2011-09-26
ズーラビクヴィリに先を越されていた
歩く速度の哲学 |
松本さんが教えてくれたズーラビクヴィリの論文を読んでみたら、すでにドゥルーズの制度概念が論じられていた。細かい議論にはなっていないが、非常に巧みに良い部分を引き出していると思う。やられてしまった。
「ドゥルーズとネグリ、二つの思考:豊かさとチャンス 市田良彦からズーラビクヴィリへの問い」佐野元直訳、『現代思想』、二〇〇三年。
ドゥルーズとガタリによれば、政治のポテンシャルは、予言的な態度や回顧的な態度が一貫して認めないこの断絶[目的もなく到来し、集団的知覚に変化をもたらす出来事]のうちにあるのです。この断絶こそ彼らの目には法の源泉と映っていたし、新たな経済的、社会的、政治的編成の源泉、つまり広い意味での制度(新たな法であれ、労働や学校における新たな関係であれ、パートナー関係の新たな形式であれ)の源泉と映っていました。
ドゥルーズとネグリの大きな違いは、制度に関してのものであると私は考えています。ネグリにおいては、制度はいかなる役割も演じず、「構成する権力」に対しては完全に外在的なものです/…/ドゥルーズにおいては、制度は二つの意味に解されます。創造の契機としての欲望を歪曲すると同時に、制度は欲望を現勢化し創造を構成するものとして積極的なものでもあるのです。
しかし明らかに、いったん現勢化という関係が措定されると、ドゥルーズの側では制度を無視したり破壊することはもはや問題とはなりえない。/…/ドゥルーズは転覆の予言を信じることはけっしてありませんでした。彼はむしろ逆に、すべての秩序、すべての制度の「逃走線」による絶えざる歪められ方に注目していました。
たとえば、彼[ドゥルーズ]はかなり頻繁に制度の問題に取り組みますが、けっして統一的な理論に解消されない多様なアングルから、それは行われます。
ズーラビクヴィリは、ネグリの思考を「転覆のモデル」と呼び、ドゥルーズの思考を「倒錯的モデル」と呼んでいる。これも確か最近誰かに話した話とカブっている気がする。先を越されていたか…。まぁ、ネグリを論じるつもりはないので、自分の文脈でどう活かせるかが問題。
