2011-03-16 詩と「フォン・ドマルスの原理」+関東大震災
■詩と「フォン・ドマルスの原理」

以下、私は今回、かなり大胆な考察をするつもりです。表題の「フォン・ドマルスの原理」とは、以下のような法則です。
神話や統合失調症患者の世界把握パターンを説明する、精神科医フォン・ドマルスが、豊富な症例から帰納した原理。
通常の認識では、文法的構文の基本「AがBをする」があるとき、主語のAによって、行為者を認識するが、述語のBによって行為者を認識する者がいる、という主張である。この場合、「体をあたあためる」ものを、同じことだからと、「コタツ」と「太陽」を同一なものだと認識するようなことを指す。
以上はかなり前、私がはてなキーワードにしたものです。この原理では、西欧独自の思想、たとえばアリストテレスの排中律・・・A,非Aは同時に成り立たないという発想にカウンターパンチを撃つのです。なぜなら、動作の主体ではなく動作そのもので区別できるわけですから。同じ動作をするものは、同一視するわけです。
詩を語る際、比喩(ひゆ:例え)は不可欠の概念です。ここに、アルチュール・ランボーの前期韻文詩から「太陽と肉体」という作品を紹介します。一部だけですけど。
大地は その羊蹄に踏みつけられて 緑色に慄えおののき
この詩の場合、ランボーが書いている「木々の薔薇色の血液」というのが、たんなる比喩か否かで批評の方向性が決まります。ただ単に比喩だと捉える見方は、私は「浅い」と思います。ランボーには、本当に「薔薇色の樹液」が見えていたのだと思います。それは、植物のなかに動物を見出す作業で、「述語が同じなら・その主語も同じとする」・フォン・ドマルスの原理が適用できるのです。
それに加えて、ランボーは、詩人はあらゆる感覚を濫用して、ヴォアヤン(幻視者)となるものだと規定していましたから、彼の驚きべき作品群は、精神病の一歩手前まで行って書かれたものだと思うのです。ここに、「フォン・ドマルスの原理」が成り立つ条件があるのです。
今、ここに、興味深い本があります。「小説家になる! 芥川賞・直木賞だって狙える12講」(中条省平・ちくま文庫)ですが、この本を書いた中条さんは、実際に各種文学賞の受賞者で、なかなか面白い本です。小説の世界でも「比喩」の扱いかたは大事なようで、繰り替えし説明されていますが、この本を読んで得る「比喩」の価値は、どうも、ランボーたちの詩ほどもない気がします。
なんだか、比喩を「テクニック」として捉えているようでね。私はこの本、真ん中くらいまで読んで続きは読みませんでした。この本では小説家は「職人」という感じがします。かつて詩人の中原中也は、「表現者としてもっとも優れているのは詩人、次ぎに小説家、最後に評論家だ」と言っていたそうです。(マンガ・含羞(はぢらひ):曽根富美子)
今日のひと言:ランボーの詩で、私がもっとも好きなのは、「イリュミナシオン:飾り絵」に収められた「大洪水のあと」の冒頭部です。出典は前掲書。
一匹の野兎が、いわおうぎと揺れる釣鐘草のなかで立ちど
まり、蜘蛛の巣ごしに虹に向かって祈りを捧げた。
おお!身をひそめていた宝石たち、――早くも眼を凝ら
していた花々。
まさしく神話的な詩ですね。
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■何も持たない者が強い・関東大震災

不思議なことに、私は今回の東北地方太平洋沖地震について、語るべきディスクールを持っていません。そこで拙著「災害の芽を摘む」から引用しようと思います。
関東大震災で、最大級の死者を生んだのは、広場でした。2万坪の本所被服廠跡地(ほんじょひふくしょうあとち:現在の横網町公園)。それも、揺れそのものはしのぎ、避難民たちが安堵していたころの午後3時半、東南から黒い火炎の竜巻がやって来て、あっという間もなく火に包まれました。死者4万人!(生存者は20人に1人)。広い道路と運河に面し、防災上有効と思われていた広場(今日でも、ここは、震災時の避難場所になっている)。なお、広域火災では、“火炎の竜巻”は間々起こる由。
この大惨事の原因は、一つに、避難者の大集中。災害のいかんによらず、「集団避難」は大量死につながる(人が多くなれば、逃げる速度は、どうしても遅くなるわけ。この時は、1人当たりの土地は約1.7平米、たたみ一枚分でした。
もう1つは、津波による洪水を恐れて、フトン、たたみ等を持ち出した人が多かった点があります。「危ないから止めなさい」という人がいようものなら、逆にフクロダタキになるほどだったとか。皮肉なことに、彼らは、自分たちの火葬燃料を持参したことになりました。荷物のために、逃げ道もなくなったわけです。
以上の話は、物欲がいかに危ないか、を語っています。どんな「物」であれ(「人」も含めて)、かならず陰陽を合わせもちます。災害時の波動は、陰の破壊力であり、それに「付和雷同」した「物」は、同じく破壊力を持つことになります。考えて見てください、ティッシュ・ペーパーで殺人も出来ます。被服廠跡地では、“たたみ”が凶器になった。“人”そのものも凶器になった。(補足すれば、広場に樹木や池など、ガードしてくれるものもなかった)。
災害は、私たちが日常、どんな態度で生活しているかを、明確に写しだします。物に囲まれ得々としている人は、手痛いしっぺ返しを受けます。物が多い、とは、そのまま、破壊力を持つ敵が多い、ということだから。逆に、少ししか持たぬ(あるいは依存しない)人は、楽にかわせる。物欲は、精神修養上の妨げ、という意味で語られることが多いようですが、物理学的にも根拠があるのでは、と思います。
災害の芽を摘む P25-P26
関東大震災は「火災」の地震、東北地方太平洋沖地震は「津波」の地震でしたね。だから私が挙げた考察は、必ずしも今回の地震には適用できないかも知れません。・・・ここまで書いて、頭に浮かんだこと3点。ああ、私自身のディスクールが出来ました・・・
1) 福島第一原発の4号機の火災、未明に「消えた」と報道されましたが、「消えた」という「自動詞」とはなんなのでしょう?「消した」という「他動詞」でないのは。現地では消火に必要な人員もいないということなのでしょうか?現地作業員は孫請けの企業の者たちだけなのでしょうか?人員配置の上でも極めて危険な状態ですね。
2) 東京都知事・石原慎太郎が「今度の震災は天罰であって、我欲を流し去る津波だ」と発言した点。すぐにこの爺さん、撤回しましたが、私が当ブログで使った「物欲」とは違う点にご留意ください。
3) 円相場が、震災後にも関わらず、上がっていること。これはとても不思議な事象ですが、「日本国内の投資家が、外貨を円に替える動きがあって」上昇しているらしいですね。・・・おっと、3月17日のNHKニュースでは、円は一時これまでの最高値:1ドル76円にまで値上がりしました。これは、海外の投機家が、円の値上がりを助長しているのであるとのこと。ハイエナどもめ。
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iireiさん、本も書かれているのですね!ぜひ読ませていただきます。
ランボーの詩はほんとうに比喩という感じがしません。
石原さんの発言は、このような人を東京都民は都知事にしてしまったんだなあ、という思いがぬぐえません。
そちらの方も、世界的にも、放射能の影響が心配です。
私が「フォン・ドマルスの原理」を知ったのは、5,6年前、生命科学者の柳沢桂子さん(?)が朝日新聞のコラムに書いていたのを見たのがはじめでした。私は中国の「陰陽五行論」の解釈にも(この論が神話的世界像を示すことがあるという点で)役立つことを確認しています。
たとえば、「水」は普通にいう水という物体のみ意味するのではなく、「習得」という行為を意味する、と言った具合です。だから、習得するものはすべて水とくくれるのですね。フォン・ドマルスの原理が見事に適用されるわけです。
そうでしょう、ランボーのこの詩、比喩という感じがしませんね。テクニックとしての比喩を超えている感じです。そしてその「比喩」は「計算されて」作られたものではないように思います。
石原慎太郎は、3度も都民に選ばれています。これは弟・故・石原裕次郎とイメージをダブらせる戦略によって当選してきたのですね。そのようなバカが都民には多いのでしょう。
放射能、現在微量とは言え、関東地方各地で観測されています。この落とし前、どうしてくれるんだ、東京電力zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz!!と言った感じですね。
むしろ問題は、震災を天罰に、ましてや天罰を津波に置き換えられたら被災者の立つ瀬がない。x±x…ダブルでひどいや
それと断固予定通り野球をやるべきだといって、それにもう少し待ってくれと反対したパ・リーグに捨て台詞を吐いたナベツネ。これも一言多すぎるなあ。二人のKYぶりはそっくりですね。
東京電力、現地で働いてる方はお気の毒だなあ。
自衛隊ともに、御無事を願うばかりです。
比べて、殿様のような上層部がそっくり返ってるこれではねえ。
「カタカナの、トの字に一の引きようで、上になったり、下になったり」
落語のマクラでしばしば取り上げられますが、上の者は下の者の気持ちがわからず、下の者は上の者の気持ちはわからないものだ・・・という意味です。
中国の用兵上の言葉に「天の時、地の利、人の和」というのがあります。このなかで一番大切なのは「人の和」であるとのことで、今回の地震については、この「人の和」がないようですね。
石原慎太郎については、ほんとうにそう思います。彼は進んで私財を投げ打つつもりはなさそうで、無責任な言動を繰り返すだけ・・・有害な都知事です。こんな男をまた知事にしちゃうようでは、都民も同罪だと思います。
ナベツネ・・・彼もいろいろ世界に悪影響を与えるおじんですね。さっさとこの世から退陣してほしいです。
とても興味深く読ませていただきました。
私は絵を描くものとして、共感しました。絵の世界もこの原理が成り立つと思います。
ただ、文学の表現で言うところの推敲という行為が、なかなか難しい。言葉の選び方一つで感性が活きたり活かされなかったり、それが絵の表現になると、いかにビジュアルという呪縛から逃れることができるかということだと思います。
スケッチをしていて、ときどきは真理に出会うこともあるのですが、やがてそれはするりと逃げていく。
音楽の世界では、たとえばモーツアルトなどは邪魔なものが作品から排除されているようにも思え、音楽家を羨んだりしていますが、天才肌の作曲家というのは年齢を重ねるごとに、輝きをうしなう傾向があるようです。そのことはよく理解できるのです。つまり、感性がテクニックに変わったとたん、失われるということだと思います。
真理の追求ににテクニックは要りません。
どこまでまっさらになれるかどうか、、、
中也のいうところの
詩人、小説家、評論家、の順番はそういう意味でも言い得て妙ですね。
なるほど、絵画の世界でも「フォン・ドマルスの原理」が成立しますか。面白いですね。私も絵を描く(あるいは描いていた)立場にあるのですが、大学でマンガクラブにいたとき、4編のマンガ作品を描いたのですが、最後の一作はまるでモーツアルトのように酒を飲みながら一晩で一気に描きあげ、その出来をやっかんだ、あるマンガクラブ員と喧嘩してマンガクラブを辞めたのですが、クラブの後輩たちにはその作品は高く評価されました。
もっとも、オンコリンクスさんはプロの画家だから、私の例とは違うでしょう。絵画における推敲、興味ありますね。スケッチしていて出会う何者か、それを追求していらっしゃるのですね。
感性がテクニックに変わったときに、失われるもの・・・これこそ、すべての人間活動の根源にあるのかも知れません。フォン・ドマルスの原理があるからこそ、人間は論理的な機械ではなく、詩も絵画も作れるし、楽しめるのでしょう。
中也もなかなか穿ったことを言いますよね。
激しく反省せよ!!
コンビニに代表される現場では、揚げ物は3,4時間で廃棄され、ミスドでも翌日には廃棄。この食品廃棄文化をどげんとせなあかん。
ほんと、コンビニエンス・ストアは、本部は損しないように運営されているのですね。末端の店舗でお弁当が余った際にはその末端店の持ち出しになるということですから。店舗の人も捨てたくて捨ててるわけではないのですから、これは矛盾ですね。
して、サブリナさんは宮崎出身ですか?^^
いろいろ考えているうちに噴火しちゃいました。
「どすこい!」って・・・。たしかに、コンビニ弁当の収益を義援金にするのは、奇想天外であると同時にリーズナブルですね。コンビニ各店にアドバイスする価値がありますね。