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  □これまでの日記一覧

2007-11-29

[][] 連続恋愛劇場/雁須磨子

連続恋愛劇場 (ダイヤモンドコミックス)

連続恋愛劇場 (ダイヤモンドコミックス)

読んだことないのまだあるってうれしい!ってくらいに大好きな雁須磨子さんの短編集です。全部で何冊出てるかとか調べないのは敢えてです。だってあと1冊、とかなっちゃったらさみしいもんなーってくらい、この人の漫画読むと毎回ゴロゴロ転がりたくなるような、グッとくる場面がある。この、いたってふつーの常温の中で、描かれる熱みたいなもの。ふいにぐっと手をのばしてくるような、どきどきする感じがたまりません。

この本に収録されている短編は、「誰にも言えない(マル秘)禁断の恋」とか、そういう企画雑誌(?)に掲載されてた短編たちなので、それぞれテーマがあるんだろうなって思うのだけど(掲載誌一覧あるけどどれがどれかわからない)、「連続恋愛劇場」ていうタイトルでしっくりまとまってる。

で、やっぱり印象にのこるのは、そのタイトル作品含む、美鈴まりと小仏元店長のお話だ。女子高校生まりが、元バイト先の店長である小仏さん(34歳)を訪ねてきて、告白して、でー? っていうお話。小仏さんの「どうせ」ってためらう感じも、まりの気持ちに忠実なとこも、どっちも、身に覚えがあるなぁと思いながら読んだ。タイトル作の、そういうところがいや、でも、そういうとこがすきって葛藤して腑に落ちる場面が、地団駄ふみたくなるくらい好きです。同じシリーズの「都合のいい女」も「振り幅」もいい。ふと、指先の動く瞬間のような衝動を、描くのがとてもうまい漫画家さんだと思います。

[] わたしの生活

バトンいただいてしまいました!うれしい!バトン大好物!

なのですぐにでも答えたい…と思ったのですが、先にウカケンさんにいただいた

「どうやって暮らしているのかが本当に謎です。いちこさんの1日は何時間あるんですか?」

http://d.hatena.ne.jp/./xavi6/20071128/p2

というご質問にお答えしたいと思います。

って! もちろん24時間ですよ! あ、でもそういえば大学時代「時計のCMを考える」と言う課題がでたときに、「1日が25時間あったら」というお話をいくつか考えてて、いまでも時々、25時間あったら残りの1時間どうしよっかなみたいなこと考えます。できれば楽しいことしてたいですね。だけどきっとぼんやり考え事でもして24時間のなかに埋もれちゃうんだろうなと思います。あーでもそういえば、実際、人間の体内時計は25時間らしいって聞いたことあるなー(曖昧)。

と、そんな風に少しずつ脱線しながら、毎日を過ごしています。あとは別に特にこれといってかわった生活はしてないはず…。

朝起きて、5分くらいぼんやりして、出かける準備をしてバス停に向かい、バスに乗って電車に乗って、さらに電車に乗って、その間に携帯からアンテナみたりしつつ、会社につく。会社ではネットみつつ、のんびり仕事して、って最近はそうもいかなくてばたばたしておりますが、まあ普段はそんな感じで、お昼休みは喫茶店で本読んだり考え事したりして、仕事が終わったら約束があれば飲みにいき、なければ本屋やCD屋へ寄ることもあるし、映画行くこともあるけど、たいていは喫茶店よって本読んで、帰宅してご飯があれば食べ、なければ作り、妹や弟とすこし喋って、風呂入ってアンテナ見たりしてから寝る。寝る前にちょっと漫画読んだりゲームしたりすることもあるくらい。そんな普通の(むしろさびしいか…)生活をしておりますよ。しいていえば、テレビをほとんど見ないから時間あるかんじがするのかもしれません。

そして趣味は日記を書くことです。ピース。

2007-11-28

[] 「comic opera」/Robert Wyatt

Comicopera

Comicopera

「Cuckooland」から4年ぶりのニューアルバム。「Lost in noise」「the here and the now」「away with the fairies 」と題された3部構成になっていて、それぞれ少しずつ雰囲気が違う。

特に2部が好きです。「A Beautiful War」聴いて、最初にグッとくるのはやはり鍵盤の音だなと思う。それからスチールドラムの音が気持ちいい「On The Town Square」など。楽器が印象的なフックになる曲が集まっているような気がした。

スペイン語とイタリア語で歌われる曲がつづく第三部は、ジャズや、チェ・ゲバラ賛歌(のカバー)、スペインの詩人 Federico Garcia Lorca の詩に音楽をつけたもの、など、とてもロバート・ワイアットらしい雰囲気。ライナーを見ると、今年で62歳になるそうですが、その視線の先にはいまも様々な熱のようなものがあって、それを音楽に結び付けることを、自然にしてきた人なのだろうな、と思う。

いろんな色が混じりあいながら Robert Wyatt という人の手のひらに包まれているかのような、贅沢な気持ちになる音楽。におい立つ雨上がりのような空気と、夜の音。

[][] 流浪の手記/深沢七郎

「言わなければよかったのに日記」を読んだ時に、後書きで尾辻克彦さんがこの「流浪の手記」について書かれていて、読んでみたいと思ってたの、お借りして読むことができました。面白かった、と一言でいうことはできなくて、実際はいろいろと複雑な気持ちになったんだけど、やっぱり読みはじめれば、面白くって、つい笑ってしまうような部分もたくさんあった。

ただ、「言わなければよかったのに日記」にあった明るさのようなものよりも、この人自身の切実に触れるような部分が、たぶんこのエッセイには多くて、そこをかいま見る/見たような気になるたびに、なんだかしんとするきもちになった。

深沢さんのエッセイを読んでいると、自らという一枚で思い考えるの視線に驚き、読みすすめるうちに、この柔らかくあっけらかんとした深さ、というか、その一筋さに、およばないということを思い知る。翻るようでいて、それは解けない。もともとの、ただある淋しさを思い出す。

みんなオカシクてたまらないんだ。おいらが気持ちがいいことは、ちょっと、まあ、淋しいような時だ。淋しいときはオカシクなくていいねえ、銀座の千疋屋のパッション・シャーベットのような味がするんだ。淋しいって痛快なんだ。/p161

唐突に、「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という言葉を思い出したりした。

なんて感想をもし本人に言ったなら、すごい顔しかめられそうな気がするなーとか思いつつ。

ついさっき、この感想かきはじめるまえに、「言わなければよかったのに日記」の感想読み返したら、なんだかちょっと照れくさくなってしまったのだけど、とにかく私はこの人がとても好きだなぁと思う。

流浪の手記 (徳間文庫)

流浪の手記 (徳間文庫)

2007-11-27

[][] 「駅から5分」1巻/くらもちふさこ

駅から5分 1 (クイーンズコミックス)

駅から5分 1 (クイーンズコミックス)

これはすごい。くらもちふさこはほんと、すごいわ、と1話読み終わるたびに大きくため息をついてしまうような連作短編集だった。2話と、3話だけ雑誌掲載時に読んでいたけれど、単行本で読むとまた印象が違う。

ひとつの町の上に人物を配置し、物語を動かすというのがこの漫画の試みのようで、その手腕はさすがに鮮やかなのだけど、1話ごとの主人公それぞれの視点を、構成/語り口をかえることで描くっていう、話法の多彩さにまず驚かされる。そしてそれが違和感なく、ひとつの町に配置されているところも、面白いなあ。

1話めは、主人公の藤巻よし子が、たいして接点もなかったクラスメイトの男の子に告白されるところからはじまる。そんで、次の日には彼が交通事故にあって、かえってきたときには記憶喪失になっていた、というお話。なんて説明すると少女漫画にありがちなメロドラマに思えるのだけど、終盤に向けての小道具の使い方とかね、もうたまんないなぁと思った。そんで、好きになるとかいうのは、気にするってことなんだなとか、思う。

3話めの主人公は、まだ小学校の低学年と思われる、るりが主人公。るりの目に映ることと、イメージと行動が並列に描かれていって、ラスト誤解のもとに謎がとける構成がいい。

4話めは、ネット掲示板をモチーフにしたお話でHNレッドれんじゃー、が主人公。この意識されてる発言と読み流されてる発言、の描き方が面白いし、その無機質さと文字を受け止める際の生々しい感じの対比も良いな。これ掲示板です、て説明せずにはじまるとこもすごい。すげーなホント!と思った。

続きがものすごく楽しみです。

[][] ordinary±/高橋慶太郎

オーディナリー± (サンデーGXコミックス)

オーディナリー± (サンデーGXコミックス)

「ヨルムンガンド」の高橋慶太郎さんデビュー作ってことで買って読みはじめたら、これアフタヌーンで連載してた作品らしく(今回の発売元は小学館)読んだことあった。あああああ、この人だったのか!と腑に落ちてとても気持ちが良かったです。女子高生(中学生?)の殺し屋ガンアクション。高橋慶太郎さんは、きっとこの頃からいまの「ヨルムンガンド」まで、描きたい空気とか場面とかは明確に続いてて、かわってないんだと思う。そして、それをきっと映像でイメージして描いてるんだろうなって感じがして、そのイメージに対する熱意というか、丁寧さがいいなと思う。うん。なんかちょっと違うけど、久々に「ミッション」みたくなった。

2007-11-26

[] 鳩とバス

目が覚める。携帯を見る。寝返りをうって二度寝の誘惑と数秒戦い、起き上がりストーブをつける。もう一度布団に戻り、ストーブがつくのを待つ。

膝を抱えて待ちながら、携帯に残っていた書きかけのメールのこと考える。それは宙に浮かんだままの声みたいで、ボッ、とついたストーブの音に、吹き飛ばされてきえる。今日は晴れ。いつだったか、小さな映画館で、友達3人で膝を抱えて見た映画のラストシーンのことを思いながら、バス停まで歩く。

並ぶひとのほとんどが、バスがくる左手の道を眺めている。11月も終わりかけの朝7時、いまだ朝焼けが広がっている空の端は、とてもまぶしくて、

その、まぶしさに顔をしかめていた全員がふと顔をあげた、瞬間、空を横切るのは鳩の群れ。

ほんの1、2秒。やがておもむろに、俯いたり左手の道に視線を戻したり携帯を取り出したりと、散り散りにわかれながらも、あの瞬間、視線の重なった感触に、目の奥がすこしひりひりする、冬の朝。

バスに乗り込むひとみんな、新しい顔をしている。

[] 夕暮れビール

駅前にロータリーがあると、知らない町だ、と感じてしまうのは、私が幼い頃からずっと駅と住宅街が地続きに直結しているような町に住んでいるからで、あたりを見回しながら、ここもまた知らない町だ、とすこし身構えつつも、あちこちで交わされる、あら、いま帰り?、どーも、そうなのよぅ、なんて、他愛もない挨拶、のようなものに体半分、溶けだすような気分で入った店の、背後の席では知らない人が、私の知らない恋の話をしていた。酔いが回っているわけではないみたい、だけどその語り口には、思っていることを口に出す気持ちの良さみたいなものが感じられて、私もつい、うれしくなって、何かを言おうと口を開くのだけど、その前に、と、つい酒が進み、ぼんやり、酔ったなぁとか思いながら、行儀悪く耳をすます。状況はよくわからなかったけれど、たぶんうまくいっている、とか、そういう感じの平和な話で、ふと、

「いますごく幸せなんだよね」というのろけ話を聞いてはじめて、あーいい人だなぁなんて意識するのは、なんつうか不毛だ、と自嘲しつつ、それからけっこう長いこと、あーいい人だなぁと思い続けることになった、まだ10代の、でも終わり頃のことを、思いだしたりした。

それは、たぶん恋とかそういうんではなかったと思うんだけど、まあ、けっこう、いい人だなぁと思っていて、でも「いますごく幸せなんだよね」という言葉の奥にあった、ちょっとややこしい事情みたいなものを、それはわりとどうしようもない話で、知ってからは、うー、と、思いつつ、でもやっぱりどうしようもないままだった。

ともかく。その人は、7つくらい年上の先輩で、まあいろいろよくしてもらっていたわけです。CD貸してくれたりとか、私が小石川植物園行ってみたいっていったら、手書きの地図くれたりとかね、そんなささやかな感じなのですけど、で、まあなんていうんですか、ほら、2月にあるじゃないですか。あのイベントっぽいのが。そんで、まあこくは(ゲフンゲフン)とかしないにしても、なんていうかこう、あげたいなーみたいな気持ちがあって。でも面と向かってそんなんあげたらお返しとか気にする人だろうし、気を使わせたくないなーていうのがあって、私が買ったのトッポだった。

トッポわかりますかね。棒状のプレッツェルにチョコ入ってるやつです。あれおいしい。んで、二袋入ってるんですよ。それを、帰りがけに、お腹すいてます? え、すいてない? でもこれひとふくろあまってるっていうか、もういらないからあげます、みたいな感じで、1袋あげて、そんで満足したっていう、それだけの話で。

なんつーか、ま、あのときはそういうことだったんだよなぁって、ってこれじゃあなんのことやらだけど、

それにしても、と、イマココに戻ってきてもまだ背後の彼は気持ち良さそうに話をしていて、できることなら、私も、あんなふうに、話してみたいなと思う。そんで、のど元のなにかが、聞く人にとって心地よい話ならいいのになあ、とか、思いながらまたグラスを手に取って、

ビール飲む。私はいま、何を話したいんだろーなと、考えながら、もっと話がききたいと思っている。

2007-11-25

[][] 「きのう何食べた?」第1巻/よしながふみ

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

日常漫画のよーな料理漫画(例:クッキングパパ)をよしながふみ風にといった感じの作品で、しいていえば「愛がなくても〜」に近い雰囲気だった。

主人公は弁護士の筧史朗。彼は、恋人の美容師、矢吹賢二と二人暮しをしていて、節制した生活のなかで、うまい料理をつくることにこだわっている。その料理場面が物語のメインになっていて、読んでいると、つい作ってみたくなるというか、頭のなかでシミュレーションするのが楽しい漫画なのだけど、伏流がほぼゲイとしての世界観みたいなもので埋め尽くされているのには、なんだかちょっと違和感があった。

それをいっちゃあおしまい、なのかもしれないけれど、主人公が感じている、社会とのずれみたいなものとか、覚悟みたいなものを、そこをメインに描く物語としてではなく、このような日常雑記の中に織りまぜられると、作者の描きたいことが何なのかわかんなくなる。というか、これってたぶん作者にとっての切実ではないよな…、とか、思ってしまったりした。少なくとも「愛すべき娘たち」で描かれた葛藤には、作者にとっての切実さみたいなものを感じたんだけど。

きっとこの連載のメインテーマは、1巻の最後にでてくる、「料理作ってるときって無心になれる」ということなんだと思います。でもそこに、主人公がゲイのカップルであるという設定をもってきたのは、なんでなんだとか、考えるのはうがった見方なのかなあ。んー。

続刊でその辺すっきりするといいな。

[] 昼寝

昼休みには、だいたい毎日喫茶店へ行くのだけど、喫茶店にいるいつもの人々はだいたい、うたた寝をたしなまれていて、わたしは、あの人たち休憩時間内にちゃんと起きれるのかなーとか不安に思いながらも、コーヒー飲みつつ、本読んでるふりしつつ、それらうたた寝の人たちの顔をまじまじと見つめていたりする(ぶしつけで申し訳ありません)。

たぶん、わたしは眠っている人の顔がとても好きなんだと思います。眠っているときの顔というのは、決してからっぽではなく、でもちょっと浮かんでるような沈んでくような感じで、それを見ているこちら側まで宙に浮くような、あれはもしかしたら私の眠気なのかもしれませんが、つま先がはねたりとか、まぶたがけいれんしたりとか、腕組みしてる肩に力が入ったり、抜けたりとかの、その糸の先を自分が握っているような気分になって手に汗かきつつ、すぅー、とまた眠りに戻っていく瞬間の、あの深さはとても心地よい、あたたかな西日のようで、つられてそっと手を開く。そして、できることなら全ての人の眠りが、何の不安もない、やさしくそっとしたものであればいいのにと思いながら、私にもそれひとつ、と、目を閉じる瞬間、凧が飛んでいくのを見る。

2007-11-24

[] 西友トランポリン

幼い頃、母さんにつれられて行ったM町の西友は、普段行く近所のスーパーとは全然違っていて、イートインの食堂や、屋上遊園、ペットショップには金魚売り場まで備えてある、なんて今では特にめずらしくもない、むしろ懐かしささえ感じる「一昔前」の光景かもしれないけれど、当時の私にとっては色に溢れた、まるで遊園地のような場所だった。

ある夏の日だった。あれが欲しいとかこれが欲しいとかは、あまりいわないくせに、欲しいものの前に座り込むだの、うらめしそうに見るだの、なんというかかわいくない子どもだったらしい私は、手を引かれながらも、店内のあちこちに釣られていて、おもちゃだの、バービー人形だの、ソフトクリームだのに向かっていっては、はぐれて母さんに探されていた。

そして、ついに業を煮やしたのか、その日の母さんは私を屋上につれて行き、いつもは屋上に行ってもそこで遊ばせてくれることなんてなかったのに、ここでしばらく遊んでなさいと、ここで見てるからねと言って、ベンチに腰掛けたのは確か生まれたばかりの弟をおんぶしていて、きっと休憩したかったのだろうと、いまになれば思うのだけど、

ともかく私は一目散に、あのトランポリンへかけてった。ずっと入ってみたいと思っていた、屋上の、ビニールでできたトランポリンの内部は、ムッとするような暑さで、足が滑ってうまくたてない。その不自由さに、可笑しさがこみあげてきて、ケタケタと笑いながら、じょじょに飛ぶことを覚える、あの感じ。可笑しくてうれしくて、ちょっと吐きそうなくらいの興奮を、気が遠くなるまで味わい、オレンジのビニール越しに感じる夏の日差しを、天地ひっくり返りながら眺めて、

気持ちが悪くなった。

そんでトランポリンから這い出て、母さんを探したらいなかったときの、あの全身がひやーとするような絶望感は、今でも時折夢にみる、というか思い返せば、幼い頃のトラウマなんてだいたいそんな感じなのだけど、ともかく私は大声で泣きわめき、警備員さんに保護され、館内放送の事務室みたいなとこへつれていかれたのだった。

泣いているときは夢中でも、知らない人に囲まれると冷静になったりするのは小心者だからなのか、おなまえはー? とか、どこからきたのー? などと質問をされているうちに、ああ大変なことをしてしまったと、急に焦りはじめた。こんな騒ぎを起こしたら、母さんにおこられる。そう思った私は、事務室を抜け出し、運良くちょうど事務室へ向かっていた母さんと出くわして、安心し、小言を言われつつも手を引かれてかえったような気がするんだけど、

あの警備員さんや事務室の人たちにはちゃんとお礼を言ったのだろうかとか、もしかして今も私は呼びだしリストから消されないまま、「東京都○区からお越しの○○様、お子さんが迷子になっております」と、定期的に呼び出されているのじゃないかとか、そんなことを、偶然出くわしたお祭りに出ていたトランポリンを見ながら、思いだしていた。

f:id:ichinics:20071123133926j:image:w300

ワン、

f:id:ichinics:20071123134035j:image:w300

ツー!

そういえばあれからずいぶん後、高校生のときくらいに、M町の西友の屋上へ行ってみたことがあった。そこはもうがらんとした、食べ物の屋台とベンチがあるだけの屋上広場になっていて、

ソフトクリームをなめながら私は、友人のYちゃんに、トランポリンの話をしようか迷って、やめた。たぶん高校生の頃には、ほかにもっと話すべき話題が、それは誰かの恋の話やうわさ話や悩み事とかなのだけど、あって、思い出話の出る幕なんてほとんどなかったように思う。だけど、今の私はこうやって、記憶を探り続けるのが、案外楽しかったりする。

2007-11-22

[][] 皇国の守護者 5巻/原作:佐藤大輔 作画:伊藤悠

皇国の守護者 5 (5) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)

皇国の守護者 5 (5) (ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ)

無念の連載終了の知らせから二か月。

読みながら、これ全然終わる気がしないんですけど…とかずっと思ってて、最終回読みおわってもまだ、狐につままれた気分だった。

新城はほんとうに魅力的な主人公だったし、5巻通してすこしもブレるところのないこのキャラクターは、もちろん原作に支えられているからなのだろう。それでも、新城のこの、表情の描き方の、こぼれんばかりの魅力はなんだよ! 会話の切り取り方、仕草、そういった部分が原作をうまく演出していたからこそ(原作読んでないけれども)、この「皇国の守護者」漫画化はとてもすばらしい作品に仕上がっていたんじゃないかと思う。だからこそ、これほどまでに連載終了が惜しまれているんじゃないかなぁ。

うまくクライマックスを作ってはいるけれど、明らかに予定外の終わり方だけに、ここで終わってしまうのがとても残念です。

1巻からの感想 → http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070308/p1

[][] 化け猫あんずちゃん/いましろたかし

化け猫あんずちゃん (KCデラックス モーニング)

化け猫あんずちゃん (KCデラックス モーニング)

コミックボンボンでいましろさんが連載…と聞いた時にはいったいどうなっちゃってるんでしょうと思ったものですが、春山くんもでてくるし、チバちゃんみたいな貧乏神もでてくるしで、いつもどおり、なんだけど、ちょっと子どもむけ、みたいな気分はあるみたいで(主役が猫とか小学生でてくるとか)、そこが面白かった。

ともかく、あんずちゃんは32歳の化け猫で、マッサージしたり川の警備したりテキ屋やったり無免でつかまったりします(ボンボンなのに!)。

とても楽しい漫画です。それから、いまちょうど深沢七郎さんの本読んでるんですけど、あんずちゃんとシチローさんにてるかもなーと思いました。とくに春山くんのお父さん説得するとことかね。わたしもあんずちゃんと釣りしたいよ。

2007-11-21

 思うところあって

これは日記だし、日記なのでブログモードっていうのもなぁ…と思い、思ったままずるずると何もいじらずに長らくやってきたこの日記ですが、1日にいくつもの日記やら感想やらをのっけているので、記事単位で見ると、せっかくいただいたコメントが、記事(記事っていうか…まあひとつの文)と関係しなくなってしまってたり、っていうのが長らく気になっていたのですが、今日ようやっと思い立ち、ブログモードというのを使ってみることにしました。コメント欄が記事単位になるっていうだけで、別に今までとさして変わるとこはないと思います(←よくわかってない)。

それから、ついでにしれっとスター戻してみたりもしましたが、いまだに家からは見えません。でも会社で使ってるので。こっちはそのうちまた考えると思います。ぐだぐだです。

と、こんだけだとなんか味気ないので、今考えてることをちょっと書いてみたいと思うんですが、あれですよ、「続ける」ことって不思議だよなぁと思います。なんでも、いっこでも、続けてくと、だんだん転がるようになるっていうか、何か、意味っぽいものが出てくる気がするんですよね。それがいい、とかわるい、とかじゃないんだけど、そんなわけで、私もなにか練習しようと思っていて、楽器とかさ、自在にひけたらどんなにたのしいだろーなーとか、妄想しながら、今後も日記を書き続けるんだと思います。あといますごくねむい。

2007-11-20

[] 私が「コピーロボットとの会話」に惹かれるわけ

前回のコピーロボット話に頂いた反応を読んで、懲りずにもう少しだけ、書いてみようと思います。(それにしてもこのコピーロボット話では、思いがけずいろんな方の考えを読めてとても嬉しいです)

ululunさんの図解(ぼくらの鼻は、いつだって赤い - 煩悩是道場より)を見てやっと、ああ、と頭が整理されたように感じたのですが、

鼻押者の記憶を引き継ぐ、ということは、「鼻押者がコピーロボットの鼻を押す瞬間」の記憶まで引き継いでいるわけなので、コピーロボットは「コピーロボット」という概念をもって覚醒するって考えるほうが自然ですね。そう考えてみると、pbhさんが書かれている「恐さ」がよくわかる。

コピーロボットは、コピーされた直後「自分こそコピーロボットの鼻を押したオリジナルである」と認識している筈です。ところが“それ”は使用者以外の第三者の振る舞いや、恐らくは自分の鼻が赤く、もう一人の自分そっくりな奴の鼻が赤くない事などを手がかりに、自分こそコピーであると気付かされてしまう。うわあ。この不安や恐怖はちょっとP.K.ディック的悪夢ですよ。

コピーロボットは本物の夢を見るか? - 幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする

ほんとだよ…! 想像するととてもこわい。でもすごく面白いです。誰かこの小説書いてくれないかなぁ…。オリジナルと争うことになって、でもオリジナルの思考パターンがわかるからこその葛藤があって、みたいな話が読みたい。

それから、好きな発想だなあと思ったのがululunさんの書かれていたこの箇所でした。

過去のエントリには私が潜んでいて、今の私がそのエントリを読んだ瞬間こそまさに「コピーロボットのおでこに触れた瞬間」とは言えないでしょうか。

過去の私と今の私を分け隔てているのは「時間」です。

コピーロボットと私を隔てているのは「場所」です。

二つの違いはそうしたベクトル程度のものだとは考えられないでしょうか。

ぼくらの鼻は、いつだって赤い - 煩悩是道場

話がコピーロボットからずれてしまいそうなのだけど、自分が以前書いた文にこんなのがあった。

  • 季節も時間もなにもかもが、今ここの瞬間にあるということが、私が私であるゆえんでもあるのだけど、それと同時に過去の私は今の私とは明らかに他人だ。それなのに、私はその他人である私の気持ちを、知っている。共感することはできなくても、それを理解することができる。(id:ichinics:20060111:p3

これ書いてから2年近く経ってるんですが、私はこれを書いた「私」を、今でも「理解できる」と思う。

それじゃ、コピーロボットはどうなんだろうなぁ、と考えてみると、それはむしろ、タイムマシンに乗って未来の自分(自分の見ていない記憶を持った者として再び出会うわけだから)が会いにくるようなものなのかもしれません。

ひとつの時間軸が、コピーロボットの鼻を押すことで分かれ、おでこをくっつけ再び鼻を押すことで一つの時間軸に回収される。

しかし、オリジナルは、コピーが過ごしていた時間を見ることはできるけれど、例えば視界の隅をかすめた花の色や、好きな子のちょっとした一言に対する反応や、ぼんやりとながめた看板の文字、とか、そういうことからコピーが何を思ったのかを、正確に知ることはできない。

これはhasenkaさんが書かれている

この周りが見えて自分を感じている感覚はその別人格には宿らないだろう。宿るのか?

自分と全く同じ記憶を持つものは自分足り得るか - hasenkaのメモ

という問いのように、場や時間がずれれば、感覚は重ならないだろう、と私は思う。

ただ、ほとんど確信に近い直感を持って、想像することはできるんじゃないだろうか。

そのような関係って、すごく不思議だ。だからこそ私は「コピーロボットとの会話」に惹かれるのだと思う。

ちょっとだけ関連

ギュンター・グラスの告白

私が私であるということ

[] Teenage riot@新宿ロフト

すごいいいメンツだったので、月曜日という悪条件も顧みずいって参りました。

楽しかった。楽しかったなぁ。

着いたのは、group_inou さんの途中くらい。イノウさんは前々から、噂で気になっていたので見るの楽しみにしてたんだけど、予想をうわまわるときめきサウンド&パフォーマンスですっかり満足してしまった。ああ、ライブっていいなーとか、音って気持ちいいなあーとか、そんなことずっと考えてた。

今日は2つのステージで交互にやる構成だったので、続いてはステージ移動して nhhmbase。東京ボロフェスタではじめて聞いて、(id:ichinics:20070910:p1)気に入ったんですけど、あらためてきいてもすごく好きなバンドだった。ギターの音がいたい。シンプルなドラムも、ドラムの倍くらいで刻んでるみたいなベースののりも、のりにくいリズムを四人が共有してる感じも、たまんないなぁ。んでやっぱり、ディスコードっぽい、と思ったりした。好きだ。

またステージ戻って、次は mass of the fermenting dregs。ドラムのひと抜けちゃったんでしょうか。サポートっぽい男の人が入ってました。すごくうまいんだけど、これまでの曲ではちょっとバランスがなじまない感じもしたなぁ。ただ、後半の新しい(?)曲とかすごくかっこよかったです…!

その後、ライブ会場で会いたいなと思ってた人たちに、会えて、お土産までいただいて、おなかすいてた私はそれをぺろりと食べてしまって、たいそう行儀の悪いことだった、と思うのですけど、ともかくやり遂げた気持ちで、途中でライブ会場を後にしました。

まだ月曜日だからね。でも、これで今週、がんばれるよーな、気がします。やっぱ音楽って大事だなぁとか。

2007-11-19

[] 目にうつる何か

最近書くことの半分近くが昔話になっていますが、とくに近頃思い出に浸っているというわけではなく、むしろそもそも人生はまるで、過去ログの海を泳ぐようなもの、視界にうつり言葉にしたとたんに、記憶になっていくその、肩に触れるような、懐かしい気持ちはつねにまとわりついているんだし、なんてことを考えながら、いくつかの写真を見ていて、たとえばドキュメンタリー映画が、撮られる者と撮る者の関係性を浮き彫りにするようなところがある、というか、その関係性こそがドキュメンタリーなのではないか…、とか思うのに対し、写真における関係性っていうのは、どういうものなんだろうなと、思った。

グラビア写真のアイドルが見ているのは、カメラマンなのか、その先にいるファンなのか、自分なのか、とか。ポートレイトにうつる人は、それをとるカメラマンとどのような会話をかわして、その写真にとられたのだろう。そして今も、その写真をとられたことを、覚えているのだろうか、とか。例えば、風景のように、写真に「うつりこんだ」人々の姿は、そこに流れていた時間を思わせるむしろ場に近い存在として見えるけれど、例えばカメラを見据えている人の目には、言葉になる寸前の、何かがあるように思うことがある。

カメラをかまえている人を見ているはずなのに、こちらを見ているような気がする目もあれば、あきらかにカメラに(というかカメラマンに)向かって何かを言おうとしているように感じる写真もある。

その何かを、写真のこちら側/場の外にいる自分は想像することしかできないはずなのに、その差が明らかであるように感じるのはなぜなのだろう。

そして、そんなふうに写真や映像には、撮るものと撮られるものの関係性のようなものが、写るように感じるのに対し、文章で、例えば何か思い出について書いたとして、書かれた誰かの「何か」のようなものの気配は、文章にあらわれたりするのだろうか、そして読む人にその輪郭を感じさせることは可能なのだろうか、とか考えています。

[] 「in due time」

ライブ会場の暗さと大きな音はあんしん、すみっこに座り込んだまま、発売日の朝に開封したてのアルバムで、もしくはいつかのマリンスタジアムで、聞いた曲のことを考えている。あの、皮膚の内側に触れるような柔らかい音には、例えば水に潜る時みたいな息苦しさもあって、で、

そういえばあの日はかなしかった。仲の良かったあの人が、遠くに越してしまう日で、なんでわたし、こんなとこで仕事してるんだろーなー、ってぐらぐらしながら、カッターでトレイとカバーの隙間を切り、親指で開くように、透明のフィルムを剥がす。足元におちる帯。はじめてCDケース開くときの、あのささやかな高揚感は、いつか懐かしいものになってしまうのかもしれないけど、

なんだかわたし、けっこう一生懸命だなあ、と思う。唐突に、けっこー、一生懸命なんじゃないですか、と、笑い出したくなって、

そういうのぜんぶあほらしーというか、ばかじゃないのって言われたときように身構えてた部分みたいなの、が、ちょっと折れそうになって、っていうかとっくに折れてたのかもしれないけど、

でも、それを最初に言うのって、つまりは、いま「ばかじゃないの」って言ってる、自分なんだよなあ、と、思う、このタマネギ状の自意識を、音楽はほどいてくれるような気がする、こともある、

なんて、ややこしいこと書いてると、とりあえず机の上のもの、全部払い落としたくなったりもするんだけど、

あっ、という間だからね、なんでも、あっという間にすぎてくから、降参したくなるまでは、飲めるとこまで飲むよ、とか、ようするに、負け戦だって、負けるまでが戦だよね、ていうこと。

2007-11-18

[] コピーロボットと私をわけるもの

三たびコピーロボットについて。もうすでにパーマンという作品から離れた「コピーロボット」を想像しちゃってるような気もするのですが、この(id:ichinics:20071116:p1)エントリにいただいた、ululunさんからの反応を読んで考えたことを書いてみようと思います。

以下、枠内の引用はすべて「いつの日か、私の鼻を押しに来る者がいる - 煩悩是道場」より。

コピーロボットが鼻を押された瞬間に「私」の自我を持ち、おでこを触れた瞬間に「私」を喪失したとしても、それは私たちが睡眠をとるようなものであるくらい当然の事だと考えればそれほど不思議ではないように思います。

鼻を押される側の自我は、おでこを触られた後、鼻を押されることで消失します。

その後再び鼻を押されれば「眠りから覚める」状態であり、鼻を押されなければ自我が覚醒しない、即ち死であると言えます。

前に書いたときは気付かなかったのですが、たしかに睡眠というたとえはイメージしやすくて、それにあてはめて考えてみると、コピーロボット自身に「もうすぐ終わる」という予感のようなものは、ないのかもしれないなと思いました。つまり、毎回リセットされているので、鼻を押されることの意味を知らない可能性の方が高い。つまりコピーロボット自身は自分が何度も終わっていることに気付いていなくて、ただ眠って、起きているだけのように感じているのかもしれない。

ところで、こうやって鼻を押す側/押される側について、考えているいまの私の視点は、

  • 「どちらか一方だけが私でありうる」

と思っています。つまり「鼻を押す側」というオリジナルがある、という前提の上で考えている。しかし、「鼻を押す側」の立場にたってみると、それは、

  • 「この特定の側が現に私になってしまっている」

ということなんじゃないでしょうか。

自分と全く同じ姿形をし、いまここまでの記憶を共有しているコピーロボットと相対した時、私はコピーされた「私」をどのような存在として見るのか。

自分のかわりに自分として扱われているコピーの姿を、おでこをくっつけあうことによって、見る。それが自分の記憶としてダウンロードされるのではなく、コピーの記憶として客観的に「見る」ようにダウンロードされるのだとすれば、コピーは自分とは別の自我をもった私であり、それを見ている私が「現に私になってしまっている」のではないでしょうか。

そして自分の体験していない「記憶」を持つものを停止させる、ということに、いつか抵抗をもつのではないか…と、そうでなければ、コピーロボットと人の違いはどこにあるんでしょうか。とか。

もしくは、私がパーマン何号かの家族、もしくは恋人などの、親密な関係にある者だったとして、ある日一緒に過ごしているところに、自分がオリジナルであると言う者がやってきたとする。そして、

「いまあなたと一緒にいるそれは私のコピーなんですよ」

といわれたところで、はいそうですかとその人が鼻をおされるのを見ていられるだろうか?

ある日、私の家に「私」がやってきて「コピーロボットさん、ご苦労さま」とにこやかに微笑みながらおでこをくっつけてきたらどうしようと思うのだけども、もしかしたらそれって「死」と同義語であるかもしれないよねとか、死神もしくは神と呼ばれる存在こそが「鼻押者」であるかもしれないと思ったんだけど(略)

そうして、この私がべつの私に引き継がれるというのは、どういうことなんだろうか。たとえば、鼻押者が神であり、オリジナル同士の世界、コピー同士の世界が別々にあるのだとしたら、それぞれ自律するのかもなーと思うんですが(そういうSF小説はいくつか読んだことがある)、もしも、この私だけが例外的にコピーであった場合、それでも「この特定の側が現に私になってしまっている」と感じている私の意識とは何なのか。そして、オリジナルと見分けはつかないとすれば、他者はどのように私とオリジナルと称する者を区別するのか、そしてその基準はどこにあるのだろうか。

もしかすると、それは私にではなく、そのとき一緒にいる誰かの視線とか、そういう偶然の足取りにあるのかもしれないなとか、思っています。

[] 冬の夜

夜そとを歩くと歯が鳴るほどに寒くて、もうだめだ、負けた、認める、冬の番だ、とか勝手に降参する。黒く、でも濁ってはいない空は高くて、ひとつオレンジ色した星があるなぁ、と見ていると、点滅したのでそれはたぶん飛行機だった。上を向いたまま声を出すと、白い息が降ることなく消える。

そして思い出したのは、白い息を、かきわけるように歩いた、いつかの冬のこと。その日はクリスマスで、私が塾帰りだったから、小学6年生のときだと思う。

今日の晩ご飯は豪華で、ケーキもあるよというのを聞いていたから、ずっと楽しみにしていた。なのに、塾の授業が(たしか冬休み前最後の授業とかで)長引いて21時すぎとかになって、時計を見るたびにはしゃいだ気持ちはしぼんでいって、そしてバス停まで迎えにきてくれた母さんの「もうみんな寝ちゃったよ」という言葉にトドメをさされ、わたしは “ブーたれて” 歩きはじめたのだけど、

ふいに「さむいさむい」とか言って母さんに手を繋がれた時の、びっくりするような、少し気恥ずかしいような、あの気分のことを思い出したのは、たぶん今、あちこちにクリスマスの飾り付けがしてあるからでもあって、まあまだ11月だし、いくらなんでも早すぎるよねぇ、とは思いつつ、季節ごとの飾り付けというものは既に見なれたものになってしまっているからこそ、例えば花のにおいや、日差しの感じと同じように、記憶を喚起することもあるのかもしれないな、なんて、言い訳をする。

あの頃にはもう弟が2人と妹が生まれていたから、母親と手を繋いで歩くなんて、すごく久しぶりのことだった。お祭りに参加しそこねたような、すねた気持ちを引きずりつつも、その早足に遅れたら手がほどけてしまうと思って、歩いた、あの足取りの切実さを思い、鼻の奥がつんとする、この空気の張りつめた感じは好きだと思う。むかしよりずいぶん、冬に慣れた。

ichinicsichinics 2007/11/20 00:08 そしたらコピーとも共存してけそうですね。間違えて鼻おさないように気をつけなきゃ。

2007-11-16

[] コピーロボットという私

再び、コピーロボットの話。パーマンの設定が正確に分からないので、ここではコピーロボットを

  1. コピーロボットの鼻を押した者をコピーする
  2. 鼻押者と鼻押者コピーは別々の意識をもって行動する
  3. 鼻押者とおでこをくっつけあうことによって記憶を共有する
  4. 再び鼻を押されることで元に戻る

ものと仮定します。

さて、この4番目の「元に戻る」っていったいどういうことなんでしょうか。2の段階で、鼻押者と鼻押者コピーは別々の意識を持って行動しているわけです。鼻押者コピーが自らを「コピー」と認識していると考えるのが、まあ一番らくちんなわけですけど、仮に1のコピーが完全なものだったとすれば、鼻押者コピーは、自分のことを鼻押者、もしくは鼻押者とは別の、「私」だと思っているはずです。

「私」は、再び鼻押者に鼻を押されることによって何度も復活できるわけですけど、鼻押者と別れていた間の時間を自分のものだと認識していたなら、それは何度も繰り返し、終わっているということになる。

一方、鼻押者は、おでこをくっつけあうことによって、鼻押者コピー、つまり他人の記憶を脳内に蓄積していきます。これってどういう気持ちがするものなんでしょうか。

そこに、ああもうすぐ俺終わるんだな…、ていうコピーの意識みたいなものは混じらないんでしょうか。混じっていたとしたら、鼻を押せなくなるんじゃないかな、なんてことを、ぼんやり考えています。

それから、SF小説だと、自分のバックアップをとってあることで、死の恐怖を克服する、なんていう設定はわりとよくあるのかもしれないみたいなんですが(←自信がない発言)、鼻押者はコピーロボットがいることで、恐怖を克服できるのでしょうか。私にはそうは思えない。私は単純に、それに納得できるという気がしない。それはなんでなんだろう、とか。

どちらか一方が私なら他方は私ではない。これは前提である。このとき、どちらか一方だけが私でありうる、というのがカント的意味で、この特定の側が現に私になってしまっている、というのがライプニッツ的意味だ。

「私・今・そして神」/永井均 p174

後者の視点はに立つことで、鼻押者と鼻押者コピーは完全に別れる、と思うんだけども、それはなにもコピーロボット云々という話だけでなくて、いまここにいたって同じ事だ。沈んでくようで浮かんでくような、そんな気持ちがする視線。

2007-11-15

[] 定食屋にて

定食屋で、焼き魚定食を食べていた。イサキの塩焼きだったと思う。ピンと伸びた尾にまぶされた、塩の粒。皮を割り、身に箸を入れると、いいにおいがみそ汁の湯気に混じる。ズッ、ハァー。ぐるりとあたりを見回すと、後からくるひともみな「焼き魚定食」を頼んでいる。「定食、ライス大盛りで」「こっちも」

イサキっておいしいよねえ、と誰かが言う。私はサバのが好きだなあとか思いながら、でもイサキもおいしいけどねと付け加える。1人で、私は定食屋の小さな椅子に腰掛けていて、ご飯に手を伸ばす。

ご飯のことを、私はライスと言うことが多い。

それは、例えば「ご飯ある?」と訊くと、うちの母親は、「肉じゃがあるよー」などと答えたりするからだ。けれど、それはおかずであって、米を炊いた「ご飯」のことじゃない。私は米を炊いた「ご飯」が好きなので、料理前や食事前に「ご飯」の有無を確認することが多いのだけど、ご飯というと求める答えはまず返ってこないし「米ある?」と訊けば「こめびつみてよ」と言われるだろう。だから私は、「ライスある?」と訊く事になる。

「ライスを忘れないで」

顔を上げると、はす向かいの席に、夫婦だか親戚だかいまひとつピンと来ない、雰囲気のよくにた中年の男女が座っていた。

「ライスのめばだいじょうぶ、小骨なんて気にしなくてヘーキだから、ほら、ライスあるでしょ、飲みなさいよ。塊ごと飲み込むの。そ、そうすれば小骨とれちゃうから」

おじさんの方が,ぎこちない手つきで茶碗を持ち上げ、ひとくち頬張ると普通に咀嚼をはじめた。

「だめだめ、噛まないでのみこまなきゃ」

「そんなんくるしいだろうがよ」

「小骨気になるんでしょ、ライスはダイジョーブよ、柔らかいし粒だからひっかかんないから」

そう説得しながらも、おばさんはどんどんイサキをほぐしては口に運ぶという作業を繰り返していた。

盗み聞いていた私は、おばさんが「ライス」に至った経緯について考えていた。私のそれは、たぶん人に伝えるための「ライス」なんだと思う。たとえば定食屋に入って、「ライス大盛り」などと頼むのも同じ事なんじゃないか。炊いた米だけをさすものとしての「ライス」。でもやっぱり、頭の中では、ご飯はご飯だ。

だから、ご飯と言ったときに、ちゃんとご飯と伝わる安心があれば、わざわざライスなんて言わないんだろうなぁ、などと考えながら、ためしにご飯をひとくち飲み込んでみると、こころなしか胸がすくような気がした。

それにしても「ライスを忘れないで」というのは、名言だなあと思う。味わう程に深みを増すような、ご飯の甘みのような、さ、なんてつまんないおちが思い浮かんだところで、おじさんがうれしそーに

「あ、とれた」と言った。

killhiguchikillhiguchi 2007/11/15 22:35 なんで定食屋に入っただけでこんな文章が書けるのでしょうか。
 普段、「あの炊かれたお米、茶碗によそわれるべきお米」を何と呼んでいるのかが気になり内省してみました。家では「まま(方言)」、普段は「お米」、定食屋で頼むときに限って「ライス」となりました。やはり「食事自体」との混同を避けるために「ご飯」とは言わないようです。小骨を取るときには、物質性に目が行くので「お米」と言うでしょう。「ライスはダイジョーブよ」はかなり違和感があります。ハイカラなおばさんなんでしょうか、それとも、定食屋でライスと頼んだから延長上でライスと言っているんでしょうか、それともichinicsさんのようにご飯との混同を避けているのでしょうか。
 「米」一つでこんなに悩めるなんて、日本語って不思議です。(日本語は語彙がやたら多い言語としても知られています。例えば、「宿」「旅館」「ホテル」、「口づけ」「接吻」「キス」のように。)

ichinicsichinics 2007/11/16 17:24 killhiguchi さん、こんにちは。私はたいてい1人で行動しているので人の会話を盗み聞いてることが多くって…(ってホント、行儀がわるいですね…)。
コメントいただいてからいろいろ考えてみたのですが、「ライス」とか「ホテル」「キス」とかって、外国語だからこその、のっぺりしたイメージがあるというか、日本語だとその音の詳細まで見えてしまうのが、うまくカットされるから、単純に名詞として扱えるのかなあ、なんて思いました。
それにしても、「まま」というのはなんだかかわいらしくていいですね。

2007-11-14

[] Tunng/Good Arrows

Good Arrows

Good Arrows

今私は驚いています…。はじめて Tunng を聞いたのは、何経由だったかわかんないけど、とにかく視聴して気に入って買って、全然どういう人たちなのかわかんなかったんですけど、元CHAPTERHOUSE のドラムの人がいるの? そうなの? まあいわれてみれば、というか CHAPTERHOUSE ってすごい懐かしいなぁ…とかしばし記憶が遠くに飛ばされてしまいました。

大学はいったばっかの頃、大学の向かいになかなか気の利いたレコードやさんがあってね、たぶんあそこで買ったんだろうな。その頃は主に60〜70年代の音楽ばっかり聞いてたんだけど、CHAPTERHOUSE とかはその流れでも普通に聞けていた。今はもう、あの辺りの、特にポップな音は聞けなくなりつつあるけれども、って、 それは別としても Tunng のさじ加減はあのへんともつながるところがあるような気がしつつ、洗練されているなと思う。ソフト・サイケといわれることが多いみたいで、たとえばニック・ドレイクとかともつながるところがあるような気もしつつ、ここにあるのは安心だ。

ソファで眠ってしまった朝、毛布にくるまって寝返りを打ちながら、その柔らかさにゆっくりと気付くような、安心と、名残惜しさとが、例えば遠くの方で鳴る音の中に、見えるような気がする。

アルバム全体のゆるやかな流れに杭を打つような「soup」が印象に残った。

2007-11-13

[] コピーロボットとの会話

今日は朝から考え事してた。たとえば、自分のコピーロボットがいたらいいなあとかそういうこと。かわりに仕事いってほしいとか、そういうんじゃなくて(ま、それも魅力的ですけど)単に話し相手として、コピーロボットがいたら、いいだろうなぁとか考えていた。

野暮ながら説明しておくと、コピーロボットとは藤子不二雄「パーマン」にでてくるロボットのことで、主人公たちはパーマンに変身する際、自分の身代わりとしてコピーロボットに日常生活を続けさせるのだった。容姿、性格、能力全て本人と同じで、記憶も、おでこをくっつけあうことで共有できる。「使用後」は鼻を押すと、ロボットに戻ってしまう。ちょっと話がずれるけど、私はこの設定が、幼い頃からすごく不思議だった。おたがいに同じ意識を持って動いているならば、どっちが自分かわからなくなるんじゃないかな、なんて。その辺はまた今度。

ともかく、コピーロボットがいたらいいなあ、と思う理由は、最後のその記憶の共有にある。

聞いた事見た事読んだ事っていうのは「関わる」ことだから、その一瞬のことではなくて、その印象の濃さによっては、その後なんども思いだされる(可能性がある)ことだ。

だからこそ、それが好ましい記憶であるならすてきなのだけど、逆に、言わなくてもいいことや、思ってもいないようなことを勢いで口に出し、思いもよらずに浮いてしまった言葉が、ずうっと影のように視界を塞ぐ事もある。それでも、と思う事はあるけれど、その影によって、いま目の前にあることをちゃんと見れなく/見せられなくなってしまうのであれば本末転倒だ。

なーんて、そんな言い方をするとえらそうだけども、詮無いことだとわかっているのなら、いま目の前のものが見えるなら、それでいいじゃないか、いいじゃないの、だいじょうぶ、とあきらめか開き直りか、わかんないけど、そこはぶれたくないと思う…って、まーなかなかそうもいかないんですけど、

それでも、なーって部分、飲み込みきれないもやもやしたものに、踏み込んでみたいときもあって、そういう時、コピーロボットが相手なら誤解を恐れる必要はないよね。とか。ああ傷つけちゃったかなとか、気にしてるかなとか、痛いとこつかれたとか凹んだとかも、ぜんぶ最後、おでこをくっつけてひとつにできたなら、わりと整理されるのではないかなと思う。自分がなにを考えてるのかとか、足元みたいな部分を、確認するのはそのようなことじゃないかな、なんて。

そして、そのうえでなお、出したいと思う言葉が、届いてほしいと思う。その切実さは何なんだろうか、とか。

 2007年11月6日の日記

「猫のこと」

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2007-11-12

[] 週末と生活

金曜日は飲みにいって、土曜日も飲みにいって、そのあとまた飲みにいって、オフ喜利をはじめて見まして、笑ったり人見知ったり睡魔と戦ったりして、でも、眠って起きたら全然思い出せなくて、うーってそのまま文学フリマに行き、読みたかった本を買い、お会いしてみたかった方にクッキーをいただいた。そんなふうに、この前の週末は珍しくあちこち出歩いたので、なんだかすべてのことがごっちゃになって何が何やら、なのだけど、でもたのしかったなぁっていう気分が残ってるのでとてもうれしい。

そして月曜、土曜の雨から、日曜の曇りを抜けて、すばらしい晴天が降ってきた。真っ白な雲がポカーンと浮かんでるのをポカーンと眺めてたらいつの間にか終わっていた昼休み。午後、そして夜。冬になると滅多に夕暮れが見れないなぁなんて思いつつ。

f:id:ichinics:20071111205708j:image:h150 日曜の夜は兄弟の誕生日会

f:id:ichinics:20071112072557j:image:h150 月曜の朝

f:id:ichinics:20071112083651j:image:h150 クッキーとてもおいしかった

f:id:ichinics:20071112204125j:image:h150

帰り道のコンビニには早くもクリスマスツリーが飾られていて、こんなことじゃいけないと、やっと、11月にいることを思い出す。夕食は3品、今週の目標はストーブをだすこと。

[] 酔いざめの水

世界でいちばんおいしいのみものは、酔いざめの水だ、と思うことがある。朝5時すぎ、まだ日が昇る前の濁った空の下を歩きながら、追いかけてくるいくつもの朝を振払って、黙々と歩く、その手にポカリスエット、缶コーヒー、ヴォルヴィック、ネクター、のど元を滑り落ちる甘さや苦みや無味を、胸元で受け止めて思う、世界でいちばんおいしいのみものは、酔いざめの水だ、と。あるときは誰かと肩を並べながら、あるときは誰かの背中を眺めながら、またあるときは誰かと手を繋ぎながら、しかしそのほとんどはひとりで、足下に降り積もる言葉の切れ端を蹴散らし、緩んだ糸を引きずって歩く。歩きながら、その先に、あるものにいつまでもたどり着かなければいいのにと思う。何の疑いもなく、あと数分で朝がくることを信じて歩く、その足取りの無防備さが可笑しくて、立ち止まって耳をすまし、音の消える手触りを確認する。そこは気付けば橋の上、黒い鳥の行き交う川下の空がにじみ、いくつもの夜があっけなく終わる中、体に糸を通すみたいに、手もとのそれを飲み干し、世界でいちばんおいしいのみものは、酔いざめの水だ、と思う。

関連

谷川俊太郎33の質問

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20050208/p1

2007-11-11

[] 向こう側ってなにか

先日「向こう側のひとたちへ」(id:ichinics:20071108:p1)という文章を書いた。

その後、mutronix さんの『 「ではまたどこかで…」など、ない』という文章を読んでから、いろいろと考えていたんだけども、今日、数日ぶりに自分のエントリを読み返してみて、少し驚いたというか、自分の言いたかったことと、ずれてしまったのかもなと思うところがあった。

  • 「なくなったブログの後には、何か穴のようなものが、残っていて、私が何か言いたくてメモ帳開くその時も、向こう側は続いているんだということを思いだす。」

私がここで、あっけらかんと「向こう側」という言葉を使ったのは、たとえば「ブログが更新停止しても中の人は生きている」というようなことを言いたいのではなかった。いや、それもある部分では正しいとは思うのだけど、それでも「だからべつにいいじゃん」ということではないのに、こうして数日経つと、そう読めてしまうんだな……というわけで往生際悪く追記。

例えば、あるひとつのエントリを読んだだけで、(その文章の面白さは別として)書いた人の印象を決めてしまうことが、わたしはこわいと思う。

  • 「ブログに書いてることなんて切り取られた部分だ」

と書いたのは、つまりそういう自戒だ。だから、ひとつのエントリでひっかかるところが(その好悪にかかわらず)あったときは、できるだけ他のエントリも読んでみようとか思うのだけど、それはつまり「中の人」を意識することなのか、id:誰か、の個性を思うことなのか、私にはよくわからない。とにかく、ひとつのエントリに対して感想を持つということは、例えば物語を一冊読んだだけで、仮にその世界観に胸を打たれたとしても、作者がどんな人かとか想像したりしない(私の場合)事に似ている。

ただ確かに、書かれているとき、書き続けられているとき、そして読まれている間、その世界は生きる。その点では、書物もid:誰かの「日記」も同じだ、と私は思う。

しかし、サイトやブログの場合、その魅力はやはり「続くこと」にあるのだとも思う。ブクマを集めたエントリ1本を読むのと、更新を追いかけて読むのとじゃまったく印象が違う。もちろん、どこを切り取っても面白いところもあるし、そういうふうにできたらいいなぁと憧れることもあるけど、

やっぱり続けて読むからこそ、浮き彫りになる部分というのはあると思うし、それこそがこちら側、読み手側からみた「向こう側のひと」で、それはもちろん「中の人」を知る事とは違うんだけど、その影、のようなものと言えなくもないのではないか。私はそれに興味があって、

id:誰かの更新停止は、その向こう側の世界ごと、いなくなってしまうことを示しているように感じる。だからさびしい。

でもそれと同時に、例えば物語が終わったあとも、その主人公たちは死ぬ訳ではなく、なんとなく続いているように感じられるときというのもあって、その生活の、意識の感触がどこかですれ違うことも、ないわけではないのだと、信じたい気持ちがある。

書くことは手を振る事に似ていて、たまにだれかから、手を振りかえされたような気持ちになる。やあやあやあ、ごきげんいかが? そんなふうに。

そして、こちら側にいる限り、できるのは手を振ることくらいだーと思ってしまうのは、なんでなんだろうなと思う。その辺は、まだもうちょっと考えてみたいと思います。

2007-11-10

[][] 「ぼくらの」1〜7巻/鬼頭莫宏

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

ずっとIKKIで読んでた作品ですが、弟がコミックス買ってきたので既刊分一気読みしてみた。

ひとりひとりのエピソードを数話かけて展開していく形式なので、雑誌掲載時も物語をおいやすい作品ではあるのだけど、こうしてまとめて読むと、やはり勢いが全然違うなぁと、思う。

物語は、臨海学校に集まった少年少女が、ジアースという巨大ロボットに乗り込み、地球を守るために何者かと戦うことになるところからはじまる。やがて、ジアースは人の生命力によって動いているため、一度操縦者に選ばれたものは死ぬ、ということがわかり、物語はそれぞれの、人生観のようなものを描いていくことになる。

つまり、自分の死が目前にせまった状況は、その人にとっての大事なものや、核心を浮き彫りにする、というのがこの物語のテーマなんだろうけど、それはこの「ぼくらの」でも、多くは、他人との関わりの中にある。

しかし戦っている相手の姿が見えるようになる頃、連載時にも非常に印象的だったチズとその姉、そして切江のエピソードのあたりから、少しずつその世界の中心が自分である人物から、輪郭に視線がある人物へ移っていくように感じる。

「あなたは好むと好まざるとにかかわらず もうすでに生命の犠牲の上にある」っていう台詞の後、切江がとる行動は、相手もまた自分であるということ、について示しているのだろうなと思うし、その後にくるコモの発表会の場面とか。すごく好きなんだけど。

今の私は、その視線が、その先に続かないことが単純に惜しいと思う。それが当たり前の反応なのかもしれないけど。

関連

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20060615/p2

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070705/p2

2007-11-09

[] 昔話/電車

今朝、飲み物を買おうとキオスクを覗き込んで、ふと、隅っこにボンタン飴が並べてあるのに気づいた。まだあるんだな、なんて視線を戻しながら、あの首筋がぞっとする感じを思いだす。

子どもの頃、おじいちゃんおばあちゃんの住んでる家に行くとかで、わりと定期的に、母さんと電車で出かけていた時期があった。弟が一緒にいたから、私が小学校に入りたての頃だと思う。

O線の青いシートに並んでいるときは、あちこちを見る余裕があって、楽しかった。立て膝で窓の外を覗く。流れていく町なみ、緑、遠くの煙突が、2本、でかいボーリングのピン、空き地の真ん中におかれたマネキン、鉄橋、川、川原で釣りしたり走ったり野球したりの、人人人、そして駅。私が嫌なのは駅だった。駅に着くたびシートに座り直し、母さんの服をつかんだりした。

それでもたまに、母さんは私をおいて、ひとりで電車の外にでていってしまう事があった。今思えば、あれは各駅と急行の待ち合わせとか、そういうんだったってわかる。でも、私は母さんが、いちかばちかの賭けをしてるみたいに感じた。電車がとまって、発車するまでに戻ってこれるかゲームみたいなものなのかと思っていた。

「お菓子買ってきてあげるね」とか、言われるたびに、ぞっとした。けど、ベビーカーに乗った弟をおいていくわけにもいかず、私はハラハラと窓の外の母さんを目で追いかけた。

そんなとき、母さんが買ってくるのはきまってボンタン飴だった。一度、思わず「いらないよそんなの」といったら、ひどく傷ついた顔をしたので、ああ意味が間違って伝わってしまったと、たぶんあのときはじめてそういうことを思ったような気がするけど、それでも母さんは、毎回ボンタン飴を買ってきた。そういう人なのだ。買い物で迷わないというか、同じものばかり買う。ホームパイとか、歌舞伎揚げとか、卵豆腐とか。誰も食べなくても、母さん自分で食べるから。でも、あの「いらないよそんなの」は、ボンタン飴がいらないっていうんじゃなくて、ただ置いてかないでよっていう、ことだった。

そうか、そういうの、子どもの頃からうまく言えなかったりするんだなって、思う。思いながら、飲み物の代金を払い、振り返ると電車が滑り込んできた。吐き出される人々は、どれも知らない顔ばかりだ。なんとなくそれには乗らず、あのとき、電車の中から見つめた、母さんの背中を思いだしていた。

プラプラとのんきそうに歩き、時折立ち止まっては何か(たぶん時刻表だろう)見たりしてる。その背中を追いかけながら、もう、はやく走ってよ、と祈った自分の切実さを、思う。

そして、その心配の仕方はかわるけれど、大切なものがあるというのは、ああいう気持ちを持つ事でもあるんだよなーとか、思ったりした。

うん、まとまらないので、続きはまた今度。

2007-11-08

 向こう側のひとたちへ

何度も同じこと書いてる気がするけど、何度でも書く。

好きなサイトやブログが、停止したり閉鎖したりするのは、やっぱりさみしい。身構えていてもいなくても、なんかこうみぞおちらへんにくるものがあります。

以前、ある人に「伝えるべきことは伝えられるうちに伝えるべき相手に伝えるべきだー、と思う」と言われて、そうだなぁって、それからはなるべく、そうしよう、そうしたいと思ってきた。でもそれは、読めなくなることのさびしさを減らすものではないから、やっぱり、さみしいはさみしい。

それはきっと、続いていたものが、終わるからなんだと思う。

特に何度かやりとりをさせてもらった相手の場合、「これに反応して書きたい!」とか「書いたの読んで欲しい!」という気持ちで書いたりしたものが、この日記にもぼこぼこ埋まっているわけです。私はそういうのがすごく嬉しかったし、楽しかった。

でも、今日もまたいつものようにメモ帳開いて、何か書こうとして、ふと、あああの人はもういないんだ、と、思ったりすることもあって、

じゃあ私は、誰に向かって、と、手がとまることもあるけど、

でも、なくなったブログのあとには、何か穴のようなものが、残っていて、私が何か言いたくて、メモ帳開くその時も、向こう側は続いてるんだということを思いだす。そうするとすこし、安心する。

結局、ブログに書いてることなんて切り取られた部分だ。

読んだり読まれたりで傷ついたり傷けてしまったりすることもあるかもしれないけど、それはその人の「部分」でしかない。どこを見せてるかなんてわからない。

でもだからこそ、ひっかかったものはちゃんと見たいと思うし、その言葉が続いて行く中には本当のことがあると思う。と、この前言ったら笑われたけど、

ああこの人はSFと美少女が心底好きなのだな、とか、この人は不器用なほどに誠実なんだなぁとか、メイドさんとはその後どうなのとか、「終生、楽しさ保証つき」ていう言葉のこととかね。

何度も思い出して、考えてる。そして、私が考え続けてる間は、まだまだ終わんないんだぜェーーっていう往生際の悪さをアピールするためにも、私はとうぶん、ここにいると思います。たぶんしばらくしたらまたこういうこと書くね。何度も何度も、同じこと書く。それはつまり、ありがとう、とか、好きだ、とか、そういうこと。

killhiguchikillhiguchi 2007/11/09 23:00 ブログは部分にしかすぎない。それは決してその人総体ではありえないし、その人などというものがいるのかどうかさえ怪しい。その通りだと思います。
 けれど、部分ゆえに、どこまでいっても部分でしかないゆえに、その人の永続性は担保されているのではないかと信じています。全部見せられたらそこで終わりでしょう?
 切り口を、断面を、裂け目を、界面を、たくさん見せ続けてくれる、それゆえ私の中に像を更新し続けてくれるichinicsさんに感謝。

ichinicsichinics 2007/11/11 19:34 rbさん、こんばんは。ありがとうございます。自分の中にそのサイトの場所ができていた、というような、本とは違う、文字の力みたいなものが、例えばサイトとかブログには、確かにあるような気がします。なんなんでしょうね、この感じは…。なんていうか、あったこともないのに、人としてみてるみたいな。不思議な感覚です。
killhiguchi さん、こんばんは。うれしい言葉をありがとうございます。「全部見せられたらそこで終わり」ということについて、いまちょっと考えています。そうかもしれない、けど、でも全部見せるって、可能なのかなぁとか。いくら積み重ねても全部にはならないってことは、とても心強いようで、なんだか切ないことのような気も、しないでもないというか…。だからやっぱり、言葉の端々でも、触れたと思うような部分があると、うれしくなるのかもしれませんね。

2007-11-07

[] 昔話/フォークダンス編

昔から私は、なにかイベント事のあるときに限って、体調を崩したり怪我したりすることが多い。とくに好きな男の子関連の行事とかが近づいてくると、注意力散漫になるのか、土壇場になって、おじゃんとかそういうことがよくあった。

例えば、クラブの試合見に行くって約束したのに、風邪ひいたとか、クリスマスだかで約束してたのに、電車からおりるときに足はさんで、担架とか、誕生日に遊園地行ったら、最初の乗り物で、事故った(ゴーカートでフェンス突っ込んだ)とか。

そんでこの前、といっても二週間以上前だけど、風邪ひいて会社休んで寝てたとき、思いだしたのが小学5年生のときの、フォークダンスのことだった。

いちばん最初の島田(仮)君の話。何が最初かっていうと、私はいままでに3人の、島田(仮)君を好きになったんですけど、これは小学生の時の、最初に好きになった島田君の話で、という意味です。ちなみに好きになる人っていうのは、一見すると脈絡がないようで、どこかしら共通点があったりするのが面白いものですが、例えば、これまで付き合った人のうちなんと3人も(!)おんなじフランク・ザッパのポスター(ザッパが便器に腰掛けてるやつ)を部屋に貼ってたときは、正直のろわれてるのかなーとか思いました。

ともかく、最初の島田君の話。

小学校5年生の時、運動会でフォークダンスをやることになった。そんで、体育の授業のたびに、男女ペアを組まされ、練習を重ねていたわけです。そういうのってたいていあいうえお順なんだけど、フォークダンスは背の順だった。私も、島田君も、それぞれクラスでいちばん背が高かったから、あれ、もしかしてって期待したんだけど、そういえば男子は女子よりひとり多くて、島田君は先生と組む事になってしまったんだった。なんてことだ。なんでだー! なんなんだー! とか思いながら、私は私と組んでたノモト君(仮)、お休みしないかなーとか思ったりした。ごめん。ノモト君はいつもジャンプ回してくれるいいやつだった。私も「火の鳥」とか貸した気がする。けっこう仲良かった。でも友達だからって、お休みしないかなーなんて、思っていいわけなかった。

フォークダンスの練習があるたびに、私は横目でちらちらと、時に先生と、時にひとりで、踊る島田君を見ていた。島田君ちは大工さんで、彼も親譲りなのか、手先が器用だった。図工のときに、ていうか図工の先生も島田先生だったんですけど、島田君が釘打つの見て、あ、かっこいいなーとか、思ったのが、好きになったきっかけだった。釘たてて、ト、トントン、トンで吸い込まれてく感じに、おおーって思って、真似してみたけどうまくいかなかった。その、島田君の手を見てた。顔を見るのは、ちょっと恥ずかしかった。

そして、運動会本番の数日前から、他のクラスとの合同練習がはじまった。そこではじめて、他のクラスとの人数調整(及び身長調整)で、私は自分が島田君と組めるんだってことが、わかったのだった。わかったとたんに、なんかもー照れくさくって、自分が見てる分には無遠慮なくせに、こういざ面と向かうと目すらあわないっていうか、でも照れてるってばれたらどうしよーとか、思ったりして。走って家帰って。

次の朝、目が覚めたら、熱が40℃こえてた。インフルエンザだったのか知恵熱なのか、よく覚えてないけど、とにかくそれからしばらく学校休むはめになってしまった。

運動会当日も、私は居間のソファに寝かされていた。寝ている頭の、左ナナメ上くらいから、運動会の音「天国と地獄」とかパーンッていうスタート音とか、歓声とか聞こえてくる。そしたら、なんだかすごい泣けてきて、

これはきっと罰があたったんだと思った。

そういう話です。後から聞いたところによると、島田君はノモト君と、踊ったそうです。どっとはらい。

2007-11-06

[][] ヨルムンガンド3巻/高橋慶太郎

ヨルムンガンド 3 (サンデーGXコミックス)

ヨルムンガンド 3 (サンデーGXコミックス)

なんだかんだ、好きな漫画です。

1、2巻がでたとき(id:ichinics:20070425:p3)にも思ったんだけど、絵柄が、アクションや、動きについていってない感じは否めないのだけど、面白い構図やアクションのイメージは伝わってくるし、わかりづらい部分があっても、わりと読んでいる方が補完して読める印象があるのが、面白い。

設定や、ちょっとしたやりとりの展開に、いろんなものの影響を感じたりもするけど、魅力的なキャラクターも多いし、もうちょっと続いたらぐっと面白くなる転換点がきそうなわくわく感もある…ってなんだかすごくえらそうですけど、うん。タイトスカートまくり上げてカンフーってあの場面とか、いいねーと思いました。

[] おはよう

近頃は、元気なんだか凹んでるんだか、よくわかんない気分で、ピーズ聴きながら……けどそんなんは何の解決にもなんないんでしたーじゃーん的な開き直りとか、ま、飲んでりゃきのうも見えるダーローとはよくいったもんだねって、まぁいいか、いやいや、んー、いっか。というとこをぐるぐる回っていた。回りすぎて疲れたけど自力で戻ってきたのでエラいということにしておこうと思う。戻ってないけど。だって、それはまるで、糸の切れた、凧。とか。

なんて具合の秋っぽい心持ちで過ごしながら、考えていたのは感情を円い水盤に例えるとするなら、意識はその上で、あちらこちらに揺られているようなものなのだ、ということ。

はっきりと境目があるわけじゃないし、うれしいに片足突っ込んだまま、頭はかなしいにあったりとか、揺れたり、流れたり、混じったりする。そんでたまに、その円形からはみ出してしまうこともある。あるね。あるんだよ。そんで、

喜怒哀楽、どちらの方角だろうが、水盤からはみ出した感情というのは心もとなくて、それはプールに穴があいたようなもんだから、外側に出てくか内側に撤退するかはともかくとして、流れてかないように意識は頑張って泳いでみたりもするんだけど、

まあ、そんなときはコントロールなんてできないですよねと、思う。で、結局プカーと浮かびながら流されて、あいた穴見て、途方に暮れてるような、このどうしようもないスースーした冷たさが、せつないなぁとか、思いながら、

もしも、この水盤から全ての水が出て行ってしまったら、意識はどこに残るんだろうな。そんなことを、想像して、考える。そんなふうにしてやっと、自分の視線の起こし方を思いだす、ような、懐かしい冬の朝です。

2007-11-05

[] コーヒーがぬるいわけ

23時、駅には向かわずに曲がり角を、左、右、左。ひとつ折れるごとに明るさのボリュームが小さくなっていく路地の奥にある部屋の、キッチンには白い薬缶があって、その底は茶色く焦げていた。焦げているなぁと思いながら、湯が沸くのを待つ。その足がかじかむのを冬になると思いだす。

湯が沸くと、その薬缶はドの音を鳴らした。もう少し高温になると熱すぎた。ドの音くらいでとめるのが、ちょうどよいと思って待ちかまえていた。たまに、夜中にコーヒーが飲みたくなって、湯を沸かしはじめるのだけど、じっと火を見ていると眠くなって、立ったまま眠ってしまうこともあった。

私の特技は幼い頃から立寝なのだ。立ったまま眠り歩きながら細切れの夢を見る。ほらむかし駄菓子屋で買った、組み立て式の飛行機みたいな感じで、意識は軽く、意外と遠くまで飛んで行く。いまこことそことどこかと、例えば眠ってばかりいた学生のころ、制服のブレザーの袖に隠したイヤホンから流れてたのは、トランジスタラジオ、ではなくて、

低いドの音が鳴ると、浮かぶのはあの大きな管楽器の音だ。卒業式の入場曲は威風堂々。1人1言叫んで立ち上がる思い出のかけ声、みたいなあれで、私が好きだった男の子は「氷砂糖のあの甘さ」と、かすれる声で、言った。

それは六年生の遠足のくだりだった。私は学生時代の遠足以外、山登りなんて一度しかしたことないけれど、そのときはもう氷砂糖よりも、水筒に入れたコーヒーを、楽しみにしていたなぁ、とか、思いだして、ふと気づくと湯が沸いている。

火をとめる。その瞬間ここがどこだかわからないほどに寝ぼけていて、いくつもの自分が大急ぎで集まってきて整列する、そのよそよそしさを他人事のように見つめながら、どこからでもはじめられるような気が、することもある。

そして眠気の群青色が褪せるにつれ、その自信とか確信みたいなものも遠ざかっていくのだけど、もしかしたら、1人くらい足りないままなんじゃないかとか、コーヒーを飲みながら話した日のことを、夢に見ていた。

そんなわけで、私が入れるコーヒーは、いつも少しぬるい。

2007-11-04

[] cutman-booche/曽我部恵一BAND/キセル@代官山UNIT

ichinics2007-11-04

3日の夜にいってきました。

今日は目当てのキセルから。朝霧ぶりだけど、なんだかすごく演奏が大きくなってるような気がした。よかった。ラストに、朝霧で聞いた新曲「君の犬」をやって、やっぱりいい曲だなと思う。「掘っても 掘っても 指先に触れるのは やわらかな 思いで」ってとこが、やっぱりたまらない。

曽我部恵一BANDの時には、脇で座ってたので最初誰だかわからなかった。あ、いいなと思ったら曽我部さんで驚く。今やる「青春狂走曲」とか、ああ、いまこんなふうになったんだなって思って、私がよくサニーデイ聞いてた頃のこととか思い出して、うん、まあ時間が経ったなとかいうことを思う。なんだっけ、真夜中の電話、とかそんな語りから入るあれ、あれすごくよかったな。深夜、三時半かそのくらいに、眠れなくて、電話するっていうあれ。

cutman-booche の頃には完全にくたばっていたというか、もう座り込んでウトウトしておりまして、申し訳ない。ただなんかいろいろMCを聞くに、なんていうか、あやういなぁとか思った。どうなんだろう。ああいうさらけだし方というのは、諸刃だよなと思ってしまう自分の心の狭さを思いつつ。

見終わった後は友達とご飯食べて、冬になったねぇ、11月だもんねぇ、あっという間に来年だねえ、とかいいながら、帰った。

[] 鼓膜の向こうと、こちら側

朝早くから、妹と出かける。父からもらった展覧会のチケットがあったので、それを見にいって、うむ、すごいね、しかし混雑しているね、日曜日だからね、なんてことを言い合いながら、近くの神社でおみくじ引いたりして、いい天気だった。

朝から耳の調子が悪くて、鼓膜が、凹んでるなぁなんて思いながら、ぼんやりしていると、すぐに「どうしたの」と訊かれるので、適当に思い出した話とかして、例えば小学生のとき、バレンタインにさ、みんなで好きな子にチョコあげることになってさ、とか、昔火事になったお寺の、入ってすぐのとこにあったお地蔵さんぜんぶに名前つけてた話とか、みんなで旅行いったときに、妹がパスポートなくして見つかったとき、あれ、なくしたってちゃんといってくれてよかったよねとか、そういうこと、しゃべりながら、しゃべる自分の声があまりにも近くて、鼓膜の向こうとこっちが全然別の世界みたいな気持ちになって、すこし焦る。それは自分の声というより、耳の奥に、何かがいるような気分で、言葉はすらすらと流れるのに、わたしは耳の奥のことばかり、考えていて、そしてふと、こんなふうに、自分の中にあるのに、自分の手でもとに戻せないこともあるのだということを、思いながら、じっと手を見る。

指が曲がってるんだよねと、思う。両手の中指が、そっぽを向いている。見れば妹の指も同じような形をしていて、なるほどねぇ、なんて思いながら、そういえば、いつかもそんな話したよなあって、少し笑う。どうしたの? と訊かれたので、耳が変なんだよね、と言うと、もうそれは聞こえるようになっていた。

2007-11-03

[] FFTA2

ファイナルファンタジー タクティクス A2 封穴のグリモア

ファイナルファンタジー タクティクス A2 封穴のグリモア

発売前にアマゾンに予約したはずなのにやっときた…というわけではじめてみました。久々のシミュレーションゲーム。

とりあえず説明書読まずにはじめてみたんですけど、FFTAやってればまあなんとなくわかるような、感じかな。物語の雰囲気もすごく近いし。あとはアビリティとか調べるのに、攻略サイトが充実するのを待つばかり(横着)。

来るの待ってる間にちょっと萎えてしまったところはあるんですが、まあしばらくDS触ってなかったし、楽しみ。

[] 波のあいだ

朝起きて携帯みたら、すごく珍しいというか久しぶりの人からメールがきていて、そんで、なんか元気がないんだよーどうしたんだろーわたし、みたいなことがかいてあって、すこし動揺した。それはたぶん、心配っていうのに近いけど、でも「できるだけ元気でいてください」という、ちょっとずるい気持ちでもあって、それでも、いますぐ行って、なにか愉快な話ができたならいいのになぁと、思う。彼女とは共通の思い出も少ない。だけど、すごく楽しかった思い出があるから、あれのこと繰り返し話すのでも、全然かまわないのだろうなと思う。会うたびに、同じ思い出について語ったって、きっと補えない部分はたくさんあるから、だからそのときのためにいま、思いだそう、なんて、携帯握りしめたまままたウトウトしてたら、わたし昨日のことよりよく覚えてるよ、ってあの子がいうのを、きいたような気がした。

2007-11-01

[][] ラウンダバウト 1巻/渡辺ペコ

ラウンダバウト 1 (クイーンズコミックス)

ラウンダバウト 1 (クイーンズコミックス)

渡辺ペコさんの1話完結連載第1巻。

ああ、わたしこういう漫画大好きだなー!て思いながら読みました。

同じ学校を舞台に、いろんな視点から描かれる「回転銀河」(id:ichinics:20070828:p1)とかと同じ方式の連載作品なのですが、ごく短い期間を幾重にも描いている感じと、登場人物が、すごく普通なのがおもしろい。普通ってなんだって話ですが、たとえばキャラクターを描くってことは、ある特徴がクローズアップされるってことだと思うんですけど、この人の、この漫画で描いている少年少女は、もちろんそれぞれの個性がありつつ、それでいて一面的じゃない感じがするんですよね。それが時に印象をぼかすこともあるとは思うんですけど、うん。いいなぁと思いました。あとはやっぱり、女の子側からの、第二次性徴というか、そういうのの描き方も、自然だなと思った。

ブリッジの場面が好きです。

さらに、これがまだ連載中ってのがうれしいな。二巻が楽しみだ!

[] ハミング・スイッチ/二階堂和美

ハミング・スイッチ

ハミング・スイッチ

二階堂さんの新作ミニアルバム。

日産マーチのCMソング、が一応メインになってるんですけども、その他のカヴァー群がもう、すばらしい。ニカセトラの夏模様編を聞かせていただいたことがあって、その中にはいっていた「真夏の果実」や、「関白宣言」「卒業」それと松本隆渋谷毅さんの未発表曲「つるべおとし」、などが収録されています。そしてこれがどれもいいんだ!

人の曲、とくに有名な曲をやるときに、すでにあるイメージに寄っていくタイプのものと自分の側に引き寄せる人といると思うんですけど、二階堂さんの場合は完全に後者で、そしてこの人の歌うラインを聞いちゃうと、もう耳がそっちに寄っていってしまう気がする。

この、元曲のラインが重なってしまいそうなほど有名な曲でも、引き寄せてしまう威力はなんだろうな、と考えていて、それは、やっぱり、二階堂さんの歌が、懐かしいからなのかもしれない、とか思う。いつかの、親密な空気の中で、聞いたことがあるような、そういう歌い方をする人だ。のびやかで、やさしくて、健やかな。

your song is good と競演している「関白宣言」はもーかわいくって、転げ回りたいくらいだし、「真夏の果実」は、わたしサザンちょっと苦手なんですけど、地元の友達にサザン大好きな子がいて、そのこの車のるたんびにかかるこの曲すらもう二階堂さんの声に上書きされてしまい、「卒業」は、大好きな曲なんだけど、かなりオリジナルのラインに近く歌ってるのに、アレンジが違うだけでこんなに色がかわるんだな、とか、「つるべおとし」は、カヴァーだけどはじめて聴いた曲で、これとても悲しい曲なんですけど、なんかもう胸にせまるとこがあってね、「しみるんです」てとことか松本さんぽいな、とかとか。

そしてラストを飾るのは「Lover's Rock」の弾き語りバージョン。いいなぁ。このやわらかいギターの音と、鼻歌とかが、音との距離をぐっと縮める感じがして、たまんないです。

[] 最近

日記を書きたいと思っているのだけど、毎日何をしているのかよくわからなくて、結果、最近は思い出話ばかり書いているような気がする。でもまあ、思い出すことというのはわりとたくさんあるし、それを書くのはとても楽しい、というか、思い出すという作業自体が、好きなんだと思うんですけど、そんなとき眉間のあたりをちらちらするのが「何を見ても何かを思い出す」という言葉のことなのだった。

どうやら、ヘミングウェイの短編小説らしい(なのかな?)ということは知っている。ヘミングウェイといえば、マッチョ、というイメージがあり(どこで得たイメージなのか不明)いままで敬遠してたんですが、そろそろ読んだ方がいいのかなぁ、とか考えつつ、

でもほんと、何を見ても何かを思い出すんだよな、と思う。ただ、まったく新しい、初めて見るものというのもたぶんあって、そういうときにはきっと、いつか思い出す何か、が生まれてるんだろうなと思う。……とか、昨日書いたけれど、でもほんとうに、そうだろうか。思いださないものってあるだろうか?

例えばタイムマシンが目の前にあるとする。タイムマシンなんてこれまで見たことない。でも、それはいろんな物語と繋がり、素材(なんだろう、鉄? )や形状から、何も思いださないなんてことはきっとない。

そう考えると、初めて見るものっていうのは、もしかすると、個性、なんじゃないかなと思える。

それがタイムマシンである、ということを知ったとき、それはやっと「新しい、初めて見るもの」になるんだろう。その、知ると知らないの境目ってなんだろうな。

ichinicsichinics 2007/11/20 11:58 kiyo さんはじめまして。コメントありがとうございます。そう、たしかに渡辺ペコさんの描く動作っておもしろいですよね。このラウンダバウトも、踊りの練習してるとことか、おかしいんだけど、でもありそうな感じで。
はやく新刊でないかなー、とか、楽しみにしている作家さんです。そういう人があたらしくできるのって、うれしいですよね!