2009-06-24
入院7日目
同じような毎日の繰り返しに見えて、何かがちょっとずつ違います。
更に患者さんごとにも色々と違ってはいるのだろう。
月曜日だったか、僕のところには手術の時に全身麻酔を取り仕切ってくれた看護士さんが来て、色々質問してくれた。今後の改善のために、フィードバックを下さい、ということで。
そういう、一日一日というループの中に表れる微妙な変化と展開が、テクノ音楽的で好きです。
その麻酔科の方とのやりとりが面白くて、いきなり「私のこと覚えてますか?」と聞かれたのです。
全身麻酔をして手術をした日のこと。
事後的に、「頭には大きいガーゼと包帯が巻かれていて、耳と尿道には管、腕には点滴とか、朝にはなかったものが身体にくっついている」状態だったと分かるんだけど、全身麻酔から覚めた瞬間というのは何が何だか分からない状態で、まず自分に何がくっついているのか分からない。
それこそ自分の頭とガーゼの境界線が分からないし、包帯と枕と布団とベッドの区別が付かない。何か下半身もおかしいことになってるな〜という意識はあるけど、顔が動かせないので下半身がどれだけ遠くにあるのか、距離感が掴めない。腕を触って何か処置をしてくれている看護士さんと自分の区別が付かない。
自分の身体と世界が全て違和感に包まれる。そんな一瞬。あるいは永遠。
村上春樹なら1ページぐらいかけて素敵な文章にする「闇→光」へのプロセス。
というか目覚めの瞬間をそんな風にイメージするようになったのが村上春樹の影響だろう。
全身麻酔中の記憶はなく、夢も全く見ませんでした。ただ目覚めた時の、自他の境界がない感じ、懐かしい感覚のようで違和感としか言いようのない時間、それがしばらく続きました。
手術が無難に成功したことは、誰から聞いたのかは分からないけれど、僕はそのことを知っていました。きっと先生から聞いたのだろう。
そんなこんなで麻酔科の看護士さんには、「それが、全く覚えてないんですよ」と答えました。
この病室から出て行ったことも、エレベータで降りて長い渡り廊下を通って手術室に行ったことも、手術中のことも全く覚えておらず、気が付いた時にはこの病室に戻って来ていました。
全身麻酔のテクノロジーは、僕の身体にもばっちり合ったようです。
すごい悪夢を見たりするのでは?とか、言い方悪いですけど「ちょっと楽しみにしていた」のですが、夢も全く見ませんでした。
ただ、T字帯(ふんどし)の結び目か手術着のボタンか何かがちょうどおしりの恥骨の下になっていて、その部分が2日ほど痛かったです。
――「そうでしたか〜。すみませんでした、今後に活かしていきますね」と看護士さん。
あまりにもささやかでフワッとした出来事ですが、忘れないよう記録しておきます。
村上春樹の小説が中国でも受けているのは、中国の若者が持っている孤独や喪失感に彼の小説が共鳴するからではない。そうではなく村上春樹の小説こそが中国人の心に「孤独や喪失感」を作りだしたんだ!
脳がグダグダな時に「自他の境界がなくなる」というイメージは、僕が手術前に下記ページ↓とその中のすごい動画を見て「認識とは何か、涅槃とは何か」について妄想を展開していたことで作られたと思います。
脳科学とブッダの瞑想法―『奇跡の脳』ジル・ボルト・テイラー - ニート☆ポップ教NEO
テクノ音楽的な日常のくだり、大変共感いたしました。
そのように日々をとらえたことがなかったのですが、ルーティン&ルーティンの中に微妙なリズムの変化が組込まれるあたり、実に人生はテクノ音楽的であるなと。
なかなか楽しい考えです。
あと、自と他の境界の境目については、わたくしもまれに考えることがありまして。
境界がはっきりしているというのは実はデフォルトではなくて、自は常に世界とつながっていて、そこに、意識的に境界を引いているだけなんじゃないかというのが個人的な意見です。
境界を引かないと人間が人間としての行動・行為がしにくいのではないかと。
ただ、その境界を意識しつつも、ときどき越境したりたまに解放してみたり、そういうことが楽しかったりいい気分やったりするんかなあと思っています。
ちょっと妄想を語ってみました。
>>自は常に世界とつながっていて、そこに、意識的に境界を引いているだけ
まさに「近代的自我の病理」ですよね。僕は僕で、君は君。
個人という考え方を基盤にして発展した近代文明、便利だし万歳!って思うことの方が多いですけど、「お前のものは俺のもの」っていうジャイアニズムも含めて、ネガティブな影響も大きいと思います。
そういうの、全くもって「妄想」ではないですよ!どんどん語っていきましょうよ。酔ってテクノ音楽にはまる、というのも境界の越境、解放の見事な一例ですよね。他にもあればまた教えて下さい・笑