花田清輝の太宰 治論ー二十世紀における芸術家の宿命(錯乱の論理)ー

花田清輝の太宰 治論
二十世紀における藝術家の宿命ー太宰治論ー     
                     花田清輝「錯亂の論理」眞善美社


「オルソドクシー」のなかで、チェスタートンは、イギリスの快走艇操縦者が、いささか航路をあやまり、その結果、南海の新しい島だとばかり信じながら、實はイギリスを発見する、といふ筋の小説を書き、大いに浪漫精神を鼓吹したいとねがってゐるが、太宰治の日本発見の顛末には、いくらか右の小説の主人公を思はせるものがある。必然性と因果律によって骨骼を形づくられてゐる近代小説に不信の眼を投げ、それにたいして、目的論と自由意志によって筋金をいれられてゐるフォークロアを対立させ、両者の對立
を對立のまま統一することによって新しい表現をみいだし、二十世紀の小説家として、すくなくとも日本においては前人未踏の境地を開拓したと考へ、多少、孤獨な先駆者としてのおのれの宿命に自負を感じないでもなかつたかれは、やがて西欧的なものと日本的なものとの殊更の對立を主張し、西欧的なものを誹謗し、日本的なものを称揚する時代の風潮のなかで、いまさらのごとく近代小説が西欧的なものであり、フォークロアが日本的なものであることを悟ると共に、意外にもすこしもかれが孤獨ではなく、かれの小説が流行の尖端を切つてをり、かれの宿命に、日本人一般の宿命と共通するもののあることを知つて愕然とする。つまるところ、かれもまた、「南海の新しい島」だとばかり信じながら、実は日本へ上陸してゐたのだ。探検家の眼を持つて、それとは知らず眺められた日本の風景に、勝手知つた土地をのそのそと歩き廻り、日本的なものの讃美に憂身をやつしてゐた連中のたうてい気づき得ない、スリルとサスペンスとのあつたことはいふまでもない。たとえば、「ダス・ゲマイネ」の場面を構成する、甘酒屋の赤い毛氈を敷いた縁臺には、異様なうつくしさがなかつたか。フランス抒情詩の講義を聞きをへて
そこへ登場してくる大学生の口ずさむ、梅は咲いたか櫻はまだかいな、といふ「無学な文句」には、はたして詩がなかつたか。その相手である、端午だとかやみまつりだとか
八十八夜だとかを気にする、暦に敏感な音楽家の性格は、そのあまりに古めかしさの故に、かへつて奇抜ではなかつたか。ここでは、西欧的なものと日本的なものとの對立が、意識的に強調されてをり、その對立のうみだす摩擦や衝突の効果がいかにもユーモラスであり、日本的な風物を背景として、ヴァレリイと直接論争したり、ラヴェルを狼狽させたりするやうな作品を発表したいといふ、若々しい夢の無惨にも破れ去ってゆく過程が描きだされ、作者は、みづからのなかに大切にはぐくみつづけながら、つひに日の目をみる機會もなく、はかなくほろび失せてしまふ西歐的なものと、ほとんど好意をもたず、むしろ、いじめつけてゐるにも拘らず、なほ逞しくかれのなかに生きつづけてゐる日本的なものとの葛藤によつて、がんじがらめに縛りあげられてしまつてゐる、かれもまたその一人である、日本における前衛芸術家の宿命を自嘲してゐるかにみえるが、しかし、意外なことに、かれの意図する芸術にとつては桎梏にすぎないはずの古風な日本的なものが、「晩年」におけるがごとく、この作品においても、かへつてウルトラ
モダンの美でかがやいてゐたのである。