「わたしはわたしの王女様である そしてその民である」

私の中で、大島弓子はずっと特別な漫画家だ。最初に読んだ作品が何だったかは覚えていないんだけど、はじめて自分で買って読んだのはたぶん「ロストハウス」*1が新刊で書店に並んでたときだと思う。その後一気に買い集めて、文庫版も買い、毎月一冊づつとかで選集も買いそろえた。一作読み終えるごとに、うわー、と大声あげたくなるくらい、おおしまゆみこ、という名前は私の中で特別なものになっていった。
それは「24年組」という言葉を知るより前のことで、だから「ロストハウス」からさかのぼって初期の作品を手に取ったときは、その絵柄に驚いたりもしたけれど、しかしやはり描かれているのは純然たる大島弓子だと思った。

しかし、私の感じた「大島弓子」とは、たぶんすごく個人的なことなのだとも思う。作品を客観的に見るよりも、作者の意図を読み解くよりも、そこにある「なにか」が自分だけのもののように思えることが大事だった。

わたしはわたしの王女様である そしてその民である
「8月に生まれる子供」

じぶんはここにいていいのか/ほんとにここにいるのか、いつか世界の底が抜けるんじゃないか…なんて、口にはださないけどまとわりついてる漠然とした不安に、大島弓子の描く主人公達は触れている。そして、彼女たちの肌を通して、わたしもその感触を思いだす。
わたしはひたすら、わたしだけだ。
そのことをあらためて確認し、彼女たちとともに、私は毎朝ハッピーエンドを迎えるのだ。

私が好きな漫画の中には、読んでいて楽しい、続きが楽しみでたまらない「乗り物」のような作品も多くある。それも私の受け取り方のひとつだし、その作品に自分だけの「物語」を見る人もいるだろう。ただ、大島弓子は特に、その作品を大切にしている多くの人にとって、「自分だけの物語」になっているのではないかと思う。
そんなふうに物語は、一度語られたら受取手ごとに複製されるものだと私は思っている。

ところで、あれだけハッピーエンドを描くことにこだわっているのに、大島弓子を読んでいて作者のエゴを感じないのはなんでだろう、とたまに不思議に思う。でもそれは感じないのではなくて、もしかしたら作者と物語の距離が極めて近くにあるからなのかもしれない。そして、その距離が、読者と物語の距離に通じることはあるのかもしれない、と思う。
わからないし、そのままでいい。好きとか嫌いとかでもない。ただ、私にとって、大島弓子の物語を読む事は、自分について考えることに似ている。