有名メーカーとは

電気屋やディスカウントストアなどのチラシに、よく「有名メーカー」のテレビやらエアコンの価格が掲載されている。「有名メーカー」と聞くとどうも有名ではないメーカーの製品のような印象を受けてしまう。本当に有名なら伏せずにそのまま書けばいいような気がするのだが、大人の事情があるのかもしれない。

先を読む頭脳

先を読む頭脳

先を読む頭脳

一気に読了。面白かった。購入しても良かったかもしれない。羽生善治の頭脳を、認知科学人工知能を専門とする二人の学者が分析するという趣向の本だ。この前見た「プロフェッショナル」とも重複する。
本の構成もすっきりしていて読みやすい。まず羽生善治が自らの思考法・勉強法などを述べる。その後に学者が認知科学人工知能という学問の観点から分析する文章が続く。体を動かして学ぶことの大事さを羽生善治が述べると、専門家も複数の経路を使って学習することは効果を高めるとの知見を紹介するといった感じだ。本の中では羽生善治は「メタ思考」に秀でていると解説されているが、確かに自らの思考を客観的に分析し、それを他人にうまく説明できる能力(自己説明能力)を持っているという印象を受ける。この当たりが同氏が研究対象として取り上げられた理由らしい。自己説明能力を高めることは、学習効果を向上させることにもつながるらしい。漫然と行うのではなく、ブログや日記に書くことで、言語化を行うことは大事らしい。将棋においては一見不思議なイベントがある。勝負が終わった後に、今まで戦っていた二人が勝負を振り返るという感想戦というものだ。これも一種の言語化であり、同氏によると非常に勉強になるという。勝った方はともかく、負けた方は悔しくて耐えられないのではないかと思うのだが不思議な世界だ。

「プロフェッショナル」でも紹介されていたが、「直観」を重視している。そもそも「直観」を重視しないとコンピュータには勝てない時代になってしまう。しかし直観は若いうちに身に付いてしまうようで、年を取ってからでは遅いみたいだ。あと、何時間でも根気強く考えることができることも、棋士として大成する点においては大事らしい。

将棋の奥深さは手持ちの駒を利用できるという点にある。将棋の親戚にあたるボードゲームはほかにも存在するが、手持ち駒の再利用が可能というルールはほかにはないらしい。同氏はチェスもかなりたしなむようで、チェスとの比較もよく出てくる。将棋と異なり、チェスは、それぞれの駒の力が大きいらしい。そのためあたかもヘビー級のボクシングのように一発のパンチで決着が付くといった展開になるという。プロ棋士が趣味でチェスをやるというのも面白いが、プロ野球の選手がオフシーズンにゴルフをやるようなものだと例えている。あと、チェスは引き分けになることが前提になっているゲームとの指摘も面白い。積極的に勝ちにいかないとなかなか勝てないという。このように将棋とチェスは大きく異なっているものの、共通する感覚もあるとも語っている。

将棋においては、指すとマイナスになる手のほうが多い。将棋にはパスという制度がないので指さざるを得ず、そうすると自分の状況が悪化してしまう。相手がプラスの手を打ってくると、一気に形勢が緊迫することになるので、将棋では逆転が起こりやすいという。

棋士達は、ライバルというよりも、一緒になって将棋という奥深いものを探求する仲間といった表現もあり、勝負師というよりも科学者のような印象も受ける。

Apple TVでのmpeg2再生

いつか対応してほしいと思っているが、よく考えると、Apple TVで対応するには、iTunesQuicktimeでの対応も必要、さらにはiPodにも影響が及ぶことになるのでなかなか難しいのではないかという気がしてきた。

心もからだも「冷え」が万病のもと

心もからだも「冷え」が万病のもと (集英社新書 378I)

心もからだも「冷え」が万病のもと (集英社新書 378I)

読み始める。医学は分からないが、書いてあることは納得できることばかりだ。男性の冷えのほうが大きな問題だという。冷えと言えば女性の問題という意識が強いので、男性には無縁との考えが広まっているが、そうではないという。メタボリック症候群も冷えが原因ではないかと述べており、すき焼きを冷蔵庫に入れておくと脂肪が白くなって固まる光景と対比させている。冷えた脂肪は固まってしまい、メタボリック症候群につながるということだ。
この本を読んで、シャワーだけで済まさずに、きちんと入浴しようと思った。40℃前後の温度がちょうど良く、10分以上は入っておきたい。そこで早速入浴してきた。風呂から出ても汗がだらだら出てくる。10年以上前に一人暮らしを始めてから、入浴はめっきり少なくなった。結婚前に住んでいたマンションでは10年以上住んでいたのに、入浴したのは数回程度だったと思う。あまりにも少ない。

体温は37℃程度あっても全然問題ないし、逆に好ましいという。その程度の体温のほうが酵素の働きが良くなるそうだ。

意外ではあるが、塩は体を温める食べ物らしい。寒い地域の食事に塩味が効いているのは、体を温める効果を実感していたからだという。

ガイアの夜明け「真のベンチャー像とは?ライブドアショック後ベンチャーは今」

溜まっている録画をかなり片付けた。ライブドア事件を受けて、学生のベンチャーへのイメージもかなり悪化しているようだ。金のためならなんでもやるといった印象を持つ学生も多い。粉飾決算にまで手を染めるようなベンチャーがそれほど多いとは思えないのだが、マスコミの報道姿勢も大きな影響を与えているのかもしれない。
そんな中、社会起業家への関心も高まっている。このレポートでは、病児保育を手がけるNPO法人フローレンスという団体を紹介している。初耳だったが、病気の子供は託児所では預かってくれないそうだ。病気の子供を預かるのは手間もかかるし、万が一の場合のリスクもある。経営的に厳しいという理由があるようだ。しかし子供は病気になりやすいし、病気になるたびに母親(父親)が会社を休むのはなかなか難しいだろう。女性の社会進出にも大きな障害になる。この問題を解決すべく生まれたのがフローレンスというNPO法人だ。社会を変革するツールとしての企業というイメージにぴったり当てはまる。

番組の構成があまりよくない。社会起業家団塊世代の起業という二つの流れを一本にまとめようとしたのがまずかったのかもしれない。それぞれ一つずつ、別のレポートにしたほうが良かったのではないかと感じた。

団塊の世代の起業の例として、バイク技術研究所という会社も紹介している。超軽量の折りたたみ式自転車を手がける会社だが、YS-11という製品名はSEO的にはあまり良くなかったかもしれない。検索しても飛行機のYS-11ばかり出てくる。自転車がヒットすればYS-11と言えば飛行機ではなく自転車ということになるのだろうけど。

「責任」はだれにあるのか / 小浜逸郎

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)

読了。もう一度というか何回か読まないと理解できそうにない。著者も認める通り、「責任」とは非常に曖昧な言葉だ。読み通してもこの印象は変わらない。ただむやみに「責任」という言葉を使わないようにしたいとは思った。
この本で取り上げているのは、結果責任(起こってしまったことに対する責任)なので、いわゆる「責任感が強い人」という意味での責任とは異なると思う。「責任感が強い人」における責任とは将来に対するものだと考えられる。
自由意思が存在するから、責任が存在するという構図をひっくり返して、責任を追及したいがために自由意思というものを想定したのではないかとの指摘が面白い。脳科学の本を読んでいても自由意思というものの根拠が揺らいでいることがよく分かるが、それに伴い責任の根拠も揺らいでしまう。
責任を追求するためには、どこかで線引きしなくてはならない。すべての行為は様々なことに結びついているので、強引に線引きしないと収拾がつかなくなる。たとえば飲酒運転で人を殺してしまった場合の責任はどうか。酒を飲んで運転した人は確かに責任があるように見えるが、酒を提供した飲食店はどうか、一緒に乗車していた人はどうか、法律改正に伴い、飲食店や同乗者の責任も問われるようになったが、これは社会の変化により、責任の範囲が狭くなったり、広くなったりする例でもある。さらにこれが拡大していくと、酒を飲むような人に自動車を販売した自動車ディーラーの責任や飲酒運転をさせるように教育した親の責任といったように際限なく拡大していく。どの程度で責任があるかどうかを定義するのは強引にならざるを得ず、白と黒のグラデーションを眺めてここまでを黒と言いきるようなものだ。事前に決めておくことは難しい。見る人や社会によっても変化する。

人の行動は必ずしも自由意思によるものではないとの指摘も納得だ。ただぼんやりとしていることも多い。そのような時に重大なことが発生した場合でも、自由意思の存在により責任が追及されてしまう。

まずある事態が起こったことが感知され、それによって当事者は混乱し、自己喪失感情や共同性の崩壊の感情に見舞われる。この感情は収拾されなければならないので、その結果として、私たちの意識のなかに、過去にさかのぼってその事態の原因者を特定したいという欲求が湧き起こる。この志向性こそが、責任概念の成立を要請するのです。そして、その成立のためには、どの人間も自由で理性的な選択意志を持っているという仮定が必要になってきます。

この一文が最高の要約になっているように思える。少し言葉が難しいが。

iPodは何を変えたのか?

iPodは何を変えたのか?

iPodは何を変えたのか?

読み始める。
iPodに対する批判もよく聞かれる。社会学者などのインテリからは、iPodを身につけた若者は社会に背を向けて自らの小さな殻に閉じこもっているとの声も多い。著者は熱心にこの手の批判に反論を加えていく。もっとも、この手の批判はiPodの登場とともに生まれたわけではない。ソニーウォークマンの誕生と共にすでに存在しているのだ。iPodはこの手の批判を一層高める効果があっただけである。

この本が面白くなってくるのが、第三章オリジンからだ。iPodの開発の舞台裏が紹介されている。今になっては驚きでもないが、スティーブ・ジョブスのこだわりや美学がiPodに強烈に反映されていることが分かる。曲を再生させるまでに3回以上ボタンを押させるなという命令があったようだ。外部企業の力をうまく利用したと言う点も意外だ。何でも自社でやるのではなく、iPodの場合は開発スケジュールがかなり短かったために、積極的に社外の人材を利用している。元Appleの社員達は、会社を離れても敵対関係ではなく結構気軽に一緒に仕事をしているように見える。

今となっては、iPodが登場する前のmp3プレーヤーがどんなものだったのか想像するのも難しい。かなり使いにくい代物だったと本書では紹介されているが、iPodの操作体系に慣れてしまうと、これ以外のユーザーインターフェイスは存在しないだろうって思ってしまう。どう転んでも操作が難しいインターフェイスを作りようがないと感じるのだが、これはiPodに洗脳されてしまった結果なのかもしれない。

あとiTunesの開発の経緯も興味深い。

読者からのお便り

読者より初めてメールが届いた。びっくりである。一瞬スパムメールだと思ったがそうではない。きちんと区別してくれたpopfileはえらい。なぜアドレスを知っているのかなと思ったが、よく考えるとプロフィールに掲載していた。