青空と雲

2017-08-20

ブログお引越しのお知らせ

長い間こちらのブログを使ってきましたが、今まで使えていた機能が使えなくなったり、読者の方から使いがってが悪いという指摘等々が重なったためこの度アメーバブログへ引っ越しすることにしました。



下記のアドレスをクリックしていただくと、アメブロの「思考はシンプルな『今ここ』を言葉を使って複雑な問題に創り上げるー思考の特徴その3」へ飛びますので、よろしくお願いします。



尚この「青空と雲」のブログは今後も存在しますので、これまでの過去のブログをよむことができます。また新ブログにもここ2年くらいの過去のブログを掲載していますのでそちらでも読むことができます。



また新ブログは読者登録をすると、ブログ更新のお知らせが届くようになっていますので、今後もブログを読み続けてくださる方は読者になってくださると嬉しいです。



今後ともどうぞよろしくお願いします。




https://ameblo.jp/aozoratokumo21/entry-12303131569.html

2017-08-14

思考の特徴その2

前回思考は「今ここ」にないことを考える癖があると書いた。



思考が「今ここ」にないことを考えるの、は思考はが「今ここ」の愛・静寂・平和が大の苦手だからである。



「今ここ」なんて想像(創造)できないからである。



だから常に「今ここ」を否定する。



「今ここ」を否定して「今ここ」にないことを想像(創造)しようとする。



目の前の「今ここ」を分析・ジャッジ(判断)・否定する。



「これはもっとこうしたほうがいい」、「こんなのありえない」、「なんて馬鹿なやつだ」等々…。



常に目の前の「今ここ」を否定してもっと素敵な(?)何かを求めようとする。



個人はあるがままの自分や他人を否定して理想の人間を求めようとする。



思考にはそういう特徴がある。



けれど、本当に求めているのは「今ここ」にないものではなく、それとは真逆の「今ここ」そのものなのである。



思考で想像(創造)した理想とは真逆の「今ここ」に目を向けてみよう。



想像で創り上げたありもしない理想ではなく、「今ここ」の「あるがまま」に目を向けてみよう。



もしもあなたが真の平和や愛そして静寂・本質を求めているのなら、理想を取っ払って常に存在していてどこへも行かない足元の「今ここ」「あるがまま」を感じてみよう。

2017-08-09

思考の特徴

家族で車で出かけようとしたら道路に車が何台か駐車していて一方通行のような状態になっていたので、なかなかスムーズに進まなかった。



やっとのことでそこを通り抜けたら、今通って来た方向に何台かの車が走って行った。



「あの場所を通り抜けるのは大変だろうな」という思考が湧きあがってくるとすぐ「今ここにないことを考えている」という気づきがあった。



その後すぐ夫が「今頃あの道は大変なことになっているだろうな」と言った。



この時、「自分の思考と夫の思考が分離して現れているのではなく、ただ一つの思考が現れているにすぎない」という気づきもあった。




この例のように思考は常に「今ここ」にないことを考える特徴がある。



「今ここ」にないことを積み重ねて創った世界を現実だと思い込んでいるのが思考の大きな特徴だ。



「今ここ」にない世界で右往左往しているのが私たちの特徴だ。



だから「今ここ」に戻れば右往左往する問題はなくなる。



言葉で創られていない「今ここ」は「ただある」だけの「何もない」世界。



それこそが私たちの本質でもあるふるさと

2017-08-03

幽霊の正体見たり枯れ尾花

お天気のよい日には毎朝1時間くらい散歩しているのですが、今朝道を歩いている時、後方で犬が唸り吠え付くような音が聞こえたので、とっさに「犬が後ろから自分に吠えついている」という思考に乗っ取られて身体が瞬時に堅くなった。



恐怖と共に後ろを振り向くと、なんのことはない。それはただ部活動のため登校してきた中学生の靴が溝の上に置かれた鉄板をこすった音だった。Σ(・□・;)



「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という格言的な俳句があるが、私たちが現実と思っているのはまさしくこのように思考によって創造されたものであって、真実からはかけ離れている。



ラマナ・マハルシは、そのことを蛇と縄の喩えで説明しています。



「蛇だ蛇だと怖がっている現実は、実は縄のようなものにすぎず恐れる必要などない。」というようなことかと思うのですが、私のつたない体験も全く同様でただただ笑えるだけなのです。



真実はただ音が一瞬聞こえたというにすぎず、その音が過ぎ去った後で思考で「犬が吠え付いている」とかなんとかありもしないものを後の祭りの妄想として創り上げているのです。



真実は思考の前にただあるだけなのです。



伊東Dr.も言われていたように、「ただある」の後の祭りとしての思考が起こった後行為が起こり、さらにその後私が登場してくるのです。



言葉で「私が…をした」というようにです。



真実は言葉を全てなくして残った名前もなにもない「ただある」だけなのです。

2017-07-30

故郷へ帰ろう

毎日毎日できるだけハートを意識し(胸のあたりに注意を向け)て暮らしているうちに、ある時ハートを意識すると、胸を中心にとても心地よい感じが広がっていってしばらくその感じが続くようになり、今ではハートを意識する度にとても心地よくなって、ずっとここにいたいと思うようになりました。(いったい誰が思っているのか?−一人つっこみ)



そしてやはりハートこそ私たちの本質である故郷への入り口なのだという確信を得ました。



心地よさと同時にあらゆる現れが変化していきます。



心地よさは続いていくけれど、現れは次々と変化していきます。



変化していく現れよりも、心地よい何もなさに安堵、幸せを感じます。



ハートを意識していると、現れのどこにも焦点が合っていないので現れはおぼろな感じになります。



現れを幻だというのは本当なのだと実感しました。



この何もない心地よい感じこそ、ただある故郷なのです。




変化していく現れのように見たり聞いたり触ったり匂ったり味わったり考えたりはできないけれど、それらが与えてくれるようで決して与えてくれない安心・平和・静寂がただある。



この安心・平和・静寂こそ故郷そのもの。



故郷へ帰るこつは、とことんハートを意識することなのです。

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