山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)岩波新書503、岩波書店、1997年)

*2006/05/23現在

  • ヴェーバーは、キリスト教の理念(キリスト教神学)から抜け出ることのできない人たちによって、誤読されてきた。本書はその誤読がいかにして起こったのかを解明するとともに、ヴェーバーが目指そうとしたもの、その画期性やそのアイディアに至った動機を明らかにする。
  • 行為の理論:社会的行為の内面的(倫理・道徳的)動機づけに注目する。
  • 理解社会学:行為を動機づけている文化的意味への共感と理解を中心に組み立てられているため。
  • 「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」はきわめてしばしば転轍器として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を押進めてきたのである。」
    • 民衆の心の内部に分け入り、その感情の微妙な動きを捉えようとするもの。
  • 彼の方法上、中心的な論点:「合理化された「世界像」」による行為の構造化
  • 自分がどんなに巨大な恩恵を負っているかということについて、十分に自覚しているか。
  • イードヴェーバーへの言及の誤り。
  • ヴェーバーの研究は、言説伝承の不連続性(ズレ)とパラドックスの読み解き。
  • 被造物神化の拒否(ピューリタン):人間的所産が何らかの意味でそれ自体として価値を持つという考え方を徹底的に拒否する。
  • 価値自由(Wertfreiheit):絶対的な価値判断基準はあり得ないとする考え。確実な真理(=判断基準)にいたる可能性を否定する。
  • 対象としての社会について、客観的にその運動法則を認識すること、これが社会科学の本来の課題だとする立場は、ヴェーバーに言わせれば、科学という姿をとって現れた新しい神学に他ならない。
    • 近代の社会科学は、ヴェーバーによれば、実は中世神学の転化形態に他ならなかった。
    • 知覚不能な身体的領域*1に眼を向けざるを得なくなる。ヴェーバーは、この身体に源をもつ混沌とした無規定の力なエネルギーが、歴史において働く力のひとつ*2であると考えた。

* 感想 *

  • もし著者によるヴェーバーの読み解きがヴェーバーの主張の芯の部分を掴んだものであるなら、ヴェーバーの掲げた従来の社会科学への批判(=科学という姿をとって現れた新しい神学)は正しいと思う。
  • ちなみに私はヴェーバーの原典を読んだことはないし、そもそもヴェーバーについて、社会学というものを意識して読むのはこれがはじめてと言ってよい超初心者。なので本書は「ふ〜ん、そういうものかぁ」という感じで読んだ。よって、良書か否かも判断できない。
  • 「これまでのヴェーバー解釈」の誤読についての指摘がたくさんあったが、ということはその誤読の上でなされた翻訳もまた誤読の方向のものになっている可能性が…ヴェーバー読んでみたいけど、ちょっと躊躇。
  • なんてことを言っていたら何も読めなくなるけど、とりあえず批判できる地盤がまだない…ある程度「見えた!」というところまで行かないとだなぁ。
  • 原書を読む余裕と能力があればいいのだけど…。自信無し。

*1:およそあらゆる文化的形式になじまない、原初的で不定型な場所。同時に、記号的・匿名的な形式の支配に対して氾濫を起こす拠点である、とヴェーバーは考えた。

*2:マルクスの言う生産力とも異なり、またヴェーバーが生涯を通じて解明に取り組んだ宗教的救済に向かう観念の力とも異なる。