2012-05-26
薔薇園の案内人
ドゥルーズ『シネマ1』読書中。ここ最近何ごとにつけどうも集中力が持続せず、5ページ分くらい読んだらすぐに気が散りはじめてしまって、気づいたら音楽聴いたり益体もない考え事に放心したみたいになってしまい、いっこうに本を読み進める呼吸が整わない。論じてる内容が自分には難しすぎるってのもあるけど、結局今週いっぱいかかって半分くらいしか読むことができなかったよ。のろのろ読むのの何がいけないって、いま読みつつある行分にかかりきりになってしまってその場ではなんとなく当の内容を理解したつもりになってても、ちょっと後から振り返ってみればそこまで辿ってきたはずの論述の大きな眺めがまったく頭に残っておらず完全に迷子になってたみたいなところで、今週はまさに悪いパターン入ってしまった。これはどこかでもう一度読み直しもある。無駄すぎる時間の使い方だ。
黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』を読み始めたら気持ちがそっちにも散ってしまったってのもある。久しぶりに読み返してみたんだけどやっぱおもしろいマンガだよなあ。シノブは今でもどこかで幸せに暮してるだろうか? どうか楽しく生きていて欲しい、とか柄にもなく登場人物に感情移入してちょっと感傷的な気分にもなった。そういやこの作品の終盤に登場する変な生き物「テング」の存在は、三好銀の「私家版「噂鳥について」」(『海辺へ行く道 そしてまた、夏』)を読んでたときには思い出すことができなかった。鳥の体からヒトの足が生えているという独特の造形からしてこのテングと噂鳥はともにとてもよく似たイメージで描かれてるんだけど、物語のなかでの設定とか説話的な働きの面では両者は対照的な役割をになっているように見えて、そこらへんの相違もなんとなくおもしろいものに感じる。つまり三好銀の噂鳥がどこまで剥いても芯に辿り着かない玉ねぎの皮みたいにして複数の層をなすフィクションとしての言説の内部にのみその姿を現わすことになるのに対して(UMAっぽい未確認状態のうちに)、黒田硫黄のテングはといえば、噂鳥同様にけっして人目を引くことはないけれどでもほんとうにこの日本に実在するものと設定されており、ある種の信念とかイデオロギーとかいったかたちで作品内の世界観に装填されているさまざまな文脈における広義の同一性の幻想=フィクションを瓦解させるような恰好で姿を現わしている。そこにはフィクションを厚くまとうものとそれを無慈悲に引き剥がすものというような明瞭な対比がある。たとえば三好銀の噂鳥が描かれることになった時代背景とか歴史的な状況とかいったもんが仮に存在するのだとしたら、『大日本天狗党絵詞』に現われたこのテングという存在にもそれなりの背景的な事情が見出すことができるのかもしれない。黒田硫黄は新装版のあとがきで自作の制作された状況を振り返って、そこではっきりと、オウムによる地下鉄テロ事件からの同時代的な(無意識の)影響の不安を述べていたりもする。おそらく作品外の現実が虚構としての作品に流れこんでくるさいのふたつの別種の力の経路がそこには引かれているようにも思われて、大きな崩壊に巻き込まれようとするさいにフィクションの取りうるふたつの別種の態度があって、当然また、この崩壊とか危機的な状況の及ぼす現実的なふたつの別種の反省意識みたいなものがあったりもするんだろうと思う。作品のもろもろの内在的な連関(最終的には「魂」とかとしか名づけようのないもの)を最大限救い出すという留保を付したかたちでなら、そんなような反映論みたいな仕事も見てみたい気がするけど、誰かそんなことを書いちゃいないもんかな。「鳥人種についての生態観測、あるいはひとつのアポカリプス」みたいなタイトルでいっちょどうだろう?
『大日本天狗党絵詞』を読み終えたら、これもまた久しぶりに『あたらしい朝』とか『茄子』とかも読みたくなってしまい、こっちもパラパラと頁をめくりはじめた。これじゃあいつまでたっても『シネマ』の方がぜんぜん進まない。おもしろいんだから仕方ないんだけど、そういやこれは偶然だろうけど、三作通じて作品を読み始めてすぐに目に飛び込んでくる対象の共通性みたいなものがあって、それは「カラス」(『大日本天狗党絵詞』)、「茄子」(『茄子』)、「手提げカバン」(『あたらしい朝』)それぞれの描写に見られる紙面を黒く滲ませるベタ塗りの視覚的印象だったりする。(「茄子」にかんしてはカラー頁での着色原稿による描写だからちょっと保留が必要かもだけど)。このあたりの印象をきっかけにして、そこからここまで書いてきた高野作品についての文章での着眼点との相違を手がかりにして、何かあらたにおもしろいこと書けないかなあとかぼんやり考えている。可能ならまた毎日楽しくなるなとは思うけど、こればっかりは自力じゃどうにもならない。作品からこう、ギリっと強く厄介な何かを押しつけられる感じがないと、自分からは何ひとつ動き出すことはできないよ。その何かを我慢して待つしかない。
懐かし音源。balilで「rosery pilots」。静かな曲。
2012-05-19
なんか地底人っぽい着こなし
雑記 |
買ったまま積みっぱなしだったドゥルーズの『シネマ1』をようやく読みはじめてみたらのっけからベルクソンの名前が出てきて、『創造的進化』とか『物質と記憶』とかいった本の名前が論述の参照先に挙げられてた。だもんで、じゃあとりあえず準備がてらそっちを先に読んでおこうと、まずは『物質と記憶』を久しぶりに読み直してみたんだけどこれが自分には相変わらず難しい内容の本で、つまりベルクソンがそこで何を言いたかったのかは字義どおりに書物の言葉のうわっつらをひいこら追っていくかぎりでまあなんとか了解はできても、理路のかたちづくる細かい折り目の部分、これがこうだからそういうことになる、みたいな肝心の論理的な繋がりの部分がいくら頑張ってももうさっぱり頭に入って来ず、そのうち脳みそが焦げついて黒っぽい煙を上げはじめたもんだから、こりゃいかん、どけんかせんといかん!って結局本を投げ出すはめになった。ベルクソンにかぎったはなしではなく、哲学はどれも難しくてほんとお手上げだよ。ベルクソンがわからないんだからそれを下敷きにしてるドゥルーズがわかるわけもないんだけど、このまま読まずにいるわけもいかないし、『物質と記憶』から逃げ出すみたいにして『シネマ』の方に手を伸ばし意気消沈のままこっちを読み始める。そしたら一週間が終わってた。いつもどおり何も手ごたえのないまま時間ばっかり過ぎてったよ。
そんな感じだから『シネマ』の方はまだ30頁ほどしか読み進めていないんだけど、こっちの方はこれからそれなりにおもしろく読んでゆけそうな予感はする。ドゥルーズは論述を開始するにあたってベルクソンから引き継いだ運動イメージの概念を援用しながらこれをさっそく映画のフレームの考察へと適用する。映画の画面が取り集めるイメージの諸要素が見えるもののかたちづくる集合にあってどんな具合にその場に固有の運動を展開するエレメントとして振る舞うことになるのか、みたいなことなのかもしれないけど、まずはじめに提起されたフレームに関するこの「きわめて単純な定義」において、イメージを形成する内容と形式の関連が「幾何学的」なものと「力学的」(または「物理学的」なもの)との対照を示している、というドゥルーズの指摘がさっそく興味深い。まだ何も理解できていないからこれはいつも以上の放言になってしまうし、来週あたりには赤面して「そんなこと何ひとつ言ってなかったんですけど?」みたいにスルーすることにしてしまいそうなことを記しておけば、フレームにおける幾何学的な運動イメージの組織化って点については以前書いていた高野文子のマンガに関するまとまった文章での論点にもかかわりそうだなという予感がしないでもないし、力学的なフレームの効果という点に関しては、たとえば黒田硫黄のマンガを考えるときにいつも気になっている感じ、毛筆で引いたようなあの太い線、線ってよりほとんど塗りの感覚にも近い、彼のマンガの紙面に見られるあの黒さと白さの荒いぶつかりあいみたいなものを考えるさいのとっかかりになりそうだな、という予感がする。予感がするってよりは、以降そんなふうなことをちょっと念頭においてこの本を読んでいくことになると思う。あてが外れたらそれまでのことで、おとなしく意見を拝聴することにするけど、それ自体としてはあまり興味がない映画に関するはなしをただ黙って長々と聴いてるのも辛いだけだから、多少強引でも自分なりに興味のある主題に引きよせて接しつつ何かひとつでもお土産をいただく所存ではある。幸先良さそうな感じではあるんだよな。
きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」。楽曲もいいけどPVのダンスもいい。一緒になって振り付け真似てるとだんだん楽しくなってくるよ。「PONPONPON」って曲もなかなかご機嫌で、いい年こいてちょっとはまってしまった。中毒性高し。
2012-05-12
パノフスキー『イコノロジー研究』
読書 |
パノフスキーの『イコノロジー研究』をざっと読んで、あわせてこの前ひととおり読み終えたディディ=ユベルマンの『イメージの前で』での、パノフスキーの仕事を集中的に論じてる批判的な箇所をもう一度読み直してみたり。今週はそんな感じで過ぎてった。一週間振り返ってみてほかに特に印象に残ってるような出来事の記憶なんかもなく、しかもこうしてかろうじて書くことのできる読んだ本のその内容にかんしても格別意見が見当たらないもんだから、まるで濃い霧に沈んだ景色を眺めているかのようなひじょうに頼りない心もちがする。お餅食いてえ。
「イコノロジー」って聞くと、印象だけだと通俗的な夢判断と同じ具合でなんか適当な与太飛ばしてるだけなんじゃないの?みたいな悪い先入観がなんとなくあったんだけど、これはそういうものとはまったく別次元のもので、学知としてものすごくがっちりとした基盤を備えた、とても厳密に組織された理論的言説なんだなと印象をあらためた。絵画なり彫刻なりといった芸術作品の表現された目に見えるものの諸水準を通じて、段階的に、この可視的なものが隠している読めるもの、聴き取り可能なものの潜む、より深い水準への漸近的な移行を跡づけていくパノフスキーのここでの仕事の手腕はとても説得力があるし、読んでて圧倒される。そこでの全体的な解釈における理論的枠組みはディディ=ユベルマンの本にも転載されてた便覧として見やすいかたちで提示されていて、『イメージの前で』を通読したときにはいまいちピンとこなかったそこらへんの論点も、実際にパノフスキーの論述に接してみてなんとなくはイメージすることができた。もちろん専門的につっこんだことは何もいえないけど、パノフスキーの論述はたとえば絵画の物質的な所与としての平面を覆っている奥行きの信憑のなかを踏査してゆくというような構えになってるんだろうと思う。造形された形とかモチーフとかいった絵画的な画面を構成する最小単位としての細部要素が見られる相対的に手前にある部分(解釈学の視線にとっての前景、前庭をなすような場所)から開始して、物語とか寓意とかいった意義可能な概念を表現する背景的なテーマ群の層に進んで、そこからさらに奥深いところにあるはずだと信念されている純粋に見えないもの、見えないものってより、むしろ読むこと、聴くことだけが可能なものの象徴であり同時に想像的なものでもある虚焦点のような閾の点、曰く「人間精神の本質的傾向」にまで至る、そんなような文化的で観念的な浅さと深さのかたちづくる空間をつぶさに測ってゆくということなんじゃないかな、と感じた。パノフスキーのここでの論述に対して奥行きとか空間とかいった語彙で表現するこういう印象は間違ってるのかもだけど、つまり著者はそもそも書物の始めから人間的(人文主義的)精神の時代や状況に応じて変状をこうむるかぎりでの表現物、歴史的な強制力によって姿態を規定される、経験された出来事の凝集物としての芸術作品の像みたいなものこそを描き出そうとしていたのは確からしいんで、それを場所とか奥行きとかいった空間的なメタファーを通じて見てしまうのはやっぱりまずいのかもしんない。でも、どうもそんな印象がぬぐえない感じはあるな(本棚にささってる以前読んだ『象徴形式としての遠近法』なぞをチラッチラッと横目で見ながら、どうしてもそんな印象を抱いてしまう。読み直してみたほうがよろしいだろうか?)。このパノフスキーの見事に描いてみせた線描のフレームみたいな芸術作品の解釈の枠組み、その歴史の遠近法的な構成から、たとえば不穏な色彩がキャンバス一面に血溜まりみたいに拡がりだす瞬間に立ち会おうとすればディディ=ユベルマンの『イメージの前で』みたいな書物が現れることになるし、消失点の放つ効力が完全に失効して仮構された不動の構図が破れ、もはや居場所を失った鑑賞者が以降「人間精神の本質」などとは互いに眼差しを交わすことがいっさいなくなる、そんな白光した瞬間を見出そうとするなら、たとえばマネの絵画に関する講演についやされたフーコーの言葉が紡がれることになるんじゃないだろうか。イコノロジーとか象徴の解釈とか、この本読むまではちょっと軽視していた感じは否めないんだけど、本物はいろんな意味でやっぱりすごいよなって痛感した。この本読んだらアガンベンの『スタンツェ』とかベンヤミンの芸術関連の本をもう一度読み返したくなった。文庫でお手軽に読むことができるパノフスキーの著作がまだあるみたいだから、とりあえずは来月あたりそっちの方も手に取ってみるつもり。
オレンジペコーの「やわらかな夜」が久しぶりにテレビのCMで使われてたね。名曲すな。
2012-05-05
トシヒコ横浜
雑記 |
ゴールデンウィークもそろそろ終わってしまうけど連日のこと一日中家の中でごろごろしてるだけで気づいたら日が暮れてるというような体たらくで、いつものことなんだけど結局どこにも出かけずに連休を過ごしている。もともと極端に出不精なたちなもんで、二、三日にいっぺんコンビニにでも寄りに外へ出ればあとはもう一週間でも十日でも平気で家にこもっていられるというしけたこころの作りになっていて、でも特別に外出が嫌いってわけでもなく、休みが始まる前には、連休中に海の見える町にでも電車で出かけてみようかなとか、調べたら大きめの美術館がチャリで一時間くらいの近所にあることが判明したんでそこへ実物の絵を(常設展示でレンブラントのやつとかを掛けてあるらしい)見に出かけてみようかなとか考えたりもしてたんだけど、決断しかねてるうちになんだか億劫になってしまい、結局こうしてひきこもったままで長い休みも無為に終わっていこうとしている。いつもどおりすな。いつもどおり死人のように生きてますな。
自分から外へ出ないかわりに、本やCDはキーボードのエンターキーをポチっとするだけでそのうち勝手にこちらへとやって来てくれる。外へ出ることをうながすかけがえのないきっかけがこうして月に何度か消えているわけで便利なネット通販も良し悪しすな。『ジョジョリオン』の2巻と電気のニューシングル「Shameful」は先月に出てたんだけど、これらはBK1で貯まったポイントだけで費用をまかなえてしまった。一万円以上同時購入でついてくる特典1000ポイントがマジはかどる。本買うのに実質10パーセント引きみたいなもんなんだけど、こっちとしてはすごく助かるこの制度はでもお店側として無理しすぎていはしまいか?とかちょっと心配にもなる。ありがたいけれども。小説を一冊、この前読んでおもしろかったナボコフのなかから手に入れやすい『ロリータ』と、以前から興味があったんだけど値段のせいで買うのにふんぎりがつかなかったルーセルの戯曲『額の星 無数の太陽』をチョイス。すぐには読まないだろうけど積ん読棚ですこし寝かせつつ自分の気持ちをうかがってそのうちに手に取ってみようと思ってる。いつでも取り出せる、すぐ目に入るところに気になる本がいつでもスタンバってくれてると思うとちょっとワクワクする感じがして、この感じがすごく好きだな。あとはパノフスキーの『イコノロジー研究』上下巻とハル・フォスター編『視覚論』の二冊を最近読んでる美術系、イメージ論系の本のつながりで。暇つぶしもかねてマンガについて自分で何か書くのに勉強がてら読み始めたこれ系の本なんだけど、有名どころばっかり選んでるせいもあって手に取る本いちいちがおもしろいもんだから、これはちょっと当初の目的から逸れつつある感じはある。近いうちにさっそくどっちかから読もうと思う。本は以上の5冊。それから今月は久しぶりにDVDを買ってみた。市川準監督の『トキワ荘の青春』。「青春」って言葉こそタイトルではうたっているものの、その後ほどなくして筆を折るこの時期のテラさんを主役に据えてる作品だけに、全篇通じて暗くて静かな印象が強い映画だったね。辛気臭くて嫌いじゃない。すごく素朴に一マンガファンとして、トキワ荘関係という興味のある主題にかんする史実にもとづくモデル映画みたいなものとして楽しく観れた。藤子Aさんを演じてた役者さんが役柄のなかでいちばん自分の思い描いているモデル本人の印象に近いかなあと感じた。赤塚役の人はどうなんだろう。よく当時の赤塚は美青年みたいに回想されることが多いような気がするんだけど、その人づての印象をもとにした自分のイメージとはちょっと違った。出番は少なめだったけど水野英子が出てきたのもよかった。Aさんの『まんが道』じゃ存在自体消し去られてしまってる水野英子だけど、トキワ荘の廊下で藤子不二雄のお二人が彼女と気まずそうにすれ違う場面はちょっと笑えた。水野役の女優、地味なんだけど男の子みたいな強い顔立ちをしてて印象深かったんで気になってちょっと調べてみたら、「インディーズ映画の女王」みたいな肩書きもある有名な女性だったんだね。経歴を覗いてみてへーって感心した。今は活動休止中らしい。あとは映像特典で観ることのできた存命中の森安直哉のインタビュー映像とか嬉しかった。例の「キャバキャバ」笑う表情こそ見せなかったものの、笑顔で当時を振り返って、でも「ほんとに嫌な時代でしたよ!」みたいなことを平気で発言できちゃうところがKYすぎてすごいと思った。思い出として美化して片付けることができない何かがまだ彼のなかにわだかまってるのかなとか思ったし、その種の甘美な思い出の抽象性をしりぞける記憶の現在的で厄介なありかたなんかは、案外ほかの成功したトキワ荘メンバーの誰よりも、森安こそ、テラさんの早すぎる晩年を捕らえた呪縛的な時代とのかかわりかたに近いものがあったのかもしんないな、とか感じた。永田竹丸とか坂本三郎が本編に登場しなかったのは残念だけど、森安の退場と赤塚の不遇を描いたからには、さらにそのうえで彼らの見せどころを作るのはたしかに難しかったかもな、とか思った。あとは石森のお姉さん役だった女優さんの放つ強烈な薄幸オーラにひるんだ。あの人実生活でも大丈夫か?
読書のほうは四、五日かけて蓮實重彦の映画論=イメージ論『ゴダール・マネ・フーコー』を読み終えた。なんだろうね、とてもおもしろかったんだけど、自分がマンガとか小説を読みながら考えてたりすることと被るところがけっこうあるもんだから、この本で蓮實の語ってるところをそれとして抽象して取り出してあらためてこの本単体で感想を書くことがちょっと面倒くさく感じてしまうところがあるな。もちろん自分が蓮實重彦とかゴダールとかとおんなじこと考えてるんだぞ、とかそんな大それた(?)ことを言ってるんじゃなくて、そもそも自分が批評のこととか作品の読み方のおもしろさを勝手に教わったと考えてる初発のところが間違いなく学生の頃読んだ『表層批評宣言』だったりする事実があるわけで、以来、明に暗に、強弱のニュアンスこそ場合によってさまざまだけど、蓮實的なものの見方というものが自分がどのジャンルの作品を味わうさいにも越えられない限界みたいなものとして存在していて、そこで考えることや感じることをずっと影から定めている、という感じはある。思考とか感性の底の部分に蓮實重彦(だけじゃないけど)の言葉がマジックメモの薄紙の下に残された筆跡みたいにして残り続けてて、自分の眼ではその文字をじかに見ることはできないんだけど、確かにそこにあって書くことを決定づけている、という、ある種窮屈な感じもある。要するに考えることや感じることは誰かの考えたことや感じたことの刻まれた書物の文字の連なりの、さらに粗悪なコピーであるというような感じが強い。ただ、蓮實重彦その人の発する言葉すら映画という彼にとって特権的な参照先からこうむったコピーとしての自身の存在様態を律儀に映画のイメージへと送り返すというような相互的な影響関係から逃れようとしているわけじゃないんだろうから、ここにはイメージや言葉と思考や感性をめぐる起源を欠いた大掛かりな反復の強いる舞台のうえで演技が幾度も繰り返し演じられている様が見られることになるんだろう。それらをそれらのものとして見分ける確たる識別のしるしも見失った舞台の本番と稽古との両演技のあいだで、もはや宛先も目的も欠いた類似の劇の反復が宙吊りのまま繰り返されて、そのうちの不調に終わった稽古とも本番とも定かならぬ一回の上演のうちのひとつに、自分の書いた言葉がネットの片隅のこんな小さなブログで再演させたパフォーマンスの幾つかがあるってことなんだろうとも思う。フーコーの言葉を引きつつ蓮實重彦が的確に書いているんで、論考の前後の文脈も無視して孫引きも交えて引用しておく。
あたかも『マネの絵画』の孤独から抜け出そうとするかのように、フーコーは、「フォトジェニックな絵画」で、「われわれは今、絵画が、芸術としてみずからを”純化し”、高めるために、絵画として絶えずみずからを最小化してきたこの長い時代から抜け出そうとしている」と書く。そこでの「絵画は、通過の場所、無限の越境となることを受け入れ、……イマージュのありとあらゆるテクニックと同化」し、「画家はもはや画家だけでは存在せず、唯一の至上の絵画など存在しない」はずだというのである。そこでの画家は、「イマージュの花火師、手品師、盗人、密輸人」といった「あらゆる種類のアマチュアの群れをふたたび見出す」。
「アマチュアの群れ」、ほんとそうだよなと思う。「イマージュの花火師、手品師、盗人、密輸人」たちが今日もどっかで、「通過の場所」で、「無限の越境」そのものであるような自身の放ちうるかぎりのイメージと言葉とパフォーマンスを、小さく散発させ炸裂させているんだろうなと思う。これはうん、とても心強いことでなんではないかな。蜘蛛の巣の糸のめぐらせるか細い一本にすぎないことは確かなのだとしても、一本は、やはり無とは異なる、一本だもんね。たまに蓮實重彦に対して露骨に嫌悪感を示す人たちの言葉を見かけることがあるけど、そんな人たちは敵視する対象を明らかに間違ってるよと思う。その種の人たちは好んで自分からわざわざ蓮實を「下から目線」で見上げて勝手に恐れ、勝手に怒ってるようにしか見えないんだけど、対立を作る分割の線はそんな蛸壺みたいな狭い場所に引くもんじゃないってつくづく思う。彼らや蓮實重彦を同時に含む「花火師、手品師、盗人、密輸人」こそが、言葉のもっとも広い意味での「実務家」たちの手によって、調整だとか管理だとか馴致だとか軽蔑だとか囲い込みの対象として時にはもてはやされたり、あるいはしばしば恫喝されて、またはやんわり手引きされて、けっきょく飼い馴らされようとしているの明らかでしょう。出荷予定の自分の蓄獣同士が喧嘩しているのを柵の外から眺めながら、その騒ぎを健康優良品の証としてひそかにほくそ笑んでやに下がってるような者たちのにやけた視線を忘れちゃいけないだろうって思う。まったく本の感想にならなかったんで、このへんで無駄なお喋りをやめとく。
電気のシングルが出たばっかりなんで、卓球名義だけどいちばん好きな曲を紹介。石野卓球で「stereo nights」。長いこと折にふれ聴きかえしてる曲なんだけど、耳にするたびにいまだに救われる気分になる。寂しいのも悪くない。

