竹宮ゆゆこ『とらドラ!』

 今度は三人称だ!
 もっとも、最初と最後を除けば「三人称・竜児の視点」で一貫しており、竜児の一人称に限りなく近いとはいえる。だが三人称であるので「竜児の(まだ)知らないこと」を語ることができる。それどころか、この世界の誰もまだ知らないことさえ。いいかえれば、竜児についての物語を語る語り手がここには存在する。いや高浦くんにも存在したねそういえば。それはともかく。

 『わたしたちの田村くん』の語り手は田村くん(と高浦くん)であり、彼ら男の子たちの語り口にはオーバーアクションが貫かれていて,それが強靱かつ可愛らしかったり、また田村くんがいきなり詩人みたいになってしまうときもあって、多分に生き難さを抱えているであろう女の子たちがそんなふうに語られるのはひとつの救いでした。しかし田村くんが語ることができるのは松澤小巻という女の子についての物語であって、松澤小巻と田村雪貞の物語にはならない。

 だが今回は二人のための物語だ。もちろん、相変わらずのように高須竜児は逢坂大河について色々と語るのだけれど、その外側の大枠として、逢坂大河に出会う高須竜児のための、「世界の誰もまだ知らない、たったひとつのたからもの」という、竜児がするに負けず劣らずロマン溢れる話がある。
 ていうか、「そういうふうになっている。」てのがもう、大好き。

 高須竜児には逢坂大河は、お姫様みたい、いやお姫様に忘れられた人形みたいな子で、誰も見ていないところで転んでは傷をこさえている不憫な子で、どうにもならない壁にも不退転の闘志を燃やす誇り高いガキで、そして、決して誰かを呼ばうことのない孤高の虎である。矛盾している。
 そしてまた、笑われてもいい、と竜児はいう。このテの話は当人に聞かせれば笑われても仕方ない程度には身勝手な代物だと、聡明な高須くんにはわかっているのである。
 逢坂大河が現実の人間である以上、一通りのストーリーに押し込めていい相手でもないし、ましてそれを押し付けるべき相手でもない。ハイテンションとオーバーアクションの極みのようでいて、えらく節度を弁えている。
 それでも意を決して、お前が虎なら俺は竜になる、呼ばれれば来る犬では、呼ばうことを知らぬ虎の傍にいられないから、なんて話を竜児はしてしまうのだが、それは笑われるどころではなく、もう唐突でわけがわからない。きっと大河は名前で呼ばれたことしか覚えちゃいない。というかそれだけは決して忘れまい。
 つまり、男の子は空回りしてるっぽいんだけど、それはそれで彼ら彼女らの距離を縮める役にはちゃんと立っている、というのが、好き。