'14読書日記40冊目 『〈政治的なもの〉の遍歴と帰結』森政稔

変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

一部で待望されまくっていた筆者の論文集が刊行された。ちくま新書『変貌する民主主義』がこの時代に民主主義を論じることにつきまとうある種の退屈さ(!)から現代の民主主義をめぐる状況を鋭く論じ、広い読者を得た(に違いない)のに対して、今回の本はあまり一般の方にはおすすめできないかもしれない。むしろ筆者が「政治学の思想系」と呼ぶ――門外漢にはほぼ分からないであろう持って回った感じのする、しかしその曖昧さの表現がむしろ適切な――分野を学ぼうとする人にとって極めて示唆に富む一冊になっている。「政治学の思想系」とは何か。それは政治思想(史)と呼ばれる分野を、専門外の人間に説明するときに生じてくる困難と関係がある。「政治学の思想系」は、政治学というディシプリンのなかの一分野、それも実証科学としての政治学ではなく、その「思想系」であると筆者は言う。政治学プラトンアリストテレス以来長きにわたって学問の棟梁としての地位を占めていたのだが、それ故にというべきか、皮肉なことに他の社会科学に比べて「科学化」するのが遅れた学問でもあった。「科学化」が生じてきたのは、第二次大戦後のアメリカで、価値中立・客観性・実証性を掲げて、従来の政治学を価値と事実を混同するものとして批判した、行動主義(behaviorarism)の勃興によるところが大きい。いわゆるポリティカル・サイエンスと呼ばれる科学としての政治学の源流をなす、こうした動きが全面的にこの分野を席巻したわけではなく、同じくアメリカに亡命していたユダヤ人――アレントシュトラウスフェーゲリン――がそれぞれ独自に政治をめぐる思想を繰り広げていた。しかし現在、政治思想・政治理論・政治哲学などと様々に称される「政治学の思想系」を政治学の一分野として認めさせることに成功したのは、ロールズの正義論の登場を待たなければならなかった。ロールズとそのフォロワーたちの活躍は政治哲学の復権として語られることになるが、筆者はそれに対しても冷静である。結局、ロールズらの規範的な政治哲学は、科学としての政治学にやっとこさ「政治学の思想系」という一分野を認めさせたにすぎないのではないか、というのである。実際、政治学政治学の思想系の両者は、それ以来交わることのない平行線を歩んでいる。
筆者は、「政治学の思想系」と「政治的なもの」を関連させて理解する。なぜ政治学だけではなく、政治学の思想系が必要なのか。それは、政治学が事実を実証的に分析するのに対して、政治学の思想系は政治そのものを成り立たせているなにかを問おうとするからである。筆者はこの政治そのものを成り立たせているものを、ハイデガーの存在者と存在のあいだにある存在論的差異と類比的に、政治的なものと呼ぶ。政治が成り立つために不可欠な契機は、しかし一旦は政治から離れることでしか、あるいは実証的な政治学では把握されないものだと「政治学の思想系」の学者たちは考えている。

しかし、ハイデガーの「存在」が「存在者」と区別される根拠があるのかどうか問題的であるのと類比的に、「政治」から差異付けされた〈政治的なもの〉の概念を認める意義があるかどうかは、もちろん自明ではあり得ない。〈政治的なもの〉の復権の議論を活気づけてきたものは、20世紀において政治が全体主義や世界戦争のような物凄い力によって捻じ曲げられてしまったことへの反省と、その後ようやく政治に正当な地位が与えられようとしていることへの期待感であった。〈政治的なもの〉の復権を主張することは、当然ながら、それが現実の「政治」を変えることができるという見通しに支えられていた。「政治」から〈政治的なもの〉へと遡行した考察は、ふたたび新しい「政治」の可能性へ帰還することによってはじめてその意義を明らかにするはずであった。
 しかしその後の展開において、〈政治的なもの〉の探求が「政治」の刷新を可能にしてきたかというと、それは決して楽観視することはできない。むしろ明らかになったのは、「政治」と〈政治的なもの〉のあいだの間隙であり、「政治理論」の領域の公認が、政治学全体の「パラダイム転換」になり得ず、サブ領域の承認以上ではあり得なかったことも、この問題と関係している。

こうした冷淡な、あるいは必要以上に暗くうつる筆者のビジョンの背景には、ハイデガーの陥ったのと類比的な〈政治的なもの〉への過信に対する懸念がある。つまり、存在への企投が存在者の世界を見捨てることにつながったのと同様に、〈政治的なもの〉への過度な期待は同時にそれが根源であると主張する「政治」をむしろ破壊してしまうのではないか、という危惧である。機能分化した社会において、政治的なものが全体性や純粋さを志向するのだとして、それは現実的なのか。仮に現実的だとしても、それは望ましいことなのか。筆者によれば、ポストモダニズムの影響を受けた政治思想は、この危惧を先鋭化させた。ポストモダン的な政治思想は、政治的なものに結びついてきた排除や抑圧を暴露し、その排除や抑圧の境界線を何度も引きなおしてきた。しかし、筆者によれば、このことは逆に、いっそうの政治的なものあるいは民主主義の困難を明らかにしてしまってもいる。政治は原理的に恣意的で偶然的なものに取り巻かれており、それらを暴露すればするほど、困難さが露呈し続けることになるのではないか。しかも、〈政治的なもの〉の復権ポストモダン的な理論の刷新にもかかわらず、現実では新保守主義が台頭し、「政治学の思想系」が現実の政治の刷新に寄与したかどうかはかなりの程度疑わしいのである。
本書は、このように存在が危ぶまれ、期待と失望が交差する〈政治的なもの〉を、筆者がこれまで書いてきた論文を通して回顧するものである。「政治学の思想系」を学ぼうとする人は、一般性が高く現代との結びつきも強い第三部から読み始めてもいいかもしれない。どの論文も思弁性と現実性を往還するように書かれており、〈政治的なもの〉の可能性とその限界がすぐれた批評能力によって開示されている。〈政治的なもの〉への失望だけが書かれているわけではなく、むしろ「政治学の思想系」の面白さも十二分に伝わるものになっている。

目次
0章 政治思想と〈政治的なもの〉
第1部 〈政治的なもの〉とその諸領域
1章 言語/政治学
2章 政治思想史のフェミニスト的解釈によせて
3章 政治思想史の語りについて
第2部 思想家たち
4章 シェルドン・ウォーリンと「脱近代」の政治
5章 丸山眞男の近代
6章 ニーチェ政治学は存在するか
第3部 〈政治的なもの〉の現代的変容
7章 現代アメリと〈政治的なもの〉の危機
8章 〈帝国〉と政治空間の変容
9章 〈政治的なもの〉と〈社会的なもの〉

本書の結語で、筆者は次のように述べる。

これまで検討してきたように、〈政治的なもの〉には、複数性、公的なもの、熟議等々多様な要素があり、決断の契機などに解消されてはならないものである。また今日の複雑な社会において、政治はなんでもできるわけではなく、社会の他の領域との関係でその働きが把握されなければならないものでもある。このような皮肉な帰結を前に、今後も〈政治的なもの〉の可能性を、これまでとは別の形で考えてゆきたいと思う。

〈政治的なもの〉がたどってきた遍歴を読み終えたとき、私は筆者から、「これまでとは別の形で」考えることこそ「政治学の思想系」の本分であり、理論や認識の革新は複数の革新の試みのなかからでしか生まれないのだと、背中を押されているように感じた。