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2010年6月20日 「この世界はそれ自体が理解を絶している」

[]Angel Beats! #12「Knockin' on heaven's door」 Angel Beats! #12「Knockin' on heaven's door」を含むブックマーク Angel Beats! #12「Knockin' on heaven's door」のブックマークコメント

 「僕」は彼らの導きによって、現実とは違う世界に触れる。ところが現実の世界と幻想的世界がないまぜになって物語が佳境に入ると、ほとんどつねにこの「異界のひと」は謎めいたメッセージを残したままかき消えてしまう。

 村上春樹のワンダーランドにおいて、この「異界のひと」たちが「何を意味するのか」、私には長いあいだ分からなかった。彼らは何かの隠喩なのだろうか。彼らの語る言葉は何か私たちの世界の成り立ちについての重要な情報を含んでいるのだろうか。

(略)

 異界からの使いたちは「何かメッセージを伝えるために」主人公の「僕」の前に姿を表したに違いない、私はそう考えた。だから、私は彼らの「メッセージ」の「意味」を知ろうとしたのである。だが、異界から到来する人々はじつに難解なことを言う。

(略)

 私は律儀な読者としてこれらの「異界からのメッセージ」が何を言おうとしているのかを考えた。考え続けた。そして、「わたしの言うことが分かる?」とすみれさんに問い詰められても、結局分からなかった。

 最後に分かったのは、「これらのメッセージには意味がない」ということであった。

 羊男さんがきっぱりと言い切っていたように、「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」というのは異界からのメッセージの読み方を指定するメタ・メッセージだったのである。

 私は読み方を間違えていたのである。

 私たちはたいていの場合、原因と結果を取り違える。

 異界からの理解不能のメッセージは、「僕」の住む人間たちの世界に起きている不条理な事件を説明する「鍵」であるに違いない。私はそう思い込んで、物語を読んでいた。どうして、そんなふうに信じ込んでしまったのだろう。どうして、意味の分からないメッセージには「意味がない」という可能性を吟味しようとしなかったのだろう。

 それは私たちの精神が「意味がない」ことに耐えられないからである。

 私たちは「意味がないように見えることにも、必ず隠された意味がある」と思い込む。私たちが「オカルト」にすがりつくのはそのせいだ。

 一見意味がないように見えることにも「実は隠された意味がある」と言ってもらうと、私たちは安心する。

 だって、私たちが一番聞きたくないのは、「無意味なものには意味がない」という言葉だからである。

 しかし、作家たちのだいじな仕事の一つは、その言葉にリアリティを与えることだ。『城』のカフカ、『異邦人』のカミュ、『グレート・ギャツビー』のフィッツジェラルド、『フランシスマコーマーの短い幸福な生涯』のヘミングウェイ……村上春樹はおそらくそのような作家たちの系譜に連なっている。

 「僕」の住むこの世界で「僕」や「僕」の愛する人々は、「邪悪なもの」の介入によって繰り返し損なわれる。だが、この不条理な出来事の「ほんとうの意味」は物語の最後になってもついに明かされることがない。

 考えてみると、「不条理な物語」だ。

 しかし、これらの物語を逆向きに読むとき、はじめてその意味が見えてくる。

 これらの物語はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語っているのである。

 邪悪なものによって損なわれるという経験は、私たちにとって日常的な出来事である。しかし、私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。

 愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司査定されること、不意に死病に取り憑かれること……数え上げればきりがない。

 だが、そのようなネガティヴな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解に至らせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか、言いつくろおうとする。

 私たちは自分たちが受けた傷や損害がまったく「無意味」であるという事実直視できない。

 だから私たちは「システムの欠陥」でも「トラウマ」でも「水子の祟り」でも何でもいいから、自分の身に起きたことは、それなりの因果関係があって生起した「合理的な」出来事であると信じようと望む。

 しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲罰的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。

 村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を記述し、そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。

『1973年のピンボール』の中で、ジェイは「鼠」に向かって、前足が潰された飼い猫の話しをする。車に轢かれたとも思ったが、それにしてはひどすぎる。誰かが猫の前足を万力にかけて潰したみたいな傷である。

「まさか。」鼠は信じられないように首を振った。「いったい誰が猫の手なんて…。」

 ジェイは両切の煙草の先を何度かカウンターで叩いてから、口にくわえて火を点けた。

「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんか何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得をするわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれているって言ってもいいかもしれないね。」

 私たちもおそらく例外ではない。「万力はさまれた猫の手」のような、「無意味で、ひどすぎる」経験が次の曲がり角で私たちを待っているのかも知れない。

 かなり高い確率で、と村上春樹は言う。

 だから、角を曲がるときは(無駄かもしれないけれど)注意をしたほうがいい。

 そして、おそらく、そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが、「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さを知っており、「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかけがえのない快楽を見出すことができるのだと私は思う。

内田樹「村上春樹とハードボイルド・イーヴル・ランド」、『村上春樹にご用心』)

 ちなみに、麻枝准の過去の作品においてメタ・メッセージとして指定しうるのはこのあたり。

誰かが俺に何かを訴えている。

それがわかる。

だがその手段はあまりに強引だ。

俺の手には負えない。

つまり、その受け取るすべが俺のほうにないのだ。

それは俺を傷つける。人を傷つける。

鉄パイプを耳の穴に通すようなことはやめてくれ。

そんなものは通らないのだ!

(『Kanon』)

頭が痛む…

記憶があいまいになりかけている。

あるべき自分に、俺は還ろうとしている。

この記憶は思い出してはいけない記憶だった。

人の記憶は、この体にはあまりに大きいものだった。

ぼろぼろとこぼれてゆくのがわかる…

記憶とちしきが…こぼれてゆく…

(『AIR』)

 神尾観鈴が「自分でもよくわからないんだけどね」と語るごとく、世界の「真相」は、われわれの理解を絶している。現に晴子にとっては観鈴の語る言葉はまったく不可解だった。涼元祐一のSUMMER篇は一見「真相」らしく見えるが、それは登場人物の手の届くところにはないのである。

を含むブックマーク のブックマークコメント

分析的な意味での「父」とは単なる生物学的な父のことではない(生物学的な母が「父」である場合も多い)。

「父」とは「世界の意味の担保者」のことである。

世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋」のことである。

どの社会集団もそれぞれに固有の「ローカルな父」を持っている。「神」や「天」という名を持つこともあるし、「絶対精神」や「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ばれることもあるし、「王」や「預言者」という人格的なかたちをとることもある。

その世界で起きていることは(善きにつけ悪しきにつけ)を何かが専一的に「マニピュレイト」しているという信憑を持つ社会集団はその事実によって「父権制社会」である。

どれほど善意であっても、弱者や被迫害者に同情的であっても、「この世の悪は“マニピュレイター”が操作している」という前提を採用するすべての社会理論は「父権制イデオロギー」である。

「父権制イデオロギーが諸悪の根源である」という命題を語る人は、そう語ることで父権制イデオロギーを宣布しているのである。

なぜ、私たちは「父」を要請するのか。

それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という“真実”には容易には耐えることができないからである。

実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的もなく虐待され、何の教化的意図もなく罰せられ、冗談のように殺される。

天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ雷撃や火山岩を落とすわけではない。

もっとも惜しむべき人が夭逝し、生きていることそのものが災厄であるような人間に例外的な健康が与えられる。

そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。

では、世界はまったく無秩序で、すべてのことはランダムに起きているのかといったら、そうではない。

そこには部分的な「秩序のようなもの」がある。

世界を包摂するような秩序を作り出すことは誰にもできない。

けれども、手の届く範囲に限れば「秩序のようなもの」を打ち立てることはできる。

科学的に思考し、フェアに判断し、身体感受性が高く、想像力の行使を惜しまない人々が「ダマ」になって暮らしている集団があれば、そのささやかな集団では「秩序のようなもの」が「無秩序」を相対的には制するだろう。

けれども、それはあくまで、一時的、相対的な勝利にすぎない。

その「秩序のようなもの」を一定以上の範囲に拡げることはできない。

そのような「ローカルな秩序」はローカルである限りという条件を受け容れてのみ秩序として機能し、普遍性を要求した瞬間に無秩序のうちに崩落する。

繰り返し書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。

歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。

私たちは「父」を要請してはならない。

たとえ世界のかなり広い地域において、現に、正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちは「父」の出動を要請してはならない。

「ローカルな秩序」を拡大しようとするときも、ひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。

私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。

思弁的にそう思うのではなく、経験がそう教えているのである。

村上文学における「父」の話をしているところだった。

話を戻そう。

文学もまた「父」を(ほとんどそれだけを)ひさしく主題にしてきた。

あるときは「父の武勲詩」を、あるときは「父に抗う子どものパセティックな抵抗(と劫罰)の物語」を、あるときは「父の不在」を嘆く悲嘆の詩を。

その中にあって、現代の何人かの作家たちは「父抜きの世界」を描くという野心を抱いた。

その中の一人であるアルベール・カミュは自作について次のように書いている。

「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じてはいません。私はどうふるまうべきかを知ることに関心があります。もっと厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、人はどのようにふるまい得るかを知りたいと思っているのです。」(Albert Camus, Interview a` ‘Servir’, Essais, Gallimard, 1965, p.1427)

このカミュの言葉にエルサレムの村上春樹は全幅の賛意を示しただろう。

「システム抜き」でも人間はやり遂げることができるか。

ふるまい方を指示するマニュアルも教典も存在しない世界でも、人は「人として」ふるまうことができるか。

もしそれができるのだとしたら、何が人の行動の規矩となるのか。

ほとんどの人はこれからのどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。

それは必ずしも「父」の指導や保護や弁疏を期待してではない。

むしろ多くの場合、「父」の抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出されるのである。

「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。

そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。

それは弱い人間にとってある種の救いである。

世界は「父」を呼び出すことで一気に合理的になり、さまざまなものが名づけられ、混乱は整序される。

けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに、「父=システム」はますます巨大化し、遍在化し、全知全能のものになり、人間たちを細部に至るまで支配し始める。

「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。」

そう断言できる人間が出てくるまで、「父の支配」は終わらない。

「父の支配」からの「逃れの街」であるような「ローカルな秩序」は、そう断言できる人間たちによってしか立ち上げることができない。

カミュやレヴィナスはそう教えている。

私は彼らの考想に同意の一票を投じる。

そして、村上春樹もまた彼らと問題意識を共有しているということについては確信がある。

『1Q84』にはたくさんの「小さな父たち」が登場する。

青豆の父も、天吾の父も、「ふかえり」の父も、タマルの父も、みな自分たちの子どもをさまざまな仕方で棄てる。

それが子どもたちに深い傷を残す。

「リトル・ピープル」という「邪悪なもの」はおそらくそれらの「小さな父たち」の「しけた悪意」の集合表象のようなものだ。

主人公たちはその「邪悪な父によってつけられた傷」によって久しく自分の現在を説明してきた(あるいは「説明する能力」の欠如を説明してきた)。

それが彼らをどこにも進めなくしてきた。

トラウマ」とはそういうものだ。

何が起きても、誰に出会っても、「あのできごと」に帰趨的に参照されて、その意味が決まる。

「トラウマ」とまったくかかわりのない、「新しいこと」は決して起こらない。そのように過去に釘付けにされることが「トラウマ」的経験である。

何を経験しても、それを「父」とのかかわりに基づいて説明してしまう(「父が私にそれを命じたから」あるいは「父が私にそれを禁じたから」)。

そのような言葉づかいをしている限り、「父」の影響を一方的に受ける「被制者」という立ち位置から私の人生は始まったという話型で自分について語る限り、「子ども」たちは「父」から逃れることができない。

『1Q84』は、困難な歴程の果てに、主人公たちが「邪悪で強大な父」という表象そのものを無効化し、「父」を介在させて自分の「不全」を説明するという身になじんだ習慣から抜け出して終わる。

それはもちろんはなやかな勝利ではないし、心温まるハッピーエンドでもない。

けれども、私は村上春樹がこの作品で「父の呪縛」から逃れる方途について何かはっきりした手応えを覚えたのではないかと思う。

それはこの作品の骨組みのゆるぎない物語構造と、細部の(ほとんど愉悦的なまでの)書き込みから感じられるのである。

http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.php

つねづね申し上げているように、年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。

「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。

なぜならどのような「システム」にもその機能の全部をコントロールしている「責任者」などは存在しないからである。

「システムを全部コントロールしているもの」というのは、自分が被害者である以上どこかに自分の受苦から受益しているものがいるに違いないという理路から導かれる論理的な「仮象」である。

これを精神分析は〈父〉と呼ぶ。

〈父〉がすべてをコントロールしており、〈父〉がこの世の価値あるもののすべてを独占しており、「子ども」たちの赤貧と無能・無力はことごとく〈父〉による収奪と抑圧の結果であるというふうに考える傾向のことを「父権制」イデオロギーと呼ぶ。

その点ではマルクス主義もフェミニズムも「左翼的」な「奪還論」はすべて「父権制」イデオロギーである。

「父権制」イデオロギーは当たり前であるが、父権制を批判することも、もちろん父権制を解体することもできない。

〈父〉を殺して、ヒエラルヒーの頂点に立った「子ども」はそのとき世界のどこにも「この世の価値あるもののすべてを独占し、〈子ども〉たちを赤貧と無能・無力のうちにとどめおくような全能者」が存在しなかったことを知る。

どうするか。

もちろん自ら〈父〉を名乗るのである。

そして、思いつく限りの収奪と抑圧を人々に加えることによって、次に自分を殺しに来るものの到来を準備するのである。

というのは、彼または彼女が収奪者・抑圧者〈父〉として「子ども」の手にかかって殺されたときにはじめて、彼または彼女は〈父〉が彼らの不幸のすべての原因であったという「物語」が真実であったことを身を以て論証することができるからである。

〈父〉を斃すために立ち上がったすべての「革命家」が権力を奪取したあとに、〈父〉を名乗って(国葬されるか、暗殺されるかして)終わるのは、〈父〉の不在という彼ら自身が暴露してしまった真実に「子ども」である彼ら自身が耐えることができなかったからである。

「父権制社会」を創り出すのは父権制イデオローグであり、彼らはみな「子ども」であり続けようとしたせいで不可避的に〈父〉の立場になってしまうのである。

http://blog.tatsuru.com/2007/12/02_1208.php

人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。

けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。

「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。

私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。

「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。

地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない(はずである)。

でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか・・・という考え方をする人がまれにいる。

村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)、この地図もなく、自分の位置をしるてがかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、ランダムに拾い上げた道具をブリコラージュ的に使い、偶然出会った人々から自分のポジションと役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。

http://blog.tatsuru.com/archives/001706.php

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……ある強大なものが起源に存在し、世界を分節している。「私」はそれにはるかに遅れてこの世界に到来した。だから、「私」はどういう「ルール」で「ゲーム」が行われているのかわからない。「気がついたら、ルールがわからないゲームにプレイヤーとして参加していた」というのが象徴界における「子ども」の立場である。

内田樹「ジャック・ラカン」、『現代思想のパフォーマンス』)

つまり、学校が「規則」を通じて教えているのは、「学校には規則があり、教師たちはその遵守を子供たちに要求するが、その規則の起源を教師たちは言うことができない」という(人類学的=類的スパンにおいては合理的なのだが)個人的=短期的スパンを取るとまったく意味不明の事況に子どもたちをなじませるためなのである。

この「ぜんぜんはなしがみえねーよ」的事況を混乱のうちに通過することによってしか子供は大人になることができない。

http://blog.tatsuru.com/archives/000850.php

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 なるほど父の日じゃねーの。

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