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  □これまでの日記一覧

2011-09-06

[] どこでもドアの向こう側

どこでもドアが恐ろしいというまとめが面白かったです。

あれは体そのものワープしてるわけじゃなくてドアをくぐるとき

記憶からから全てデータを取り出現場所に再構成している仕組みらしい

http://chaos2ch.com/archives/3014201.html

自分の中で「どこでもドア」は、ドラえもんの道具の中でもあったらいいなと思う道具ナンバーワンなんだけど、空間に穴を開けるみたいなイメージだったので、その発想はなかったなーと思った。

仮にどこでもドアがこのようなものだったとして、とりあえず、なんか問題あるかなーと考えてみる。

自分が使う分には、問題ないような気がする。

もしも故障したらと思うと恐いけれど、あちら側の視点に引き継がれた時点で、こちら側の自分オフになるのなら、特に恐いとは思わないような、気がする。

考えてみれば、どこでもドアをくぐってあちら側にいった自分の残骸みたいなものは、じつはあちこちに残っているのかもしれない。例えば、その残骸に触れるたびに、すっかり忘れていたことを突然思い出したりする、とか。その残骸と自分が繋がっている証拠はどこにもないけれど、ただ思い出すことで、今にやって来るんじゃないかなと思う。

ただ、身近な人がどこでもドアをくぐるとき、上に引用した設定を知っていたら、自分は止めたくなるような気もしていて、

それは、自分に関しては連続していることを(実際は連続していないとしても)感じることができるけれど、他人の連続についてはわからいから、のような気がするけれど、それはどこでもドアがあってもなくても同じなはずで、じゃあ私たちはどうやって昨日のあの人を今日のこの人とつなげているのか、それは「記憶」だけじゃないはず、というのが「あなたのための物語」に書いてあったような気がしているんだけど、まだいまいちピンときていません。

どこでもドアあったらいいな

2011-07-25

[] 隣の人の、読んでいる本

今日見かけたこんな人が、こんな本を読んでたんだよ、という話を聞くのは、たぶん楽しい。もし隣の席の人が自分も読んだことのある本を読んでいたら反応が気になるし、以前通っていた喫茶店では、よく見かける人が自分も読んでいたSF小説を読んでいることに気づいて、それから密かにその人が次になにを読むのか気にしていたりもした。そして、そのことを twitter に書いたこともある。

それなのに、Twitter流行っていた(いまも続いてるのかは知らない)「BookSpy」のまとめを見た時には、なんかいやだなーと思った。

「BookSpy」というのは、町でみかけた人がどんな本を読んでいるかを報告する twitterハッシュタグで、もとはニューヨークではじまったらしい。

もともとは、ちらっと見かけたページや表紙の雰囲気からどの本か当てる、というとこが楽しみだったのかもしれないなと思うんだけど、自分がみかけた書き込みの多くは、読んでいる人の容姿と本の組み合わせを楽しんでいるもののように感じられた。

特に、着ているものや持ち物について細かく書き添えてあるものは多く(本家ものもそうみたい)、中には見かけた路線も書いてあったりして、きっと本人がみたら自分のことだとわかるだろうなと思えた。そこに悪意はないんだろうなと思うんだけど、書いてる方は、相手が自分のことだとわかる可能性に無頓着に見えたことが気になった。

もし、それが誰かの日記に書いてあったのなら、単純に「これ自分のことだったらすごい偶然だなー」って思う気がするんだけど、ハッシュタグをつけていると、発言が個人でなくタグイメージになるせいか、どこかの掲示板に書かれているのに似てるような気がした。

もちろんそれはまとめを見た程度の私の印象でしかないし、いろんなひとがいろんな本を読んでいるということを知れるのは面白いだろうなと思う。

ただ、今はもう、ごく普通のことをしているだけで、例えば電車内で本を読んでいるだけで、誰かに「実況」されているのかもしれなくて、それが「普通」なことになっていくのかなと思うと、やっぱりなんかいやだなーとも思う。

とはいえ、見ていると自分も「見られたい」と思っている人もいるみたいだし、自分だって町でみかけた人が気になって何か書いたりすることはある。どこまでがありで、どこからがなしか、というのは人によって異なる感覚だと思うんだけど、自分にとっての境がどこにあるのかはなるべく意識していたい。

私は明日もきっと通勤電車の中で、眠そうな顔で文庫本を読んでいるだろう。仏頂面に見えるかもしれないけど、実は笑うのをこらえているかもしれないし、たまにうとうとしているかもしれないけど、それは本が退屈だからとはかぎらない。そして、隣に座った人が自分の好きな本を読んでいたら、友だちになりたいなと思うかもしれない。

そういう気持ちと、そんなに遠くはない気はするんだけど。

2009-10-25

[] 人それぞれ

脳は、私の無数の体験や記憶を頼んでもいないのに勝手にリンクしてくれる。それは無闇なリンクではない。私にとって最も適したリンクはどんな形なのかを十分に見きわめる。また、状況の変化に応じてリンクの有無や濃淡を常に更新していく。ただ黙々と。しかもなおさら脳が素晴らしいのは、そうした体験や記憶へのリンクを、ときどき勝手にクリックしてくれることだ。まるで居眠りしている私の肩をたたくように。

http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20091018#p1

日記を書き続けてみて時々思うのが、この日記全体が私をどの程度表すのだろうということだ。

例えば、私が記憶を失った状態でこの日記を読んだら、これを書いたのが自分だとわかるだろうか。かつての「私」の気持ちを、考え方を、理解することはできるのだろうか。

たぶん、無理だろうなと思う。記憶の無い状態で読む私の日記はもう他人のものだし、他人の気持ちはたとえ想像できたとしても、知ることなどできない。自分のそれが写真だとしたら、人の気持ちは、たぶん似顔絵のようなものなんじゃないか

しかし、記憶こそが「私」なのか、といえばそれもまた違うだろう。それは上に引用した tokyocat さんの文章にあるような形で、今に作用する材料になるだけだ(たぶん「だけ」だろう)。

ならば、その作用を行う「脳」とは何なのだろうか。

もしも複数の脳にまったく同じ経験を与えたとしたら、同じようにリンクをはるのだろうか? もしそうでないなら、そこにも私の個性のようなものがあるのかもしれない。

そう考えれば、私が今思い出すことも不安に思うことも、個性のひとつであり、これがもし「私以外」の脳であれば、なんということもない/もしくは意識ものぼらないことなのではないか

きっとその通りなんだろうなと思う。よく言う「人それぞれ」というのは、なにも性格の話だけでなく、足が速いとか絵が上手いとかと同じように、脳がどのように記憶を整理するかというところにもあらわれているのだろう。

つまり「私」というのは何も意識だけから形作られるわけではなくて、そのような不確定要素(脳の働きを計算できるのかどうかは知らない)の上に浮かんでいるものなのではないか。もし、それが不確定でなかったとしても、意識「以外」の要素があることは明らかだ。

なんだかすごく当たり前なことを書いているようだけど、そう考えてみれば「人それぞれ」という言葉の見え方くらいは少し変わるんじゃないかと思った。