過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ブッダはお経を読んだことはなかった

ブッダは、文字で書かれたお経を読んだことはなかった。もしもブッダがお経を読んだとしたら、その修行時代に仕えた師のもとで、ヴェーダの経典だったろう。

ブッダの在世のとき、弟子もまた、お経をよんだことはなかった。そもそも、そのとき、お経はなかったのだ。

いわゆる文字に書かれたお経ができたのは、ブッダの滅後100年後くらいともいわれる。(正確に論じていくと、古層がどうのと、ややこしくなるので、ざっくりと)

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ブッダの滅後は、どういうことになったのだろうか。のこされた弟子たちは、亡きブッダの教えを確認するために、一緒に唱えやすいよう、韻律ある歌(ガータ)のようにしたのだと思う。それはマガダ語、あるいはパーリ語であったろう。

やがて、広く正確に伝えるために、教えが文字で書かれるようになる。それがお経である。おそらくサンスクリット語であったろう。(このあたりも、ざっくり)

そうして、出家教団を中心に、お経がよまれ続けていった。

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お経とは、そもそもブッダの生きた教えそのもの。しかし、ブッダが滅しても、次々といろいろなお経がつくられていく。

数百年後、大乗仏教のお経がつくられていく。いわばブッダが説いたということにして(アーナンダという弟子が、このように聞いたというかたちにして)、たくさん創作されていく。それは、八万法蔵というほどの膨大な経典となってゆく。

それはブッダその人の教えとは、とても考えられないような、神秘的、哲学的、絵画的、幻想的なものが作られていく。

ついには、教主が久遠のブッダであったり、毘盧舎那仏であったり、大日如来であったり、いろいろなブッダがあらわれ、その教えが経典として伝えられていく。

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それが、中国に渡り、漢字に訳されて、日本に渡来した。
日本では、それらのお経はひとつの神秘力、呪力としてとらえられていただろう。だから、日本語に訳さないで、そのまま中国音(日本的な)としてよまれ続けてきた。それが、いまのお経である。