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菌曜日、午前三時

2011-05-04

引き続き『社会契約論』

| 16:24

 岩波文庫版で八〇頁、「法の分類」という章の記述によると、ルソーは法を公共体(全体、政治体とも言われる)に良い形式(秩序)を与えるものと考えているようだ。ルソーはそのような法を四つに分類している。


 ひとつ目は、「政治法」。これは公共体の公共体に対する関係と考えられ、主権者の国家に対する関係とも言い換えられる(ルソーの考える主権者は人民を統治するひとりの権力者のことを指す)。つまり政治法とは国家と主権者の関係を規制する法のことである。この法が悪いものである場合は、人民はそれを変えることができる。

 ふたつ目は、「民法」。公共体の構成員(市民)相互の関係と、構成員と公共体との関係の二つの関係があって、構成員相互の関係はできる限り小さくあるべきであり、それによって構成員の個人個人が独立したものになり得る。それに対して構成員と公共体の関係はできる限り大きくなければならない。公共体の力のみが構成員の自由を作り得るから、ということである。特にこの後者の関係が「民法」と呼ばれる。ややメカニズムが捉えにくいが、個々人が自由を保ちつつ付き合えるのは、それぞれが公共の秩序に従っていると考えることができるから、ということか。

 三つ目は、「刑法」。人と法との関係を規制するものであり、つまり違法行為の刑罰についての関係である。刑法は、法の特別な種類ではなく、他のすべての法の保障と言われる。違法行為において罰が課されるからこそ、人は法に従うということか。

 四つ目は、ルソーが言うには、すべての法のなかで最も重要なものであるが、当時の政治家たちには知られていない法である。それは「習俗」、「慣習」、とくに「世論」である。これらは成文化されていないが、市民の心に刻まれており、国家の真の憲法をなすものとまで言っている。これは日々新たな力を得て、他の法が滅びていくときには、これに取って代わったり、知らず知らずのうちに権威の力を習慣の力に置き換えるものとルソーは考えている。また上記の三つの法の成否もこの成文化されていない慣習的な法にかかっていると考えられている。


 ルソーは『社会契約論』での関心は政治法であると明言しているが、ドゥルーズやガタリの制度論の関心は主に四つ目の法に当たるといえるだろう。そもそも四つ目の法は、法と言うべき性格に乏しく、「制度」と考えた方が自然か。いや、これも少し強引か。

 ガタリは集団の外部から法をあてがわれる集団を隷属集団と呼び、集団の内部で法を立ち上げることのできた集団を主体集団と呼んでいたので、ここでの四つ目の法は主体集団の法に近いか。

 しかしルソーは、立法者は集団の外部の者(外国人や場合によっては神)であるべきと考えているようなので(法を作る者がその法に従うとすれば、法を作る者は公共の福祉を考慮せず、自分にとって都合の良い法を作る危険があるから)、ガタリの議論ではルソーは隷属集団論者に分類されるといえる。とはいえ、ルソーのように公共体が存在しない自然状態から公共体を作るために法を作るという場合と、ガタリのようにすでに様々な法が機能している社会のなかで集団を作るために法を作るという場合では、文脈が違うので、もっと精緻に見ていかないとだめかな。


 ちなみにドゥルーズの場合は、ヒューム的観点を採るので、自然状態であってもルソーのように個々人がバラバラで生きているはずはなく、すでに小集団が出来上がっていると考える。そのような集団を成立させているのが、共感に基づく制度であり、そこにはまだ法的な罰則による拘束という話は出てこない。

 さらについでに言えば、ドゥルーズの法のイメージは「○○するな」という否定的な命令であり、制度のイメージは「○○することができますよ」という行為の可能性の肯定である。「○○せよ」は積極的な命令のようであるが、裏を返せば「それ以外はするな」ということになるので、否定的命令と一体であると言えそうだ。ちなみに「○○することができますよ」の裏返しが「○○しないほうがよい(やろうと思えばできるんだけど)」となるとすれば、バートルビー論も制度論のヴァリエーションとして読めるかもしれない。そこに出てくるのは制度論への批判かもしれないが。

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