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春野町で暮らす山里日記 いちりん堂/楽舎 (池谷 啓)

2018-06-23

こうして自分にも人の心に共感するという広がりが出てきたのだなあと

運転免許の更新に行ってきた。2つくらいの子を連れたお母さん、両親が3組ほどいた。小さい子は家においておけない。預けられるところがなければ、連れてくるしかないわけだ。

違反者の講習など、2時間もある。子連れにはたいへんだ。別に、キッズルームがあって、同時中継しながら受講できるようになるといいとおもうけれども。

2つくらいのの子を連れたお母さんは、最後列でおもちゃを与えながら聞いている。子どもは退屈だ。声を出す。動く。それを制しながら、お母さんは聞いている。子どもの気持ち、お母さんの気持ちは痛いほどつたわる。

かつての独身時代には、そうした風景は、まったく気に留めなかった。むしろ、子供はやっかいでうるさいと感じていた。

わが子がいると、子どもたちの動き、それを世話する親の気持ちなど、手に取るように共感できる。それはまあ、いとおしいものだ。胸がじわあーっとする。

子供はみんな可愛い。たどたどしい言葉でお母さんと話ししている姿。よちよちあるく姿。そんなすがたを愛おしく感じられるのは、自分に子供ができたからで、これは体験して初めてわかったことだ。

かつては幼い子供やそのお母さんと、会話しようなんて思わなかったし、会話の糸口など見当たらない。それが、いまでは、子供に話しかけている。そのお母さんやお父さんに話しかけている。

まあ、こうして自分にも人の心に共感するという広がりが出てきたのだなあと思う。こうしたことが、ひとつの人生の幸せというか、彩りというか、奥行きというのか。そのあたりが、自分にはもっとも欠けていたところなんだと思う。

「いまここ」にあることのキーは呼吸だ。

なにをしていても呼吸を意識する。そういう暮らしを組み立てていく。

いまキーボードに入力しているときも、呼吸。立ち上がるときにも、歩くときにも、食器を運ぶときにも呼吸。コーヒーを飲むときも呼吸。動きながら呼吸に意識を向けていく。布団の中にいる時。もう、四六時中、呼吸にある。

そうはいっても、これはなかなか難しい。すぐに頭は考え事を始めてしまう。でも、気がついたら、あ、呼吸に戻ろう。呼吸だと。その程度でいい。

心配事、もやもやがあるときなど、鳩尾に手を当てて、横隔膜の動きを手のひらで味わうといい。これをくりかえしていくと、ずいぶんとラクになる。そうして、さあ坐るぞという時には。きちんと背筋を立てて、首を立てて、丹田呼吸法がいい。

つねに呼吸に戻る。そのことは、つねに「いまここ」にあるということにつながる。「いまここ」にあることのキーは呼吸だ。

2018-06-22

呼吸の動きを手のひらで味わう

呼吸にもどる。つねに呼吸を基軸にする。還るべきところは呼吸。そういう意識で暮らしてみている。そのことで、エネルギーが湧くのを感じる。不安が静まるのを感じる。

呼吸法は、腹式呼吸でも胸式呼吸でも、丹田呼吸でもなんでもよいと思う。自分の吸う息、吐く息に意識を向ける。呼吸に気づいている。

不安、恐れ、心配、イライラ、悲しみ……そういうものは、だいたい鳩尾(みぞおち)あたりが詰まってくる。重たい。鬱な感じ。そこに暗いエネルギーが貯まる、狭められ、閉じ込められている感じ。

そこで、手のひらをひろげて、お腹に乗せる。鳩尾に親指を置く。小指はヘソのちかく。

それで、呼吸の動きを手のひらで味わう。息を吸うと鳩尾部分が広がる。息を吐くと縮む。その動きを手のひらで感じる。呼吸とともに起きる身体の動きを手で感じる。

これを繰り返していくと、なんだか安心してくる。苦しさも減ってくる。落ち着いてくる。そういう体感がある。

息をするとともに、身体は膨らむ・縮むを繰り返す。それを、鳩尾の部分で感じとる。手のひらで味わう。

……これが正解だとかはないと思う。禅では、気功では、ヨーガでは、いろいろあると思うが、自分で手さぐりで探求し、自分で体感し、自分にあったものをつかんでいくというところ。日々探求。そして、これはとてもおもしろいことなのだ。

免許証更新に行ってきた

免許証更新に行ってきた。きょうがぎりぎりの締切日だった。視力検査はコンタクトレイズの度数を落としているので、あやうく落ちそうだった。

交通安全講習が2時間も。もうぜったいに退屈な時間。居眠りもゆるされない。メモしていてもダメ。もちろん本も読めない。ただ聞いているだけ。なんにもおもしろくない。

みなさん真面目に聞いていた。日本人て、すごいな。ぼくは椅子の上で結跏趺坐して、ひたすら丹田呼吸法に集中していた。

呼吸が一番大切と、あらためて確認

久しぶりによく眠れた感がある。こうしてちゃんと眠れば、心身は元気になる。眠りがいちばん。

そもそも不眠症で寝つきも悪い、眠りも浅い、起きてもすっきりしない。そういうことが、何十年も続いている。パソコンでいうとCPUがいつも動いていて、スイッチオフにならないわけだ。それでは、疲れてしまうのは当たり前。ときに、頭が暴走することにもなる。

それでもたまに、ああよく眠れたということがある。月に一度、あるかないか。

ちゃんと眠れるにはどうしたらいいのか、そこが難しい。体を動かせばいい、といわれる。けれど、田んぼやら畑でしっかり体を使っても、眠れるわけでもない。

昨日は、あまりに心身がしんどくて、ため息ばかりついていた。くらーい波動を発していた。そこから逃れるために、いろいろ試して、坐禅にもどった。眠れたのは、その坐禅効果なのかどうかは、わからない。

ともあれ坐禅の実感として、やはり呼吸法だ。呼吸が一番大切と、あらためて確認した。とくにヘソした10センチの「丹田」というところを意識して呼吸する。まずは、ここが基底部と感じる。

この何十年、ヴィパッサナーやらヨーガやら気功法、いろいろな瞑想を試してきた。あたりまえのことだが、いちばんのキーは、呼吸にある。とくに「吐く」息。ながーく、ながーく吐く息。そのときに、丹田を意識するとしないては、力感に違いがあるように感じられる。

丹田に力を入れるという言い方もできるし、丹田を意識するとも言える。調和道やら心身医学の呼吸法など、YouTubeで検索。自分が納得のいく、体感的できる呼吸法を、あらためて探求していくことになる。

2018-06-21

ここはやはり坐禅だ。呼吸だ。丹田呼吸だ。

頭の中がいっぱい、いっぱい余裕なし。パソコンでいうとRAMが満杯。そうなると、イライラするし、焦るし、不安も渦巻く、怒りも出てくる。しかし、どうしようもないんだなあ、これが。

そうだ、お経をよもう。お題目でも真言でも念仏でもいい。となえてみたが、どうもしっくりこない。お経をよむ元気も湧いてこない。

そんなとき、かつて泊まり込みの坐禅会のことが思い起こされた。35年も前のことだが。

真冬だった。朝の4時から夜の8時くらいまで坐っていた。和尚から、しこたま警策で打ち据えられた。3日目には、ものすごく元気になって、エネルギーが満ちていった体験をがある。

丹田(たんでん:ヘソの下5〜10センチくらい)に力を入れよ。吐く息に力を込めよ。下腹は火をおこす「ふいご」のようになれ。思いきりだ。吐く息になりきれ。

和尚のそういう言葉を思い出した。ここはやはり坐禅だ。呼吸だ。気づきの瞑想というよりも、丹田呼吸だ。

足は結跏趺坐。吐くときに下腹に力を入れる。これを40分ほどやってみた。ずいぶんと全身に力が満ちてきた。すこし頭の中も整理されてきた。心境も澄んできたぞ。すこしずつクリアーになっていく実感。

坐禅を離れても、こうしてパソコンを打つときでも、下腹には力を入れている。自然に下腹に力がはいれば「上虚下実」(じょうきょかじつ)で、上半身はわりとリラックスできるものだ。

白隠は言う。

わが気海丹田は、本分の家郷

この気海丹田は、唯心の浄土

この気海丹田は、己身の弥陀

はっきりしているものを、しっかりやるだけ

遠くにある漠然としたものに、不安を感じる。恐れを感じる。あるいは逆に、そこに希望を見出したり、夢を託したりする。

そのことで、いまを失う。

たいせつなことは、はっきりしているものを、しっかりやるだけ。それは、手の中にちゃんとあるのだから。

きょう一日だけ。あるいは、午前中だけ。いや、いまここでやることだけ。自分ができること、自分が扱うことのできること、そこをはっきりさせる。そして、そこに集中する。

まあしかし、なかなかそれができないんだなあ……。

えらい人の言葉を持ち出さなくてもいいとは思うけれど、うん、そうだと感じたので……。

トーマス・カーライルの言葉。ぼくは、カーライルの本は、一冊も読んだことはないけれど。

「大切なことは、遠くにぼんやりしているもの見るのではない。自分の手の中に、はっきりとあるものを実行することだ。」

Our main business is not to see what lies dimly at the distance, but to do what lies clearly at hand.

「to do what lies clearly at hand」という言葉がいい。

そして、有名な聖書の言葉。

「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらう。一日の苦労は、その日一日だけで十分だ。」(聖書 マタイによる福音書)

2018-06-20

プライドを削り落とされることで完成に近づいてゆく

なるほどなあ……。諦めたり、自分には無理だとやっと気がついたり、身の程を知ったり、限界に気がついたり、ひとつひとつ削られていく。おれが、というプライドは、しかし、ずっとついてまわる。

以下、Twitterから。

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彫刻は、削られることで完成に近づいてゆきます。人間も、余分なプライドを削り落とされることで完成に近づいてゆきます。成長とは、大きくなることではなく、むしろ、本当に必要なものだけを残して削り落とされることなのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父

2018-06-19

子ゆえにこそ、よろずのあはれは思ひ知らるれ

「子ゆえにこそ、よろずのあはれは思ひ知らるれ』(子どもがいるからこそ、よろずのあはれ=趣、哀しみ、共感、を知ることができる)

むかし読んだ「徒然草」の一節が浮かんでくる。

子育ては、すごくたいへん。でも、学ぶことはたくさん。とくに人を愛することを学ぶというところ。なにしろぼくは、人生でもっともたいせつなこの基本を疎かにしてきたような気がするのだった。

育は親育ち、と。痛感。もっと若い時に育てればよかったんだけれど。みんなが下山して、やれやれとのんびりしているとき、無謀にも、さあこれから富士登山と。いや、エベレスト登山級かなぁ……。大丈夫かなあ。そんな心境。

「徒然草」の一節を引用してみる。吉田兼好の言いたいことは、じつはこの後段にあるのだが、長くなるので割愛する。

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心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷(あらえびす)の恐しげなるが、かたへにあひて、『御子はおはすや』と問ひしに、『一人も持ち侍らず』と答へしかば、『さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ』と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かかる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。 (第142段)

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心がないかのように見える者でも、よいことを言うものだ。東国の荒武者で恐ろそうな者が、かたわらの人に向かって、『子どもがおりますか?』と聞く。その人は『子どもは一人もいない』と答えた。

すると荒武者は「それでは、物の哀れさを知らないでしょうな。情愛のない心というのは恐ろしいことです。子どもがいるからこそ、よろずのあはれを知ることができるものです」と言った。

たしかにそうであろう。恩愛の道があればこそ、このような荒くれ者にも、慈悲の心が涌くものだ。親孝行の心を持たない者でも、子どもを持つことで、親の心を思い知ることができるのだろう。

2018-06-18

さながら仙境の世界。だが、杉と檜ばかりでは。

ひとり黙々と鍬をふるう。ガチッ、ガチッ。こんな急勾配の畑だ。敷地内に先祖の墓がある。このおばあさんは90近い。さながら仙境の世界と感じた。

惜しむらくは、南面が杉ばかりなこと。これが広葉樹だったらなあ……。かつて至るところに杉や檜が植えられた。それらが生長した。しかし、伐ることはできない。伐れば赤字になるだけだ。杉や檜は、どんどんと上に伸びて、景色は見えなくなる。日陰になる。山里はそんなふうになっている。

手前の石段は、かつて栄えたお寺に至る道。祈祷寺院で遠方から参拝者が絶えなかった。しかし寺の長女が、ガソリンを本堂内にぶちまけて全焼させてしまった。8年前のことだ。

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聖地を見つけられたら、人生の大きな財産となる

自分だけの「聖地」を見つけること。

そこは、ひとり静寂にしていられる。気がいい。風が通る。清流がある。日当たりもいい。木陰もある。祈っても歌ってもダンスをしても、まったく気兼ねがいらない。

そうした自分だけの安心な空間。それが聖地。

見つけられたら、人生の大きな財産となる。まあ、ここはその一つになりそう。ふいと歩いていけるのがすばらしい。

ほんとうは、わがやをそうした聖地にするのが一番。仏間とか風呂、寝室、庭、どこかひとつ落ちつく空間をつくる。たった半畳でも。

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2018-06-17

メッセージ、ヒントが、ひらめきがやってきたら、即「書く」のがいい

考えがまとまったら「書く」という人がいるが、たぶんそれだとなかなか書かない。ついには書けない。

書くことで考えがまとまる。書くことで考えを深めていく。ぼくはそういうやり方だ。

といって、なにも浮かばなければ書けない。

メッセージ、ヒントが、ひらめきがいのち。それがやってきたら、即「書く」のがいい。

1行でも書いておけば、そこから展開していける。

「着手」すれば、かならず進む。進めばおもしろくなる。欲が出る。完了まてもっていける。そう思っている。

「自分史」を書こうとしたら、たとえば「履歴書」からでもいい。10行くらいをまず書く。いつ生まれて、どこで生まれて、両親は。そして、どこの小学校、中学校……そして、仕事は。

そして、ヒマな時、きょうは小学校の思い出を書くぞ……、きょうは新入社員時代のことを書くぞ、きょうは結婚したことを書くぞと、……と少しずつ広げていけばいい。

ただ、それだと長い編年体の自伝になるので、まったくおもしろくない。だれも読んではくれない。

人に読んでもらおうとすると、出だしは「客引き」が必要。竜頭蛇尾型というか、いきなりトップスピードでいく方式。

「突然、うつ病に罹った。毎日、死んだらどんなに楽になるだろう。そんなことばかり、毎日考えていた……」

……みたいな書き出しから、書くとか。「刑事コロンボ」のドラマがいきなり殺人現場から始まって、あれ?どうなっているんだ。そして、コロンボが普通出てきて、うちのカミさんが……みたいな展開だ。

ま、そんなアドバイスを友人にしたのだった。

毎日、書くとリズムがついて、楽に書くけるようになる。そのツールとしてはFacebookはとても有効だと思っている。

以上、自分のまとめのために書いた。

あちこちにアートフルなものが

河原を散歩していると、あちこちにアートフルなものが。そんな目で見てみると、たくさん。これもまた、山里の宝物。ま、しかし拾ってきても、置き場に困るだけなんだけど。

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気分転換と早足歩きの筋トレを兼ねて

きょうも暑い。気分転換と早足歩きの筋トレを兼ねて、一日3回、ランの散歩にいく。すぐちかくには、気田川の涼し気なエリアがたくさんある。ほとんど誰もこない。ランの涼み場、ぼくひとりの瞑想エリアとしてひっそり利用している。

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2018-06-16

東京」より「センスある地方」のほうが断然いい という話

これから住むなら「東京」より「センスある地方」のほうが断然いい―と、内田樹☓平田オリザ☓藻谷浩介の話。

平田オリザの劇団は、いま東京の駒場にあるが、兵庫県・豊岡市に移転するという。豊岡市は、コウノトリで有名。

首長は県にコウノトリの郷公園を作らせて、周りの農家を説得して無農薬の田んぼを広げていった。冬でも田んぼの水を抜かないようにし、コンクリートで固めたあぜ道も全部壊して、生き物が通れるようにした。無農薬米も売れている。

豊岡市には、有名な城崎(きのさき)温泉がある。市民なら65歳以上は温泉が無料と聞いた。たしか5つくらい温泉がある。雪が降る地域だと思うが、温泉がたくさんあるのは魅力的。

この対談の続きで、岡山の奈義町の話も興味深い。なんと出生率が2.4という。

「議員さんを減らし、そのぶん子育てと教育支援をしっかりやろうと、すごく頑張っている。次世代に向けて投資をしよう、ということをいち早く始めたのが功を奏して、津山で働いてる若い夫婦が雪崩を打って奈義に住むようになったんです。車社会なので、30分圏内ならどこに住んでも同じなんで奈義を選ぶ人が多くて」と平田オリザは語っている。

http://bunshun.jp/articles/-/7671

たいせつなのは、国語力。日本語の読書力。そして、作文力。会話力。なにより、自分で考える力。

英語が話せたらいいのになあ。そういう場面がよくある。もっと楽しい旅もできる、友達もできるし、仕事の可能性も広がる。

中学から習い始めて高校、そして大学でも履修科目に入っていた。でも結局、話せない。ざんねん。

英語ができれば、いい大学にいける。いわゆる「いい大学」が、いいのかわるいのか、知らない。しかし、競争は有利なほうがいいとみんな思いこむ。

なので、国語力をアップするよりも、英語力の点数稼ぎのほうが効率がいい。ということで、受験英語はちゃんとやった。難しいものはいちおう読めた。

バートランド・ラッセル、ロバート・リンド、サマーセット・モーム、ハックスレーみたいなのやつだ。現代文明がどうたらこうたら、みたいなものばかりだった。

で、受験勉強には、読解と文法はあっても「会話」はない。だから、話せない。ああ、もったいない。若い日の時間とエネルギーが。

そもそも話せないのは、その必要性がなかったから。そして、ガイコクの人と話す機会もなかったから。

ぼくが初めて外国の人と英語をつかったのは、カナダの空港にいた女の子に話しかけたときだ。どんなスポーツが好き? みたいなことを聞いたら、聞き返された。

sportsとRの発音ができないと伝わらない。マザーだって、ちゃんとmotherとthの発音ができないと、伝わらない。それでもまあ、通じるのだった。しかしネイティブの人と話には、臆することになった。

初めてインドを旅した。ヒンディー語やベンガル語など、200くらい言語があるのだ。広大なインドでは通じるのは、英語しかない。そうして、インド人も英語は不得意だ。さらに、インド人の英語は聞き取りやすかった。かれらも、Rの発音もthの発音も得意ではない。

masterは、マスタラという。thousandは、タウジャンドと発音していた。ああ、これでいいんだ。そうおもって、気持ち的にはラクに会話できるようになった。

日本の山里に暮らしていて、英語を使う必要性はまったくない。英文など、自動翻訳で瞬時に意味がとれる。また、モバイルに自動翻訳機が入って、会話も瞬時に変換してくれるようになるだろうな。

たいせつなのは、国語力。日本語の読書力。そして、作文力。会話力。なにより、自分で考える力。そう感じる。

2018-06-15

熟した梅の実

ランの散歩コースは、気田川の河原。そこに大量の熟した梅が落ちていたので、拾ってきた。20キロくらいあるかな。

まずは冷凍しておく。暇な時、砂糖とともに炊飯器にいれておけば、甘露煮ができあがる。梅ジャムもかんたん。

山里には、あちこち梅の実が放置されている。わがやの敷地にもたくさん。枇杷も熟している。そろそろ杏も熟してくる頃だ。今年は、せめてこうした自然の収穫だけでも、やってみよう。

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世界の少数民族や日本の歴史ある祭を訪ねては撮影

観光化されておらず、その集落だけで数百年、千年以上にもわたって継承されている祭がある。

山田武弘さん(79歳、浜松市中区)さんは、そうした世界の少数民族や日本の歴史ある祭を訪ねては撮影してきた。

これまで訪ねたのは、北インドの標高3千もあるレーやラダック、西インドの孤島、サハラ砂漠や中国奥地の少数民族の集落。

また、民俗芸能の宝庫と言われる三遠南信(三河、遠州、南信州)の天竜川水系、全国各地の祭や神事など。

その整理の仕方がすごい。祭の起源や歴史、式次第などをまとめて冊子(100ページ余)としている。

これまで10冊以上にもになる。「長野下伊那・新野の雪まつり」「奥三河と北遠の花の舞」「秋田・チャグチャグ馬子」「宮崎・銀鏡神楽(しろみかぐら)」「秋田・大日堂舞楽」「山形・黒川能、山口・岩国行波の神舞(いわくにゆかばのかんまい)」「浜松市・西浦田楽(にしうれでんがく)」など。

こんなにきちんとまとめられているなら、広くみんなに見てもらうといいですね、と言うと、「いやぁ、自分自身のまとめ、研究として作っているだけなんだ」という。毎年、改訂しては研鑽を深めている。

祭というと、酒を飲んで大騒ぎしたり、観光化されて見世物的になっていくものも多い。けれども自分たちの集落、集団だけで、神への祈りとして、感謝として捧げる祭があるのだ。そうした祭に出会うと、心打たれるものがある。

浜松市天竜区水窪町の「西浦田楽」などは1300年余の歴史がある。奥深い山里、しかも真冬の夜に行われる仮面劇だ。月が出てから始まり夜明けまで行われる。能や狂言の起源とされる。

ただ、日本各地のこうした貴重な祭は、過疎高齢化によって継承が困難になってきているのも事実だ。

ぼくはいま「西浦田楽」の冊子作りをはじめているので、そのために山田さんをお訪ねしたのだった。写真と資料がほしいというと、「好きに使っていいよ」と気前よく貸してくださった。

また、インドの写真が3千枚くらいあるというので、来年、インドのスライドとトークイベントをやりましょう、ということになった。

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2018-06-14

日暮れて道遠し。行き先わからず。けれど、日々歩むだけ。

12年間もサラリーマンをした。その会社がイヤになったら別の会社に移り、そしてまた別の会社と。それぞれ、大きな一部上場企業だった。若いので、そういうことができた。

しかし、会社人生、ぼくにはやはりダメだなあ。なにかちゃんとしたワザを身につけなければ……。そう思ったが、さて、何をしたらいいのか、わからない。

職安に出かけて、求人カードをながめていた。世の中にはいろいろな仕事があるものだと思った。

松竹の歌舞伎座で小道具を管理する仕事、真珠の養殖と営業、霊障に悩んでいる人の仏教カウンセリング、地獄の猛特訓の講師、就職する人の身辺調査の仕事、台湾での日本語学校の教師……。

たくさんあった。歌舞伎座で小道具係なんて、実におもしろそうだった。

若かったこと(そのときは37歳だった)、東京だということ、独り身で自由が効いたこと。いろいろ可能性があったわけだ。

そんなとき、縁のあったお坊さんから、出家しないかと誘われた。臨済宗、日蓮宗、真言宗からそれぞれ。

しかしまあ、インドに数年放浪して、考えればいいかとも思った。ダライ・ラマの養育係を務めたというカーギュ派の坊さん(カール・リンポチェ)からも、お前はここで出家しろと迫られたこともあった。どれもふんぎりがつかなかった。

そんなとき、2行の新聞の求人広告をみて、編集プロダクションに入った。たった一年だったが、本作り、雑誌の取材、映画づくりなど、いろいろ体験させてもらった。

それからフリーになって出版の世界に入るようになった。仏教書と医学書の編集やお寺や大学の新聞を作ったりした。いまでもほそぼそと続いているわけだ。

世の中、仕事はいろいろある。若ければ。大きくて安定した会社人生もいい。けれど、仕事を通してワザが磨かれるのかどうか、ワザが暮らしを支える。そもそも、その仕事が好きでないと続かない。力を発揮しえない。そこがポイントだなあと思う。

日暮れて道遠し。行き先わからず。けれど、日々歩むだけ。確実な収入と不確実な収入という両輪を 回しながら生きていく強靭さが求められる。

葛の葉の勢いがすごい

歩くのが筋トレに一番。ランを連れて、早足20分、一日3本。あかりの肩車散歩、30分。これを日課にしている。

気田川では鮎釣りをしている人たち。葛の葉の勢いがすごい。

葛の葉や 釣り人じっと 佇めり

葛の葉や テトラポッドも なんのその

葛の葉や 流れもはやし 気田の川

葛の葉の からむコンクリ 橋の下

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2018-06-13

山の中にブラジル人の教会が

山の中をクルマで移動していたら、突然、こんな看板が。

あれ? なにかホテルかな。いやこれは、どうも宗教施設みたいだ。うん、そうだ。きっと、ブラジル人の集う教会だろう。

山の上から太平洋の望むことのできる、なかなか快適な空間。しかしまったく人里離れた森の中だ。

もともとのリゾート施設を買ったのかもしれない。ちなみに、こうした施設が山奥にはたくさんある。解体するのも費用がかかるので、放置されている。公共施設もたくさんある。多くはバブル期にできたものだ。

それらが競売になったり、入札制で、宗教団体が二束三文で買って活用するという流れもある。

たとえば、春野町でも自己破産した競売物件の10棟を、ある宗教団体(プロテスタント系)が落札して、そこを集会所にしている。

ところで、友人がこの近くに大きな空き家を持っていたのだが、ブラジル人の神父さんが買いたいという話を聞いた。おそらく、この教会の神父さんだと思う。

ということで、訪ねてみた。ブラジル人の留守番の人だけで、会話は難しかった。

あとで調べてみると、ブラジル人が100人くらいあつまって集会をよく開いているようだ。映像を見ると、活気があってなかなか明るい。下記サイトに集会の映像あり。

その帰りに、日本の古刹を訪ねたとき、「ご祈祷のお布施をする人以外、参拝お断り」と言われたのであった。

https://www.facebook.com/sourceoflifeapostolicchurch/videos/1729534777095266/

https://www.facebook.com/sourceoflifeapostolicchurch/videos/1729534777095266/

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朝の光、朝の空気、朝の静寂

朝の光、朝の空気、朝の静寂。それが山里の暮らしの宝だ。

いろいろな鳥が鳴いている。ちーちー、ぴっぴ、ほーほきょう、がーがー、くわくわっ。

水の音がちょろちょろちょろ。川の畔を歩けば、どうどうどう、ごごごうーー。

あかりを肩車して、朝の散歩。筋トレも兼ねて。光と音の神秘をあじわう。

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2018-06-12

日本山妙法寺の浜松道場を訪ねた

先日は、日本山妙法寺の浜松道場を訪ねた。雨の中、ちょうど庵主さんが帰寺されたところだった。インド布教40年という森田上人をお迎えての集いを主催(6月3日)して、上人はこちらに宿泊していただいた。庵主さんにお世話になった。

まずは本尊に向かって、ともに南無妙法蓮華経とお題目を三唱。そして、尼さんに挨拶。お寺を訪ねる時には、お寺の中核は本尊=仏さまということで、まずそちらに挨拶するわけだ。日蓮宗系の場合には、南無妙法蓮華経というお題目が、いわば挨拶のことば。帰るときも、同様になる。(宗派によって、いろいろ雰囲気は異なる)

道場主の尼さんは、50で出家された方で、ひとりで仏様にお仕えしている。団扇太鼓を叩いて原発反対、核兵器反対などの行進をよくされている。どこに行くにも、つねに黄色の法衣だ。檀家はいないので葬儀などの法事はほとんどない。加持祈祷もされない。

日本山妙法寺の創始者の日達上人、宗祖の日蓮聖人、依経である『法華経』談義で盛り上がる。

『法華経』は、固定観念を外して読むと、日蓮の教えと行動には、『法華経』と矛盾しているところがみえてくる。そんな話から始まる。

日蓮は「勧持品」の偈を身で読んだというが、それは迹化の菩薩の誓願の言葉。釈迦の教えは「安楽行品」に示されている。さらには、本化というからには、地涌の菩薩のようでなくてはならない。また、日蓮は故意に『法華経』の開経である「無量義経」の文句を曲げて引用している箇所もある。

また『法華経』それ自体、雑多な経典の寄せ集めで、「観音経」やら「陀羅尼品」やら複雑。日蓮系は、南無妙法蓮華経第一と言いながら、「陀羅尼」を呪するのはおかしい。日蓮は他宗派、とくに真言密教を批判するが、結経である「普賢経」には、釈迦如来=毘盧遮那仏(すなわち大日如来)という言葉もある。

日蓮の消息文は、第一級の名文で、文章に勢いがあって鼓舞される。だがその多くは、日蓮の滅後、宗祖の名によって書かれたものが多い。すなわち、偽作、あるいは真偽未決。それらがじつに名文である。たとえば、「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」あるいは「種種御振舞御書」などたくさん。

ほんとうに日蓮を学ぼうと思う時、それは真筆に依るのが正しい。立正安国論、開目抄、観心本尊抄、撰時抄、報恩抄などの真筆あるいは曽存の五大部と。

それから、法華経の行者の霊能の人、祈りの力、三大秘法の戒壇についての話も。

そんなぼくの話を庵主さんはおもしろがって聞いてくれて、目からウロコが落ちるようだ、驚いた、おもしろいと言っておられた。

山里に移住してから、こういう話をする相手がいないので、楽しい語らいの場になった。ふらっと訪ねては楽しく談義ができるお寺があるのは、ありがたいこと。

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2018-06-11

自由に訪ねて参拝できるお寺は少ない

自由に訪ねて参拝できる。祈ることができる。瞑想ができる。そのことでお金もかからない。

本来、お寺というものは、そういう場だったと思う。けれども、なかなか自由には訪ねにくいのが実情だ。

理由のひとつには、お寺が「寺族の暮らしの場」になっている。「お坊さんの家」なのだ、家庭となっているからだ。

なので、突然、知らない人が訪ねてくると「なにか御用ですか?」ということになる。「参拝したいのですが」というと、「あんた、だれ?」みたいに、迷惑そうな顔をされる。それはよく体験した。

もうひとつは、防犯の問題もある。有象無象が自由に立ち入ると、事故があったりする。盗難や火事もこわい。

先日は「檀家以外は立入禁止」と断られた。立て看板にも書いてあった。きょうは、ご祈祷してもらう人以外ダメ、と断られた。

そこは、真言宗の古刹。1200年余の歴史があるお寺だ。本堂の外からは、本尊のお姿はよく見えない。仏像の近くで拝みたい。「参拝したいので上がってもいいですか」と聞いてみた。

するとお寺のスタッフが、間髪入れずに「ダメです! ご祈祷の人だけです」という厳しい声。

ご祈祷ということで、しかるべきお布施(3千円〜)しないと本堂には上がれない。料金表がちゃんと掲げてある。

本堂は、厄払いとか安産祈願とか、合格祈願とか、坊さんに祈祷してもらう人だけが許される。お坊さんは、そのたびに、お経をよんで太鼓を叩いて真言を唱える。

まあ、お寺も維持費を考えたら、やはりタダで参拝させる訳にはいかない。そして、防犯上の問題もある。

ところでぼくはこれまで、インドを13回旅をしている。インドは、いたるところにヒンドゥーの寺がある。

そこは、だれでも自由に参拝できる。祈りのエネルギーに満ちている。お金も取られない。まあ、プジャリ(祭祀をするバラモン)になにか祈祷をお願いする時には、お布施はすることになると思うが。

お寺の社会的な意義とは、なんなのだろうか。お坊さんの役目とは。そこも考えてみたい。

2018-06-10

カタリバ 連続3回 〈看とり〉と〈おくり〉

カタリバ 連続3回 〈看とり〉と〈おくり〉 きょうパンフレットを作ってみた。8月に開催。日程と会場は仮のもの。デザインもこれからブラッシュアップ。財団の助成(印刷費と会場費など)と浜松市の後援はいただいた。

今回は、とくに講師を招かないで、参加者同士の語り合いをメインにしようという企画。じつは聖隷ホスピスや在宅医療の医師などに打診していたが、いろいろ大掛かりの講演会になってしまいそうなので、あきらめた。

これまでいろいろ企画してきた経験から、みなさん、やはり自分のことを語りたい、いろいろな人の体験を聞きたいというところ。

そうなるとファシリテートに力量がいる。そこは今回のぼくの挑戦。やってみないことには、わからない。

また仮のパンフレットなので、お気づきの点、アドバイス、いたければありがたいです。

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2018-06-09

気田川の奔流を眺めては

日中の暑いこと。気田川の流れにざぶんと入って体を冷やすラン。ぼくは、気田川の奔流を眺めては、しばし瞑想のひととき。

川音に しばし苦しみ 逃れたし

奔流に しばし苦しみ 離れたし

奔流の 猛る響きに 苦を離れ

奔流や つめたき風に 苦を離れ

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山田武弘さんの作品のスライドショー

インドの奥地、アフリカ、秘境と呼ばれるところも訪ねて写真を撮っている。昨年、個展でお会いして、一年ぶりに電話。覚えてくれていた。写真家、山田武弘さんの作品。78歳。

作品の一部をスライドショーにしてみた。全29枚。URLをクリックすれば、3秒毎に写真が変わる。

山田さんの写真のスライドとお話の集いを企画してみたい。まずはインド編から。明日、お訪ねして打ち合わせの予定。

https://docs.google.com/presentation/d/e/2PACX-1vT7j-XJqHDFYNbdFoD4z_yaqSv5GaRJZzJJ8PHUKIg5i2ZpyRzdogx1aBBvMYOdzI8BnvM95jTx4_6t/pub?start=true&loop=true&delayms=3000

〈看とり〉と〈おくり〉のカタリバ 企画

親戚の葬式に行ってきた。一日がかりだった。長くご無沙汰とていた親類や、導師をされていた和尚ととも語り合った。

やはりいまの葬式、良い点もあるんだけれども、いろいろ原典からむ見直したほうがいいと思った。

そのためには、いろいろ自由に語り合いの場があるといいと思った。それで、企画してみることにした。

〈看とり〉と〈おくり〉のカタリバ

どうやって看とりたいか。看とられたいか。

どうやっておくりたいか。おくられたいか。

人の死は、やがて自分の死。

死を見つめることは、生を見つめることにつながる。

よりよき生のためにも、よりよき死のためにも。

それには、どうしたらいいか。

具体的に何が必要なのだろうか。

自分の体験を、自分の思いを、自分の計画を。

語り、耳を傾け、分かちう。ネットワークを作る。

期間は8月27から29日の間の3日間。

定員:20名 参加費:スナックと飲み物付き千円

2018-06-08

親戚の葬儀に出かける

これから親戚の葬儀に出かける。クルマで往復4時間。一日がかりの難苦行だ。

集落では頻繁の葬儀はあるが、だいたい通夜で済ましている。おなじ組の場合には、平服で駐車場係のような仕事になる。

なので、めったに礼服を着ない。さて服を探すが夏用が見つからず。仕方がないのでチェーン店で安い服を買いに行く。見たところ3万円も10万円も、それほど差異は感じられない。時間がないので裾は仮止めだ。

さて、葬儀に参列しても、親戚の人たちは、もうかなりの高齢なので、出てこられるかどうか。出てこられても、やりとりができるかどうか。お互い、ああ老けたなあ、ああもうそろそろかなあという感じになるかと思う。

ともあれ、お坊さんのお経を聞いて、しんみりしているだけだなあ。ま、葬式というもののありようを、しっかり体験してくるつもりだけど。

2018-06-05

無上宝珠不求自得と究境方便

「無上宝珠不求自得」(むじょうほうしゅ・ふぐじとく=無上なる宝珠、求めずしておのずから得たり)

この上ない最高の宝物。壊れることのない輝く素材。それが、求めもしないのに、自ずから得ている。

これは、『法華経』のなかにある言葉だ(妙法蓮華経 信解品第四)。仏という究極の真理、それはおのずとわが生命にある、という意味でもある。

あかりをみていていつも思う。このうえない宝物。それは求めずして、授かった。神さまのはからい。宇宙のはからい。まあ、ぼくたちには、たいへんな試練なんだけど。ともあれ、宝珠そのもの。

この人生、足りないものばかり。得られないものばかり。それを得ようとして努力する、苦労する、疲れる。そして、得られない。つらい。

しかし、もとより「得ている」。この上ない宝物を得ている。おのずと得ているのだ。

まさにこの自分自身という生命がそうだ。こうして生かされているという現実がそうだ。

そして、妻がいる。あかりがいる。仕事がある。友がいる。どうにか暮らしていけている。家もある。土地もある。健康もある。美しい自然がある。そうしたありがたい現実がある。もちろん、先行きは不安ばかりだけれども……。

幸福を外に求めたって得られやしない。求めるというのは我執だから。我執から得られたものは、また飽きて次のものに向かう。それを繰り返して人生は終わる。

それが苦(ドゥッカ=いつまでたっても不満足 unsatisfaction)という意味だ。それが仏教の教え、と。そういう見方もできるか。もとよりまだ、たしかな実感はない。

そうして、求めよ求めよ。追い求めよ。頑張れ。働け。そういう生き方もある。これはある意味では、「究境方便」(方便を究竟と為す)「化城即宝処」(化城がすなわち宝処なり)ともいえる。こちらは、いわば密教のとらえ方だ。これもまた真実と思う。

山里の日常

我が家の草刈りして、疲れて疲れて、気分転換にあたりを散歩。近所の人と立ち話。ぼくはだいたい気軽に声をかけていく。

ひさしぶりですね。元気ですか。元気だよ。あかりちゃんは、大きくなったでしょ。もう、ぼくは年とってるから体力なくて、たいへん、たいへん。でも子どもは可愛いよね。こんど、連れてくるね。

レタス持っていく。あれしい、ありがとう。ニンニクは。ありがとう。ジャガイモは。ありがとう。梅シロップは。うわあ、ありがとう。

と、まったく遠慮しないで、いただいてきた。くださるというのは、ありがたくいただくことにしている。でも、ぼくはなんにもお返しできるものがなくて、いつももらうばっかりんですけど。いやいや、たくさんありすぎて困っているから。もらってくればうれしいから。そんな話をしたのだった。

山里の日常

我が家の草刈りして、疲れて疲れて、気分転換にあたりを散歩。近所の人と立ち話。ぼくはだいたい気軽に声をかけていく。

ひさしぶりですね。元気ですか。元気だよ。あかりちゃんは、大きくなったでしょ。もう、ぼくは年とってるから体力なくて、たいへん、たいへん。でも子どもは可愛いよね。こんど、連れてくるね。

レタス持っていく。うれしい、ありがとう。ニンニクは。ありがとう。ジャガイモは。ありがとう。梅シロップは。うわあ、ありがとう。

と、まったく遠慮しないで、いただいてきた。くださるというのは、ありがたくいただくことにしている。でも、ぼくはなんにもお返しできるものがなくて、いつももらうばっかりんですけど。いやいや、たくさんありすぎて困っているから。もらってくればうれしいから。

そんな話をしたのだった。まあ、普通の山里の日常のやりとりだけど。

きょうも草刈り。わがやの草刈り。道の草刈り。

いかにして撤退していくか。それが難しい。攻撃と拡大は勢いがあってすすむ。楽しい。昂揚感がある。しかし撤退となると、これは至難。執着も強いしね。

太平洋戦争の日本軍がいい例だ。戦線拡大して、勝った勝った、どうだみたか。すごいだろ。しかし、やがては玉砕に次ぐ玉砕。ついには無条件降伏と。

もう土地はいらない、とつくづく。土地はいらない、山もいらない。小さな住まいと小さな庭と小さな畑があればいい、と。地元の人は、みんなそう言う。みなさん高齢だからね。

きょうも草刈り。わがやの草刈り。道の草刈り。住まいの敷地、事務所の周辺、栗畑にブルーベリー園、ぜんぶで2,000坪以上。その他、仲間でやっている田んぼと畑が1,000坪以上。そのうえ、管理している空き家もある。

まあ、きょうも筋トレのつもりでひとがんばり。さらには梅の実も30キロくらいはとったかな。あちこちの家では、梅の実は放置状態。うちもグミの実は取りそこねた。もうすぐプラムとモモが実るけど。

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2018-06-04

つらいぞ。草刈り。筋トレと思って。

事務所まわり、今年4回目の草刈り。200坪を40分で仕上げた。背負い式の草刈機での高刈りと二枚刃なので、おそらく普通の人の倍のスピードだと思う。

しかし、自分の家の敷地、栗畑、ブルーベリー園、さらには田んぼなど、おそろしいほどの草が茂る。これから、毎日、30分は草刈りをしなくては……。それでも追いつかず。筋トレと思って頑張るしかないわけだが。ああ、つらいこと。

いまのリアルなインドを聞けた貴重な体験 森田上人を迎えて

いまの「リアルなインド」を聞けた。身過ぎ世過ぎのために、インドでお坊さんをしているわけではなく、まさに体を張っての活動の体験が聞けた。

森田上人(70歳)は、日本山妙法寺の僧侶として40年間、インドで布教活動を行っている。いのちをかけてという面もある。なにしろ同僚のお坊さんは、ネパールで一人、スリランカで一人、殺されている。

すべてを天におまかせてというか、『法華経』の不軽菩薩の精神に立ってというか、潔くきっぱりと活動している。その力強さが響くお話であった。

昨日は、森田上人をお迎えしての集いを主催した。森田上人は、インドのムンバイ(ボンベイ)の日本山妙法寺の住職である。幼稚園も運営している。

インドの宗教間紛争(過去にヒンドゥーとイスラム、あるいシークなどとの争い、まさに殺し合うようなこともあった)のときにも、平和大行進(団扇太鼓を叩いて南無妙法蓮華経と唱えて歩む)など先頭に立って活動してきた。

師匠の藤井日達上人との出会い、インド各地での平和大行進、日蓮聖人の教えと立正安国の精神、いまのインドの実情。さまざまな宗教観の対立と融和。そんなことを語ってもらった。

ほとんど広報しなかったので参加者も少ない。講師には申し訳ないなあ。でも、森田上人は熱を込めてのお話を1時間。

だが、ちと固くて難しいかなあ。みなさん質問もしづらそう。さてどうしようか……。さいわい横田スワルナリさん(東インド出身)が、参加者のためにインドのスイーツと飲み物を用意してくれたので、テーブルを囲んでの語らいとした。

ちょっと食べ物が入ると、空気が和む。池谷が司会進行しながら、みんさんからの質問やコメントを促しながらすすめていった。3時間はすぐにたった。人数が少ないので、こういう有意義な語らいができたわけだ。そのあと、また隣の会場でやりとり。夕食をしながらの語らい。日本山妙法寺の浜松道場に移動してからまたお話と。

インドのこと、仏教のこと、お寺の運営のこと、ミャンマーの独立運動のこと、いろいろなことを語りあったのだった。とてもいい出会いであった。また次に来日された折に、お話していただくことになった。

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2018-06-03

本日(6/3)開催します。インドで布教40年の森田上人のお話。

インドで布教40年の森田上人(ムンバイの日本山妙法寺)をお迎えします。

6月3日に開催します。インドで布教40年の森田上人(ムンバイの日本山妙法寺)をお迎えします。鴨江アートセンター14時から。東インド出身の横田スワルナリさんもお話してもらいます。参加費は、ドネーション。

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https://www.facebook.com/events/121451718725433/

ひとり暮らしの不安は募る。もはや限界に近いという

昨日、図書館の帰りに立ち寄ったMさん。84歳、ひとり暮らし。いつも縁側に座ってよもやま話をするのだった。

この山里にはひとり暮らしの老人は多い。けれども、その多くは、近くに親戚がいる。血縁つながりが多い。さらには、子どもたちがクルマで1時間以内のところに暮らしているので、ちょくちょく訪ねてきてくれる。

だが、まったく孤立に近いお年寄りもいる。この方がそうだ。夫婦で春野でも秘境といわれる山奥から出てきた。本人は関西から嫁いできた。なので、近くにまったく親戚はいない。しかも頼りであった嫁いだ一人娘は、一昨年ガンで亡くしている。その夫は夜勤。孫はまだ小さい。

試練が次々と起きる。92歳になる夫は、認知症で施設にいたが、先週、介護施設から救急車で運ばれた。クルマがないので、病院に行くとなったら難行苦行だ。

バスで最寄り駅まで1時間ちかく。そこから、またバス。乗り継ぎが悪いと、2時間待つ。そうなると浜松駅まで電車で30分。そこからバスで1時間余。帰りもバスを待つこと2時間。また1時間もかけて帰宅。そのようなことで、一日がかりの見舞いとなる。気力も体力も使いはたす。

ひとり暮らしの不安は募る。もはや限界に近いという。しかし、いまの現実は現実。どうしようもないこの現実を受け入れるしかない。

自分はいつ死んでもいいと思っている。明日でもいい。84歳まで生かしてもらったのだから、人生はもう余録と思っている。そんな話をしたのであった。しかし、他人事ではない。いつか我が身にならないとも限らない。

ただこうして、語り合っていて、とても落ち着いた方である。ぼくのほうが、かえって安らかさをいただいているほどだ。

きょうはこれから、インドで40年布教した僧侶の講演会の主催をしているので、あかりも連れて、町中にでかける。朝、途中までクルマに乗せてさしあげることにした。いろいろと語り合いながら。ぼくにできることは、これくらいしかないけど。

2018-06-02

「霊的な悩み抱えた人との市井の坊さんのガチンコ奮闘記」みたいなもの

有名な大先生の本よりも、市井の無名の坊さんを探し出して、それを本にするのがいいんじゃないの。たとえば、「霊的な悩み抱えた人との市井の坊さんのガチンコ奮闘記」みたいなもの。

いま「密教」の本作りの企画をしていて、いろいろなお坊さんに聞いているところ。友人の坊さんからは、そう言われた。

なるほど、それはそうだ。しかし、そういうお坊さん、どこにいるのかなあ……。そう思っていたら、彼がいろいろ体験していたのだった。すこし紹介してみよう。

彼がお寺にいた時、霊的な悩み抱えている人かよくやってきた。

そういう人は、なかなか相談する場所がない。頭がオカしいと言われかねない。医者に行っても理解されない。安定剤と睡眠剤のクスリの処方だけ。

なかなか解決しない。泥沼の中。行くところがないで、お寺にやってきたという。そういう人の相談を、ガチでたくさんやってきた。

次々と訪れる霊障を抱えた人たちの相談に応じていて、彼がわかってきたことがある。

ひとつには、だいたいは本人が霊障だと思い込んでいる。霊の仕業なのか、思い込みなのか、そこがごっちゃになっている。あるいはよくみられるのは、統合失調症とか精神乖離障害の方だ。

では、そういう人に対して、どんなことができたのか。どんな実践をすすめたのか。

彼がいうのは、「外在化させる療法がいい」という。悩み、苦しみを内に抱え込まないで、外に出すという方法だ。

かといって、一人ひとりの悩みを聞き、カウンセリングしていくのは大変だ。時間もかかる、エネルギーもいる。そこですすめたのが「折り鶴療法」だ。

たとえば、「お母さんごめんなさい」と書いて、鶴を折る。悩みや苦しみ、反省の気持ちを折り鶴に書いていく。書いたものを折り鶴にしていく。数がまとまったら、寺に持っていく。祈祷とお焚きあげをしてもらう。そういう過程で病や悩みが解決する場合がある。それをよくみてきたのだという。

こんなケースもあった。死んだ夫が霊となって現れる。怖くて仕方がない。あちこちの霊能者に祈祷してもらっても、また元にもどってしまう。

折り鶴療法を勧めたが、本人はまったく治らないという。夫の霊がいつも現れるという。しかし、よく聞いてみると、夫に対しての嫌悪感はまったくなくなってきたという。効果が出ているじゃないですか、それが効果じゃないですか、と伝えた。

この療法は、どこにも出られない・行けないという人にいい。

家では折鶴ができる。まとまったら持っていく。外に出かけるきっかけになる。お寺に行くという目標ができる。ひきこもりの人もいいのではないか。

笹舟を作って、その笹船に悩みや苦しみを書いて、川に流すという方法もある。ひとつひとつ流れていくという実感がもてる。

そんな話を聞いたのだった。なるほど、こうした現実の、市井の、無名の、ガチンコの体験のある坊さんの話をまとめるというのもおもしろいなあと思った。