- ◎「市川準監督のこと」リレー日記<5>-中須岳士さん-
- ◎「市川準監督のこと」リレー日記<4>−下田眞知子さん-
- ◎「市川準監督のこと」リレー日記<3>-小林達比古さん-
- ◎「市川準監督のこと」リレー日記<2>-貝本敏弥さん-
- ◎「市川準監督のこと」 リレー日記<1> -橋本泰夫さん-
- ◎今年もお世話になりました
- ◎「病院で死ぬということ」上映のお知らせ
- ◎「市川準・集」へのお礼
- ◎「9月の“市川準・集”のこと」 連載・最終回
- ◎「9月の“市川準・集”のこと」 連載・第五回
- ◎「9月の“市川準・集”のこと」 連載・第四回
- ◎「9月の“市川準・集”のこと」 連載・第三回
- ◎「9月の“市川準・集”のこと」 連載・第二回
- ◎「9月の“市川準・集”のこと」 連載・第一回
- ◎2010年9月、イベント『市川準・集』を開催します(8月プレイベントあります)
- ◎ 12月23日(水) 5作品の DVD発売です(単品)
- ◎ DVD-BOX『Memories of 市川準』本日発売日!!!
- ◎ DVD-BOX『Memories of 市川準』いよいよ発売
- ◎『buy a suit スーツを買う』スタッフ プロフィール
2012-01-19
■[◎「市川準監督のこと」リレー日記<5>-中須岳士さん- ]
ボクのなかのイチカワサン
照明技師・中須 岳士
市川さんの事を書く前に少しだけ、自分のことを書きます。
中学生の頃に写真に目覚めたボクは、高校に入って8ミリフィルムの自主映画に出会います。
その時の高校の先輩に山浦さんという方がいらっしゃって、学生とは思えない完成度の高い作品を創っておられて、ボクはリスペクトしていたのです。
高校卒業後、上京し映画の専門学校を経て照明助手をはじめて2年ほどたった頃、だったかな?市川さんの映画『つぐみ』の現場に就くことになりました。
同じ空気なんです。先輩の山浦さんの周りに漂っていたカリスマ的な空気と。
とっても優しいまなざしで、キャストを、スタッフを、そして現場を見つめている仕草は、本当に映画を愛してるんだなぁと感じました。
そういえば、市川さんは「監督」と呼ばれる事を嫌がっておられました。
最初は、〔恥ずかしさ〕なのかと思いましたが、気がつくと市川さんは、スタッフを呼ぶ時もかならず、「照明サン」とか呼ばずに名前で呼ぶのです。「中須サン」みたいに。
もっと偉そうにしていても良いのに。カントクなのですから。
でも、一助手のスタッフが監督に名前で呼ばれると、それは嬉しいものです。
「この監督の為に!」と思って頑張ります。
市川組のスタッフはみんな、そんな市川さんの人柄に、そしてつくりあげられる《市川ワールド》に、魅せられてやめられなくなっていくのでした。
その後1年半位たった後だったか、照明技師は違う方だったのですが『ご挨拶~佳世さん』でまたご一緒することになったのですが、その時も照明助手の下っぱのボクを覚えていて下さって、とっても嬉しかったのを覚えています。
それからは沢山の作品をご一緒させていただく事になります。
『病院で死ぬということ』・・・セットの裏でスタッフのすすり泣く声が聞こえていました。
『クレープ』・・・エル・スールのような映画でしたね。
『東京兄妹』・・・大雪の日に、ランニングシャツで冷や奴を・・。
『トキワ荘の青春』・・・トキワ荘のオープンセットが台風で飛ばされて・・。
そして『東京夜曲』では撮影の小林さんの絶大なバックアップがあってボクはついに照明技師にさせてもらいます。
照明に時間がかかりすぎて演出する時間が余りなかったことをボクが詫びたら、「大丈夫ですよ。画が良いですから」と優しく答えて下さいました。
その後はずっと技師としてお付きあいさせていただきます。
『たどんとちくわ』・・・合成が大変でしたね。
『大阪物語』・・・暑かったですね。
『ざわざわ下北沢』・・・路地裏をリヤカーでかけずりましたね。
『江分利満氏の優雅な生活』( TV )・・・初めてのハイビジョン。
『東京マリーゴールド』・・・[ほんだし]CFから派生した映画でした。
『竜馬の妻とその夫と愛人』・・・東宝の特大ステージで泥んこになりましたね。
『トニー滝谷』・・・暑かった。これも。でも凄い評価をいただきましたね。
『あおげば尊し』・・・重いテーマを、皆でアタマを抱えながら・・。
『春、バーニーズで』( TV )・・・ギャラクシー賞をいただきましたね。
『あしたの私のつくり方』・・・HDカメラで40分も長まわしをしましたね。
いつだったか、市川さんがおっしゃった言葉が物凄く嬉しかったのを覚えています。
「相米組でカメラマンが変わっても照明技師がいつも同じヒトな様に、ボクの映画ではずっと中須くんでお願いしますね。」
…もう、飛び上がる程嬉しかったです。
コマーシャルも、もう、数えきれない程、沢山の作品でご一緒させていただきました。
おかげさまで、「市川さんのスタッフだったから」というお墨付きで、今も仕事のオファを頂く事がよくあります。
市川組はボクに、一人前の照明技師として世間に認めてもらえる機会を与えていただきました。
そして、『あおげば尊し』のクランクイン前にボクの親父が急逝してからは、勝手に心の中でボクは親父のつもりで慕っておりました。
今でも、照明をかんがえるとき、「市川組ならこうするかな?」と思い描き乍らプランニングする事がよくあります。「こういう事したら、市川さん、どうおもうかな?」・・とか。
ボクにとって、いや、多分、市川組のスタッフはみんな、今の仕事場で《市川組》を引き継いでいると思います。
・・・ありがとう。市川さん。これからも、見守っていて下さいね。
2011-12-19
■[◎「市川準監督のこと」リレー日記<4>−下田眞知子さん-]
「日々季」
たぶん と云うより はっきりと
市川さんは変わった。
日々季が生まれてから。
とにかく 日々季が生まれて
一番喜んでいたのは市川さんじゃないカナ。
小さい頃の日々季って とても、市川さんに
よく似ていて、
市川さんとしては、
こんなに小さくて おぼろげで
(本当の日々季は『おぼろげ』ではなかったと思うけど)
無垢な者(物?)の中に
自分のDNAがすごくつまっていて
それがいとおしくてしょうがない
ってカンジ。
オーバーに云うと
自分のクローンみたいな。
だから可愛くて可愛くて。
きっと日々季が大きくなったら
自分の持っている知識を全て投入したい
くらいの事、思っていたカモ。
今の日々季は勿論とても利発で
可愛いけれど
将来てきに
市川さんが投入した日々季というのも
見てみたい気もしたね。
下田眞知子
2011-11-19
■[ ◎「市川準監督のこと」リレー日記<3>-小林達比古さん-]
11月、小林さんのお宅で美味しいパスタとワインを頂きながら、お話を伺いました。
聞き手はスタイリストの下田眞知子さんと私です。
小林さんと初めてお会いしたのは8年前。
今回お話を伺って、ちょっとした一言が監督に似ているなと感じました。
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『はじめて会ったのは、若い頃。キャップにいた頃。
市川さんが企画・演出部にいた頃。ワゴン車を、よくぶつけてらしい。
一緒に乗っていて事故にあったこと。
買ったばっかりのBMW、市川さんが運転して、僕は下を向いていてカバンの中を調べ物しながら、
突然ドーンっつって、僕の頭がフロントガラスにぶつかりました。(笑)
それで市川さんが黙ってて、僕のほうから「大丈夫ですか?」って言った覚えがある。
市川さん、何も言わないから(笑)
そしたら市川さんが「大丈夫じゃない」って、逆だろうって(笑)
それで世田谷通りだったので、脇に寄せて相手に挨拶して名刺渡したら
「監督の市川さんですか?」って、知ってたみたいで。
一緒の打ち合わせだったから、東宝の帰りで、「頭痛いなー」と思いながら打ち合わせにいった。
ずーっと最後まで市川さんは僕に「大丈夫ですか?」って言わなかった(笑)
(特に大怪我ではなかったの?)
「うーん、今になって出てくるかも。あの時のって(笑)」』
『はじめて一緒にした仕事。
CMはやっていたけど、長いのは村上里佳子の「kiss off」
(あれ、まだ見ていないんです。すみません。)
初期のは市川さんも見てほしくないんじゃないの?
(漂流記はみたんだけど)
ここにいる下田さんがやってましたけどね。
===しばらく下田さんの話===
(小林さん、kissoffのときはいくつ?)
25年以上前かもね?
(そこからずっと付き合いがあるわけよね?)
ええ、そうですね(笑)
(不思議な人ですよね、準ちゃん(笑))
謎ですね・・・・ 』
けっこうね、ほら、市川さん塩っ辛いのすきでしょ?』
『(小林さんはどれくらい仕事したんですか?CMとか)
CMは忘れたけど、半分以上は撮ってた。
kiss off。BUSU,、佳代さん、病院、東京兄弟、東京や曲、大阪、トキワ、仰げば、
たどん、マリーゴールド、バーニーズ
半分か?
(どの現場が一番つらかった?)
みんな!!(笑)
(即答じゃないの)
冗談だよ(笑)
みんな印象深い。いや冗談』
『ぼくが一番好きなのはね、これがってんじゃないよ、一番すきなタイプの映画は「たどんとちくわ」
(たどんとちくわはあたしもすき)
下田 あたしもすき
あ、竜馬もあった
たどんとちくわが好きなんじゃないよ、「たどんとちくわ」みたいな映画がぼくはすきなんだ
あとはね誰かが「これ映画じゃない」っていってたね。
病院ですね。「病院で死ぬということ」
あれがけっこう好きですね。』
『もっと色々やりたかったみたいだけどね
もっと実験とか、いろいろやりたかったみたいだね。
あれはね、ずっと若いうちからBU・SUのあとかな
(それは台本ありましたよね)
ああ、ありました
あれと「青春のパラドックス」を一緒にあわせたようなやつなんだけど
それはけっこうBUSUのあとすぐそれを撮りたいと本も書いてもらった
けっこうやりたかった
ただ時代が
やろうとしたときはちょっと時代があんまり時代がよくなかった
あれはやるとしたらおもしろかったんじゃないかと思います
ただ下駄のアップを撮りたかったの
歩いている下駄を撮りたかったの
六白金星の主人公が下駄を履いてるんですよ
将棋の駒の形をした』
『あといろいろ オリジナルとかいろいろありましたよ
こういうのはどうか?とかそういうの
本にはならないけど
二人でいろいろ話しましたよ
京都で全然まったりしてなかなか進まない離婚調停の男と女の話とか(笑)
(そういうの2人で盛り上がって話してた?)
京都弁でね
なかなか進まないのがおもしろくて、のらりくらりと離婚調停している男女の
(映画で?)
そう、映画に
あとね江ノ島とか閉ざされた島みたいなとこで
あのね、あの、ど忘れしちゃった
ウィレム・デフォーが出てるあの映画
暴走族・暴走族じゃないんだけどアナざータイム・アナザープレイスって
いつかどこかでじゃなくて STREET OF FIRE
ウエストサイドストーリーをもじったような映画。
ミュージカルが撮りたいって
(それ聞いたことあるな やりたいことがいっぱいあったんですね)
そうね
市川と小林でミュージカル撮ったら
やっぱり、あぁダメかーって(大笑い)
(どんなことになるんだろうね?)
(いちばん売れない映画になったんじゃない?)
いちばんドンくさいミュージカルってどうかなって(大笑い)
ふつうの話でミュージカルにしちゃう
何にもない話なんだけど、ミュージカル仕立てにしたらおもしろいかなって』
『あとね、日本のね短編小説をいろいろ気に入ったやつをビデオ化しようか?とか
で、売り出そうかとか悪ふざけたこと言ってましたよ
ま、二人はね文学の話とか盛り上がる
「キリギリス」とかさ「女学生」とか撮りたがってたよ 太宰の
女学生って題名だけ先行っちゃって
「市川、また変なこと考えてる」って誤解してるひとがいっぱいいるって』
========================
小林さん指導の下、お料理をしながらの3時間。
とても楽しいひと時でした。
今度はリクエストのあった「精進揚げ」を持って、またお訪ねしたいと思います。
m
2011-10-19
■[◎「市川準監督のこと」リレー日記<2>-貝本敏弥さん-]
私が春企画と言う大阪のCMの制作会社を辞めて、
「さてこれからどうしようかな」
なんて呑気なことをボケっと考えていたある日、
その春企画の山田社長から一本の電話が、
『今度、市川さんと仕事するから、ぷらぷらしてるんやったら、ついてこい!』
なぜ、辞めた会社からそんなこと言われるのか不思議でしたが、
麻布のアオイスタジオの会議室。
それが市川さんとの初めての出会いでした。
「市川さん、今回、貝本っていうの付けますから」と山田さん
「えっ?・・・そうなの?」と市川さん
ん? なんだこの会話は、
「貝本です、よろしくお願いします」
名刺すら作ってなかった無礼者の私に
「・・・えっ?」
緊張もしていたし、
名刺がないことが肩身を狭くしているし
市川さんの初めての言葉も無防備すぎるし
山田さんは私を付けること言ってなかったし
それはそれは弱点だらけの出会いでした。
この仕事は衝撃的に楽しかった。
市川準の魔法にかかったように。
まだまだ若かったころ、
「ここは、こうしたらいいんじゃないですか?」
クリエイティブにかかわるようなことをいっても
却下、無視、罵倒されることが大半で
この業界での楽しみ方を見つけるのには
段取り事をこなすこと、そちらを評価してもらうことでした。
四国・松山でのロケ。
せっかく、市川さんに付いたんだから
ダメモトで自分のアイデアをいってみよう、
相当の勇気と覚悟で言ってみると
「それ、おもしろいね!・・・ちょっとやってみて!」
ゲラゲラと笑う市川さん。
「じゃあ、いくよ、用意、スタート!」
カメラが回りました。
体が震えました。
目の前に当たり前のようにあった灰色の壁がはじけ飛ぶ瞬間でした。
3日間あった撮影の中で何度も何度もあったこの瞬間。
撮影ってこんなに楽しいものなのかと、教えていただきました。
それは、後に市川さんと何百本と一緒に携わった仕事のすべてに
この瞬間は続いて行きました。
松山を出るとき
「映画、手伝ってね」
笑顔いっぱいで後にされました
それから『大阪物語』という台本をもらいました
私にとって人生を変えるような作品と出合うことになるのです・・・・。
貝本敏弥
2011-09-19
■[◎「市川準監督のこと」 リレー日記<1> -橋本泰夫さん-]
"市川準監督と3年振りの会話"
2008年9月19日の朝8時半、
こんな時間に来るはずもないプロデューサーの里中哲夫氏より衝撃の電話を受け取った。
その時のやりとりは今でも忘れられない。
里中氏「橋本さん、驚かないでね」
橋本「大丈夫だよ、何?」と応えた。
私の頭の中は、11月からクランク・イン予定の、
映画『ヴィヨンの妻』が延期か中止にでもなったのかな、と即座に判断した。
里中氏「市川さんが、昨日夜中に亡くなったよ…」
橋本「………?」
何を言っているのか理解できなかった。
頭の中が何かしらぐるぐるまわっていた。
そんなバカなこと、受け入れられるはずがない。
頭が真っ白になるとは、こういう事を言うのだろう…。
あれから丸三年…。
まだ市川監督が亡くなったことを素直に受け入れることが出来ない自分が居る。
嗚呼、もう一度市川監督と仕事したい…。
「ヨーイ、たっぷり間を取ってー、スタート!」の声が聞きたい。
そしてあれやこれや無理な注文を素直に受け入れて、
「今日の録音技師、どうしたのかな?」と、戸惑う市川監督の丸い後ろ姿を見たい。
市川準監督のご家族、スタッフ、友人、研究会の人達が一同に会した。
市川監督のCM集や、追悼作品を観ながら笑顔の市川監督の写真と共に過ごした。
皆うっとりと気持ちのこもった曲を聞き惚れていたその時、
市川準監督「良いね、その曲、今度の映画に使いたいね、どうですか橋本さん?」
ほろ酔い加減の私の耳に、市川監督の声が確かに聞こえたのでした。
2011年9月19日
橋本泰夫

