青空と雲

2017-02-27

「ある」が全てを見ている。

昨日は4ヶ月ぶりの「大阪サンガ」に参加してきました。



たくさんの面白い話を聞いたので、少しずつ小出しにしてシェアします。



今日は前回のブログの最期に「気付きの意識だけがありました」と書いたので、そのことに関する話をシェアします。



この気付きの意識こそが真我とか全体性とか悟りとか非二元とか様々に表現される命の本質なのですが、伊東Dr.の話では…



これにネーミングすると人間はどうしてもどこかに対象としてあると思ってしまうので、ただ「ある」とシンプルに表現して話をされました。



本当はこの「ある」しかなく、時計があるのではなく、「ある」が時計を見ているのであり、



悟り」という概念(思考)があるのではなく、「ある」が「悟り」という概念を見ているのである。



肉体があるのではなく、「ある」が肉体を見ているのであり、



「ある」が肉体を見た瞬間、見られているのを「私」だと思った(錯覚した)。



主体は「ある」で見られているのは客体なのに、主体と客体をひっくり返して見られているのを「私」(個人)と言って主体と思い込み分離のカーテンを作った。



という話をとても興味深く感じました。



「ある」が肉体を見た瞬間、見られている客体が主体である「私」だと錯覚して、「私」と「私」以外を分離したのだとしたら、「私」(個人)は「ある」に見られているんだと思ったので、帰りのバスの中で何もないものに見られている自分をイメージしてみました。




すると、得体のしれない視線を感じてなんだか背中のあたりが「ぞわ〜」とするような感じと共に愛されているという感じがありました。



もしかしたら、この得体のしれない視線は「愛」なのではないでしょうか?



そうだとすれば、見られているということは「愛」のシャワーを浴びていることになるでしょう。



その「愛」を遮って「私」と思い込んだとたん「私」という分離のカーテンが出来て「恐怖」が生まれたということになるのでしょうか?

2017-02-24

本当は何も起こっちゃいないのさ(/・ω・)/

先日面白いことがありました。



誰だったかもう忘れてしまったのですが、たぶん夫か娘かのどちらかが私に何かを言った時、「イラッ」とした感情が起こりました。



このように表現すれば、「イラッ」の原因が夫か娘かの言葉というように伝わると思うのですが、実際はちょっと違っていたのです。



実は「イラッ」が起こっていると気づいた時、同時に「夫か娘かが私に何かを言った」ということはすっかり消えていて「イラッ」だけしかなかったのです。



いくら考えてもどうして「イラッ」としたのか思い浮かばなかったのです。



原因がなく「イラッ」だけがありました。



因果がないとはこういうことか…と気付いたとたん「イラッ」も消えました。



そして何もなくなって…本当は何も起こってはいないという気付きだけがありました。



気付きの意識だけがありました…

2017-02-21

何かをしている私(個人)はいない。

前回個人の私は何もしていないけれど、真の私(全体性)が全てをやっているというお話をしましたが、本当に個人の私は何もしていないのです。



あなたはあなたの心臓及び内臓を動かしていますか?



あなたは呼吸を意識的に自分でしていますか?



排尿排便は自分でコントロールしていますか?



自分で病気になっていますか?



喜怒哀楽の感情は自分で起こしていますか?



こうして一つ一つ確かめてみると、自分の心身を動かしているのは自分ではないということがわかってきます。



「私が〜をしている」というのは実はただの思い込みにすぎず、自分でしていることは何一つないのです。



自分に関わる全てのことは全体性(真の私)がやっていて、個人の私は何もしていないのです。



私(個人)がいないとはこういうことです。



個人の私はいなくて真の私(全体性)しかいないとはこういうことです。



分離の個人は幻想(夢)で分離のないたった一つの全体性しかないとはこういうことです。



命の本質はただあるだけで何もない全体性なのです。



それはあるように見えていて瞬時に変化するこの世の夢と常に同時に存在しています。




それを真の私とか全体性とか神とか非二元とか青空意識とか様々に表現しているのですが、どのように名付けようと全ては同じ命の本質なのです。




もしも見ている夢が苦しみならば、それと同時に存在している穏やかに満ち足りた静寂に気づくことは救いになります。



キリスト教ではそれを愛と呼び、仏教では慈愛そして慈悲と言います。



二極のこの世の夢と同時に存在している穏やかに満ち足りた静寂に気づくことで人生の夢を二倍楽しめるのではないでしょうか…(*´▽`*)

2017-02-18

チット(完全能力感・万能感)的体験

以前伊東Dr.のお話を紹介していた時、人間全員に存在する純粋意識の三つの属性サット(絶対的存在感)・チット(完全能力感・万能感)・アーナンダ(絶対的至福感)についての話をご紹介したことがあったのですが、最近チット的体験をしたのでシェアしたいと思います。 



伊東先生のお話「サット・チット・アーナンダ」  http://d.hatena.ne.jp/ikegame21/20100523/1274617410



10日ほど前91歳の母が心筋梗塞で倒れて入院したので何度か病院へ通うということがありました。



病院へ行っても何をするでもなく、母の世話のほとんどは看護師さんや介護士さんがされるのでその様子を見ているだけということが多いのですが、ある時母のために何もできない自分を責める気持ちというか何もできないことに対してほんの少しだけ罪悪感が起こりました。



罪悪感が起こるやいなやそのことに対する気付きが起こり、罪悪感が起こっていると気付くとほぼ同時に「おしめを替えたり身体を拭いたりする等の母の世話は全て私(全体性)がやっているんだ」という気付きがありました。



個人の私は何もしていないかもしれないけれど、真の私(全体性)は個人の私に関わる必要なことを全てやっているのです。



何もしていないけれど全てをやっている万能感・完全能力感とはこのことかと腑に落ちて、心配することは何もなくただただ安心だけがあるということにも気付きました。



個人の私が何もできなくても、どんな時でも必要なことは全て全体性(真の私)がやってくれますので大安心なのです。 

2017-02-13

死ぬってどういうこと…?

先日道を歩いていると突然目の前に見えていることや聞こえていることだけの感覚だけの存在になり、自分の肉体が消えてしまったというか自分がいなくなったというか…一瞥的な体験が起こりました。



さらに続いて、「死ぬということは自分のものだと思いこんでいるだけで本当は誰のものでもない肉体がなくなるだけのただそれだけのことなんだ」という気付きが起こりました。



その気付きと共にハートに光が入ってきたというかハートが光輝いたというか…、光をみたわけではないけれどそんな感覚があって、今まで味わったことがないような幸福感をハートが感じたのです。



あたかもハートが喜んでいるようなその幸せな感覚が起こったことで、肉体の死は悲しいことでも不幸なことでもなく、実は幸せな出来事なんだという気付きがありました。



そして、二元の世界で不幸な目にあって自殺等した人達は、自分のものではない肉体を持ったまま不幸な夢を見続けるよりも肉体がなくなり意識だけになることのほうがずっと幸せだという、生命の本質に気付いて肉体の死を選んだ人達なのだという気付きもありました。




そのことを父親の死で傷ついた友人に話したところ、長年重かった気持ちが軽くなってすごく嬉しいと喜んでくれました。



ハートに光を感じた経験以降、ハートを意識する度にハートが開いているという幸せを感じるだけでなく、ハートを意識しなくても自然とハートが開くような感じにもなりました。



死は忌み嫌うような不幸なものではなく、むしろその逆で死ぬことによって現れの夢から覚めて真の私に戻れるのだから喜ぶべき幸せなことなのです。



今後もし身近で誰かが亡くなったら、表面的には「ご愁傷様」と言いながら内面では「おめでとう」と言おうと思っています。




けれど、今の私にとってこの世で見る現れの夢もけっこう面白く、真の私がそれが夢だと気付いてもいるので、自然の流れの中で肉体の死が訪れるその日まで、現れの私と真の私と同時に生きていくことが起こる気がしています。



(((o(*゚▽゚*)o))) ヾ(*´∀`*)ノ ( ^)o(^ )