過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「春野カフェ」のチラシの印刷手配完了

「春野カフェ」のチラシの印刷手配完了。最後のツメの水際のところで、すごくエネルギーがいる。

ニッパチの法則だ。仕事の8割は、2割のエネルギーでできる。しかし、残りの2割には、8割のエネルギーが要る。細密に、緻密にやらなくちゃいけない。

この文章、ヘンだ。プロフィールの確認とってなかった。キャッチコピー、やはりこれでいいのかなあ。写真の解像度が低い。あれ、地図がない。CMYKにすると色がくすむ。校正ミスもでてきた。そもそも何枚、印刷するか。納期はどうか。印刷会社は。ポスターのサイズは。……など、いろいろ。ともあれ、

ともあれ、深夜24時に入稿して、1時にチェック完了。翌朝、印刷完了して発送。今夕には納品されることになる。

届いたら、発送の手配が次々とある。58ある市内の全公民館への配布の手配、そして図書館に配布。主要な寄りあい場、金融機関等にも発送する。市会議員さんたちにも、配布。役所にも配布。マスコミ向けにプレスリリースを発行して、取材してもらう段取り。

さらには、ホームページも立ち上げなくちゃいけない。アクセスしたら、PDFでダウンロードできるようにする。

これまで、こういうイベントの企画から印刷手配、発送手配は、なんどもやっているので、慣れてはいるのだが、いつも遅れ遅れになる。時間がないので、とんがってきて、イライラして、余裕がなくなる。

アイガモのエサが足りなくなってきた

アイガモが、ハイスピードで大きくなっている。日々、びっくりするほどすごく食べる。朝は、2升(3キロ)あたえたところ、ものの数分で食べつくした。
夕方も、2升。1日に合計、なんと4升(6キロ)。46羽で、これだけ食べる。これは与え過ぎかもしれない。でも、このガツガツしたすがたを見ると、与えないではおられない。

ということで、いま備蓄のクズ米は250キロ。1日4升(6キロ)ペースで与えていると、41日しかもたない。いや、かれらは日々成長しているので、1日10キロくらい食べるようになるかもしれない。そうなると、9月中旬までしかエサがもたない。今年の秋の収穫の際のくず米も、間に合わない。

こうなると、アイガモを処分しなくちゃいけないことになる。きょうあちこち、調べてみた。兵庫県の「わはは牧場」が取りにきてくれるというが、その運送賃が3万円。1羽の解体処分が1,000円。肉にして真空パックで後で、届けてくれる。さて、どうしたものか、考えている。

https://youtu.be/d-VjOylxvSQ

「殺」について、仏教ではどうとらえているのか

(1)「殺」について、仏教ではどうとらえているのか、しらべてみた。

もっとも古い経典の一つである「ダンマパダ」にはこうある。「すべてのものは暴力におびえている。すべてのものは死をおそれている。自分の身にひきあてて、殺してはならない。殺させてはならない」と。生あるものを殺さないことは、ブッダの教えのかなりの中核部分だと思う。

では、殺された肉はいっさい食べないのかというと、そうでもないらしい。初期仏教においては、「三種の浄肉」といって、托鉢の際、自らが戒律中不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいとされる。すなわち「殺されるところを見ていない。自分に供するために殺したと聞いていない。自分に供するために殺したと知らない」ならば、罪にならないとされる。

かつて南方仏教のえらいお坊さんたちの集いに出たことがあった。ホテルで催されたパーティでは、寿司などが出ていた。お坊さんたちが寿司を食べることに、ええ? と驚いたのだが、かれらは、「自分のために殺されていない、聞いていない、知らない」ので、食べても問題ないということになる。

おいしい魚が食べたいなあと、お師匠さんがつぶやく。それを聞いた信徒が、料理して差し出す。かの僧侶は、「自分のために殺されていない、聞いていない、知らない」ので、罪にはならないということにもなる。

では、大乗仏教ではどうか。密教ではどうか。さらには、日本仏教ではどうか。すこし考えてみたい。続く。