'10読書日記24冊目 『同性愛と異性愛』風間孝・河口和也

同性愛と異性愛 (岩波新書)

同性愛と異性愛 (岩波新書)

212p
総計5877p

極めて良心的なジェンダー論、あるいはクィア論の入門書。バトラーやフーコーなどは明示されていないが、明らかに筆者の言説はその下にあるだろう(だからどうした)。同性愛者(特にゲイ)がいかに日本で生きてきたか、日本は同性愛者をいかに生かしてきたか、という問題関心がある点で、他の入門書よりも具体的で面白い。同性愛(あるいは性的志向)という基点に立つことで、異性愛が相対化され、異性愛でさえ一つの確固たるアイデンティティの一つであるということが納得されえる。
しかし、やはりここ数年来の問題(というかもやもや)は残る。ジェンダーとセックスの二分法をめぐる、「ジェンダー論」界隈の人らのジャーゴンあるいは思考停止である。確かに、セックスという身体的差異があるからこそ、ジェンダーの観点からは平等化が為されるべきだ、あるいはジェンダーを自明視することは間違っている、という論じ方がされるのは納得できる。しかし、果たして「ジェンダー」を他の「国籍」や「人種」、「年齢」といったアイデンティティを構築する他の要素と対等なものとして、扱うことが出来るのだろうか。例えば、有名なテーゼ「全てのセックスはジェンダーである」について、またボーヴォワールの有名なテーゼ「女は女になる」について。こういったテーゼはそのものとして意義深い。しかし、ここでは単純にこうした議論を表面的になぞる「ジェンダー論」界隈の人々に向けて問いたい。
「全てのセックスがジェンダーである」のだとしたら、そのジェンダーを生み出す差異はどこからやってくるのだろうか? 「男/女が男/女になる」のだとしたら、最初の「男/女」はどこからやってくるのだろうか? スラヴォイ・ジジェクによれば、これらの議論の問題点は、性的差異(セックス)を前提としてその差異(ジェンダー)を説明していることにある。つまり、男女差というセックスが存在していない状態で、どうして女は女になる前に「女」になるというのか、男は男になる前に「男」になるというのか。
もっと抽象的に言うならば、意識的に構築されたものと、意識的にではなく存在するものとの区別が、「意識的に」行われている、と言うことは、正しいのだろうか。表象と表象されたものを区別する身振りは、すでに表象内部に属している、ということは果たして本当なのか。
しかし、ここではこのような極めて哲学的な問いに答えることは到底・もちろんできないし、するつもりもない。ただ「問い」が存在する。そして僕はここにわだかまりを感じている。さらに言えば、このわだかまり・もやもやは、「性同一性障害」について論じる本書においても、高まりを見せる。それは次のような問いにおいて具現化されえるだろう。果たして、ジェンダー・フリーの世の中には「性同一性障害」はありえるのだろうか?