『「日本人論」再考』読感

読後の私見「日本人論」

日本の地理的歴史的背景から侵略された経験がないため、ヨーロッパの特にキリスト教文化圏の、民族、宗教、言語、血統、土地、教会の威光、思想、国家などを根拠として、他者との関係性から「Ich..Ich..」と自らの存在意義を規定してきた歴史を持ち得なかった日本。長らく海岸線が自我境界であり、外国の侵略がなければ外海はただ押し黙る他者だったのである。
日本への外部からの侵略が少なかった理由に、朝鮮半島の存在が大きく影響している。東アジア周辺国が日本への侵略を果たすに、まず朝鮮半島の制圧が必要条件であった。朝鮮半島の歴史上の国家自体が日本を侵略する強度を持ち得なかったことも挙げられる。朝鮮半島の歴史は島国の我々から見て、侵略からの防衛の役を果たしていた。
明治維新以降の外国の侵略の恐れから、これまでの社会制度を全否定し、列強の西欧様式を急激に取り入れ、自らの存在意義を外部に主張し始めた。西洋文化の模倣を目指しながら、西洋列強との地理的文化的、歴史的な差異と違和を感じ、はじめて日本とは自分とはと思考する体験を持ち困惑し始める。
まるでツッパリグループに入りたい、転校生の痛々しい自己変革行動を見るようなものだ。同じような容姿、グループ特有の言い回しの模倣。それらはある程度成功し、羽振りのよい言動で周囲を驚かせたが、自分の立ち位置を読み違え孤立してしまう。

開国前に他者(諸外国)との関係性についての思考を蓄積しなったつけが、急激な自己開示後の独善的な自己顕示行動に現れた。自己認識能力に乏しく、自己分析を経ない、神による自己肯定と自己膨張を正当化するための大義の暴走が招いた、無謀で一元的な行為を犯した。

第二次世界大戦の敗戦後、高度成長期、バブル崩壊を経て、日本社会における自我の枠組みは変化した。物的生活の困窮からの脱却、生活様式の変化、生育時に受ける物語の根本的な相違(日本昔話からジブリ映画への変化やマンガやアニメ、ドラマによる新たな物語の創出など)社会制度や社会倫理観の変化などがあげられる。
しかしながら日本人自我の根本的性質である、社会に対する存在意義を自己規定する習慣を持たないことや、自己の存続が他者との関係性に影響される傾向が強いことなどは現在も変わっていない。社会や自己への問いの思考の蓄積がないため、社会への帰属意識や当事者意識、共有意識が希薄である。
アメリカの庇護のもと、高度成長による繁栄などある程度の成功体験を得、アジア、世界の中での日本の立ち位置を考慮することはなかった。ここでも日本の存在意義を思考する体験を先送りしてきたのだ。個人も生活に対する不安、不満を感じていないため、個人の社会に関わる意義や、社会の存在意義を思考し議論する機会は生まれなかった。

日本が他者(諸外国)からの目線や言動を感じ取る視点に疎いのは、やはり他者の行動や発言が「日本語」によってブラインドされることが一因である。一方で他者(諸外国)が行う日本に対する評価には異常なまでに敏感であり、それはまるで思春期の少年少女のナイーブさに似ている。

今後は自己を確立した成人へと成長するべきである。そのために他者(諸外国)間の関係性から日本の存在意義を規定する態度が必要である。個人は社会に関わる意義を再定義し、社会の存在意義を問う議論に参加することである。

もしくは前回の現代社会への考察2 - ■[ideate]idegに提示したように、新たな日本の価値観を規定し海外にアナウンスし始めることである。社会の大義のブラッシュアップと、それに基づく活動が日本のアイデンティティとなり、その価値観から他者(諸外国)に関わっていくのである。
もう郷愁の念や「サムライ」「ゲイシャ」「サラリーマン」などの過去の日本のイメージを大事に抱えていることはない。コンプレックスを持たない世代が増え続け、過去のトラウマにこだわることなく、真っ白な地点から始められるのである。

改めて『「日本人論」再考』読感

  • 本書で書かれている天皇に関する論説は小生の認識不足のため、言及しない。
  • 以下の部分に共感した。

この長期不況の現在、政界、経済界挙げて、喚起しようとして盛り上がらないのは、国家利益に向かって行動を起こそうとする「国民」モデルのほうではないだろうか。臣民的なるものの統治されやすい性質と、国民的なるものから生まれる検診、努力との組み合わせによって戦前の富国強兵と戦後の経済復興・大国化を成し遂げてきた日本が、今立ち止まっているのはその二つの組み合わせが、もはや効かなくなっているからであろう。

何かしてくれる国家についての国家論は盛んであり、そこに臣民意識も現れるが、国家主権説いた国際政治における主体の問題としての国家とそれを動かす国民の議論ではない。国債、年金、道路といった、「生活環境のインフラ」としての国家に関心があるのだ。
(略)
自分自身を「国民」といったモデルで考えることは第二次世界大戦以前の「国家主義」への反省と、自分を「自分にと手かけがえのない個人」としてとらえる戦後の「自由」の人生観の狭間に消えてしまっていることである。

これは、小生の提唱する、社会の大義を新たに掲げる提案に付随する問題である。社会の存在意義と社会問題に対する当事者意識をもたず、社会問題をお国に丸投げする体質も指摘しなくてはならない。個々人の社会問題に対する当事者意識を持ち、社会共有意識を個々人が持つよう意識改革が必要だと思う。

こうした「触知しうるモノへの信頼」を基にした活路は、これまでにもこの社会が何度か救いを求めた方向である。この社会がこれまでに積み上げてきた強みに戻り、そこから回復を図ろうとするものである。
(略)
しかし、同時に自覚しておかなければならないのは、「触知しうるモノへの信頼」とは、逆に言えば、「触知し得ない抽象的な者への不信」ということである。ここには、抽象的な理論、システムに対する弱点がある。
これは何も、日本人の持つ知的能力の問題ではなく、価値観に関わることがらだ。原則からくる判断を信頼するのではなく、現場の工夫と共感を頼りにことを行う。仕事は早い。日本の過去の二つのターニングポイントで、キャッチアップと回復が迅速であったことは、この現場の強さによる。

日本における「構造」の構築の文化の欠如に関連するか。

日本人に超越的な神の概念と言葉で価値を定め生活を律するような宗教観がないことと強い関連性を持つ。これまでの人類社会では、ことに農業文明の段階では、この世とこの世を超えるものの価値までも宗教が律していた。その宗教の役割が日本社会では江戸時代に稀薄になり、あの世の存在にとらわれる者は、自分が生きている現場とモノであった。

このモデリングは有用であるのだろうか。この文脈の深い認識には多くの資料を要するであろう。

その「人間」自体も、概念として抽象化されてはおらず、常に生身の裸の人間という具体のレベルでとらえられ解釈され直すのであって、抽象化された言葉で書かれたりはしていない。
(略)
「人間」や「常識」や「場の空気」を正しく認識するために、日本人は多くの時間を互いの考えのすり合わせのために費やしていることであり、かつ、結果としてはかなりの程度まで、共通理解を獲得することに成功しているということである。これはまた、こうした共通理解を会得しなければ、「日本人になれない」、ということでもある。

著者の「裸の人間」という捉え方は、現代の日本人にもDNAとして受け継いでいるかは疑問に思う。戦後の焼け野原からの生活を現代人が始めたとして、果たして「裸の人間」の強さは顕現するだろうか。場の空気の件は省略する。

彼はこうした成功にとって、一番大きな要素となったのは、両国が「大きな」島国であったことを挙げる。戦争と疫病はかなりの点で、それによって避けることができる。飢饉はその二つを避けることができると、かなりの程度まで防げる。

イギリスと日本の産業革命後の発展についての共通点を挙げたものであるが、一つの解釈の仕方としてみる。

キリシタンの禁制がもたらした人々の管理体制の徹底性、それがまた、日本人にとっての仏教を世俗化、つまり、現実世界の意味のほうに軸足を置くようにし、宗教としての超越的な側面を弱めたのだ。そのことは神道の、教典の無い「自然宗教」的な側面と――それまでにも両者は神仏習合というような混交的な関係は持っていたのであるが――

キリスト教の禁止は、天皇制との衝突からくるものかと思っていた。神を語るのに二人のマスターは不要であるからである。仏教は神から離脱した宗教である。社会・政治システムには死生観・神話・宗教的世界観がその土台に深く浸透していることを再認識した。

日本では集団の中で、小さな相違(反対)でも異様な熱心さでそれをなくすよう努める、そしてどうしても問題が解けないときには問題は「ない」とする、また、問題を作り出す人間を極力抑えこむ、それが全体を新たな段階に進ませるかもしれな可能性は検討しない。

根本的問題の解決へ向かわない体質。

日本人論を書くこと自体に批判的だったのは、ここで使っている「余技」のにおいを感じてだけではない。日本人論が書かれ、読まれることが、政治的文脈の中で、現在の社会制度を肯定するか批判するか、といった政治的議論に使われることを警戒してのことであった。

誰が日本人論を語るべきなのか。

その他
  • 「職人」が現在にも伝わっている
  • 「人間」のモデル
  • 母とゲイシャ、またはケア(世話)する女、というモデル
  • 「鬼胎の四十年」
  • 第二の「鬼胎の四十年」
  • 国家意識の変容が起きる
  • 「サムライとゲイシャ」から「オタク」日本人のアイデンティティの変化
  • 個人の参加する社会の多元性
  • 日本人論を必要とした日本人の、終わりが始まる

著者は2010年に再出版した際に、新たにあとがきを述べている。2003年の出版から時期が過ぎて、内容に対しての追記だと言える。

  • 「アジアと西洋の間」で、国家政策でも国民アイデンティティでも不安的な状況
  • 日本人論を必要としていない若い人々は生まれている
  • 日本人論を必要としない「日本」に変容するだろう

2011-02-23 執筆

世界共通通貨を「感謝」に〜資本主義社会の終焉に向けて〜

この度、資本主義社会からの脱却のための施策を考察した。
以下の3点を実行に移すことを提案する。

  • 世界共通通貨を、各国の言葉での「感謝」という単位にする。
  • 1感謝」は、各国の現時点の通貨での「パン一個」の値段でレート換算する。日本ならば1感謝は現在の通貨100円となる。
  • 通貨の発行・流通量は世界全体で一元的に管理する。

通貨のネーミングを変更することで、社会構成員は従来の「お金」に対する心理的な価値観から自由になる。以前の金融の仕組みからは何も変更せずとも、社会構成員の意識の変容がおこる。

お金は「資産」から、他人から提供されるモノやサービス・行為(労働)への感謝を示す「フラグ」へと変容する。通貨「感謝」を貯め込もうとする行為は、人間の持つ欲望であることを人類は認識する。

通貨「感謝」は人間の欲望の対象ではなくなり、人々の善意による行為が世界を動かす主体となる。

蓄財する行為自体は悪行である」と社会通念化し、利子による儲けを生業とするものは減少していく。資本、資本家はなくなり、善意の行為を多くもたらすものが社会に対して強い影響力を持つことになる。

通貨「感謝」のレートを各国の通貨でのパン1個の価値に統一することで、一人の人間が生きる生活に則した、全世界で平等な価値を設定できる。

通貨「感謝」を導入した新たな世界では、自ら率先して人類にとって感謝されるモノやサービス・行為(労働)を提供しなければ「感謝」を手に入れることはできない。モノやサービス・行為を周囲に提供し続けなければ、この新たなゲームには参加することはできなくなる。

最終的には、社会から感謝されるモノやサービス・行為を提供した者や団体・国が、富むことになる。そして、提供する者や団体・国は、社会的弱者に、文字通り喜んで通貨「感謝」を喜捨するようになる。

これらを実行できない、人類が抱えるエゴと集団的心理、障壁となっている現在のパワーを持つ者たちを見抜き意識化すべきである。このパラダイムの変化は人類進化の極めて重要なステップである。

外部リンク
世界共通通貨を「感謝」に~資本主義社会の終焉に向けて~ - ideg | パブー

現代社会への考察2

現代社会への考察 - ■[ideate]idegで示した現代社会に停留する問題を解決するための、今後の個人と社会の在り方を考察する。個人の社会に対する存在意義と、社会全体の方向性の在り方への考察である。そこでは個人の在り方を以下のように記した。

今後は社会から役割を得ることは難しいため自らの社会へ参加する意義を各人が規定すべきだと考える。自らが物語を規定し、それを自覚したうえで物語に同化するのである。

日本人、日本社会ではこの個人の在り方は難しいと思われる。自らの存在意義と社会に対する自己規定を持つ自我の強さと、それらを思考する社会文化が形成されていないこと。そして、個人は他者承認欲求を社会から満たされることによって、自己存在の意義を感じとる傾向が強いからである。

同じく、社会の在り方として次のように提案した。今回はこの提案の具体的な考察である。

若しくは社会システムに新たな規律をもたらすべく、社会システム全体の理念や思想と目指すべき方向性を掲げることだ。社会システムに属する各構成員の心理的ベクトルが揃いやすくなり、各心理的ベクトルの集積が社会システム全体の大きな力を生み出し、構成員同士の心理的ベクトルの相殺というシステム内のロスを防ぐことが見込まれる。

ここで、「日本論」考察 - ■[ideate]idegで述べたような、社会の大義という「話の件」を新たに掲げるという、社会の在り方を提唱したい。社会システムの発展に貢献する活動に対して、ポジティブなストロークを社会がアナウンスし続けるのである。
社会システムが掲げる価値観に沿った個人の活動に対して、社会統治機構や、メディア、社会構成員同志が次々に「素晴らしい」と声をかけ続ける。これは社会システムへの所属意識と社会問題に対する当事者意識から発生するムーブメントである。

  • 学生や一般のボランティア活動
  • あらゆる理由から社会復帰を果たした人
  • NPO等の社会に貢献する活動
  • 日々の生活を頑張っている人々
  • 変化をもたらすアイデアを考え出した人
  • 効率の良い手法をもたらした人
  • 新たな企業を立ち上げ成功した人
  • つらい職場で働く人々
  • 海外で健闘する企業
  • 社会インフラを支える企業
  • 新たな技術で市場を開拓した企業
  • あらゆる個人の成長
  • ・・・

このように細かな活動まで、クローズアップしどんどん「素晴らしい」と賞賛し続けるのである。社会の周辺に社会の大義を掲げ、それに個人が同化することによって、自らの社会に対する存在意義を感じ、自己承認欲求、他者承認欲求を充足させることができる。

このストロークよって、社会構成員を自己愛を満たすための低俗な価値観への耽溺から引き上げ、高次の社会に有用な活動へと導き、社会全体の活力と大義への推進力が見込まれる。しかしながら、社会の大義についてのブラッシュアップは継続して行うべきである。

どの活動に対してストロークを与えるのかは、社会全体の効率や有益性に基づくものであり、その社会が重要とする価値観である。他人から詐取して金銭を儲ける活動を賞賛しないなど。その継続が社会文化のコンテキストとなり、社会システムのアイデンティティとなる。

一つ重要なことは、社会の価値観に沿う努力をし失敗した場合にも、その者に「ドンマイ」と声をかけ続けることである。落伍者としてラベルを張り、切り捨てるようなことはしてはいけない。失敗をも許容し、新たなチャレンジへの声援を送り続けるのである。

このようにわっしょいわっしょいと社会全体で相互にストロークしながら価値のある活動を促進させ、社会全体の効率と増益を図るのである。ストローク活動はコストはあまりかからず、インターネットという媒体を利用してすぐにでも行えるはずである。

社会の価値観に沿わず、反発する者も出てくるであろう。しかし社会の価値観が効率的で有用なものならば、その反発する態度がナンセンスだと理解するか、その人自身が社会参加への自覚を持っていないことに気づかされることになる。

本来ならここで推し進めて、社会構造のグランドデザインを再構築し直してほしいと望むところである。しかしおそらく日本人は、コンピュータオペレーティングシステムを構築する企業文化を持ち合わせていないように、日本独自の数学「和算」が体系的に発展し他の学問の礎にはならなかったように、社会システムの「構造」を構築する能力を持ち合わせていないように推測する。
明らかに、論理的思考を持ってすれば、効率化された手法の解を求められるはずである。それを議論のテーブルにあげ、決定し、システムに導入することができない社会体質や障壁の原因を見抜くべきである。

日本においては、社会システムの再構築を望まず、社会の大義という「話の件」を数多く掲げ、それを束ねたものを社会システムの骨格とする在り方が功を奏すると推測する。だが、現社会システムを再定義し、効率的に改変する作業は必須である。

農業への考察

日本の農業のあり方について提案をしたい。JAと同等の機能をもつ民間企業の参入を喚起するような、国の政策による経済の整備を行うことを希望する。JAとの競争原理を生じさせる。
企業は農作物と加工品の生産の企画、海外を含めた販売ルートの開発、計画されコストを抑えた生産管理、ブランドの創出や品種の研究開発、農業技術の蓄積、新規参集者への技術教育を担う。個別の専業農業者は企業との契約を締結し、農産物及び加工品の生産を管理計画どおりに行う。
契約締結の際には、契約する企業の株を購入する条件が付加される。国は農家への戸別保証制度を廃止し、企業への的確な優遇保証措置で対応する。

休耕地の所有者は企業に対し農耕地使用の契約を締結する。企業は、所有者へ使用料を支払う。農耕地を所有しない農耕加工作業員を雇用できる。企業の農耕地の大規模化、生産効率の向上が見込める。

  • 企業の数年間の法人税優遇
  • 個人の企業株式の購入の際の作地面積に比例する補助金の賦与
  • 農業技術のノウハウの集約化と再現可能な生産技術の確立
  • 新規参入者への農機具のレンタル

現代社会への考察

現在は経済成長を望むことはできず、以前のようなフリーターとしての生き方を取ることは困難となった。ひきこもり、親の年金受給での生活等、社会への積極的関わりを持たない生き方も問題となっている。

現在の日本社会には、個人が社会に参加する意義を示す物語が希薄になっている。かつては原始的社会での男子の通過儀礼、中世の封建社会での元服などの区切りによって、個人は社会秩序への参加を社会規範から強制された。それを受けた者は自らの社会への参加を意識し、社会全体への責任を負うことで社会における自己規定を持つことができた。社会規範の大義への同化による自己承認、社会全体への責任を負うことによる他者承認である。
現在における個人が社会に参加する意義とは、所属する社会システムの経済活動を支持しそれに携わることである。「労働の提供」「利益の追求」「余剰な消費活動」という物語である。しかし、グローバル化と生産技術の向上、生産活動を行うグローバルの社会システムの増加に伴って、社会システム内に、モノ・サービス・インフラは行き渡り、以前のような生産活動の必要量は少なくなった。作業の数は減り、人は余る。個人の社会への参加する意義を得る機会は減っているのである。
数が減っている社会参加への椅子に座る努力ももちろん必要だが、今後は社会から役割を得ることは難しいため、自らの社会へ参加する意義を各人が規定すべきだと考える。自らが物語を規定し、それを自覚したうえで物語に同化するのである。
若しくは社会システムに新たな規律をもたらすべく、社会システム全体の理念や思想と目指すべき方向性を掲げることだ。社会システムに属する各構成員の心理的ベクトルが揃いやすくなり、各心理的ベクトルの集積が社会システム全体の大きな力を生み出し、構成員同士の心理的ベクトルの相殺というシステム内のロスを防ぐことが見込まれる。
現在では、過去の歴史上の混迷時と同じように「温暖湿潤気候の恩恵を受けた日本の自然に助けを求める」という物語も出てきた。確かにそれも一つの解であると思う。これまでも恵まれた自然に日本人は救われてきたのである。
モノを売り続けないと持続可能でない社会システムはどうみても異常である。人類の自己愛を満たす為の商品の売買は、自己愛の肥大と、冗長で浮ついた妄想をはびこらせる不要な活動である。地球へのダメージ軽減の為にも、過剰な経済活動を目的とする社会システムを見直し、その活動の廃止と放棄を目指すべきである。

「ハーバード白熱教室@東京大学」への考察

リンク:http://www.nhk.or.jp/harvard/

イチローの年収は高すぎる?」

お金のシステムは、社会システムから独立した(もちろん社会システムが商いの場を許可し整備している一面もあるが)システムであり、労働や、モノ、サービス、人々の動機などを市場の需要が価値づけし、蓄積した価値を必要なものに交換する仕組みである。一方社会システムは、所属構成員の人権、生活の基本的保障、経済活動その他の仕組みの整備などが取り扱う価値である。
その二つの異なる価値を持ったシステムが社会構造全体でどのように組み合い機能することがよい選択なのかということに尽きる。
現在では、社会システムがお金のシステムを一部分として取り込む仕組みである為に、構成員に対する課税と再分配が生じることは必至である。

ここでイチローの年収は、お金のシステムにおける市場の需要が価値づけた額であり、オバマ大統領の年収は社会システムの再分配の機能によって取り決められた額である。同じお金の額という比較できる数字であるが、そもそものそれらの額の決定要因が異なる為、単純な数字の比較は無意味である。この問いは、システムの違いと各システムの額の決定方法は正しく機能しているか、社会構造全体における、お金のシステムと社会システムの相関の現状が、本当に正しい在り方なのかを問い直す「問題」なのである。

社会システム全体の運用を考慮したうえで、個人がそれに所属することを自覚するのであれば、個人は課税の義務を負うべきであると言うしかない。
お金というのは労働や、物、サービス、人々の動機、生命さえ交換できる価値であるゆえに、お金の所有によって個人が権力を持てるという現象が、お金というシステムの利点であり害悪である。

「戦争責任を議論する」

人間は自ら生まれてきた環境を選択することはできないという意見があるが、現在我々が享受している社会インフラや人権保障などの倫理観は、先人達が経験し培って出来上がったものであり、それらを認識したうえで社会環境を受け取る態度は、現在に生きる我々の人間として備えるべき良識であると言いたい。いかなる歴史を持つ社会に生まれたとしても、現在の社会システムと過去の歴史的背景をセットとして認識し、先人から社会システムを引き継ぐことは、人間の人格の持つべき一つの性質ではないか。
所属する社会システムの歴史的背景を学んで、現在その中で自分は生活しているという立場を自ら規定すること。それは人間の備えるべき良識であることを強調したい。
所属する社会の先人たちの過去の行為が、人道的に誤りであったことの明確な認識と、害を受けた人々とそれに関係する人々に対しての謝罪が不足していると認められる場合には、それらがあるべきように執り行うこと、先人からの倫理的負債として同じ社会に所属する現在人が引き受けることは、普遍的人間性として望まれるべきものである。

「神」についての考察

人類が認識可能な範囲を超える存在と定義される「神」という概念の、その本質と想像される存在の証明。人類が持つ概念の物差しで「神」を論じたとしても、それは人類が想像できる範囲での「神の概念」であり、「目隠しで象を触る」ようなものである。無神論者は人類が創造した「神の概念」を意識内で否定しているのみで、「神という概念の本質」を確実に捉え、それを否定しているわけではない。

人間の意識内の理論で神の存在を否定して見せても、その結論は確信に耐えうるものだろうか。そもそも、物理的事象を測る科学的尺度や、概念の線引きと構築による哲学的思惟、宗教という自我が迎合する物語などで「神という概念の本質」を捉えることは可能なのか。もし地球外生命が人類に訓示を垂れ「神はいない」と述べても、人類はそれを信じれるだろうか。

「神という概念の本質と想像される存在」は無かったと、何らかの手段で人類が知覚できた場合には、人類は自らの拠って立つ存在意義を失い、恐怖と絶望に包まれ、人々の自我はバランスを崩し、崇高な人間性は失われ、人格は破滅すると想像する。そして、地球上にうごめく我々の意識の点滅は宇宙に空しく響く独り言となり、恐ろしく言えばそれらも単なる化学反応と同質の意味しか持ち得なくなる。地球は宇宙にぽつねんと浮かぶ"物質"となってしまうだろう。

人類の認識を超える高次の目的の有意を前提としなければ、我々と我々が活動する世界の存在意義は定義され得ない。高次の目的からの相対価値でしか我々の生の意義を見ることはできない。

宇宙や地球、自然といった人類の認知できる限りの万物の本質的な存在と、我々の繰り返す無自覚な活動が、高次の目的の有意の反映として、高次の目的の何らかの「意図」を含むポジティブなストロークによって表出されること。そして表出した全ての存在の"動き"の結果が高次の目的からの相対的価値として評価されていることを、人類は無意識に期待しているのである。そうであることを、人類は無意識に望んでいるはずである。

このようにしか考察せざるを得ないのである。なぜなら人間の自我は、たとえフィクションであっても、自らの存在意義への問いに納得できる物語を常に要求するからである。