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20070311

死と老いに対する現在の立ち位置

ビデオを観る前だったように記憶しているが、父方の祖母が癌で亡くなった。生まれて初めてのお葬式で、生まれて初めて見る死人だった。私は葬式の間中泣きじゃくった。

「この子はそんなにおばあちゃん子だったんかね」

大人たちはそう言って貰い泣いていたが実際はそうじゃなかった。間近に見た死が恐ろしくてたまらなくて私は泣くしかなかったのだ。

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私が死を意識したのは、このお葬式のときだったように思う。それから数日のあいだ、夜になると決まって言い知れない不安に苛まれて涙をこぼした。私を残していつか母や母方の祖母が死んでしまう。私という存在もいつか跡形もなく消え去ってしまう。誰かにこの恐ろしさを聞いてもらって楽になりたかったけれど、理解されないような気がして口をつぐんでいた。昼間になれば、嘘のように世界は光輝き、母も祖母も楽しそうに笑っている。幼い自分にとっては永遠こそが本当で、いつしか受けた衝撃は少しずつ影をひそめていった。


次の瞬間、生きている保証は誰にもない。いつ死ぬか自分で決定できないならば、死を受容できた方が怯えることもなくなって生きやすいんじゃないかなあとずっとぼんやり思っていた。

死を受容するということはどういうことだろう? 死の恐怖を克服することだろうし、死ぬ間際になって悔いが残らないってことじゃないだろうか。いつ死んでもいいように、精一杯生きる? 生きることを受け入れることなのだろうか。能動的な生? なんとなく、旦那から話を聞いたハイデガーの本来的な生が頭をかすめる。


最近、思い至ったこと。

  • 自分の言う「能動的な生」は短期的な展望(次の瞬間死ぬかもしれない)に基づいており、老いを否定・排除しているのではないか
  • 私の定義する死→個人的 私の定義する老い→社会的

多分、どんなに年齢を重ねようが考えつくそうが、死は自分にとって恐ろしいものであり続けるんだろうという予感がする。

ある禅マスターが臨終の際に残した言葉を思い出す。「死にとうない」

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