ぼくを葬る

ぼくを葬る(おくる) 2006年 フランス

監督・脚本 フランソワ・オゾン
出演    メルヴィル・ブボー
      ジャンヌ・モロー
      ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ

ある日突然余命3ヶ月と宣告された青年。
ロマンは、自らの死に向かい合い、静かに最後の時を過ごす。

グラビアで有名になったカメラマンは、忙しい日々を過ごしていた。
ふと医者の検査を受けた、その青年は思いもつかない病名を医者から告げられる。
青年は、エイズかと問い返した。
医師が否定し、ガンに患っていることがわかる。
あと3ヶ月で逝くという説明であった。

青年には、祖母と両親、出戻りの姉がいた。ロマンは、31歳。
恋人として、同棲している彼( ゲイ )がいる。
ふたりは、家族中が認めてくれる間柄であった。

離婚をした姉とロマンは、理由のしれないわだかまりがあった。
家族と共に、残りの人生を過ごす。
茶店に入ったところ、ロマンは女性から精子を求められる。
試験管による提供ではなく、実稼働〜
依頼された女性と、性交による受精が条件となった。

ロマンは了承し、依頼した夫妻と共にベッドに座る。
ロマンの呼びかけで、3Pのベッドシーンが展開される。
最終章、性交の後、ロマンは、もうすぐ亡くなることを女性に告げる。
病気は何か、エイズではないと答える。単なるガンだと告げる。

女性もしくは夫婦からの激しい抗議が起こると、のがごく自然。
それもエイズとか、ガンとの分け隔てもない。
身体の中で起こっていることを自らが知っているのならば、告知するのが自然ではないか?
子孫が受け継ぐという因子を、親である立場からどの程度まで関与すべきなのか?
その答えとして、軽いセリフによって作られている。
ガンというのは、日常茶飯事ふつうによくあることなのだろうか?