過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

朝一番、冷やした甘酒が美味しい

朝一番、冷やした甘酒が美味しい。甘酒は熱くても冷やしても美味しい。なにしろ栄養価が高い。栄養バランスがすごい。

麹菌というのはすごい。驚く。5年前の麹菌が生きていたこと。乾燥させても、冷凍しても生き延びているのだ。その菌を無農薬でつくったお米に混ぜれば、米麹となる。その麹をお粥にませれば、甘酒ができるわけだ。

あかりは、ごほごほ咳してる。父ちゃんと母ちゃんは、鼻水ずるずるだけど、すこしずつ風邪も治ってきた。甘酒で復活中。

「精神性のいのち」は死後も生き続ける 柳田 邦男さんのインタビュー記事から

納得できる死を「創る」にはどうすればいいか…… 以下は、柳田 邦男さんのインタビューを、池谷が勝手に抜き出して要約したもの。

死んだ後、いったい自分はどこへいくのか。あの世があるのかないのか、ということを問うても答えはない。しかし、人間の精神性という次元で考えれば、答えは意外と簡単に出てくる。

亡くなった本人が人生の最後に自分らしい日々を送れたとき、そして家族がその最期に十分かかわれたとき、家族は<ものすごく良い看取りだった>と感じる。

旅立った人が残してくれたすばらしい「心の財産」が家族を支えてくれる。

自分の精神性のいのちは、肉体が滅びても消滅していない。大切な家族の心の中に、自分がずっと生き続けている。

僕にとって、父親は生きている。父が最期に手を握ってかけてくれた言葉、その表情、そして静かに眠るように旅立っていって死に水をとったこと。

そうした思い出がすべて、僕の心の中で鮮やかな情景となって残っている。ということは、僕の中で父は生きている。

不思議なことに、死ぬと精神性が残る。しかも年に数回会うだけの関係性ではなく、絶えず心の中で生きていて何か大事な出来事があれば、親の生き方や言葉がよみがえってきて、道しるべになってくれる。

人生の後半になると肉体は老化し、死ねば滅びてしまう。しかし精神は滅びない。老後、あるいは病気になってからの方が、精神性のいのちは成長・成熟を続け、しかも成熟を目指した生き方は、遺された人の人生を膨らませてくれる。つまり人間の精神は、死後も成長し続ける。

そう考えると、本当に納得できる最期の日々を送らなければならない。最期をよりよく生きることが“死後の未来”につながるという希望さえ湧いてくる。

自分がどう生きるかということを考えたとき、愛する人がいようといまいと、自分の内面と生き方をたえず見つめるなら、人生をきちんとまっとうできる。僕はそれくらい腹の据わった精神性を持ちながら最期の日々を送りたい。

http://toyokeizai.net/articles/-/22102

梅原猛さんの講演を思い出した

梅原猛さんの講演に行ったときの話。もう16年も前のことだが、思い出した。梅原さんが、とっても嬉しそうに語っていたのが印象的だった。

次のような語りであった。

かつては社会科学は、ほとんどマルクス主義だった。かの東大で大内兵衛さんなどが、堂々とマルクス経済学を講義しておった。

そのマルクス経済学を学んだ連中が、いま大蔵省の役人とか大会社の社長とか政治家になっている。おもしろいもんだ。

そもそも、みんな本気で思想をやろうなんて思っちゃいないんだな、日本人というのは。

ボクなんかは、彼らから、反動思想家、体制派だと批判されたもんだ。

そのボクが、いまこうして元気だ。なのに、マルクス主義の連中は、いまちっとも元気がないなあ。

所詮、他人のふんどしで相撲をとっているからダメなんだ。自分のもので、自分の体で勝負せんといかんよ。

自分の体だったら、どんなに痛めつけられたってね。そこからはい上がれるってもんだ。

ボクはもう76や……。もう、先はないなぁ。せいぜい、あと10年くらいやろ。今日の参加者にも、先が短い人が、ようけおるなあ。(場内、爆笑)

でもなあ……。死んだら、終わりやないんだ。死んだら、なんにもなくなるなんて、寂しいなあ。ほんとうは、なくならないんや。

浄土に行けるんでっせ。あの世や……。あの世があるんだ。あの世にいったらな、お父さんやお母さんや、先祖にまた会えるんだ。

そうして、ふたたび、この世にもどってくる。これが、日本の死生観なんや。

───調べたら、梅原さんはもう92歳だ。すごいな。梅原日本学。自分のもので、自分の体で勝負してきた思想家だと思う。

ただ、現在、死後には浄土がある。浄土に行けると本気で、梅原さんは思っておられるのか、じかに聞いてみたいものだ。

ちなみに、この講演は、国士舘大学の西原理事長が主催したもの。このときは、取材の仕事であった。国士舘というと、かつては右翼色の強い大学として知られていたが、いまはそのような雰囲気はほとんどない。

手を付ければ、ちゃんとできる。やってみれば、そんなに難しくない

あと一息の確定申告だ。だいたいのことは、手をつけるまでが、かなりのストレスなのだ。なにしろ、やり方がわからない。仕事量がわからない。ダメだった時のリカバリーの方法がわからない。そもそも、ちっともたのしくない。つらい。ほかにいろいろ忙しい。

そんな理由で放置してきたわけだ。するとじわじわと、やってない、やってない、やらなくちゃ……という重圧感、懸念、心配、焦り、恐怖のほうが迫ってくる。

手を付ければ、ちゃんとできる。やってみれば、そんなに難しくない。なあんだ、この程度のことだったのか。だったら、早くやっておけばよかった。こんなに気苦労しなくて済んだのに。

そういうことが、まだまだ、たくさんあるなぁ。あれもこれも、と。

ともあれ、税務申告は、もうやり方は分かったので、だいたいの見通しが立てられる。仕事の分量が分かる。もしもダメでもリカバーできることがわかる。

たとえば、6年以上も前の所得は、もう課税されない。もちろん還付もできない。時効だ。3月期限に申告しなくても、延滞税など大したことない。ゆっくり年末までにやってもいいわけだ。

具体的に一つ一つ潰していく。領収書を貼る。一つ一つ入力。銀行取引記録の入力。源泉徴収票をさがす。なければ再発行の依頼。国税のサイトから入力。あとは自動計算。帳票類が印刷される。源泉徴収票の再発行が届かなかったり。入力忘れの箇所があったり。マイナンバーを探したり……。また、修正して印刷。これを郵送すればいい。完了と。

極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばず

雨がザアザア、ざあざあ降っている。気が滅入る。そうして、膨大な未整理の書類。遅々として進まず。しかし、すこしずつこなしていくしかない。日蓮の言葉が、ふと思い浮かぶ。

「極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばず」

安楽な悠々とした極楽のようなところで100年間、修行しても、このたいへんな現実の世界での修行の一日の功徳にも及ばない、と。

まさに娑婆世界。裟婆とはサハー(sahā)というサンスクリット語の音訳で、忍耐のこと。耐え忍ぶこと。忍耐の世界の一日、一日。いまここを心磨きの場ととらえて……。

とりあえず、「整理」と「未整理」に整理される

「未整理」を「整理」しようとするので、すごくストレスがたまる。もちろん整理しなくちゃいけないんだが。

えーとこれは、ここで、これはあそこ。さて、これはどこに……と。一つひとつの判断にエネルギーを使うのだ。それが疲れる。

判断するということは、価値判断をしなくちゃいけないこと。そこがストレスになる。

で、「とりあえずボックス」というか「バッファー・ホルダー」をつくって、そこに入れてしまう。しかし、そこばかり満杯になるというストレスが。

まずは「整理」できているものと「未整理」とを分ける。整理されていなものは、未整理の箱、ファイルにどーんと入れてしまう。あとで元気になったら、やればいい。

とりあえず、「整理」と「未整理」に整理される、と。まずはそこで一区切りと。

「納得のいく看とりとおくりを考えよう」の3回目 3月10日(土)14時から

「納得のいく看とりとおくりを考えよう」の3回目。

3月10日(土)14時から。
会場:クリエート浜松。参加費無料。

今回は、神道のおくりについて。〈おそれ〉〈かしこむ〉〈つつしむ〉というありようについて、語ってもらう。

おくりというと、仏教と思う人が多いが、もちろん神道もおくりをおこなう。というか、原始神道を基底部にして、その上に仏教のおくりがあるともいえる。

神道について、なんでもこたえてもらう。講師は、40年にわたる神職をされている松下水正さん。

写真は、先週の2回目の時の様子。臨済宗方広寺派の宝珠寺、稲垣住職に話してもらう。座禅、般若心経、そしてエンディングノートについて。輪になっての語り合い。毎回、春野から、お医者さんも参加してくださっている。

くわしい講座の内容は、下記から。
http://raksha.jp.net/mitori-okuri/