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  □これまでの日記一覧

2007-11-18

[] コピーロボットと私をわけるもの

三たびコピーロボットについて。もうすでにパーマンという作品から離れた「コピーロボット」を想像しちゃってるような気もするのですが、この(id:ichinics:20071116:p1)エントリにいただいた、ululunさんからの反応を読んで考えたことを書いてみようと思います。

以下、枠内の引用はすべて「いつの日か、私の鼻を押しに来る者がいる - 煩悩是道場」より。

コピーロボットが鼻を押された瞬間に「私」の自我を持ち、おでこを触れた瞬間に「私」を喪失したとしても、それは私たちが睡眠をとるようなものであるくらい当然の事だと考えればそれほど不思議ではないように思います。

鼻を押される側の自我は、おでこを触られた後、鼻を押されることで消失します。

その後再び鼻を押されれば「眠りから覚める」状態であり、鼻を押されなければ自我が覚醒しない、即ち死であると言えます。

前に書いたときは気付かなかったのですが、たしかに睡眠というたとえはイメージしやすくて、それにあてはめて考えてみると、コピーロボット自身に「もうすぐ終わる」という予感のようなものは、ないのかもしれないなと思いました。つまり、毎回リセットされているので、鼻を押されることの意味を知らない可能性の方が高い。つまりコピーロボット自身は自分が何度も終わっていることに気付いていなくて、ただ眠って、起きているだけのように感じているのかもしれない。

ところで、こうやって鼻を押す側/押される側について、考えているいまの私の視点は、

  • 「どちらか一方だけが私でありうる」

と思っています。つまり「鼻を押す側」というオリジナルがある、という前提の上で考えている。しかし、「鼻を押す側」の立場にたってみると、それは、

  • 「この特定の側が現に私になってしまっている」

ということなんじゃないでしょうか。

自分と全く同じ姿形をし、いまここまでの記憶を共有しているコピーロボットと相対した時、私はコピーされた「私」をどのような存在として見るのか。

自分のかわりに自分として扱われているコピーの姿を、おでこをくっつけあうことによって、見る。それが自分の記憶としてダウンロードされるのではなく、コピーの記憶として客観的に「見る」ようにダウンロードされるのだとすれば、コピーは自分とは別の自我をもった私であり、それを見ている私が「現に私になってしまっている」のではないでしょうか。

そして自分の体験していない「記憶」を持つものを停止させる、ということに、いつか抵抗をもつのではないか…と、そうでなければ、コピーロボットと人の違いはどこにあるんでしょうか。とか。

もしくは、私がパーマン何号かの家族、もしくは恋人などの、親密な関係にある者だったとして、ある日一緒に過ごしているところに、自分がオリジナルであると言う者がやってきたとする。そして、

「いまあなたと一緒にいるそれは私のコピーなんですよ」

といわれたところで、はいそうですかとその人が鼻をおされるのを見ていられるだろうか?

ある日、私の家に「私」がやってきて「コピーロボットさん、ご苦労さま」とにこやかに微笑みながらおでこをくっつけてきたらどうしようと思うのだけども、もしかしたらそれって「死」と同義語であるかもしれないよねとか、死神もしくは神と呼ばれる存在こそが「鼻押者」であるかもしれないと思ったんだけど(略)

そうして、この私がべつの私に引き継がれるというのは、どういうことなんだろうか。たとえば、鼻押者が神であり、オリジナル同士の世界、コピー同士の世界が別々にあるのだとしたら、それぞれ自律するのかもなーと思うんですが(そういうSF小説はいくつか読んだことがある)、もしも、この私だけが例外的にコピーであった場合、それでも「この特定の側が現に私になってしまっている」と感じている私の意識とは何なのか。そして、オリジナルと見分けはつかないとすれば、他者はどのように私とオリジナルと称する者を区別するのか、そしてその基準はどこにあるのだろうか。

もしかすると、それは私にではなく、そのとき一緒にいる誰かの視線とか、そういう偶然の足取りにあるのかもしれないなとか、思っています。

[] 冬の夜

夜そとを歩くと歯が鳴るほどに寒くて、もうだめだ、負けた、認める、冬の番だ、とか勝手に降参する。黒く、でも濁ってはいない空は高くて、ひとつオレンジ色した星があるなぁ、と見ていると、点滅したのでそれはたぶん飛行機だった。上を向いたまま声を出すと、白い息が降ることなく消える。

そして思い出したのは、白い息を、かきわけるように歩いた、いつかの冬のこと。その日はクリスマスで、私が塾帰りだったから、小学6年生のときだと思う。

今日の晩ご飯は豪華で、ケーキもあるよというのを聞いていたから、ずっと楽しみにしていた。なのに、塾の授業が(たしか冬休み前最後の授業とかで)長引いて21時すぎとかになって、時計を見るたびにはしゃいだ気持ちはしぼんでいって、そしてバス停まで迎えにきてくれた母さんの「もうみんな寝ちゃったよ」という言葉にトドメをさされ、わたしは “ブーたれて” 歩きはじめたのだけど、

ふいに「さむいさむい」とか言って母さんに手を繋がれた時の、びっくりするような、少し気恥ずかしいような、あの気分のことを思い出したのは、たぶん今、あちこちにクリスマスの飾り付けがしてあるからでもあって、まあまだ11月だし、いくらなんでも早すぎるよねぇ、とは思いつつ、季節ごとの飾り付けというものは既に見なれたものになってしまっているからこそ、例えば花のにおいや、日差しの感じと同じように、記憶を喚起することもあるのかもしれないな、なんて、言い訳をする。

あの頃にはもう弟が2人と妹が生まれていたから、母親と手を繋いで歩くなんて、すごく久しぶりのことだった。お祭りに参加しそこねたような、すねた気持ちを引きずりつつも、その早足に遅れたら手がほどけてしまうと思って、歩いた、あの足取りの切実さを思い、鼻の奥がつんとする、この空気の張りつめた感じは好きだと思う。むかしよりずいぶん、冬に慣れた。

ichinicsichinics 2007/11/20 00:08 そしたらコピーとも共存してけそうですね。間違えて鼻おさないように気をつけなきゃ。