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菌曜日、午前三時

2011-09-28

いつ芸術なのか?

| 14:17

 先日、甲南大学で行われた「美と病のトポロジー」というシンポジウムを聴きに行きました。美学・芸術学と芸術療法・アートセラピーとの接点を探る研究というか、接点を作ろうとする試みのなかで相互にどのような影響が表れるかを実験しているような研究プロジェクトで、関心としてはとても興味深い。宗教性と芸術創造と治癒の関係など、掘り下げれば面白いと思える論点も多い。フロアの人も含め、さまざまな人が参加していて、緊張感のあるシンポだった。

 ただ、何回か勝手に参加してみてわかったことなのだが、とりあえずの着地点が大体同じで、芸術療法を行っている人たちの側から、「芸術療法における作品づくりは、あくまでクライアントとの関係を作るため、あるいは話を聞き出すための媒介に過ぎず、芸術の創造や作品の良し悪しはあんまり療法に関係ない、あるいはそれに重点はない」と言われて、なんだか議論が閉じていってしまうという感じ。


 彼らの言明から読み取れることは、彼らのいう芸術がいわゆる「芸術」であって、つまり絵画だから、音楽だから、あるいはダンスだから、カテゴリーとして「芸術」と呼ばれるものだから、芸術だと言っているに過ぎないと自覚しているということである。芸術という点には重点はなく、芸術である必要もなく、クライアントの関わり方で自分ができることが作品づくりであったり、ダンスして体を動かしたりであるというだけの話だという意見のように聞こえる。何をするかが違うだけで治療構造は変わらないので、合わなければ別の療法に移ってもらえばいいという感じか。療法として成立しているのであれば、これがいけないということはまったくない。精神分析の自由連想のように解釈できる媒体をクライアントに出してもらっているという感じだろうか。連想には言葉として解釈される素材が出て来るように、絵画であれば同じように絵として解釈できる素材が出てくるのかもしれない(療法士とクライアントの間のインタラクションを表象するものが結実するかもしれない)。ただそれが芸術として価値があるかどうかは主題にならないだけのことである。クライアントと向かい合うことが第一であり、作品が芸術かどうかという視点が副次的なものになるのは当然だろう。とにかく、芸術療法士の認識を単純化すれば、クライアントの芸術創造の高まりと回復は現場的・臨床的に見て無関係だということである。


 こう言われてしまえば、回復やカタルシス(浄化)と芸術創造の関係性、回復における芸術創造の固有の働きを知りたい美学・芸術学としてはなかなか厳しい。しかし、誰かが軽蔑される覚悟で言えばいいと思うのだが、美学・芸術学が対象とする「芸術」は、あるいは芸術作品は、それに触れればこれまでの世界認識が拡張されたり、変更されるものなのだから、美学・芸術学は普通でいえば社会から良くも悪くも逸脱した認識を持つ者、一種の狂気を纏った者を求めているのだと。例えばドゥルーズプルーストを評価しながら、プルーストは狂人ではないがその作品には狂気が含まれていると語っていた。その狂気(病理学的診断では捉えられないものでもある狂気)をまさに評価していたのであった。


 その点で、アルトーの位置づけは非常に面白い。アルトーにとって作品制作は非常に重要な仕事であった。アルトーは、社会の側から見れば精神病者であるが、アルトー自身から見れば社会のほうが狂っているので、自身は健康そのものであるという認識を持っている。アルトーの作品制作は自己治癒のためではなく、社会を回復する、あるいは狂気から救う目的で創られている。そもそも自身を健康だと自認しているのだから自己治癒もクソもない。しかし、社会の側から見ればアルトーは異様で理解困難な、つまり通常の認識を逸脱した作品を作り続けている病者として映る。病者だからこんな作品を作るんだと。アルトーの作品はこうして、アルトー自身から見れば社会の健康の回復のために、社会から見れば逸脱した狂気の表れとして理解されるという、回復と狂気の二面性で捉えられることになる。別の言い方をすれば、アルトーは作品に社会問題を表現しようとした。アルトーの作品が記号として指し示す対象は社会に内在する問題である。ところが社会の側の評価者はアルトーの作品に彼の内面を見ようとした。彼の作品が彼の心を解釈するための記号として捉えられたのである。

 また、アルトーの芸術を制作・発表することで病んだ社会を治療するという試みは、クライアントに作品を作ってもらって、それをきっかけに関係を作って治療を始める芸術療法士と、態度が真逆である。アルトーの試みのほうが直接的な芸術療法ではないかという気がせんでもない(あるいはソーシャル・アートか?)。通常の意味での芸術療法の方は、話を聞いている限り、作品への態度としては観客あるいは批評家・解釈者とまでは言わないが、教師の立場に近いと言えなくもない。もっとソフトにいえば聴き上手という感じ。


 話しがずれてきたが、何にせよ芸術療法士と美学研究者で「芸術」に求める水準がそもそも違う気がする。問いが明確に立てられていないという気もする。例えば、ネルソン・グッドマン風に、クライアントの作品がそもそも最初から芸術作品なのではなくて、「いつ芸術になるか」を考えてみてはどうだろうか。例えば、作品は治療室では治療のための媒介だが、美術館に並べれば「芸術作品」になるのかとか、どういう文脈で、どういう力学が働いて芸術になるのかを考えてみてはどうか。ただの作品が「芸術作品」になった前後で何が変化したのかを考えてみるのもいいかもしれない。そこには作品を取り巻く記号系の変化があるはずである。

 その例となっていたのが、シンポジウムの終了間際で取り上げられたアボリジニの作品である(智恵子でもいいけど)。取り上げた人は特に文脈を意識していないようだったが、アボリジニの作品を芸術作品たらしめる文脈が存在するだろう。作品自身の独特さ、スタイルもあるだろうが、ネイティブの伝統や希少性が生み出す他者性への関心とそれが生み出す市場、それを売らずには生活できない生活環境などが考えられる。まるで二十世紀前半の未開人への関心(芸術史でいえば原始芸術への関心)の延長のようだ。理性に対する非理性の前景化か。精神病者の作品が芸術化するのもこのような理性vs非理性の文脈なのだとしたら昔と大して何も変わっていないことになる。それとも何か新しい文脈が胚胎しているんだろうか。


 何にせよ、芸術と精神の回復の関係は突っ込み方が難しい。芸術や美を追い求めていくなかで病に陥っていく人もいたはずである。そうすれば芸術には回復と病の両面が付きまとう。まぁ、それもどう言えばいいかわからないけど、とにかく美学にしても芸術療法にしても、どちらにも共通して「感性」と「社会」の次元の間で何かしらの作動があるのではないかと考えながら聞いていた。

nomrakentanomrakenta 2011/09/28 16:13 ご無沙汰しております。いつも拝読させていただいています。
芸術療法士と美学研究双方にとっての「作品」のありかたが、たしかに全然異なっているのであって、療法士側からすれば、美学芸術ファンほど「芸術」への期待はないのかもしれないなと思いました。
でも「いつ芸術になるか」を考えることは、双方から行える議論ですね。
溝を埋めるのはおそらくかなり困難なことなんでしょうが(埋める必要があるのかも含めて)、興味深い話題だなあと感じました。

impuissanceimpuissance 2011/09/28 17:15  ご無沙汰しております。長い文章を読んでいただき、いつもありがとうございます。
 偉そうなことを書いていますが、芸術療法士の仕事に関して自分で網羅的に調査したことがないので(研究会に勝手に参加して、そこにいた人の話を聞いていただけなので)、ここで書いたことと違う考えの方もいると思います。その人たちの話を聞いてみたいです。
 僕も「いつ芸術になるか」は、双方から行える議論だと思いますが、会の部外者なので採用されることはないと思います(笑)
 とはいえ、ガタリが『カオスモーズ』で美学がどうとか言い始めるので、自分の問いとして引き受けてみようかと思います。「いつ?」という問いはドゥルーズ的発想でもあるので。