メージュの志茂文彦インタビュー。つまりTV版AIRの。先月の監督の談話よりは、わかってる感じ。
 ただ、気になるのは、美凪は夕暮れ、佳乃は星空、観鈴は青空、とそれぞれ領域を分け合っていて重ならないようにした、といった部分。基準はヒロインが重要な告白をする時間帯、らしい。だからTV版の遠野さんは夕方に登場する(原作では夜)し、原作の佳乃の第一声は青空から降って来る感じなのだが、TV版ではそういう印象はない、ということなのかしら。

 でも僕のイメージだと、遠野さんは星空、佳乃は青空、観鈴は夕方。佳乃が青空になる。この場合の基準はたぶん、ヒロインでなく往人が重要な告白(空にいる少女の話)をするシーンになる。記憶に頼っているのでこの通りかどうかは定かではないが。
 遠野さんといえば、背が高いほうが星に近いですから、だし、佳乃りんには汗が似合うし、観鈴についていば、陽が暮れかかった時のちょっと寂しい感じ、に親和性が高い、僕にとっては。たぶんTV版#2に影響されてる。

 ただ、少女たちにはそれぞれ固有の領域があって、それは空間的なものでなく時間的なものである、という発想は好き。いや、夏場は暑くて頭がろくに働かないからさ、場処と場処の境界なんてぼやけて溶け崩れていく感じがするし、自分がどこにいるかなんてよくわからなくなるからさ。でも光と影と風と熱、の変化はいやおうなしに感じられるわけで。

 涼元悠一は、『AIR』のラストについて質問してくるひとに、リチャード・バック『イリュージョン』をもって答に替えたというけれど、僕としては、内田樹「邪悪なものが存在する」(『期間限定の思想』)でもいいんじゃないか、という気がするがどうか。

 《私たちはたいていの場合、原因と結果を取り違える。

 異界からの理解不能のメッセージは、「僕」の住む人間たちの世界に起きている不条理な事件を説明する「鍵」であるに違いない。私はそう思い込んで、物語を読んでいた。

 どうして、そんな風に信じ込んでしまったのだろう。どうして、意味の分からないメッセージには「意味がない」という可能性を吟味しようとしなかったんだろう。》(内田樹「邪悪なものが存在する」、『期間限定の思想』)

 もっとも麻枝准のばあい「邪悪な(無意味な)もの」、というより、われわれが決して理解できないほど大きなもの、への志向がありそうな気はするが。鳥の頭に人間の記憶が大きすぎる(つまりこれが、「メッセージの読み方を指定するメタ・メッセージ」)に似て。
 村上春樹論を麻枝准に援用するのは、ちょっとストレートに過ぎるのだけれど。