青空と雲

2017-07-20

今を生きるーパート2

友人が飼っている犬は、いつも自分の尻尾を追いかけながら尻尾に向かって吠えている。



最初は虫でもいるのかと思っていたが、そうではなく尻尾に怒っているらしい。



犬には自分という意識がないのでどうやら尻尾を自分のものとは思っていないようなのだ。



だから、視野に尻尾が入って来てそれが動くと吠えて威嚇するらしい。



自分という意識もなく自分そのものも見たことがないので尻尾がお尻にくっついていることも知らないから、尻尾を見る度に吠えて追いかけつかまえようとする。



何かの拍子に尻尾が見えなくなると、急にその行為をやめて静かになる。



毎日毎日飽きもせず同じことを繰り返している。



ついさっき同じことをやってもすぐに忘れてまた同じことをやっている。



犬には過去もなければ未来もない。



犬の過去や未来は人間の思考の中にしかない。



犬には時間や空間という意識はない。



犬は今しか生きていない。



今あることに反応しているにすぎない。



今が過ぎ去ればまた新しい今がある。



犬には今しかない。



人間の赤ん坊も犬と同じで今しかない。



「今鳴いたカラスがもうわろた」という諺があるが、ついさっきまで大声で泣いていた人間の子供がすっかりそのことを忘れてすぐに大声で笑っているように、子供の機嫌はすぐに変化するということを言ったものである。



人間も自意識が生まれて、他と自分を区別するようになるまでは常に今を生きている。



自意識が生まれて他と比較するようになると苦悩が生まれる。



悟りとは、人間も犬や赤ん坊のように本当は今しかないのに今ない過去や未来のことを思考で創ってあれこれ悩んで、不必要な問題をたくさん創っていると気付くことである。



犬や赤ん坊のように今あることだけに反応していればそれでいいのだと気付くことである。

2017-07-15

今を生きる

井上哲玄老師が、NHKラジオ第2『宗教の時間』に出演されます。

聞き手は、2014年にNHK Eテレ『こころの時代』にご出演の際も、聞き手を務められた金光寿郎氏。

貴重な機会ですので、ぜひお聴きください。

放送日時:7月30日(日) 午前8時30分〜午前9時00分

再放送:8月6日(日) 午後6時30分〜午後7時00分

聞き手:金光寿郎



さて哲玄老師の御父上である井上義衍老師(500年に一人の覚醒者)も生前NHKの『こころの時代』に出演されたのですが、

今日は『井上義衍老師語録』二六「今を生きる」を紹介します。



「今を生きる」


「薪が燃えて灰になると見るのは過ちであるという道元禅師のお話があります。



私たちの目には、薪は薪として、燃えている薪は薪として灰は灰として見えているはずです。



薪が燃えて灰となることを私たちは知っています。知っているがために、今ここにあるものを、今あるとおりに見えていることに気付かないのです。



あすの心配をし、きのうを悔いる。今はこの文字を見ているのではないですか。」



そうなんです。



私たちは毎日、今ここにあるものに思考をプラスしてオリジナルストーリーを作って生きているのです。



不安・心配・恐怖等々の苦悩(もちろん苦悩だけではなく、喜び等のハッピーなこともそうなのですが、それらは苦悩にはならないのでそれらに関しては、それらもオリジナルストーリーだとわかっているだけでいいと思います。)は100%思考が創ったオリジナルストーリーで、その実体はありません。



今ここにあるもの+思考=オリジナルストーリーということに気付き、オリジナルストーリー から思考をマイナスして「今ここにあるもの」に気付く実践をこころがけることは大事なことです。



坐禅とはそういう実践をすることなのですが、別に座らなくても余分な思考に気付くことは可能です。



ちなみに私は日常生活の中でできるだけ、ハートを意識することによって余分な思考を落としていく実践を朝起きてから夜寝るまでやっています。



何故なら無意識になるとすぐ思考に乗っ取られてしまうからです。



思考に乗っ取られても気付けばいいので、「思考に乗っ取られている」とか「乗っ取られそう」だとか気付けばすぐにハートを意識すると、思考は静かになるのです。



この実践だと日常生活の中で気付くという意識をしっかり持っていればいいだけなので、あえて座ったり瞑想したりする時間を取らなくていいし修行感がないから楽ちんなのです。



「今ここ」はずっと永遠に「今ここ」にあり続けているので、そのことに気付けばいいだけなのです。



それを難しいと思わせているのは思考の仕業であって、本当は至極シンプルで簡単なことなのです。

2017-07-07

見ているものと見られているものは一つの同じもの。

思考を観察していると、今ここの現れとは直接関係ない思考が突如現れ出てくることがよくある。



しかもその思考はどこからやってきたのか皆目見当がつかない。



今まで何もなかったのに何の前触れもなくいきなり現れ出でたのだから、どう考えても「ない」ところからやってきたとしか思えない。



そして知らぬ間にいつの間にか別の思考に変化している。



前の思考は知らぬ間にどこかへ消えて、それとは違う思考がまたどこかから現れている。



「どこか」というのは探しても「ない」。



思考は「ない」ところから現れて「ない」ところへと消えている。



よく注意していると、目に見える景色や触れる物そして聞こえてくる音なども全て思考と同じく、「ない」ところから現れて「ない」ところへ消えていく。(例えば右を見た時は左の景色はなくて、左を見た時は右の景色はない)



では、それらを観察してそのことに気付いているのはいったい何なのか?



無意識だとそれを「私」と名付けるのだが、意識的に注意していると、「私」と名付ける前に形のない意識のような何かが存在している。



形がないので見たり聞いたり触ったりはできないけれど、それはただ存在している。



それは形も音も何もなくただ「ある」。



ただ「ある」それが気付いている。



ただ「ある」それが見ている。



見ているただ「ある」が名前をつける前(私という点をつける前)であるなら、見られている対象も名前をつける前のただ「ある」ということになる。



ただ「ある」がただ「ある」を見(観察して)て気付いている。



見ているものと見られているものは一つの同じものである。



ラマナ・マハルシは、



「一つの独立した実体として、真我から独立したものとして見られるもの、それは非実在である。見る者と見られるものに違いはない。見られるものを真我として見なせばそれは実在である。



「純粋な意識は分割できないものであり、部分を持たないものである。それは姿も形も持たず、内も外もない。ハートである純粋な意識は、すべてを含み、何ものもその外になく、それを離れて存在しない。それが究極の真理である。」



「真我は今ここにあり、唯一それだけだ。」

(「静寂の瞬間ーラマナ・マハルシとともにーより)



と言っている。



なんだかいっぱいあるように思えるけれど、究極ただ「ある」それしかないのです。(/・ω・)/

2017-07-04

現れにとらわれている時と現れから自由な時の身体感覚

身体感覚で言えば、情報や目の前の現れの内容にフォーカスしてそれに巻き込まれ右往左往している時は、緊張状態にあるため身体は硬くなっている。



既に消え果てた現れに思考を付け加えて世界を創ってあれこれ考えているせいか、気が上の方に上がっていて不安定な感じがする。



そのことに気付いて深呼吸しハートを意識すると、気が下に降りてきてハートから下がふんわりとやわらかくなって安心感が生まれ、心地よく幸せな感じがする。



スピード感で言えば、思考中心の時は時間に追われている感じがして常に急いでいる感じがあるが、ハートを意識して幸せ感のある時は実にゆっくり時間が過ぎていき、行動もゆっくりしている。



幸せになりたければ、まずはリラックスを心がけ外側の現れにフォーカスするのではなく、ハートを意識することをこころがけるのがいい。



思考にとらわれていることに気付くよう心がけ、気づいたら深呼吸してにこっと笑ってみるのもまたいい。

2017-06-25

「何もない」ってどういうこと?

非二元について書かれた本やティチャー等が、「この世の全ては幻想にすぎない。何もない」などという表現を使っているが、それはいったいどういうことなのか?



私たちが生活している世界には実に様々な物が存在していて尽きることがないので、それらの現れにフォーカスしている限り、この世に何もないなんてとうてい思えないのだが…、



これまでも伝えてきた通り、目の前の現れは瞬時に跡形もなく消えて変化していくので、Aという現れをAと認識した時にはもう消えてBという現れに変化してるし、Bと認識した時にはBは跡形もなく消えてCに変化しているので、ABCについて語る時にはそれらはすっかり何もなくなっているのである。



思考について言えば、Dさんが何かを言ったことに対して「Dさんの言っていることは偏見にすぎず、本当は〜が正しい」という思考が湧いてきて反論したとする。



その時あったのはDさんの言葉や声だけでそれは瞬時に消えてしまったのだが、消えてしまった幻にフォーカスしジャッジして、さらなる言葉を付け加えて違うものに変化させている。



言葉で考える思考の世界は、言葉にした段階ですでに実体はなくなり思考で作った妄想しかないので、「幻であり何もない」と表現しているのである。



常に何かあるように感じられているが、それはすでにない。




すでに消え果ててないにもかかわらず、それがあるように感じられる。





「あるけどない ないけどある」、「ありながらない ないながらある」、

「色即是空 空即是色」。