過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

この現実は、マハー・ムドラーだよね

「この現実は、マハー・ムドラーだよね。逃げたらダメ。直面するしかない。そしたら、完了する。その時こそが飛躍のチャンスなんだ。しかし、それってたいへんだよね」。

友人と、そんな話をしたのだった。新年は訪ねてくる人もいないし、訪ねていこうとも思わない。ひとり暮らしだったので、ひさしぶりに何人かの遠方の友人と電話でやり取りをしたのだった。

マハー・ムドラーは、密教の考え方で、くわしいことは避けるが、ざっくり言うと、マハー(大いなる)ムドラー(象徴)。いわばこの日常が、すべてマハー・ムドラーだともいえる。

やってくる現実。直面せざるを得ない現実。こんなはずじゃない事実。意図しないのにせまってくる現実。うまくいかない現実。避けたい現実。過酷な現実

日常の暮らしは、実のところ化城(仮のもの、過ぎゆくもの、まぼろしのようなもの)であろうが、現実の宝処(ほうしょ)そのものだ。念念(瞬間瞬間のいまここ)の化城、念念の宝処。まさにマハー・ムドラー。「試練」ともいえる。

そんな話をしながら、溜めに溜めた数年分の確定申告の申告書づくり。領収書の入力を続けている日々。それでいて、法輪功を映像で学びながら、小難しい仏教の論文など読んだりしていた。

瞬間瞬間、完了している

人生とは、創造の連続なんだと思う。瞬間瞬間の現実を創造している。

創造する主体は、自分自身。自分が道を選んでいる。この現実は、自分が選びとってきたそのものとして、ある。

いまの状態、この現実、この世界は、自分の選択の結果。自分が選んできた道のありよう。言い方を変えれば、「カルマの法則」「原因と結果の法則」ともいえる。

人生を、日常を、過去につくった原因の結果を受けている、とも言える。いわば、因果応報。過去の行いの報いとして生きている。まあ、そう考えると、これはなかかな惨めなこととなる。耐えるしかないような生き方となる。鎖に縛られ、轍(わだち)にはまって動けないようなあり方となる。

しかし、過去の原因を結果として受けているけれども、過去の原因は結果として実を結んだ。完了した。瞬間瞬間、結果は完了しているともいえる。

瞬間瞬間、実を結んで完了している。すべてが結果として完了していく、消えていく姿ととらえることもできる。

完了したということは、すなわち瞬間瞬間をあたらしく創造するともいえる。結果ではなくて、原因として生きるということだ。仏教では「本因妙」という言い方をしている。

なにかよくないことがあったら、うわっ困ったどうしよう。焦ったり、被害者意識にとらわれてしまう。過去を反省し、悔み、自分を責め、人を責めたりする。

けれども、よくないことがあったというのは、ああ、これで完了した。よかったよかったとよろこぶべきこと、ともいえる。それで終わったのだから。解消したのだから。過去のカルマが完了したのだから