2011-12-29
ご無沙汰してます、移転します
こんばんは、ご無沙汰しています。また書き出そうと思います。ただ、場所はここではなくて、新しくサービス開始した「はてなブログ」の方でやろうと思います。移転にはこれと言った理由はありませんが、なんとなく気分転換してみたくて。
ただ、新しい場所で書くことは、これまでよりさらにプライベートで、さらに私自身にのみ意味のある文章なので、本や映画については書きません。それらのことは、今の私にはもう必要ないからです。だから、私以外の誰にとっても意味のない、価値のない文章ですが、なんというか、全ては人と人の繋がりの中で生まれてくると私は最近思うようになっていて、そういうわけで砂に消える愛の言葉のように、あるいはボトルに詰めた救いを求めるメッセージのように、多分早晩消すリンクを残して行きます。もし読んで頂けるなら、ということで。
では、また。
2011-02-19
数字とアルファベット、湖と怪獣。
掃除をしていたら、引き出しの中から一年前にNICU退院の時に書いてもらった紹介状が一通出てきた。息子は退院時はとても元気だったが、それでも900グラム台で生まれた赤ん坊であるという事実は、体重の軽さに反比例して重たく、退院後は週に二度はどこかの病院に通っていた。NICUは京都だったのだが、入院中に実家に引っ越しし、その実家が滋賀ということで、最新の検査が必要でないような、例えば予防接種だとか単なる風邪を対処するのは、滋賀の病院に移転してやってもらうことにしたのだった。その手続きに必要なのが、紹介状だ。いくつもの病院用に必要だったので、退院時には5通の紹介状をもらったのだが、そのうちの一枚をどうやら使い忘れていたらしい。一年も前の紹介状なので、今更紹介もないだろうし、いささか懐かしい気持ちもあったので、中身を空けて読んでみた。想像していた「よろしくお願いします」的な文章はそこにはなく、びっしり書き込まれた文章を読み始めて、すぐに血が凍る恐怖に襲われた。そこに並べられていたのは、克明に描かれた息子の苦闘の跡であり、その苦闘は、文科系の私には訳のわからない数字とアルファベットによって記載されたものだった。だが、訳がわからないなりに、ことの重大さはたまに挟まれる「日本語」の深刻さから明白に読み取れて、息子の状態がいかに不利で、いかに難しかったがよくわかるのだった。紹介状は三枚に渡って、息子の三ヶ月間の病状の変化と予後の予測が書かれており、その細かく冷静な筆致が、かえってことの重大さと深刻さを伝える。並ぶ病名は一つ一つの単語が宿命的に不吉な字面を持っていて、改めて今の元気さの不思議を思う。そして一年前のことを思い出した。あの頃、我々は酷かった。思い出すと今でも苦しくなるような絶望の中にいた。
ちょうど一年前、妻は出産を終えて入院中だった。その入院中に、同じ日に出産を終えた女性と知り合いになっていて(Fさん、としておこう。仮に)、その方とは今もメールのやり取りをしている。私も妻もあまり友人を作るのが上手い方ではないから、そのような知り合いが妻に出来たことは珍しい。 Fさんに後から聞いた話では、妻は入院した当初の頃、深夜から明け方にかけて一人で泣いていたそうだ。普段、妻は何があっても泣かない女性だ。私の方が女々しく思えるくらいの、強い人物だ。その妻が、ただひたすら声を押し殺して泣く。私にはその姿が想像できない。見舞いに来る私には、一度さえ見せたことがない涙。そうして泣く妻を見かねて声をかけたのが、Fさんとの親交のきっかけだったそうな。
去年の8月頃だったか、そのFさんが一度家に遊びにきたことがある。退院した息子を見に。そして、息子を見るとすぐに、目の力にたじろいだそうな。1000グラム以下の超未熟児で生まれた赤ん坊は、ぼんやりしていることが多いらしいのだが、息子は人の顔をじーーーっと見る。何をそんなに、と思うほどに見つめた後、にっこり笑うか泣き出すかはその人次第なのだけれど、Fさんにはにっこりと笑いかけた。それでFさんは、妻に向かってこう言った。「数ヶ月後、やんちゃになった息子さんに、お二人が手を焼いてる姿が目に見えますよ」。その言葉は、まだおすわりが出来ず、目の力以外は静かでおとなしかったあの頃の息子に当てはまるものには思えず、多分、我々を勇気づけるための方便なのだろうと、その時は思ったものだった。しかしそれは実際に「予言」になった。最近、私は確かに息子に手を焼いている。
ここ最近の息子の成長は、少しこちらがたじろぐほどに力強い。おすわりどころか、はいはいもつかまり立ちも初めて、最近は私の眼鏡をつかみ取り、喉を締め、腕に爪を立て、少なくなった髪をむしりとろうとする。気に入らないことがあれば両の拳で私の顔面を殴り、笑うと大量のヨダレを私の顔面に発射する。その姿は、赤ん坊というよりは小さい怪獣と言ったところで、保育器の中で機能せぬ肺を必死に動かして、苦しげに息をしていた息子の姿からは想像もつかない激しいエネルギーの固まりだ。日々振り回されてくたくたになりながら、今日、一年前の「紹介状」をきっかけに、半年前のFさんの言葉を思い出して、私は少しまた気づいたことがある。こんなにも毎日息子のことを見ているのに、私はこの一年間、まだ「数字」と「アルファベット」に振り回されてきたのだ。一年前、私は息子の呼吸の状態を表す数値を見て、一喜一憂していた。半年前、息子の聴力を示す数値が着実に伸びる姿に心強さを感じた。先日、その聴力が、別の検査の結果全然聞こえてないかもしれないという数字が再び出て、ひどく落胆した。そのすべては、数字がもたらす客観的なデータであって、私はその象徴的で抽象的なフィルターを通して、息子を見てきた。だから、そのような私は、一年前の「紹介状」をいま再び目にしたとき、まるで一年前と同じような血の凍えに襲われたのだ。目の前にいる怪獣の宇宙開闢もかくやというエネルギーを一瞬忘れ、一年前の虚ろな亡霊に心を貫かれた。
Fさんの目線は、まっすぐと息子を見る。Fさんは、息子の状態を良く知っているし、彼女自身、一人目の息子さんがうちの子以上の修羅場をくぐり抜けているので、私たちと同じような苦しみを彼女も経験している。私が知る赤ん坊の病気を示すアルファベットや数字を、Fさんもまた知っているのだ。それにも関わらず、Fさんは一度として我々の息子のことを心配したことがなかった。嫁の携帯にやってくるFさんからのメールからは、常に「息子さんは、全然大丈夫です!」というメッセージが伝わってきた。それは、NICUに入院していた、あの厳しい時期でさえそうだったし、半年前に静かな息子を見たときもそうだった。Fさんが見た息子はまぎれも無く「元気な子」で、その徴候を透徹した目で見抜いていた、今ではそうとしか考えられないのだった。単なる「元気付け」などではなかったのだ、あの半年前の「予言」は。
その目、その鋭さ。数字とアルファベットではなく、目と口と、声と膂力と、大地を踏みしめる足と振り回す拳と。それらを見るFさんの目には、何一つフィルターがかかっていない。私はその目をうらやましく思う。息子を見ると、確かに彼は元気だ。恐るべき力で周りの物質を破壊する(iPadにはとうとうヒビが入った)、我が家の暴虐王だ。彼の耳はどうだろう?聞こえてないと診断された彼の耳は。私はよく、息子の背後から、そっと名前を呼ぶ。すると、びっくりするくらい敏感に反応する。後ろにまでは回らない首を必死に回して、声のする方向を見ようとする。検査の結果では、息子は耳元で絶叫しても眠りから覚めない程、何も聞こえていない。そんな状態のはずなのに、彼の一番のお気に入りのおもちゃは、将来ドラマーに育てるために私が買ってきた、スネアドラムだ。毎日それをドンドコ叩いて喜んでいる。音が出ることに喜んでいる。その姿。私のフィルターのかかった目にさえ、その姿は頼もしい。
150年ほどまえ、アメリカの作家ヘンリー・デヴィッド・ソローは「生の実質」を得んがために、ウォールデンという小さな湖のほとりで労働の毎日を過ごした。木の年輪を調べ、硬い土に鍬を食い込ませることで、ソローが得ようとしたことは、私がおそらくはまだ知らないことであり、そしておそらくはFさんはすでに知っている何物かだ。私はまだ、それを知ることができない。私にとってのウォールデン湖のような存在を前にして、私は木の年輪を調べ、硬い土を掘り起こさなければならない。それが、今年の私の仕事になる。
2010-12-31
2010年の終わりの日に
2010年は振り返るべき意味のある年になったように思う。私にとってはただの1年ではなくて、ある意味では生まれ直したように感じた一年だったからだ。
私は今年34歳になった。それまで生きた33年分のどれよりも重たくて生きる意味のあった一年だったように思う。1月の終わりに子どもが生まれた。予定日は5月1日だったから、3ヶ月早く生まれた計算になる。体重は1キロに満たない。普通の赤ちゃんは3キロ前後で生まれてくるから、3分の1の大きさだった。1キロを切る赤ちゃんが運び込まれてくるのは、京都府の大きな大学病院とは言え、それほど多いことではない。周産期科のお医者さんたち総出の大手術になった。何か危険なことが起こったときのために、すでに帰っていた医師まで全員が呼び出されて、手術室に入って行ったお医者さんたちは20名を超えていたように思う。緊迫した面持ちで入って行く医師たちを、手術室の前の待ち合いで、私はただぼんやりと眺めるしか無かった。手術は無事終わる。生まれた子どもは小さく、弱々しかった。鳴き声は私がこれまで聞いたどんな生物の声よりも弱々しかった。それでも生きていることが嬉しく、私はこの子の父なのだと思った。生まれたばかりの赤ん坊に、ほんの数秒触れた時の暖かさをよく覚えている。ああ、この子は生きているのだとその時はじめて感じた。
2月のことは、未だに上手く思い出せない。記憶が混濁しているからだ。朝から夕方にかけて仕事に行き、終わったら歩いて20分の大学病院まで駆けて行く。それから面会時間の終わる8時まで、保育器のそばに座る。座って赤ん坊に話しかける。そんな日々が欠けることなく5月まで続いた。中でも、2月は特別につらい日々だった。病院に行くたびに、何か悪いことがたいてい起こった。脳内の出血があった、血圧が生死の境を下回ったことがあった、血中酸素がみるみる下がり、顔色が死体のように色を失って行くのを見た、その度ごとに命の危機に瀕しながら、どういうわけかそのすべてを上手く切り抜けてくれた。どれをとっても、赤ん坊には致死的になりうる事態を、何十回も切り抜けた。今では「ああ、よかった、がんばってくれたね」という一言で済ませられるけれど、あの頃は病院に行くたびに直面する命の危機が怖くて、病院に入るときはいつも死にたいと願っていた。ここで死ねたらと何度も願った。だが、死ねないとも思った。私が死んだら、いったい誰が彼を見守るのだ。妻はまだ入院中で、まともに赤ん坊に会いに行けなかった。私しかいないのだ。私が行っても何が出来るというわけでもない。だが、医者は何度も私にこういった。赤ん坊にとって、両親が保育器のそばに居るというのが、何よりも助けになるのだと。そんなことが本当に助けになるのかどうかは私にはわからない。だが、その言葉を私は信じて、毎日保育器の脇に座った。赤ん坊には何の反応もなく、彼はずっと目をつぶって、半分機能が停止している肺で苦しそうに息をしている。失われている機能の代わりに、人工呼吸器から酸素が送られる。それがまた、彼の肺をいっそう痛める。ジレンマだった。主治医の言葉を今でもよく覚えている。「体重が増えることだけが、今は望みです」。裏を返せば、何をしたって今のところ打つ手はないということだった。
医者のいう「体重」が増え始めたのは、3月に入ったころだった。900グラムで生まれた我が子は、その後800グラムまで体重が落ちたのだけれど、3月に入った頃にはようやく元の体重を取り戻し、そこから一気に凄い勢いで体重が増え始めた。常に不安定だった血圧が安定し始め、10本も繋がっていた体中の管と管が、一週間に2本ずつの割合で減って行った。主治医の言った通りだった。体重が増えるにつれて、あらゆる部分が改善していった。目に見えて、体が大きくなっていった。最初手のひらに乗るサイズだったのが、両手で抱えてもはみ出るくらいの大きさになるのにひと月もかからなかった。2月の終わりに2度目の脳内の出血をしてから、以後はみるみる強くなって行った。失われていたはずの肺の機能は、それほどひどい状態ではなく、ある日突然、息子は自ら人工呼吸器を外した。NICUをパニックに陥れたその「自力抜管」は、私がいない時に起こった。ある日保育器の前に来たら、彼の口を覆っていた大仰な機械がとれていて、自分の力で酸素を取り入れているのを私は目撃する。当たり前の風景、息をするということ。多分あれが、一つのターニングポイントだった。自らの力で生きることを、息子は多分選んだのだと私は考える。それから保育器を卒業し、病院を出るまでわずかに1ヶ月半だった。予定されていた入院期間が半分になった。奇しくも、退院日は本来息子が生まれるはずだった予定日だった。
退院してからは喜びの日々が続く、そう私は考えていたが、事態はそれほど甘くはなかった。退院の時、少し話題に出ていた「難聴」が確定したのは、退院後二ヶ月ほど経った、7月の半ば頃だった。まったく聞こえていないか、あるいは聞こえていてもわずかです。初めて見る耳鼻科の医者は残酷にそう宣告する。命が助かった、それだけで最初はありがたいと思っていた。だが、親というのは欲の深いもので、今度は「ちゃんとした」体を我々はいつのまにか望むようになった。難聴は我々のいわば欲深な願いを打ち砕く、大きな一撃だった。特に息子が宣告された重度の難聴は、その後の人生に大きな影響を及ぼすことになる。言語が習得できずに、知的なハンディキャップを背負うことになるからだ。喜びと安らぎに満ちあふれるはずだった退院後の生活は、一転して苦悩の日々にかわった。それから秋口にかけて、妻と私は何度も何度も議論をし、出口のでない煩悶にすり切れて行った。また死にたいという願望が少しずつ芽生えたのは、この頃だった。
そういう暗澹とした気分が拭われたのは、息子の首がある日座っていることに気づいたからだ。それまで自力で上がらなかった首を、天に向けて、すっくとそびえ立たせる息子を見た時、私が思い出したのは、あの人工呼吸器を外した日のことだった。自分で「生きる」ことを選択した息子は、たゆまずその努力を継続していることを、私はそこでまた発見した。それを見た時、私の心はようやく決まったように思う。どのようにであれ、とにかく私はこの子を力強く育てようと決めた。少なくとも、彼が生きる意思をこれほど強く持ち続けているのに、親である私が先にその意思を放棄することは出来ない。私はそう考えた。
それ以後、冬にかけて。私は人生で最も幸福な日々を送ってきたように思う。息子の発達は順調だ。首がすわり、寝返りをうち、最近は自分ですわれるようになってきた。身体の発育は、未熟児とは思えない発達ぶりだった。それからもう一つ驚くべきことは、まったく聞こえていないと言われていた耳は、信じられない改善を見せていて、今では聾、重度難聴、中度難聴と改善をしてきて、もうそろそろ軽度難聴へとなりそうな気配を見せている。親の目から見ても、息子の耳はよく聞こえているように思える。名前を呼べば振り向くし、絵本の読み聞かせが大好きだ。これで耳が聞こえていないというならば、聞こえるとはなんのだ?私はそう思う。
2010年の一年で、私は大きく変わったように思う。人間の根元のところが、根こそぎ入れ替わったような、そんな一年だった。最も大きな変化は、信じることの大変さとその見返りの大きさを知ったことだ。私はただひたすら、医師の言葉を信じたし、妻のことを信じたし、そして赤ん坊の力を信じた。それは、つらくしんどいことだった。常に裏切られる結果が目の前にちらつき、信じずに放り出す方がよっぽど楽に思えた。死にたいと考えた時、私は多分、信じることのつらさに絶望していたように思う。今、もう一度同じシチュエーションに直面したら、もう一度同じことができるか?と問われれば、多分出来ないかもしれない、と答える。それくらい、その道筋はハードだった。その意味で、私が得た教訓は、一回こっきりのもので、他人には提示できないし、私自身ももう一度同じことがこの先出来るとは思わない。ただ、その過程の中で、私自身が大きく変容し、考え方や人生観が大きく変わったのは間違いが無い。
先日、息子の定期検診があった。今ではもう和やかなものだ。順調に成長する息子を見せに、病院に行くのが誇らしくさえ思う。担当の小児科の先生は優しく、NICU時代からちょくちょく見てくれていた先生だったので、「昔話」も花が咲く。その定期検診も終わり、病院から出ようと言うときに、突然名前を呼ばれた。こんなところで名前を呼ばれるような知り合いなんていないはずなので、一瞬誰かわからず、呼ばれた方を振り向いてもまだわからなかった。そこに立っていて、私の名前を呼んでくれたのは、NICU時代の主治医の先生だった。普段着で、ヒゲをそっていたので、誰かわからなかった。その先生が、満面の笑みを浮かべて、私の方に駆け寄ってきてくれた。NICUに居る時、どんな緊急事態が起こっても、決してうろたえず、冷静に我が子を見てくれた先生が、巨体を揺すって近づいて来る。息子を見るなり、「大きなったなあ、ほんま大きなったなあ、顔もかわって、もうほんま男の子やんか!」と抱っこして、抱きしめてくれる。私は、言葉を失う。私は、何も言えない。彼は何十人もいる赤ん坊の一人でしかない我が子のことを、退院後7ヶ月もの間忘れずにいてくれた。そして、あの冷静だった表情など思い出せない笑みで、我が子の成長を喜んでくれる。息子はそのことを今は何一つ理解できない。先生が言う。「僕のこと、覚えてるか、覚えてへんよなあ」そして笑う。私もようやく笑う。涙が出そうだったが、私は泣かない。笑って、先生に、息子の耳が良くなってることを伝える。いつか私は、このときのことを息子に話さなければならない。私には今のところ、多くの生きる理由が見つかった。2010年に、私こそが生まれ直したような、そんな一年だったように思う。
2010-11-20
朝起きると私は
今年の2月頃のことを今日、ふとした拍子に思い出した。書き留めておく。
先日以来、息子の両頬の肌が荒れている。最初は小さなニキビ様の湿疹だったのが、あれよというまに大きくなって、ある朝みたら膿を持つまでになっていた。びっくりし、焦って、病院に行くかどうか迷っているうちにすぐにそれはかさぶたになり、少しずつ治りはじめる徴候が出てくる。今朝、息子の頬を見ると、その荒れた頬の部分の外周縁の部分が赤い色から、殆どもとの肌と区別のつかないピンク色に薄まっていた。どうやら、治っているらしかった。ほっとしたのだが、そのほっとした時に2月頃のことを思い出した。1月の末に息子が920グラムで生まれて、820グラムまで体重を減らしていた頃だ。毎朝毎朝起きる度に、すべてが夢であればいいのにと、祈りながら眠った毎日のことだ。
言葉にしてしまうとあまり上手く伝えられないのだが、あの頃私は、眠りにつく前に、いつもこんな風に思っていた。「これはすごく長い、悪い夢、悪夢なんじゃないか、眠って目が覚めたら、すべてが嘘で、子どもはまだ妻のお腹の中にいて、すくすくと出てくる日を前にして何の問題もなく大きく育っているのではないか」。そんな風に、本気で思っていた。それを強く念じて、まるで忘却の内側に自らを埋めるように、私はその想念を強く握りしめて眠りについた。あまりにそう願うものだから、目が覚めた時に私はいつも奇妙な気分だった。目覚めてしばらく、私は何が現実で何が夢なのか、いつも幾分、わからない時間を毎朝過ごす。朝の光はまだ窓から差さず、薄暗い蛍光灯の光の下で、覚醒しない意識の重さを持て余す。周りを見渡しても、私の現実は私にうまく馴染まない。ゆっくりと頭の中を探る。保育器の中で、何本もの管に繋がれてかろうじて生きている息子の姿がぼんやりと頭に浮かんでくるが、私はまるでその姿を、夢の延長線上に立ちこめる蜃気楼のように、現実感のないものとして最初は理解する。それを本当の現実であると受け入れるのに、随分時間がかかる。
私はあの頃、確かに精神的におかしかった。だが、それまで嘘に嘘を塗り固めて、幸福にあぐらをかいて、若さを浪費し、人間と大地から目を背けていた私には、どうやらショック療法となったようだ。精神的にバランスを崩していたその過程で、私は自分にとっての現実の分厚さみたいなものを始めて実感する。言葉の遊戯の上では存在し得ない、掛け値無しの現実というやつだ。私は33歳になるまで、ついぞその現実を知ること無く生きて来たことに、その頃私は気付く。いくら願ってみても、目を背けても、現実がそこにあるという分厚さ。
現実の分厚さに気付いた後も、目が覚めた時に全てが上手く行っていることを願わないではいられなかった。起きた時、息子の抱えている全ての病気が、実は嘘というか、たいしたものでないというか、何か間違いのようなもので、新しい検査をしたところ全ての数値はクリアされ、すぐにでもこの世の中で生きていける、そんな風な妄想。脳内出血や心房中隔欠損症が無い世界。勿論、そんな都合のいい奇跡は起こらない。
そう、そんな都合のいい奇跡は起こらなかった。ただ、ある日、「あれ?」と思う。気付くと、息子の保育器の周りにあった管が随分少なくなっている。計器類から発する危機的なアラート音が、最初の頃のより随分小さくなった。入院当初は一瞬一瞬が生死の分かれ目とでも言わんばかりに張りつめていた、NICUのお医者さんや看護婦さんの雰囲気が、随分柔らかくなっていた。私はと言えば、保育器の横で、殆ど息をするのを忘れて身じろぎもせずに数時間でも座っていた始めの頃と比べて、ビデオを撮ったりカメラを撮ったり日記を書いたりしながら、ある意味「楽しんで」いる時間さえあることに気がついた。
愚かしい妄執に囚われながら毎日毎日奇跡を願いつつ、私は、少しずつ進行している目に見えない「善いこと」の僅かずつの積み重ねにまったく無頓着だったことに気付く。それを持って奇跡というならば、なんと奇跡と言うのは分かりづらく、目に見え難いものなのか。保育器の中で遂に笑い顔さえ見せるようになった息子を眺めながら、私はそのメモリの小さい動き方に感嘆を覚える。人生の動き方の、時に劇的な部分と、時に微細な部分の、人間を度外視した時間性と質量に想いを馳せる。生きるということの意味さえも。
息子の頬は、ここ数日、着実に善くなっている。朝と、昼、そして夜。一日眺めていても、あまり変わった気がしない。しかし、日を置いて見てみると、ある日それは「善い方向」へと進んでいたことが明らかになる。それを見て、私は2月の頃の私の気持ちを思い出す。焦ってみても、あまり意味がない。地球は地球で、定められた周回運動を着実にこなし、私の息子の頬の荒れは、彼に内在している生命力の元で、定められた回復をこなしつつある。それらを観察し、私は納得する。
2010-11-06
今の私に何が書けるのか
私のブログにやって来てくれる人の多くは、残念なことに某日本のミュージシャンに関して書いた記事を求めてのことのようだ。知識もなく、思いついたままの感想を垂れ流し、それがGoogleを経由して世間にばらまかれる。私の文章など、少なくともこのミュージシャンに関しては、誰に読まれる必要も無い文章だ。申し訳なく思う。
次に多いのは、文学系の検索でやって来てくれる人。これもまた、残念なことだし申し訳ないことだと思う。私の文学の知識などは本当に取るに足らぬものだし、読むに値しないものだと自分で理解をしている。もし私に語るに足る知識があれば、今頃研究の最前線で目覚ましい論文と発表を繰り返していただろう。私が文学について語る言葉は、私の見果てぬ憧憬の残滓、あるいは心ならずも惹かれてしまった小説という芸術に対する未練。いわば、精神の排泄物のようなものだ。それを書かないではいられないが、それを書いたからといって何が出てくるわけでもない。申し訳なく思う。
これらが私のブログにやって来てくれる人たちの半分だとすると、残りの半分は子どもの発達に関する不安や心配を反映した検索で来られる方。特に多いのは「未熟児」「発達」「ASSR」「ABR」「無反応」というような検索ワードだ。その検索結果を見る度に、私は思いを馳せる。たった二つのキーワードを経てここに来てくれた、生まれたばかりの赤ん坊を育てる母親、あるいは父親は、私が数ヶ月前に落ち込んだのと同じ絶望と同じ不安と同じ焦燥を抱えて、ワラにもすがる思いで私の文章を読んでくれたのだろうと思う。今の私に書けるのは、多分この人たちに向かってだけだ。私がめがけることが出来るのは、多分この人々だけなのだろうと思う。
いくつかの赤ん坊に関する文章を書いて、私はその時々の気持ちを出来るだけ残そうとつとめている。というのは、私がかつて不安のどん底に陥った時、私の心を救ってはくれぬまでも、僅かながらにも軽くしてくれたのは、同じことで悩む人々が残した文章だったからだ。その文章は、私が日々接する文学の言葉とは正反対の場所にある。時に混乱をし、時に滞留するそれらの言葉は、効果と目的へとめがけて紡ぎ合わされる言葉の芸術としての文学の言葉とは、そのスタートの時点において、まったく別のベクトルを向いている。彼等は誰に対して言葉を発しているのでもない。自分自身に対して、他ならぬ未来か、過去の自分にたいして、現在から呼びかけている。「私は、私たちは救われるのか?」と。勿論その絶望的な問いに対する答えは、どこにも見つからない。おそらくは書いている彼等もまた、答えを求めて問いを発している訳ではないことは、自覚しているだろう。それでも書かずにはいられない。同じ境遇に陥った私には、その不安が書かれないではいられないものであることがよくわかる。そして書いたからといってどうなるものでもないこともまた、良く知っている。だが、突き動かされる衝動のままに書かれたその文章、ネットの片隅に残されたいつかの感情の痕跡は、それを読んだ者にわずかながらの安息を与えるのだ。私が陥っている不安と絶望は、私だけが陥ってる不安ではない、その文章を読んだものは、自分と同じように苦しんでいる人間がこの世界にいることに、ようやく気付く。
そのような文章の読み手の一人としての私にとって大切なことは、その時、私は何一つ、「もう一人の私」とも言えるその文章の書き手と、話をする必要がないということだ。目についた文章を読み、何一つコメントを付けることなく、私はブラウザを閉じる。もう一度その文章、そのブログ、そのホームページを目にすることは、おそらくないだろう。しかし、私は自分の心の切れ端をそこに残して行く。そんなことを、その文章の書き手は知る由もないだろう。だが、少なくとも「あなた」の心の一部分、「あなた」が感じた不安と絶望の一部は、私のそれと深く響き合ったことだけは確かだ。そしてその確からしさの証拠に、私はいつまでもいつまでもその文章のことを考える。その文章を書いた母と父と子どものことを思う。私の心の一部を、どこでもない場所へと、思うままにさまよわせたままにする。
今、私がめがけられるのは、だから、そのような人たちだけなのだろうと思う。
耳が聞こえなかったり、重い障害を背負ったり、あるいは不幸にもなくなってしまったり。そのような人々と私は、連帯をしたいとはこれっぽっちも思わない。人は結局一人で生きねばなるまいし、一人で死なねばならないし、ならば出来るだけ私はシンプルに、最小限の人々に私の最善の努力を傾けたいと思っている。だが、それは何も「あなた」のことを知りたくないというわけではないし、また「あなた」がどうなってもいいということでもない。私の知りうる限り、「あなたたち」の全てに、今は幸福が無理なのだとしても、僅かながらの慰藉が訪れれば良いと、切実に思う。そう、だから私は言葉だけを残しておこうと思う。私の心の切れ端として。
2010-10-09
土曜、雨、午前
昔、ブログをがんばって書いてたときは、書くことを思いついたら出来るだけ覚えておこうと努力してたので、結構書けたのだけれども、最近は何でも忘れることが多いし、書くことでの自己実現みたいな幻想はおおむね消えちゃったので、書けるだけのことを書けるときに書くようにしてる。それでも時々、ざわざわと何でも良いからとにかく書きたいと思うときもある。まるで私にとって書くことは食事やセックスみたいに思えるときがある。だから、書きたい気分だけが残ったまま、書けること自体がないなんていう時は、まるで不眠症のようでもある。雨が降っている。最近よくざわざわした気分になるのは、子どもの話を聞いたときが多いようだ。
子どもがいなかった頃、私は自分が子ども嫌いだと思っていたが、自分が子どもを持つとかなり変わったと言うのが実感だ。まるで彼等は、失われた古代の超文明のように感じるときがある。私にはわからない、すごく高度で、しかし原始的に見える何か完全に違う世界のロジックそのものに。時々彼等は、自分の運命のように感じることもある。私にとっての死亡通知、届かなかった宛先不明の手紙、かわされなかった挨拶。時々彼等は、絶対的な神のように思えるときがある。私にとっては、無慈悲で慈悲深い、希望と絶望。子どもの存在、私の世界を一変させたもの。目に映る世界は大きくかわり、私は今やなんでもない。私は、何か別の世界を旅する旅人の夢なんじゃないか、と言う風に思う。あるいは、彼の夢なのかもしれない。私の横でぼんやりと天井を見つめている、彼の夢。
金曜日の晴れた午前、校庭を走る。せめてその子が、その瞬間まで幸せであったならば、と俺は願う。
2010-09-01
この数日、しんどかった話
愛情というものは難しい。情を取って、愛だけにするとなおのこと難しい。
私には一人息子がいて、その息子は耳が聞こえないらしい。らしいというのは、私は今のところそれを信じていないからだ。信じたくない、のではない。文字通り信じていないのだ。話しかければこちらを見るし、奇声を出せばうれしがってニコニコする。その、輝く様な笑顔を見ていると、彼が無音の世界に生きているというのは信じ難い。だが医者は、ABRとASSRの信頼度を根拠に、「息子さんはとても静かな世界にいます」と断定的に語った。そうなのか、ととりあえず思う。しかしそれが真実かどうかは、まだ数ヶ月見てみないとわからない。
今年の1月に924グラムで生まれてしまった我が子は、生まれた時に重い障害を覚悟した。26週で生まれた赤ん坊は、40週で生まれる赤ん坊とは、何もかもが違うからだ。それでも、命があればいいと願って3ヶ月の間一日も欠かさずひたすらNICUに通った。その時間は私には良い経験になった。命を見た。死んで行く赤ん坊、私などでは絶えられそうにもない難しい脳の手術に臨む赤ん坊、ダウン症の赤ん坊、手足の欠損した赤ん坊、目の見えない赤ん坊、ひたすら苦しそうに喘ぐ赤ん坊、心臓移植待つ赤ん坊。我が子が入ったNICUは、そういう生まれた時点で重いリスクと運命を背負うことになった赤ん坊たちが集まる場所だ。私たちの子どももその一人なのだ、ということを日々実感した。私の魂の一部分は、今でもあの場所に残っているように思う。あの3ヶ月の日々のことを思い出さない日は、一度も無い。
生まれた日のことだ。産気づいた妻の状態を知らせるために、母親に電話で連絡した。声にならぬ私に向かって、母は強い言葉でこう言った。「絶対に障害が残るし、難しい人生になる。赤ん坊は次があるから、諦めなさい。」ショックだった。赤ん坊と見るや、目尻を下げて赤ちゃん言葉になり、自らデイ・ケアで障害を持つ子どもたちを世話する母親から出た言葉と思えなかった。動揺した。母親が言った言葉そのものにではない。私が心の底で朧げに考えていたことを、母親が言葉にしたからだ。私は自分の本音を見透かされた気分がして、激しくその意見を却下した。すでに、妻と私は「出産」を選んでいた。今更引き返すことは出来ない。そういって、電話を切った。
生まれてからの一番危機的な日々のことは、またいつか書こうかと思う。今はまだ冷静に振り返る自信があまりない。ただ、結果として息子は、天文学的なラッキーで上手くNICUの日々を切り抜けた。脳の出血を二回も経て、重い肺病を抱えていたのに、手術もなく、障害も残る可能性は少なそうです、と退院のときに医師に言われた。退院の日は、医師のその告知があることを知っていて、私は悪い診断を予感して病院に行った。心は張りつめていたと思う。医師から障害の可能性が少ないことを言われて、私は思わず涙が出た。入院中、何度泣いたか分からない後の涙だったが、安心で泣いたのは始めてだったかもしれない。その時、最後に難聴の可能性だけ指摘された。新生児の聴力スクリーニングの反応がなかったのだ。だが担当の医師は、「新生児スクリーニングで反応がなくても、半数以上のお子さんは実際には正常である場合が多いです。過剰に心配しないでください」と、我々を勇気づけてくれた。だが、医師のその言葉以上に、私は「難聴」というものを軽く考えていた。失明の危険の方がよっぽど大きかった我が子なのだ。それを乗り越えたのだから、難聴くらいなんとでもなると。
今から思うと、馬鹿な思い込みだったと思う。ことの深刻さをあまりにも軽く見ていた。3ヶ月後、もう一度耳鼻科で診断を受けて、やっとはっきりとした結果が出た。100デシベル以上、ということだった。分かりやすい日本語に変換すると、耳元で車のクラクションが鳴っても聞こえないレベルの難聴。世の中では、「高度難聴」とか「重度難聴」と呼ばれる状態らしい。何を言われているのか、よくわからなかった。
調べて行くと、難聴の難しさは言葉の獲得への影響と言う形で出るようだ。かんがえてみれば、当たり前の話だ。耳が聞こえないのだから、言葉を覚えられるはずが無い。そして言葉の獲得が遅れるとどうなるかというと、知的な発達の遅延へと結びつく。人間は言葉によって精神を形作る。逆ではない。当たり前と言えば当たり前の話だ。こんな当たり前の、しかし震える様な恐怖を、私は「難聴なんてなんでもない」と思っていたのだ。自分をはり倒してやりたい。
現在、息子はすくすくと育っている。法律上は生まれて7ヶ月になるが、未熟児で生まれた子は、「本来生まれるべき日」を成長の目安として、月齢に修正を加えて考える。息子は本来5月1日に生まれる予定だったから、今日、まさに、「修正4ヶ月」ちょうどになった。早いものだ。1月に924グラムで生まれたのに、先日ついに、同じ時期に生まれた子どもたちの成長曲線に追い付いた。これは、26週で生まれた未熟児としては、あまり例のないことだそうだ。病院に行くたびに、「めっちゃごっついなあ」と、かつての医師や看護婦さんたちが、お世辞ではなく心から驚嘆してそういってくれる。それくらい、デカイ。素晴らしいことだ。ありがたいことだ。体重や元気さだけは、いっちょまえの赤ん坊になった。元気で愛らしくて、私はこの世の中にこんなに素晴らしい存在は他にないと、毎日思う。見る度に思う。でも同時に、今は恐怖におびえてもいる。この子は、障害者として生きるように宣告されている。その恐怖におびえて、この一週間は殆ど鬱の様な状態に陥った。目の前にいる俺の希望は、俺の絶望でもあるのか。そんな風に思って。何度か死ぬことを考えた。一緒に死ぬことを、現実的に考えた。障害者が生きるには、この世の中はつら過ぎる世界だからだ。勿論それは、健常者として生きた私のエゴに過ぎない。だが私は、健常者としてのロジックしか知らないし、そのロジックの支配的な強力さと慈悲の無さを、いやになるほど熟知している。この世の中は、弱者に優しく出来ていない。そんな世界に、我が子をどうやって送り出そう。考えれば考えるほど、絶望しかないように思えた。私が金持ちだったら、そうも思った。もし大量のお金があったら、最高の医学を受けられるように手配したのに。でも、私もまた今やもう、弱者の一人に過ぎない。徐々に未来と希望を使い果たしつつある、力ない中年。嫌な言葉だが、負け組というやつだ。我が子に申し訳なく思う。助けてやれずに、たいした手を打つことができずに。だから、死ぬことを考えたりもする。馬鹿げた考えだが、考えないではいられないのだ。
愛情は難しい。私が一時の気の迷いからふっと覚めたのは、それほど劇的な瞬間があった訳ではなく、息子が遂にクビが座り始めたのを見たからだ。修正で3ヶ月後半。理想的なスケジュールだ。クビの座りは、筋力の問題ではなく脳神経系の問題だそうだ。だから、発達の諸段階でかなり大きな意味を持つそうな。細かなことはわからないが、息子の発達は、耳を除けばとても順調だ。伏せ状態から、必死で頭を上げてこちらを見る。クビが座ってないと殆ど頭が上がらないから、これはクビが座った証拠なのだ。自分が成し遂げた大きな成長の意味も知ること無く、前日まで出来なかった「クビ上げ」を、まるでずっとやっていたかの様なスムーズな動きで、すんなりと実行する。じっと私を見る視線は、驚くほどに強く、意志的だ。そんな目を私はついぞ見た記憶がない。黒い、真っ直ぐな目に、引き込まれる。その目の力に、私は自分の愚かで自己中心的な考えを恥じた。あの時、生まれた時に母が言った言葉を、まだ私は引きずっていただけだということに気付いた。「障害が残るから、諦めなさい」。私は、一度それを反射的に拒絶し、その後、NICUにいる間に命を学んで、腹を決めたはずだったのに、退院後のちょっとした安心と気のゆるみ、そして朧げにでも見え始めた明るい希望のために、不安に耐える力をあっさりと失ってしまったようなのだった。自分の不安を投影して、息子までその闇に閉ざしてしまう権利は、親の私にもない。少なくとも、息子は今、ゴキゲンの笑顔で笑っている。
結局、生きると言うのはいつの段階でも不安なものだ。私自身を見てもそうだ。私には、今、何も希望がない。定職と言うほどの定職にも付けずに、研究者としても三流以下で、脳みその方もくたびれつつある。自分を振り返って、この先何か楽しい、明るい、バラ色の将来が開ける可能性は皆無で、老後は不安しか今のところ見いだせない。それでも私は、生きている。生きることが簡単なわけではないが、それなりに生きる意味や楽しさというのを、多分知っているからだ。そしてごく稀に、息子が見せてくれたような「クビ座り」の瞬間の様な、ささやかだが驚くべき瞬間がやってくることも知っている。そういうのをまるっと含めて「生」というならば、息子はまだその一端さえ味わっていない。せめて父親としては、息子が「生きる」姿を見てからもう一度聞きたいのだ。「どうだ、しんどいか?」と。そしてその答えがイエスだったなら、その時もう一度、一緒にこれからのことを考えよう、それからでも遅くない、と言う風に思ったのだ。それが、一昨日のことだ。
何の根拠もないが、息子の耳は聞こえているように思う。少なくとも、100デシベルの高度難聴ではないように思う。それは親の贔屓目ではなく、むしろ絶えざる観察から来る直観という方だ。勿論、半分は願いなわけだが。そう、それを私は祈る。ひたすら祈る。
2010-08-22
電話
NICUからかかって来た二本の電話のことを忘れたくない。1本目は5ヶ月ほど前のことだ。
入院の際に渡された電話番号を、あまり意識することなく携帯電話の電話帳に入れていたので、携帯ディスプレイに映し出された「NICU」の文字を見た瞬間、体に震えが走った。NICUから電話があるなんて、考えてもいなかったのだ。瞬間的な恐怖で体が震えたのは、生まれて始めてのことだった。時間にして5秒くらいの呼び出し音の間、私の膝や肘がガクガク震えて、うまく応答ボタンを押せなかった。病院から、しかも病状の重篤な家族が入院している病院から電話がかかってくるのは、本当に恐ろしい。それは、良い電話であるはずがないからだ。状態が良いなら、見舞いの時に話せばいい。電話でないと話せないのは、悪い方の緊急事態が起こったからだ。案の定、酷く悪い話だった。電話では詳しい内容を告げられず、ただひたすら「病院まで来て欲しい」ということだけ伝えられた。家から病院までの30分の移動時間は、ただひたすらつらかった。頭の中に思い浮かぶのは、最悪の事態のことだけだった。実際には最悪の事態ではなかったが、最悪に近いことは起こった。担当の医師からその内容を告げられたとき、私はNICU病棟の地面にへたり込んで、不覚にも声を出して泣いた。後から後からせり上がってくる嗚咽を、私は止めることが出来なかった。その泣く私を、NICUにいる他のご両親と、そして医者や看護士が、多分じっと見つめていた。
危機的状態を乗り越える。そして、その後の奇跡的な回復があった。何度も起こった奇跡のうちの一つが、このときのものだ。だが、私の中には深い不安が残った。夜寝ていても収まることがない、黴のように心に巣食う不安だった。一瞬でも気を抜いたら、またあれがやってくる、鳴らない電話を予測する不安。思い出してみると、一度目の電話がNICUから来たとき、私は些か気が緩み始めていた。NICUでの生活も1ヶ月が経った頃で、命の危険は過ぎ去っていたかに思われた。徐々に肉を付け、少しずつ赤ん坊らしくなっていく姿を見るうちに、心に楽観と希望がきざした。そんな気のゆるみが、安堵とともに徐々に私の心に芽生えた矢先に来た電話だった。私は打ち砕かれ、疑心暗鬼に捉えられた。極度の神経症になり、電話が怖くて、普通の電話の時でさえ声が上手く出なくなってしまった。絶えざる緊張と、希望や楽観を求めてはいけないという、強い自己禁止の命令が、私の心を強く縛った。あの頃の私はいっぱいいっぱいだった。
二回目の電話が来たのは、そういう張りつめきった危機的な精神状態の時だった。NICU入院後、二ヶ月が経った頃だ。電話のディスプレイに間違いなく表示されているNICUという文字を見た瞬間の気持ちを、文字で伝えることが出来るだろうか。物理的な威力を持って、体を突き破りそうな目眩が起こったときの状態を、どんな表現で伝えたらいいのだろう。血が焼け付くように体の中で凝固して、喉から酸素がなくなっていった時の体の状態を、どんな風に伝えることが出来るんだろう。永遠に続く様なコールが鳴り響く。私は目の前に血の爆発が起こったような光が乱舞するのを見ながら、床に真っ直ぐに倒れ込んだ。電話に出ることができなかった。
切れた電話を床に座ってぼんやりと見るうちに、それでも、このまま放ってはおけないと思った。何かが起こったにせよ、何が起こったのかわからないままでいたら、私は文字通りに死んでしまうと思ったからだ。それで、自分から電話をかけなおした。呼び出し音が鳴っている間、私の心臓はまたも私を殺す寸前まで追い込み、もうこれ以上待ってられないと思った時に、電話口の向こうに担当医の先生の声が聞こえた。冬眠中のクマの様な、ぼそぼそっとした、暖かみのある声だ。何度私はその声に励まされたことだろう。今では暖かい気分で思い出すことが出来る。しかしその時はそんなことを考える余裕は少しもなかった。私は、その時、こんな風なことを言ったのを覚えている。「先生、何か悪いことがあったんでしょうか。」私は、「悪いこと」があるのを殆ど確信して、そんな風に言ったのだった。先生は驚いた声で、そうではないと答えてくれた。そして、単に自分が今から出張で週末の間、他の医師に担当してもらう、ということを我々に伝えるために電話したということだった。その時の安堵感を表現する言葉も、私は持ち合わせていない。そして先生はさらに続けてこういうことを言ってくれた。「もうだいぶ息子さんは強くなってきたから、僕がいなくても今なら大丈夫です。」生きていて、こんなにも嬉しかった言葉を私は知らない。そしてその喜びを伝える術を、やはり私は持っていない。
色々私は忘れて行く。最近、私は自分を守るために、多くのことを素早く忘れる能力を、驚く程素早く身につけつつある。忘れる能力の素晴らしい点は、心の不安を和らげてくれることだが、忘れる能力の困った点は、忘れたくないことまで一緒に忘れてしまうことだ。あの絶望と不安の日々の中に、それでも希望と喜びがあったことを、それも少なからずあったことを、私は覚えておきたく思う。その一つ一つが紡ぎ合わされて、私は、我々は今の我々に至る。そのことを、私はすでにもう忘れつつある。いつか私は、我々が経験したこの全てのことを伝えたいと願っている。誰が祈ってくれたのか、誰が願ってくれたのか。希望の総体は、いかにして維持され、積み上げられたのか。そのことを彼に伝えるまで、私はなんとか、この凄まじい忘却の中にあっても、自分の記憶を保っておきたい。そのために、今日はこの文章を書いた。
2010-08-02
病院にて
現在毎週2日、病院に通っている。週に7日病院に行くのを3ヶ月間続けた後だと、週に2日程度、いくらでも行けると思ってしまう。それでも、だんだんと病院が遠くなって来ている。少しずつ、彼は本来の健康な体を手に入れつつある。今日、また一つ、外科の「経過観察」が終了した。「心臓は問題ないですね!」と太鼓判を押してもらう。素直に嬉しい。二人で乾杯をした。ノンアルコールなので気分は出ないが、それでも乾杯しないではいられなかった。
幸福に関して。私はかつて、自分の私的な幸福を垂れ流したことがある。おおっぴらに、無闇に。ある意味でそれは感情のテロリズムのようなものだ。見知らぬ人間の私的領域に幸福という天下御免の印籠をかざして無理矢理侵入する、厚顔無恥な陵辱。その行為は多くの人を不快にさせた。その後私は不幸のどん底に落ちた。因果応報。不幸の底で感じたのは、幸福は恨めしく、幸福そうな人間はねたましいという、ただそれだけだった。自分の身内に次から次へと湧いてくる黒い感情に、一年もの長い間わたしは捉えられた。正気を保つのが苦しいときは浴びるようにお酒を飲んだ。酒臭い息で仕事に何度も行くことになった。職場をクビになった。昼休み、人と話すのがつらくて、逃げるように外に出る。どこに行くというわけでもない。道で幸福そうな若い夫婦と擦れ違うと、その内側に欺瞞を探した。健康そうな子どもを見ると、天につばを吐きたい気分になった。「なぜ、俺たちだけが」。夢かと思って時々心の内側に目を凝らしてみるが、単に胃が痛いだけだった。痛みはリアルだ。
今思うのは、あの時私は、本当に何も見えていなかったということだ。本当に、私は色々なものが見えていなかった。なんでも起こりうる。すべては起こりうる。明日、太陽が爆発することさえ起こりうるのだ。人が一人死ぬことは、実に簡単に起こりうる。そんなことさえ、知らなかった。
幸福がそれほど長くは続かないのと同様に、不幸もそれほど長くは続かない。幸福に見えて、不幸の予兆におびえることもあれば、不幸の中でも希望の兆しが見えることもある。life is a long and winding road、陳腐だがそう思うようになった。
人生で最大の幸福と最大の不幸を殆ど同時期に味わった後に私は思うのだが、毎日色々あるということだ。面白い。今日、私は彼が始めておもちゃを自分の手で握る瞬間を見た。何気なく私が打ち込むこの文字も、最初は彼の手に握られたガラガラだったのだ。その長い長い連続性に思いを馳せることが出来るのは面白いことだ。私はある意味、今未来を生きている、そんな風にも感じられる。
2010-07-27
ご挨拶
ブログを再び書くなら、ここからまた始めるしかないか、と思ったのだった。
あれから3年経って、私の身の回りは大きく変わった。凄く大きな悲しみと、小さな悲しみがいくつか。それから、大きな喜びが再び訪れて、その後、急転直下また悲しみが訪れた。その後は、苦しい苦しい時間が続いた。生きるとは、なんだろうと考えた。考えた末に思い立ったのは、結局生きるとは生きるということだという仮の結論にたどり着いた。そして同時に、私は結局のところ何か文章を書いたり読んだりすることで、生きるということの意味を問うたり、考えたり、再構築したりするんだということに思い至った。
何を書くかは、実はまだよく考えていない。この3年ほど、長い文章がすっかり書けなくなってしまった。長く書けば書くほど、嘘を書いているような疚しさが募ってくるからだ。かつて私は、大嘘つきであったように思う。出来るだけ、今は正直な人間になりたいと思う。だが、「正しい人間」になりたいとは思わない。私は、私の偏向に対して、出来るだけ正直にありたいと願う。
何を書くのかは、おいおい決めて行こうと思う。とりあえずは、書評じみたものと日々の雑記を書いて行こう。目的ははっきりとしている。文章を書くことで、私は自分自身を再構築したいと願う。書かれた言葉を中心にして、私という人格をもう一度自分で練り上げてみたい。思い返すと、ブログを書いていたころ、私は何よりも自分が書いたものに励まされていたように思う。書いた中身が優れていたとは思わない。単にその書いた文字の分量に励まされていたのだ。それ抜きにしては、私はほとんど存在の意味さえないような空っぽの人間だった。書いた文字が、私の成長記録のように思えたものだ。
このブログがどのような道行きを辿るのかはわからないが、がんばって書いて行こうと思う。皆さん、よろしくお願いいたします。