過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

自分が死んだ後も、この現実は存在し続けるのだろうか……。

自分が死んだ後も、この現実は存在し続けるのだろうか……。

自分がいなくても、この現実はつづく。自分があるからこそ、この現実があるのであって、自分がいなくなれば、この現実はないのか。

このリアルな現実というものは、じつは自分が作り出している幻想なのかもしれない。となると、死んだら、もうこの現実はない。夢まぼろしなのか。

もしもそうであれば、あとのことは、なんの心配もない。そういえるだろうか。

ともあれ、死んだらどうなるかということは、まったくわからない。まったくの死から、生還した人はいない。死んだら無なのか。霊界とか来世というものがあるのか。転生するのか。だれにもわからない。

いずれにしても、この生は今回限り。自分という人格は、この人生だけと思っている。

じゃあ現実論として、どうなる。

だから、今日だけがんばる。毎朝、よし今日だけ頑張ればいい、ということになるか。いまここを、しっかりやる。いろいろあるが、とにかく「直面」するのみ。逃げずにすすむ。

明日のことは、いまこの次の瞬間ですら、自分たちには、ほんとうにわからないのだから。

家で湯治している

家で湯治している。この一ヶ月、体調悪し。風をこじらせて、妻も子も調子よくない。で、昨日から、外風呂を再開。屋根はあるが、まったくの露天風呂感覚。

まず、薪を割って火をおこす。火を見守るのは心地いい。内風呂はガスで沸かしているのだが、薪とガスとでは、暖まり方がちがう。薪で沸かすと、芯から温まる。湯冷めしない。

炎を眺めていると、時間を忘れる。結構、頭が空っぽになる。そのままリラクゼーションであり、瞑想のような。それでも、何かひらめいた時には、音声入力で iPhone から入力する。

田舎に移住したばかりの時は、都会にできないことをしたい。ということでも、よくドラム缶風呂に入った。焚き火の上で風呂に入るようなもので、とってもよく温まる。炎が360度、周りを照らす。夜空の星を眺めて入っていた。とても感動的ない体験なんだけれども、煙がもうもうと出る。山里といえど、やはり近所迷惑。で、やめた。

煙のために、ドラム缶風呂をあきらめたが、やはり薪風呂に入りたい。廃棄してあったステンレス風呂をもらってきた。それに、薪窯ボイラーと煙突を取り付けて外風呂とした。ちゃんと屋根もある。薪は杉の丸太をもらってきて割る。河原に落ちている流木を利用する。