおりあくびをしながら、眠そうな顔でじっとしていた。

f:id:ichinics:20070916160155j:image:w350

そんな風に、今日はなんとなく、なんとない感じで見知らぬ人と言葉を交わすことがたくさんあった。

私はわりと人見知りをするくせに、人と話をしてみたい欲だけはあって、だから知らない人に、話かけたりかけられたりすると、うれしくてついこんなふうに、何度も反芻してしまったりする。なんで、と考えてみてもよくわからない。ただ、もっと気軽に、見知らぬ人とはなしたりわらったりわかれたりできればいいのにねと思う。そしてそれを覚えていたい。いつまでもくよくよしてたい。そしてひとと話をしているときは、そんなのぜんぶ忘れている。

2007-09-15

[] 「Strawberry Jam」/Animal Collective

Strawberry Jam

Strawberry Jam

グッと強く、視界が広がったような気がする。前作「Feels」もすばらしいアルバムだったけれど、今回の「Strawberry Jam」はまたがらっと印象が異なる、けれどAnimal Collectiveならではの、酩酊感。

この音楽を言葉でとらえるのって本当に難しい。あれこれ当てはめようとしても言葉からはみ出して耳に潜り込みまた外へ広がっていく。ゆりかごの中で、くるくると回る世界を見ているような、鬱蒼とした森の中を身構えつつ歩いていたら、急に視界が開けたときのような、緊張と驚きときらめきが渾然一体となって煮詰まったそれに、いつのまにかはまり込んでいる。

この感じをサイケデリックということもあるのだろうけど、それは70年代の、あのダルい/もしくは野暮ったさのあるサイケのイメージとも、80年代後半から90年代にあるあの目がくらむようなギターサウンドとも全く違う。音触はBattles「Mirrored」と近いところがあって、でも重なってる部分から丁度真逆に進んでいるような気がする。Beach boys ぽい曲もあった。し、随所にイメージするものはあるのだけど、あっという間に別の地平に飛ばされる。

とにかく、機械を使った音(という書き方もへんだけど)がこれほどまでに肉感的に聞こえるというのが面白くて、つまり、時代やカテゴリを四次元的に組み立てた音、といってもいいかもしれない。

まあ、とにかく面白い音楽です。ライブみたいなあ!

過去にこだわるなんて 死んだハエみたいな行為だよ

「あの頃」とつながっていることなんて本当に少しだけ

確かに僕らはマジックを信じていたし、死んだのも事実だけど

従うべきは僕の言葉じゃなくて、君自身の心

自分自身さ 自分自身で解決することさ 本当の君は君の中にいるんだ

「peacebone」

[][][] 童貞。をプロデュース1&2

さて帰るか、と思ったところで「近所でお祭りやってるけどいかない?」と同僚に誘われて、いそいそとついていく。今の会社はあんまり飲み会とかやらないのだけど、べつにだからといって仲悪いわけでもなく、いいわけでもない、この生温い感じはわりと気に入っていて、でもこうして飲めば、なかなかに楽しかったりもするから、私も調子にのってずいぶんと飲んでしまった。ビール一杯200円という破格で、食べ物はなぜかもらい放題。買おうとしてもくれる。なのであっというまになくなっていた。不思議なお祭りだった。いかにも「良いパパ」で上品なOさんが、ネクタイを外し、だんだんとだらしなくなっていく様は見応えがあったし、愚痴るネタも、さらさらと流れていく程度のもので、まあ、まあね、なんてビールをおかわりしていた。

するといつのまにか屋台が撤収しはじめていて、時計を見ると20:30になっていた。今日は21時からの「童貞。をプロデュース」を見にいくつもりだったから、少し急いで、別れ際「今日は何の映画見るの?」と聞かれたのに窮し「ドキュメンタリーです!」といって手を振る。そしてどうにか有楽町線に乗り込む。ああ、よってんなわたし、とか思いながら、どうにか21時すぎにロサへたどり着くと、幸いまだ予告編だった。満員御礼なので通路に座り込んで、見る。

2のほうはガンダーラ映画祭の追加上映で見ていたのだけど、1を見るのははじめて。

童貞。をプロデュース

監督:松江哲明

1の主人公、加賀君は、2の冒頭に出てくるのでその顔には見覚えがあった。基本的に、主人公となる人物にカメラを持たせ、生活を記録させる手法は2と同じだったのだけど、そこにアクセントを加えるのが片想いの相手への告白、という目的を作ることと、それに向けてAV製作現場へスチール男優(?)として参加するというイベントだった。「風俗とかAVはちょっと汚い感イメージが…」なんていったり、AV制作現場につれてかれてなお、なお、それでもかってところとか、酔った勢いでカメラに向かって想いのたけを語ったりとか、うん、まあ、わからなくもない。このわからなくもなさが、面白いとこなんだと思う。場内に溢れる笑いは、加賀君を通り越して、いつかの自分に向けられているのではないか。というか加賀くんの言動はかなり少女漫画みたいだな、云々。

そして映画中の飲み会で加賀君が歌う歌が、ひどいんだけど、すごくて、映画のあとに峯田さんがそれを歌う映像が流れて、なんかもうすごい。従属させたいという欲望と負け戦みたいな弱腰の触れ幅に、正直なところぐっときた。まあ、あの歌い出しはやっぱひどいと思うけど。

童貞。をプロデュース2 ビューティフルドリーマー

以前見たもの(id:ichinics:20070628:p1)とはずいぶん印象が違っていて驚いた。というのも以前のバージョンには入ってなかった場面がいろいろ盛り込まれていたからで、しかもそれがかなりの核になっていたからだ。あのとき私は「さわやかだ」という感想を書いたけれど、最初にみたのがこの版だったらそういう感想はもたなかったと思う。

こちらの主人公、梅澤くんの童貞さは、加賀くんの童貞さとは違う。もちろん人それぞれなんだろうけど、加賀くんの場合には、気持ちと頭が寄り添わない「不器用さ」みたいなものを感じたのに対して、梅澤くんの場合はどことなく、これは無関心なだけなのではないかと思う。アイドルのスクラップをつくることが趣味で、そのためにゴミ収集の仕事につき休日はブックオフを巡る、彼の生活は充足して見えるし、その情熱の当てがすでにあって、女性に向けられてるわけではないんだなとか、思う。かつて好きだった女の子とデートする場面で「映画の見過ぎだよ」といわれる意味がやっとわかったような気が、する。

映画の後に、今日舞台挨拶にくることができなかった梅澤くんの映像が流れたのだけど、2の冒頭ですっかり女なれしてしまったかに見える加賀くんの変ぼうぶりとはまた違う、たぶん「演技」の中でこそ自由でいられる人なんではないかとか思ってしまうような自然さがあって、なんていうか人間て面白いなと思う。

次はなんとユーロスペースで上映されることが決まったそうです。

舞台挨拶で客席を見て、言葉につまる監督の姿を見て、ああ今日見にきてよかったなと思いました。

2007-09-14

[][] translucent彼女は半透明 全5巻/岡本一広

発病の原因も治療の方法もまったくわかっていない

「そのかわり透明であること」以外健康面では異常はない

珍しいけど世間ではけっこう知られている病気

健康保険だってきく

そして多くの場合 身体の透明部分は拡がってゆくんだそうだ

1巻より

透明病の女の子と、彼女が気になっている同級生の男の子の物語。気持ちがすっとするような、おだやかでやさしい作品でした。

物語の鍵となるのは、やはり主人公の白山さんの透明病が進行してしまわないかということなんだけど、その病気が病であるという次元をこえて、彼女を彼女としてみる男の子、唯見マモルという少年がとてもよかった。ほかにも、出てくる登場人物はみんないい子で、透明になりたいと願っていた生徒会長の、あのストイックなまでの誠実さにも、うたれるところがあった。

透明になる、ということは自分の存在自体があやうくなるということでもある。私は本当にいるの、と白山さんは自問する。

しかし、物語が続いていく中で、関係や、記憶、そういうものの中にも白山さんの存在があることがちゃんと見える。

そして「触れる」ということの特別な感触の描き方には、この物語だからこその切実さがあって、ぐっときます。この形の外にでられないという意味では、透明な白山さんもマモルも同じで、でもだからこそ、手をつないだときの、その感触で伝わることがある。

あまずっぱいなああ、とにこにこしちゃうようで、最後はしっかり涙腺を刺激されてしまった。

「あたしが全部透明になっても、あたしの顔、忘れないでね」

[] 夜/まよう

気がついたら電車をおりていた。渋谷だった。それじゃあ映画を見ようかと思い、ついいつもの癖で携帯をとりだしたが、今のこの代替機にはいつもの映画予定表は入っていないのだということを思いだし、立ち止まる。途方にくれる。とりあえずCDでも見るかと思ってセンター街のHMVに行ったけれど、探していたものはなかった。いくつか試聴してTAPEっていいなあ、なんて思いながら聴いて、まよって、一枚だけ買って出る。

でもどこかで「サッドヴァケイション」みたいなと思っていて、いつのまにかライズに向かっていた。時刻表を見るとちょうどはじまったところだった。二度見した。15分すぎ、ということは予告も終わっているだろう。まよって、でもちらっとでもはじまってしまってるのはやだなって、やめる。

PBCに向かう。本はいいね…と脳内で言ってみてからそれがカヲルくんだということに気づいて脳がまずいねと思う。だけどべつに誰も聴いていない。じゃあいいじゃんねと思いながらふたたび、本はいいね…と思う。まだまだ欲しい本読みたい本があるというのは安心する。夜中についったで読んだ詩のことが頭に残っていたので、「厄除け詩集」を買う。そういえば「人生処方詩集」とタイトルのイメージが似ているような気がする。今は、処方されるよりも、厄除けを持ち歩くほうがしっくりくるかもしれない。平和だから。まよって、やはり平和だと思う。

2007-09-13

[] レシート問答

コンビニのレシート入れが嫌いである。

理由は簡単でレシート未渡しによる後々のトラブル回避のためにお客にレシートを渡してあとはお客の責任で捨ててくれよ、店側はちゃんとレシート渡したからな! っていう店舗側の免罪符てきメンタリティがいやだから……などではもちろんなく、

http://chaosroute.g.hatena.ne.jp/./nekoprotocol/20070913/1189659350

かきかけ、と書かれてある文章を引き合いに出すのも申し訳ないのですけども、確かにレシートは免罪符てきメンタリティのもとに渡されていた。少なくとも私の働いていたCD屋では。

というのも、CDやレコードはわりとプレイヤーの状態に左右され飛んだりすることもあるので、返品交換が頻繁にあり、その際にレシートの提示を求めていたからだ。中古販売もやっていたから、レシートがないと新品と中古の区別がつかなかったりもするし、中古は盤の状態によって値段もまちまちなので、レシートがないと返品金額もわからない。

例えばこんなことがあった。お客さんがブラックビスケッツ(時代を感じますね)のシングルCDを持ってきて、こういった。

「これ、中身が違うんです」

(中身を確認して)「いえ、これであってますよ?」

「違うっていってるでしょ! かけてみなさいよここで。日本語じゃないから!」

覚えてる人がどんくらいいるのかよくわかんないんですけど、ブラックビスケッツは確かビビアン・スーが歌をうたっていて、台湾版も発売されてたんですよね。で、そっちを買っちゃったんだなってわかるんですけど、それを説明するも納得してもらえず。しかもその人はレシートを持っていない。おまけに新品では台湾版入荷していなかったのに、新品で買ったと言い張る。

とまあ、こんなやりとりも日常茶飯事だったりしたわけです。常連さんとかには、ある程度融通きかせたりもしてたけど、一応レシートないと受け付けません、てことにしとかないと、際限なく返品交換受け付けることになりかねない。

そしてある日、中古CDを買い、レシートをカウンターに放っていったお客さんの背中に向かって、私はいつものように「レシートはお持ち下さい」と声をかけた。すると、その習慣的な台詞にたいして「いらねえっつってんだろ」という返事がかえってきた。パンクっぽい服装で鋲付きのリストバンドした男の子だった。

当時、わりかし血の気の多かった私は、すぐにカッチーンときて、

「返品、交換できなくなりますけどよろしいですか?」 と言い返し、彼は彼で 「じゃあこれがあればいつでも返品できんだ?」 と詰め寄った。

「それなりの理由があればですけどね?」

「どーやって判断すんだよ」

ここで私は、うんまあ確かに。と思ってしまった。中古品については、いくら検盤してもらったところで、お客さんが「自宅のプレイヤーでかからない」と言うなら不良品になってしまう。それがほんとか嘘かなんて、お客さんを信じるしかないのだ……。

しばし見つめあう。そして彼は、こう言った。

「……返品するつもり、ねえからいいよ」

正直、ときめきの導火線に火がつきましたよ。

まあそんなで結局彼はレシートは受け取ってくれなかったんだけど、その後わたしもいろいろ考えて袋にいれるとか中古の場合ケースにいれちゃうとか、いろいろルールができたり消えたりしていって、最終的に残ったのはやはり「レシートがないと返品交換できなくなりますよ」と説明することだった。

もしかして、この先数年で電子マネーが普及して、ある程度の履歴が閲覧できるようになったりすれば、解決する問題なのかもしれない。

でも、ああいったやり取りがなくなるのは惜しいような…ってそんなこともないか。それはそれで快適でスムーズなお会計ライフだろう。そのときまで、お財布レシートでぱんぱんにしときます。

それにしても今思い返すと自分は店員として失格すぎますね。ごめんなさい。いまはだいぶ丸くなったと思うよ…。

[] 遅刻しなかった日記

新学期になって、通勤時に使うバスは学生服で溢れている。路線に3つも学校があるせいで、バスに乗れないという事態がたびたびおこるのだけど、長い夏休みのせいでカンが鈍っており、今朝もわりとぎりぎりの時間に出たら、バスに乗れず、かなりあせった。駅について会社に電話をする。遅れるかもしれません、といい、遅れるつもりで電車にのる。

会社の最寄り駅について、地下から地上へでると、セーラー服の中学生と思しき集団がたまっていて、あちこちをむいて、信号まちをしていた。引率の先生は水色の服を着ていたから、体育の先生だと思う。体育の先生とはそういうものだ。数人の女の子が輪になって話しこんでいる脇にいる私の立ち位置は、まるでその輪を構成する一員かのようだった。彼女たちのピカピカとした生命力みたいなもののそばにいると、通勤ラッシュでぼろ切れのようにつかれきった気持ちがふくらんだ。日向で発酵をまつパン生地みたいに。

「東京だねえ」と女の子はいった。「そうだね」ともうひとりの女の子がいった。わたしもつられてビル群を見上げる。そうかここは東京か、と思う。少しだけ早足になって、会社に着いてみると、時間はいつもどおりだった。

2007-09-12

[] 携帯写真名誉回復運動に参加します!

さて皆さん、友達に送るわけでもなく、撮ったはいいものの、使い道もないなぁ、あるいは、撮ったことすら忘れていた……というような、皆さんの携帯電話の中に必ず数枚数十枚は入っているであろう、一見なんの意味もないような、しかし100年200年の長期的なあれで考えるならば、きっと後世にとっては貴重な歴史的資料となるであろう(←と、大風呂敷を広げてみました)、「このままだと捨てられてしまうだけだよ」写真を、ワタクシ不肖平民金子に(せめて写真を消してしまう前に)見せていただきたい!

「平民新聞 - 携帯写真の名誉回復に向けて」

この平民さんの携帯写真名誉回復運動に参加したい! と思ったはいいけれど、私の携帯電話はいろいろあって*1現在療養中につき、手もとにあるのはデータフォルダからっぽの代替機のみ。

くやしいなあ、なんてあきらめかけてたところで思い出したのが、先代の携帯電話のことでした。V601T。はてなで日記を書きはじめてからの約2年半は、この携帯カメラと共に過ごした2年半でもありました。そして私はこの携帯と別れてから、携帯写真をあまり日記にのせなくなった。というのも、新しい携帯のカメラが気に入らないからなんだけど。

つい数カ月前に折れてしまったV601Tは、つなぎ目の配線丸見えだけど、まだかろうじて電源はつく。

それじゃあ、この携帯に残ってる写真を全部あげてしまおう。そう思い立ち、折れたつなぎ目をどうにか固定しつつ、データフォルダを見てみると、思いのほかたくさんの写真が残っていた。それを赤外線通信やらを利用してどうにか移しきる。

もしかしたら一度日記に使ったことある写真もあるかもだけど、気にしない。以下、二年半のダイジェストです。

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写真を整理しながら、今まで忘れていたのに、見るとこれらを撮ったときのこと不思議なくらいよく思いだせて、面白いなあと思う。

さよならV601T。これでほんとにさよならだ。

ところで

上の写真の中に、一枚だけV601T以外で撮った写真が混ざっています。

どれだかわかるでしょうか? わかったら面白いな。

追記

ブクマや反応くださったかた、ありがとうございました!数名の匿名さまにポイントまでいただいてしまった…。恐縮です。とてもうれしいです。

さてさて、V601T以外でとったやつどれでしょう…ということうえにちらっと書いたのに平民さんが答えてくださってたので答えをかきます。

2007年09月13日 heimin (・ω・)ノ写 ライオンの写真がすごく好きだなあ……背景の写りこみぐあいも絶妙!んで、個人的にもっとも携帯写真っぽくていいな、と思うのは恐竜の人形が落ちてるやつ。花火か蜂の写真だと予想!(←V601T以外)どうでしょ!

ライオンの写真はボウリング場ですね。携帯かまえたわたしの手もともうつっちゃってる。恐竜のやつは、この日(id:ichinics:20060420:p2)にとったやつなんですけど、あらためて読み返すとちょっと心配になる日記だ…。ひまなときはよく撮った携帯写真眺めながら三題噺とか考えるのすきなんです。

さて、肝心の(?)V601Tがどれかというと、残念ながら花火も蜂もV601Tです。花火はそういえば上の中で一番古い写真だな。

正解は、電車の中で寝てる人の写真。こればっかりはとった自分に驚いちゃいますが、新しい携帯になってから酔っぱらった帰り道で撮ってた写真です。お酒こわいね。なぜかメールに送ってあった。扱いに困ってたのでまぜてみました。

ともかく携帯写真公開は見るのもやるのも楽しかった! 平民さんありがとう! 新しい携帯帰ってきたらまたやりたいなーとか思ってます。

2007-09-11

[][] ジェイルバード/カート・ヴォネガット

ウォーターゲート事件の巻きぞえを食って囚人の身になった主人公、ウォルター・F・スターバックの回想録という形で」*1語られる物語。

思い付いたことから片端にしゃべっているかのようなステップで時間のモザイクを描いてみせる、その語り口は見事としか言い様がなく、物語るということは、時間の流れを説明することではないのだということをあらためて考える。

そして、この主人公の造形もまた、ヴォネガットならではだと思う。例えばこんな言葉がある。

この自伝を書いていていちばん恥ずかしいのは、わたしが一度も真剣に人生を生きたことがないという証拠の数かずが切れ目なくつながっていることである。長年のあいだにわたしはいろいろな辛酸をなめたが、それらはすべて偶発的なものだった。わたしが人類への奉仕のために自分の生命を賭けたことは、いや、自分の安楽を犠牲にしたことさえ、一度もなかった。みっともない。/p247

せつない。意志と心はえてしてひとつになれないものであって、そのどちらもがふたしかだからこそ、好悪のような感覚に流れる。

中盤、主人公がかつての恋人、メアリー・キャスリーン・オールニーと再会するところから、物語はがぜんアップテンポになる。そして彼は、彼女の言葉によって赦される。

赦されることで、彼は変わるだろうか?

わからない。その後も相変わらず、易きに流れているようではあるけれど、回想の終わりにはとても味わい深いものがあって、私はこの小説の半分も理解できたかわからないけれど、彼が繰り返す「長生きは勉強になる!」そのひとことを信じて、いつかまた、と本を閉じた。

[] 四次元ポケット

これまでの記憶を、書くということで頭の外に出そうとしたら、たぶんこの先の一生を費やしても足りない。ということを今日考えていた。

つまり、文字というのはもともと足りない部分のある道具だからどうしても影ができるし、しかしそれは足りずに成り立てるということでもあって、だからこそ、具体的な出来事というよりも記憶と考え中のことがごっちゃになったようなことを独り言みたいに書きはじめてくのはとても楽しい。うまくやれば、いくらでも時間軸から垂直にのびていけるような気がする。透明のレイヤーにどんどん色をのせていくような感覚で、視界をかすめた何かを、思い出すように、目を凝らすように、輪郭をとって、それまでの記憶をこれからの風景につなげられればいい。その感じは、楽器を触ることに少し似ているかもしれない。音楽になる、ちょっと手前の。

ただ、その素材はいつも私の見た、聴いた、触ったものの中にあって、だから外に出す、ということだけではいられずに、時間を先に進め、新しいものを見たくなるんだろう。

出来上がったものが、自分の思い描いたとおりに見えるかどうかはわからないし、それはすでに私の見たものとはかけ離れている。でも、もしかしたら誰かの記憶の中に、あるのかもしれない。だったら楽しいのにね、と思う。

*1:あとがきより

2007-09-10

[] 東京ボロフェスタ

京都のイベント、ボロフェスタの東京出張版にいってきました。

やーほんと楽しかった!ほとんどのバンドでおおはしゃぎできるイベントなんてなかなかないよなあーていう多幸感かみしめつつ、3時から22時っていう長丁場もあっという間に感じられるくらい、充実したイベントでした。しかも私、今日出てたバンドはほとんど初めてみるバンドばかりだったんです。それなのに、あっというまに入っていけるこの雰囲気。あーライブっていいですね。

以下長々と感想書きます。

ゆーきゃん

携帯の修理依頼に手間取って、着いたときにはゆーきゃん終わりかけでした。でも入って一瞬でわかる、このやわらかい会場の雰囲気は、このひとの雰囲気でもあるのかな、とか思う。もうちょっとちゃんと聴ける時間あればよかったのだけど。残念。

nhhmbase

涅槃ベースて読むんでしょうか。初めて聴いたバンドなんだけど、すごく好みだった。ボリュームある音なのに、とにかく音がクリアなのが印象的。変拍子の輪郭を描く「動き」もいいし、その乗りにくいリズムを四人(ツインギターベースドラム)が完璧に共有してる感じにぐっとくる。DISCHORDっぽい音、とも言えるかもですが、そこに乗るボーカルの繊細な声も独特で、色のあるバンドだなと思いました。MCも楽しいし、またライブでみたいな。

http://www.nhhmbase.com/

タカツキ

SMRYTRPSなどでも活動されてるタカツキさんのソロはウッドベース弾きながらのライミング。同じ月を見ていた、という歌詞があって、同じ月は同じ月でも、同じように見えるかどうかは別なんだよなあとかいうことを聴きながら考えていた。…というのは別にあげあしとりとかではなくて、そのことに気付いたとき(今日ではない)なんか不思議な気がしたから。

FLUID

京都を中心に活動しているというFLUIDさんも見たのは初めて。うん、かっこよかったです。3ピースバンドでここまで音圧あるってのにまずびっくり。アニメ好き、という前フリがあったからかもしれないけど、どこかアニメのサントラ的なキラキラ感/ポップさがありつつ、つんのめって走り抜ける様がかっこいい。ライブバンドだなーって思いました。

http://www.myspace.com/fluidjapan

ゲントウキ

ボロフェスタ丼(九条ねぎととり肉のマヨネーズいためみたいなのがかかった丼)を食べつつ座り込んでみる。いい声です。そしてご本人も音楽は声だと思う、ということをおっしゃっていて、その点方向性のブレてないバンドなのだなあと思う。丼おいしかった。くつろげました。

イルリメ

東京ボロフェスタはnestのバーフロアと階下のライブステージとで交互に行われていたのだけど、イルリメだけは我慢できなくてバーフロア戻ってセッティングから見てた。この前UNITで見たときは目が悪すぎるせいでよく見えてなかったのだけど、ああ鴨田さんはこんなひとだったのかあ、とか思ったりしつつ(半分恋ですね)じっと見る。

イルリメ・ア・ゴーゴー」というアルバムを最初に聞いてから、私には夢があって、それはあの、アルバムを聞いた時に思い描く最高のライブを体感してみたいってことなんですけども、それはもうイルリメさんだけでなく、見てる人の雰囲気とかもすごく近く関わってくることだから、限りなく近付くことはできても、ほとんど奇跡的な確率だと思うんです。でも、だからこそ自分も照れずにはしゃごうって思うし、イルリメさんがパイプ椅子の上に立って観客見下ろしながらみせた、あのうれしそうな笑顔で、それが許されてるような気がする。今回も、私はほんと「イルリメ・ア・ゴーゴー」っていうアルバムが大好きなんだなあ、ってうっとりしちゃうようなライブで、ほんとうにすごく楽しくて、でもまだまだいける気がする。とか思っちゃうのは聴く側のごう慢だけど、それはつまり、もっともっと見たいってことなんです。満腹になっても、まだ食べたい。

THE BEACHES

イルリメの熱気覚めやらぬままビール片手にビーチズ開始。これもすごかった。ものすごく楽しかった。南国ミクスチャーとでもいえばいいんでしょうか。キラーチューンのめじろ押しって感じで会場も大盛り上がり。アルバムかいたいなーって思ったけどお金なかったので後日にしたけど、やーほんと楽しかったとしか言い様がない。楽しむための音楽って感じでした。満喫した!いつか野外で見てみたい。

http://www.thebeaches.jp/

http://pc.music.jp/product/detailartist.aspx?aid=679

赤い疑惑

ボキャブラリーの貧困さにがっくりしますが、これも楽しかったとしか言い様がない。弱腰ハードコア…ていうのはちょっと違うなーなんていうんだっけこういうの。グランジ? まあわざわざジャンルに当てはめなくてもいいんだけど、ギターの音触とかすごく90年代っぽいんだけど、見た目や歌詞とあわさると全然いつだかわからない。それなのにバランスのとれた、不思議な佇まいでした。自虐的とポジティブ行き来する詩と、適当(失礼)なコーラスも魅力。うーん、うまいこと形容できないのが惜しいんですけど、それはボーカルの人が小学校のときの同級生にそっくりでちょっと気もそぞろだったからかもしれません。(けど名前確認したら違った)

http://www.akai-giwaku.com/(←長い自己紹介とか楽しい)

Ultra Jr.

Limited Expressのギター、ニーハオ!のドラム、そしてUltra bide の人が結成したバンド……と書いてありますがすみません全部知らない。けどかっこよかったです。ベースの人の暑苦しいパンクとギターの人の曇りっぱなしの眼鏡とドラムの人の、激しいプレイしつつ時折絡めるかわいい声にぐっときた。ってすごい失礼な感想ですけど、ほんとかっこよかったんだよ! 失礼ついでにもういっこ書いてみると、バンド名がもっと印象的だといいのにと思ったよ!ビジュアルも音もキャッチーなのにバンド名にフックないのが惜しいなとか思ったりして、てのは私の勝手な好みですが、そんなよけいなお世話なこと思ってしまうくらい気に入ったっていうことです。またライブみたい。ところでドラムの人の声聴いてたらフラメンコアゴーゴーとか思い出したんだけどどうしてるんだろう。

http://www.myspace.com/ultrajr

というわけで

ライブ後はDJタイムで解散。汗だくで早く風呂はいりたいーとか思いながら帰宅しました。ほんとうに、いく前は長丁場で体力持つかなとかそんなことばかり考えていたんだけど、いざ行ってみたらあっという間に感じてしまうようなイベントでした。ぜひ来年も東京出張してほしい。そして朝霧とかぶらないならば京都ボロフェスタも行ってみたいです。ありがとうたのしかった!

[] リラックス

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なんか文字ばっかりでうっとうしかったので日付けとまったく関係ない写真をあげてみます。台湾いったときに見た、耳のお灸みたいなお店。手作り感溢れる装置の仕組みがよくわかりません。プラスチックみたいだけど溶けないのかな…とかいろいろ気になりますが、改めてみるとかなり気持ちよさそうだなー。

2007-09-09

[] まっすぐすすめない

ここから、そこまで、どのように進むかを先に考えて、その通り歩くことばかりを繰り返してるのがなんとなく息苦しく思えることもあれば、逆に、何も考えずにぼんやり歩いていたらいつの間にかよくわからない場所に出ていた、ということもあって、その感じはどこか、考えることに似ている。

ある一つのことを、いろんな方向から見ているときというのは、いくつかの考えでそのモチーフを支えながら眺め回すような感じでとても集中しているのだけど、そのモチーフ(というようなたいそうなものではないけど)を思い付くのはだいたいぼんやりとからっぽでいるときが多い。そして、シャボン玉が割れるときみたいな自然さで、ふいに現れるそれを、できればある一定の方向へ向けるということはしたくない。ある結論があって、そこに向かう道筋をみつけるというのもパズルみたいで楽しいけれど、それはいわば仕事のようなものであって、偶然の感覚に頼りたい、と思うときの、その偶然はつかもうとすると逃げる。

たぶん、日常のほとんどはある結論に向かう道筋にあるようにしか見えない。そして、いったりきたり、見えたり見えなかったりする、それを追いかけることも、つまり道筋を探そうとすることなんだと思う。

でも、もしかすると、道なんて探さなくてもそこにあるものなのかもなあ、ということを、今日ふいに思ったりした。目の前にあるものを、もっとちゃんと見てれば、行けるとこには行ける。そんな気分です。

[] ピアノと虹

むかしから、ピアノの音に弱い。

ひなたの、なつかしくて遠くて近い、あの感じは、どういうピアノからどんなタイミングで聞こえてくるのかわからないけど、今日聴いたあのピアノは、たしかに眉間に触れるような「あの感じ」で、遠いのに近かった。

それは例えば、親密さのようなものだと思う。距離や時間じゃなくて、ただその音だけがつなぐ風景のようなもの。

いくつもあった、その場をつないで透かして映る、虹のようなもの。

窓の外を流れる緑色を、きれいだと思ったのに言えなかった、いつかの午後のようで、目を閉じると少し滲む。

2007-09-08

[] 迷子

幼い頃、一年だけイギリスにすんでいたことがあって、その頃の写真をみるといつも真っ赤なフード付きのジャケットをきた丸い顔の私が不安げな顔でこちらを見ている。

それはカメラを構えている父親、ないし母親が、そのままどこかにいってしまわないかという不安だった。というのも、イギリスに暮らしている間、私は三度も迷子になり、そのうち一回は寝ている間の置き去りだったため、すっかり疑り深くなってしまったのだった。

最も印象に残っているのは、町外れにあった朝市でのことだ。まだ眠かった私は、母親に手をひかれ、半分うとうとしていたような気がする。歩きながら眠るのが、私の特技だった。そしてふと気付くと、握っていたはずの母親の手を見失っていた。視界は見知らぬ人のお尻で占められ何も見えず、聞き取れる言葉もなく、いまにも足裏にでこぼこしている石畳がぱっくりと割れ、地下に引きずりこまれるような気がした。それはもともと母親と散歩しているときの「遊び」の設定だったのだけど、一人になったらそれが本当になるような気がして、足がすくんで動けなくなった。あのぞっとするようなかなしさは今も忘れられない。

泣きじゃくるしかなす術のない私を助けてくれたのは、白衣をきたチーズ屋のお兄さんだった。言葉は通じないけれど、たぶん英語で呼びかけてくれたのだろう。日本人なんてめずらしい町だったし、市場自体それほど広くなかったからか、すぐに母親は見つかった。

しかし母親は何を思ったのか、私を見つけて大笑いした。その態度に、私はすっかり裏切られたような気持ちになって、チーズ屋のお兄さんの手を離すもんかと思った。あの、分厚くて白くて金色の毛が生えている手は、まるで神様みたいに頼りがいがあった。

その時の私の顔は、たぶんこんな感じだったと思います。

http://d.hatena.ne.jp/./heimin/20070908/p1

アルパカ。

[] おいしいご飯を食べにいった

突き出しは、エノキとモロヘイヤの梅あえ、だったような気がします。あまりにも空腹でぺろりといただいてしまったため、モロヘイヤだったか自信がないのですけど、サッパリとした和え物にとろみがついている感じは夏の終わりを思わせたりしなくもないなあと、たった今おもいました。

その後、カツオだしのドレッシングとしっかり味のついたジャコがおいしい水菜のサラダや、どっしりとした加茂茄子にウニを盛り、あんかけにした夢のような一品、トウモロコシの粒感がたのしいしんじょ揚げに、二度三度おいしいひつまぶし。脂ののったサンマの刺身は軽くあぶって香ばしく、ああそういう季節になったのだなと思う。食べ物がおいしいとお酒も軽快にすすむもので、あんまり味を思い出せないのが惜しいのですが、最後にでてきたメンチカツの、割ったとたんに肉汁の溢れ出す様は、感涙ものだったなと、今朝起きて一番に思い出しました。おなかがへった。そろそろ食欲の秋です。

[] 急降下急浮上

久々のいい天気だったので、布団を干したり洗濯したり、布団をとりこんでシーツかけて寝転がったりしてたら、いつのまにか家でる時間過ぎてて、あわててUNIT(UNIT 3rd Anniversaryというイベント)へ向かう。

着いて即ビール、はお決まりコースで、ASA-CHANG&巡礼を遠巻きに見る。いい感じだった。が、なにも見えなかった。でもいい感じだった気がします。なんか文明開化みたいな音がしたとこがよかった。

その後、会場で落ち合った方々と乾杯したりモバツイのぞいたりしつつ、メルツバウ。すごい音だった。動いてないと足痛くなってしまう気がして、うろうろしつつ見ていたのだけど、なんていうか、ステージ上から押し寄せる異次元という感じでした。

……と、感想がどこかうつろなのは、メルツバウ中にいったお手洗いで携帯電話を忘れてきてしまったからなんです。

すぐ引き返して見にいったのだけど、もうなくて、あらかた聞いて回って、でもない、という段階でゾッとしたのは携帯に入っている個人情報の数々のこと。ある程度のお金で解決できる(機種変更とか)ことならいいけど、携帯電話ってのは自分だけでなく自分の知り合いの情報もたくさん入っているわけで、それが万が一 ……なんて想像しただけで恐ろしい。

でもそんな悪い人なんていないよね……と信じることにして、とりあえずはライブ終わるまでじっとしてることにしました。もう一回見たいって思っていたCORNELIUS GROUPのライブはやっぱりよかった。なのにどこか落ち込み気分で、盛り上がりきれず。完全に自分の責任です。

最後に大きな落とし物したのは、たしか7年前くらいに下北の店で働いてた頃で、そのときもお手洗いに財布忘れてきたんだった。気付いたときは一人店番タイムで、とりにいけず、後でいったらもうなくて、泣けてしかたなかった。

でもそのときも、結局財布はでてきたんだよね。そして今回も、コーネリさん後に聞きにいったら、きちんと保管されていて、あああああああ!と叫び出したいくらいほっとした。

ま、壊れてたんだけどね。そんなのどってことないです。なくすことに比べれば、修理する手間なんてもう。

というわけで、この日の教訓は

  • 携帯はなくしたら大変。
  • 忘れ物しないように、ちゃんと持ち物確認する。
  • すごくへこんだ後は、そこから回復できただけでものすごく幸せを感じる。

私が今日もいい気分なのは、携帯を届けてくれたあなたのおかげです。感謝。

heiminheimin 2007/09/10 19:52 いえいえ。ぼくは当たり前のことをしただけですよ。
(・ω・)ノケータイ

ichinicsichinics 2007/09/11 00:07 携帯届けてくれたのは平民さんでしたか! ありがとうありがとう! この御恩は忘れません。(だから女子トイレにいらしたことは秘密にしておきます…!)

2007-09-06

[] Tokyo/Yuji Oniki

TOKYO

TOKYO

NY生まれの日系アメリカ人シンガーソングライター、Yuji Onikiの今年でた今のところの最新作。Mixで参加している益子樹さんをはじめ、参加アーティストが好みだったのと、ジャケットの雰囲気が気になって買ってみたのですが、イメージしていた音とはずいぶん違っていて驚いた。もうすこし、泥臭い感じを想像していたんだけど、流れてくる歌声も、音づくりもとても上品で、洗練されたアルバムだった。

特に印象に残るのは、冒頭2曲が結末に戻ってくる構成になっていること。流れるような弦の音は、まるで笹舟のようなりんとした軽やかさがあって、同じメロディラインの中にも異なる風景を描く。これを、野外フェスの、夕暮れどきに聴けたりしたら最高だろうなあ。

引きずるようなメロディラインに、かつてのネオアコ〜オルタナのイメージを重ねつつ、90年代後半の60'sリバイバルにあったストイックさを思ったりする、懐かしい雰囲気ながら、退屈なところのない良いアルバムだと思いました。

スモーキーなヴォーカルの開ける瞬間には、ぐっとにおい立つような魅力があるし、勝井祐二さんのヴァイオリンと絡み合うとまた独特な質感になる。例えばコリン・ブランストーンやエミット・ローズが今アルバムを出したら、こんな雰囲気になるんじゃないかなんて思ったりした。

HP → http://yujioniki.com/

試聴もできる→ http://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendID=42767025

[] 夏の終わり

台風がきた。ばたばたと仕事終わらせて、久々に8時なんて早い時間に帰宅したのだから、何かしよう何でもできる、とおもうのに、何にも手につかない。本を開いても、風にあおられた雨の音に、せかされてるみたいで、おちつかない。

なのでなんとなく、いただきものの栗をゆでで、あつあつのを頬張り、まるで芋だねなんていってみたり、ぬるいままの梨をむいたりふるまったり食べたりしているうちに、なんだこれはすっかり秋じゃないか、とおもう。

たぶんきっと、この台風が過ぎればそこには秋がいるのだろう。食欲の秋、読書の秋、私のうすぼんやりした頭のなかも、秋晴れになってくれることを願って、今日はもう眠る。

あこがれの人だといっていた。ダルデンヌ兄弟の新作が公開された折に、映画館でばったりでくわして、映画よりもそのことがうれしかったと、本当に、うれしそうに話していた、あの顔をまず思い出して、わたしはいままでずっとそれを自分で決められることだと思っていたけれど、いまあの人が何を思っているかを想像するだけで、あらためて気付かされることがあって、その広さ、編み目のような複雑さに、こころもとないような気持ちになる。あると掴みたくなる。あたりが真っ暗であるうちはなにもこわくはないのに、明るく、その地面がほんの数十センチ四方しかなく、しかも地上から何メートルも離れているということが目の当たりにされることではじめて頼りない気持ちになるみたいに。

つまり見えてないうちからそれはあった。それでは、ない、ということはどういうことか。ない、を想像することの出来なさは、ないのないを照明していないだろうか。

だから、なんて言うつもりはないんだけど、要するに私が思いえがけるのは手の届く範囲のことで、かといってその向こう側がないわけではないということだと思う。たとえば、写真や映像を見て、その眼をかりているような気持ちになるときみたいに。

2007-09-05

 香港の猫

f:id:ichinics:20070905010315j:image

ほったらかしになってたフィルム現像したらでてきた。香港であった猫。動物も、国ごとにすこしづつ顔が違うような気がする。

[][] 「笑えない理由」/望月花梨

望月花梨さん再読週間続いてます。

笑えない理由 (4) (花とゆめCOMICS)

笑えない理由 (4) (花とゆめCOMICS)

笑った顔がとてもかわいいといわれていた女の子(かな子)が、意地っ張りな男の子(秋庭)に「ブサイク」と言われたことで笑えなくなってしまう。そんな二人が再会するところからはじまるお話です。

よく考えたら「君に届け」の爽子ってだいぶ「笑えない理由」のかな子ににてるなーとか思いながら読んで、やっぱりふたりとも、コンプレックスが卑屈に見えないのがいいとこだよなあと思った。でも私が「笑えない理由」を読んでいていちばん好きなのは、やっぱり秋庭君の描かれ方だなと思う。かな子がかわいいから、秋庭君の気持ちがよくわかるし、秋庭君がすごくいいやつだから、彼を好きになる麗子の気持ちも切ない。

だんだんと、かな子が笑うのが、うれしい、そんな気持ちになれる漫画だった。誰かにいわれた一言が、コンプレックスになるってことはあるよなと思う。それがこんなふうに解消されるのなら、幸せなことだろうな。

それから3巻に収録されていた短編「傷あと」がとてもよかった。

「本当のことって どうやって言ったらいいんだ?」

と自問する主人公佐保の、四つの傷をめぐるお話。肝心なときに何も言えなくて歯がゆい、あののどの奥が苦しくなるような感じを思い出す。

笑えない理由 (1) (花とゆめCOMICS)

笑えない理由 (1) (花とゆめCOMICS)

[] むすんでひらいて

いいたいことはたぶんひとつなのに、それを誤解なく伝えるためにたくさんの言葉を使って、結果あやふやになって、そしてさらに、誤解があったかどうかなんて確認する方法もないんだということに何度も気付いて、それなのにまた選ぶということを繰り返して、たくさんの言葉を散らかして、いつのまにかその組み立て作業のほうが楽しくなっていたりもして、だから私はこうして毎日日記ばかり書いているのだろうし、それが好き、だといえるんだけど、面と向かって話をするということの面白さというのは、それが言葉からはなれていくようで、だからこそあやふやになった最初のひとつが、みつけやすくなるということかもしれない、なんて思った。ピース。

2007-09-04

[][] ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

学生時代は、周囲にアニメがすき、と公言することをためらっていた私はたぶん自意識過剰で、それでもエヴァは唯一人前で話題に出すことができたアニメだった気がする。再放送されるたびに、録画ビデオがまわされるたびに、どんどん共通認識になっていくあの物語の、どこに私が思い入れてたかといえば、子どもがロボットに乗って戦うという、そのことの描き方にだと思う。あのネガティブさっていうか、正義とかそういうのとは、かけ離れたところにある戦いが新鮮だった。キャラクターにはあまり思い入れがないし、物語の深読みとかもあまりしなかった(というかできなかった)。ただ、エヴァが暴走したり、使徒の動きの気味悪さだったり、エントリープラグ内を満たすLCLの感触を想像したりということでぞくぞくしていた。特に初号機の動きが好きで、ヴェルディの「Dies irae」が流れるときには鳥肌すらたった。なんでかわからない。けど、あの生物っぽさにはゾクゾクするような気持ち悪さがあって、その漠然とした感触は消化されないままだったので、今も特に言葉にしようとは思わない。

とにかく、今回の劇場版を見るにあたっても、事前情報をなるべく耳に入れないように、とか気を使ってしまうくらいには思い入れのあるアニメで、久しぶりに見るシンジ君の情けない顔が画面に映っただけで、もう自分の意識も10年前に戻っていたような気がする。

エヴァのすごいところといえば、そんな風に、とても多くの人にとってかつての自分と直結した思いでになっていることだと思う。そして、すでに思いでになってしまっているこの感じを上書きするのには正直ためらいもあった。

けれど、ああ、こういうことなのか、と思って見て、つまりたいていの(公開直後に劇場版を見にいくような)人は前情報として知っていたように、TV版の総集編のような形で制作されたこの「序」はあのヤシマ作戦までを描いたもので、見たことのないカットにすぐ気付ける自分に苦笑しつつ、でもやっぱかっこいいなあと思って見た。もちろん、もうシンジ君よりひとまわり以上年をとってしまった自分は彼の葛藤よりもミサトさんの処世術の方に視点をおいてしまったりとか、そういう変化はあれど、すっかり整理された演出には好感をもったし(それはやっぱり庵野監督と相性のいい鶴巻さん効果なんだろうか)、堪能した。かつて感じていた以上に普遍的な物語だと思った。そんなふうに、ちょっとは俯瞰できるようになったのはやはり十年経ったからなのだろう。

大きな仕掛けがありそうな気もするし、ないかもしれない。でもとりあえず、もう一度TVシリーズ見返したりとか序破急そろったら一気見したりとかは、するだろうな自分、と思う。先を追えるくらいなじみのある展開でも、そのくらいの勢いは相変わらず感じられたし、見終わった後にさんざん感想しゃべり倒してぐったりするくらい、楽しかった。

特に良かったのは零号機の暴走シーン。それからすっかりリニューアルされたラミエルの造形。そして、それに興奮する自分の感覚が懐かしくて既に新鮮だった。たぶん、その改新のさじ加減が、もっとも気の利いていた部分だと思う。続きが楽しみです。そして、できることなら裏切られてみたい。

それから

「さよなら飲むヨーグルト」さんの感想がとても良かった。

こちら → http://d.hatena.ne.jp/./yoghurt/20070902#p1

[] 鳥を持つ

鳥を持つ夢を見る。電車の中で、つい眼を閉じて、うたた寝にひきこまれていくときのあの、まぶたのうえをすべる光を手のひらに包むみたいにしてそっと、両手を柔らかく丸めて、鳥を持つ。少しくすぐったい。ぐるぐる喉を鳴らしているのが指先から伝わってきて頭までくすぐったいのはうれしい。けれど、壊れそうですこしこわくて、鳥の頭がひっきりなしにうごき、逃げようとしているのか、前へ前へ首をのばしているのを見て、ずっとこのまま、鳥を持っているわけにはいかないんだと思う。けれど、私の手のひらの温度と、鳥の体の温度が混ざりあうほどに、指を開くのが惜しいような、怖いような気がして、時折首を傾げる、その仕草を名残惜しく思いながら、

今度こそ、その暖かいうちに、うまく、手放さなきゃと思う。ちゃんと飛ばしたい。そう思った瞬間、指をはじくようにして跳ねた羽の勢いに驚かされながら、日の光と重なった鳥の影に眼がくらんで、天地反転したようなめまいとともに、やっと目が覚める。夢から抜けると少しあつい。まだ指が少し緊張している。

touka3touka3 2007/09/05 12:15 21日に当時の友達と一緒に見に行く約束をしたので未見ですが、あまり神経質にネタバレ避けなくてもいいかなって思ってます。
どうやら評判がいいみたいですが、今回はこちらも評判がよかったMG・∀と競わせて、どちらが勝ってるか見てみたい。∀って、まさか20世紀中に詠われるとは思いもしなかったエヴァンゲリオンへの返歌なので。

TV版25・26話こそがエヴァンゲリオンだと思ってる私はあまり今回の映画化に入れ込んでないんですけど、けど、今25・6を繰り返されたって全然意味ないですよね。本放送の1話を見た時には、最後に何かすごいものが来るのを予感しましたが(そしてその予感は当たったわけです)、今回のエヴァは時代を拓けるんでしょうか?

yoghurtyoghurt 2007/09/06 00:07 どうもです。僕も初号機好きでした。暴走すると口ががぱっと開くのが何とも野蛮で。今回の初号機は蛍光グリーンがお洒落でよかったです。

ichinicsichinics 2007/09/06 00:50
>>toukaさんこんばんは。ああ、やっぱ∀見なきゃなあ。いっつも貸し出し中なんですよね。私はTV版は中盤が好きなのですけど、25、6話については(この劇場版では)ぜひ新しい展開が欲しいなと思います。けど、展開的には特に新しいというわけではない今回の序も十分楽しめるということにまずは驚きつつうれしいような気もしました。
時代を拓けるか、というのは、今、一つの作品が時代を拓くことって可能なんでしょうかね。それは作品単位の問題というよりは、受け取る側の状況が変わったということだと思うんですけど、エヴァのような広がり方ってもうずいぶんみてないような気がします。でも、あったら面白いですね。それは、もちろんエヴァじゃなくてもいいわけだけど。

>>yoghurtさん、こんばんは。何か無理矢理召還したみたいで申し訳ないです。いつも楽しみに読ませていただいてます! 初号機はいいですよね…。蛍光グリーンもかっこよかったんですけど、やっぱあの紫づかいがたまらないです。もっと暴走してるとこがみたいな…。

yoghurtyoghurt 2007/09/06 06:34 無理矢理だなんて、とんでもない!むしろ、ご紹介頂きありがとうございます、と言いたいです。こちらこそ、いつも日記を楽しみに読ませてもらっています。ichinicsさんの文章のやわらかさが好きで、いつも参考にしたいと思っているのですけど、なかなかうまくいきませんね…。

ichinicsichinics 2007/09/06 12:58 そんな、もったいないことばを…(感涙)うれしいですすごく。わたしもyoghurtさんの文章とてもすきです。
あ、あと、かげながらyoghurtさんが朝霧チケットとれるよう願っております。とれたら向こうで乾杯しましょうー! yoghurt さんの主催するフェスっていうのもたのしそうですね!キャンプキャンプ!

yoghurtyoghurt 2007/09/07 23:56 ぜひ乾杯しましょう!

2007-09-03

[] 「A Man Called Destruction」/Alex Chilton

Man Called Destruction

Man Called Destruction

今日、ビール飲んでたらアレックス・チルトンの話がでたので、うれしくなっちゃって、久々にききなおしたらもう、やっぱりすごく好きでどうしよう。

Alex Chiltonを初めて聞いたのは、ソロアルバムででした。ほとんど一目(一聴)惚れで好きになって、BIG STARやBOX TOPSも集めたけど、かけるCD選ぶ時、つい選んでしまうのは、やっぱりソロアルバムだったりする。特に、93年の「クリシェ」と、この「A Man Called Destruction」ね。久々にきいたけど、やっぱぐっとくる。

特に好きなのが、「What's Your Sign Girl」っていう、星座占いの歌です。

What's your sign, girl

君の星座は何だろう

is it compatible to mine

僕と相性がいいかな?

なんて、いろんな星座の特徴を並べて結局相性いいよってことになる曲なんだけど、イントロのギターからもうキラキラしていて、なんていうか甘酸っぱい。

ライナーを見ると、「ジャマイカのシンガー、バリー・ビッグスが79年に全英チャートにランク・インさせている曲と同名」って書いてあるので、いつかそれも聞いてみたい。ただ、同じ曲なのかははっきりしないし、バリー・ビッグスのオリジナルかどうかも不明(Barry whiteにも同じ名前の曲があるみたい)。

とにかく、カバー曲でもオリジナルでも、このちょっと鼻にかかった歌声とゆるいギター、つま先立ちでステップ踏むみたいな、軽快なロックンロールはチルトン節ともいえる心地よさで、私は彼がカバーしている曲は、たいていチルトン版のが気に入っていたりします。

これ聞きながら踊れたらたのしいだろーなーと思う。小走りで踊りに行っちゃう感じの音楽。それなのに、私はまだ生でアレックス・チルトンを見たことがないのだった。

[][] 羽衣ミシン/小玉ユキ

羽衣ミシン (フラワーコミックス)

羽衣ミシン (フラワーコミックス)

なんてすてきな絵なんだろうって思う。

今日、ジュンク堂いったら複製原画展をやっていたのだけど、大きな絵でみても線がきれいで、いまさらながら、高野文子さんの系統なのかしらとか、思う。迷いのないしっかりとした線。

「羽衣ミシン」は、橋が好きな純朴青年、陽一のもとに白鳥が恩返しにやってくるお話。陽一もすてきだし、おんがえしにやってきた白鳥の美羽、陽一のともだちたちもみんな魅力的なのだけど、とくに美羽の無言でいるときのコマの、ふんわりした空気のわき上がる感じと、しんとした冬の空気の冷たさが、とてもいい。その冷たさがあるからこそ、陽一の日向のにおいがするようなやさしさや、ながれる涙のあたたかさとか、思い出す。

「光の海」もとてもすばらしかったけど、それに続いてこんなすてきな漫画を読ませてもらえるなんて、もーたまんないなぁ。大好きです。

2007-09-02

[] shipbuilding

鈴木志保さんのサイン会にいってきました。

「船を建てる」はずっと前に友達に借りて読んだことがあるだけで、手もとになかったので、今回の復刊はとてもうれしい。

目の前に立って、何を話しかけたらいいのかわからなくて、思わず口に出たのは「shipbuilding」のことだった。「船を建てる」のタイトルが、robert wyattの「shipbuilding」からつけられたことは知っていたけれど、あらためて聞いてみたら、鈴木志保さんみずからちらっと歌ってくれたりして、うれしかった。そんなわけで、今日はいちにち、「shipbuilding」があたまを回っていた。

しかも、何かお好きなキャラクターを、といわれてコーヒーをリクエストしたら「コーヒーにはもれなく煙草もついてきます」とふたり書いてもらってしまった。うれしい。

いま、「船を建てる」を、ゆっくり読み直しているところ。

D

[][] 「GENTE」/オノ・ナツメ

GENTE 1 (Fx COMICS)

GENTE 1 (Fx COMICS)

「リストランテ・パラディーゾ」で描かれた物語の、前日譚にあたるお話。

雑誌で読んだときも思ったけど、やはりロレンツォが妻を喜ばせるために老眼鏡の紳士をあつめる、という下りには、ええー、って思わなくもないのですが、ルチアーノを筆頭に、紳士たちのこれまでのいろいろとかをかいま見ることができるのはうれしい。

5話めを読んでたら、外でご飯食べたくなりました。

[] 固有性はどこに宿るか

固有性を愛するということについて、というkebabtaroさんのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/./kebabtaro/20070831/p1)を読んでいて、ふと思い出したのが、人を完璧に複製する機械が仮にあったとして、その機械によって2人になった恋人○と●のどちらを本物とみなすか、いうたとえだった。

例えばそれが物語だったりすると、ちゃんとどちらがオリジナルかわかるような演出になっていて、観客は漠然とオリジナルを選ぶべきだ、と思いながら見るだろう(という場合が多数だと思う)。しかし、○と●はどちらも、オリジナル「X」の延長線上にある。○である私は「私が本物だ」というだろうし、●だって「私が本物だ」と思っているはずだ。

そのとき、「X」の「固有性を愛する」とはどういうことなのだろうか。

kebabtaroさんのエントリでは、固有性を

(A)「固有性≒特徴的な属性」、(B)「固有性=特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」

とわけられていたけれど、○と●両者とも(A)は備えているわけで、だからこそ、この状況を物語としてとらえる場合、(B)を備えていると思われる「オリジナル」を選ぶべきだと直感的に感じてしまうのかもしれない。

しかし、それが「人を完璧に複製する機械」であるという前提からすると、両者は複製されるその瞬間までは(B)だって共有している。だから、彼等が区別されるとすれば、それは分裂した瞬間から、新たに積み上げられる固有性によってなのだと思う。

固有性Aへの愛もまた、それを発見するという、偶然とか、たまたまに支えられているわけだけど、それを補強し、続けていくことがBとなるのかもしれない。

などと考えつつ、同時に上記のkebabtaroさんのエントリのもとになったGeheimagentさんのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/./Geheimagent/20070830)にあった、「perfume愛せるか問題」(←違う)についても考えていたんですが、それはやはり中田ヤスタカなんだろうな、と思います。

つまりエフェクトかけちゃったら一緒、というより、中田ヤスタカの音をどのパッケージで聴くかということ、なんていったら語弊がありまくるかもしれませんが、少なくとも私にとっては、そうなんじゃないかって気がします。

それでも私はperfumeが好きです。capsuleも好きですがperfumeの方が好きなのは、やはりそれが少女漫画みたいな歌詞も音の雰囲気もビジュアルもperfumeの色になっているからなんだと思う。中田ヤスタカの音が楽しいんだというのは頭ではわかっていても、よりperfumeにひかれるのは、そこに含まれる固有性Aとしての属性がパッケージごとに異なっているからなんじゃないか。それを記号といってもいいんだけど、かといってその記号だけでば好きになれない。

さらにいってしまえば、私にとって、ミュージシャンとしての中田ヤスタカを好きになるには、足りなかった部分を補うのがperfumeの存在感だったんだと思う。そして、いちど好きになってしまえば、その固有性というのは個人の思い入れのようなものに変化していく。

つまり固有性Bとしてあげられていた「特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」とは、対象の側にあるのではなく、受け取り手の中にあるものなのだと思う。手に入れようと思って入るものではないけれど、いつの間にか握っていたようなもの。

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