過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

子供の言葉を覚えていく過程 助詞

外国人が日本語を習得するとき、むつかしいのは、たぶん助詞だと思う。いわゆる「てにをは」である。ウラルアルタイ語族(モンゴル、朝鮮、日本語など)はおんなじ語順なので、スラスラ行くと思うけど。単語を当てはめていればいいからね。

ところが、インド・ヨーロッパ語族と中国系は、主語+動詞なので、語順がちがう。「わたし」「いく」「学校」と。そこへもってきて、助詞みたいなのがある。(ざっくり言っているので、言語学的なツッコミはご容赦を)

あかりの言葉のマスター過程を観察していると、そう思う。「かーちゃん・きたー」「にゃんにゃん・いないー」「さんぽ・いくー」「パン・ほしいー」。

母ちゃん「が」来た。散歩「に」行く。パン「が」ほしい。「が」「は」「に」「へ」という助詞はまだ使えない。

「これ・ほしい」でちゃんと通じるわけだ。これ「が」ほしい。これ「は」ほしい。これ「も」ほしい。などの使い方はむつかしい。

まあしかし、子供は自然のマスターしていく。だけど、外国人が文法から入ると、ワケわからん、となる。ワケわからんでも、ワケがわからん、でもいいわけだし。ワケがわかりません、が正式でもない。日本語、あいまいだからね。

子育て過程は、そんなこともみていくのがたのしい。

じつは、ぼくはむかし海外で日本語教師をやろうということで、三か月、日本語教育の特訓を受けたことがあった。そんなことも思い出した。赴任先の台湾には、いかすにやめてしまったけど。行っていたら、またちがう大きく人生になってた。今ごろ、台湾と中国と日本をむすぶビジネスなんかしていたかも。