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2026-03-13

[]伊奈正司著・伊奈正人解題『やけあと闇市野毛の陽だまり

購入される方は、486339070XというISBN番号を添えて書店に注文するか、もしくはハーベスト社に直接注文が確実です。Amazonは時々出ますが、すぐなくなります在庫成城堂、有隣堂本店紀伊國屋新宿南などにあるようですが、確実ではありません。


試し読みはこちらへ。

http://nogelog2014.hatenablog.com/archive/2014/9

内容紹介

昭和23年闇市でにぎわう横浜野毛にのろまでどじな1人の若者巡査として赴任してきた。 「のろまの竹さん」とあだ名されたこの若者がみたものは、どろぼう・進駐軍やくざ風太郎・ヒロポン中毒者・売春婦浮浪者・浮浪児などが目の前に行き交うカスバのような街。 日々、彼ら/彼女らと接しながら街に暮らす人びとに支えられ、街の治安に奔走する。 そのような戦後の一時代を「のろまの竹さん」は、たしか記憶で文・イラストを駆使し細部まで描く。そこには貧しく混乱した社会戦後を生き直す若者や街の人びとが巧まずして記録されている。 それはまさに原初的フィールドワーカー眼差しともいえるだろう。

出版社からコメント

著者の伊奈正司さんは90歳になられた現在も、元気に野毛暮らしておられます。 70年ちかくも昔のことを細部まで記憶されていて、細部に描かれたものにいろいろな発見があるでしょう。 イラスト退職後絵を勉強され、ご自分で描いています戦後の混乱した一時期、本書で描かれたような世界日本のあちこちで現出したことでしょう。そこに様々な街のコードや下位文化を読み取ることもできるでしょう。

ブログ記事などの紹介

朝日新聞書評掲載されました。

http://www.asahi.com/articles/ASJ5J4KB5J5JULOB00P.html


神奈川新聞書評掲載されました。


真田のよもやまばなし

http://sanada.at.webry.info/201601/article_2.html


Tatsuya Shirahase Blog

http://shirahase-tatsuya.tumblr.com/post/141636531487/%E3%81%8A%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%80%83%E7%8F%BE%E5%AD%A6

2026-01-23

[]社会学想像力ノート1 milieu

 社会学想像力翻訳があと二週間ばかりで出ます。この本の解説は、共訳者中村好孝が書いています。現代資本主義論やハーヴェイの翻訳をいろいろやってきた中村の解説は、一方でオーソドックス社会科学の構造変動論を踏まえ、他方で精神保健福祉士でもある中村ひきこもり研究、そして自らのひきこもり経験を踏まえた社会学想像力の産物であり、非常にわかりやすいものです。パースアブダクション研究との関連など、専門的にも味わい深いものになっています。これは出版社サイトにいずれ公開されるのでTwitterリンクを貼ることにしたいと思っています。

 私はノートを公開することにしました。訳はノートに比べれば数段すっきりしていますので、気が向いたらお手にとって下さい。


 書き出しの一文。旧訳。「こんにち、人びとはしばしば自分たちの私的な生活には、一連の罠が仕掛けられていると感じている」(旧訳 p.3)。原文を見てみる。

Nowadays men often feel that their private lives are a series of traps.(SI p.3)

「こんにち、」は、「なんとなく、クリスタル」なみに上手いよなと思った記憶が蘇る。「いまどき」とやってみたい気持ちはグッと抑える。紋切り型のことばを使うとろくなことにならない。

 次に、man が複数型になっているのが気になってくる。ハイデガーのダスマン意識してないのかなトカ、女子大が誇らしげにwoman複数形でないことを強調していることなどが思い出される。

 続く名詞節、直訳すると「プライベートな生活は、一組の罠である」になるはずだ。プライベートな生活は、罠、からくりだまし絵であるという訳が思い浮かぶ。だまされないためには想像力って、どう考えても違うよな、と思う。

 少し文脈を確認と思って、読み進めると、‘milieu(x)’という用語が出てくる。共訳者中村が、最近ミリューと訳すことが多いと教えてくれる。検索して樋口直人他「東京社会的ミリューと政治」を見る。80年代以降の内外の研究動向が詳細にレビューされている。政治的オルタナティブの論定の基礎として用いられていることがわかる。学説史研究、文化社会学研究という観点からは、田中紀行「現代ドイツにおける〈文化と社会構造〉研究 ―― ライフスタイル研究を中心に」が重要であることも知る。この概念の源流として、テーヌ、コント、デュルケムなどの系譜があるからである

http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/soc/soc20-5.pdf

 じゃあなんてミルズがこのことばを用いたのだろうか。特にリファランスはない。いきなり使っている。ミルズの言う「古典的社会科学」において、一つの系譜を持つことばである。しかし、社会運動オルタナティブ論定の文脈に関連づけてしまうのは少しおかしいような気もする。

一番気になるのはテーヌであるミルズは、社会科学者としてのテーヌに言及している。ググるコトバンクにブリタニカ国際百科事典からの引用が載っている。「「中間」「環境」を意味するフランス語芸術現象を地理的・空間的方向において外部から規定する環境的因子をさす。ミリュー説の主唱者イポリット・テーヌの実証主義的,決定論的見解によれば,ミリューは「人種」 race,「時代」 momentとともに,芸術をも含めたもろもろの文化的事象を決定する基本的精神状態をつくりだす源泉の一つである。」興味は尽きない。テキサス大学ミルズの資料庫に行く人がいたら、いずれノートなども発掘して論ずることになるだろう。

 ミルズの場合、オルタナティブというような着想はなかったのかもしれない。しかし、知識社会学的な視点から、milieuに注目し、罠であり、可能性の根拠でもあると考えたのではないか、と思われるのである。このへんはいずれまた考えてみたいとは思うのであるが。古典的社会科学伝統は、文学とも交錯しながら、歴史的な構造を持ち、心理学的な根を持つ人間社会重要な側面に着目していた。さまざまな政治的オルタナティブを根源的に批判する社会学想像力キーワードとしてこのことばはあるのだろうと思った。ミルズの知は、両義的なものを知識社会学的に類型化する知ではないか、というのが翻訳において基本となった仮説である

そんなこともあり、ミリューと訳すことは回避した方がよいのではないか、と提案した。編集者が提案した訳語は「生活圏」である。おそらくは学生時代からあたためていた訳語だと思う。いろいろな意味ドンズバではないかということで、これで落ち着くことになった。


 『社会学想像力』は、最初の一文読んだだけで、ダメチェッカーを発動する読み手もけっこう多いと思う。罠に落ちないための想像力ってなんだよ、みたいに.もちろんいろいろな時代的な制約はあるし、ミルズ自身のクセのある書き方、アバウトなところ、見栄や気合い、あととんでもなく如才ないところなども手伝って、「使えない」ということになるのだろう。しかし、「使えるものを読み取る」ことばかりが学説研究でもないと、石田忠先生はおっしゃっていた。

 はじめて読んだ1970年代は、「虚偽意識と想像力」、「疎外された人間」などということばを想起して、ダメの烙印を押すようなことはなかった。むしろサルトル竹内芳郎想像力論などと照らしあわせ、ハンガリー動乱プラハの春、あるいは人間的な主体の問題を<人間>と<>で括るヒバクシャ研究水俣の運動などの議論が研究会ゼミでとりあげられたりした。


 どうもコミュニケーションや注意力に難があると申しますか、マイワールドのなかを話があっちいったり、こっちいったりするので、論理的思考に向いていないので、ブログ適当に書き散らすか、と思っている次第です。ノートなんか下手に書くと売れなくなると思いますが、一応この機会に書いておきたいことはいろいろありますのでご海容下さい。

ぐちゃぐちゃ訳注つけたかったんすよ。意訳もしたかったし。でも、編集者のT氏と中村に羽交い締めにされて止められたの。

曰く。なぜ訳すか、そこに原文があるから。(訳文を本文無視して)崩したい、でも原文にそう書いてあるんだから。そういうのは、解説でやることでしょう。等々、経験値の高い二人にゆわれると逆らえないッスよ、それは。折れ英語できないしね。でまあ、言い足りなかったことなんかをこの際ぶちまけてみようかと言うことで、はじめてみることにしたわけす。

[]社会学想像力ノート2 grand theory

 パーソンズの『社会システム』についての章に、「グランド・セオリー」というタイトルがついている。これをどう訳すかはずいぶん悩んだ。旧約の鈴木広先生は、「誇大理論」という訳語を用いている。書物のなかには、パーソンズ理論を「裸の王様だ」に喩えたりしているところもある。1995年に新訂版が出たときも、初版の訳語にクレームがついたエピソードなども紹介しながら、訳語をかえなかった。理由は、ミルズの言いたかったニュアンスを最もよく伝える訳だからということだった。

 Milieu もそうだが、ミルズはいろいろなものの両面に注目した人だと思う。端的に言えば、オルタナティブの根拠づけという面と、その盲点、ミルズのことばを用いれば罠という側面である社会学想像力では、概念体系、計量調査、制御と予測、実用性、スペシフィックに考えること、合理性自由などさまざまなものがとりあげられているが、その隘路を批判すると同時に、その可能性を開示させようとしている。となると、誇大理論という訳語で表されるのは、システム論の一面ではないかと思うのである概念的な一般理論体系というものも、積極的に評価されるべき一面が他方であるということになる。

 いろいろ議論を重ねて、誇大理論という訳ではなく、グランド・セオリーカタカナ書きすることにした。ミルズのニュアンスをこの方がよくあらわせると思ったからであるミルズが批判したとされるシステム理論や計量的調査は、今日さまざまな社会問題の考察に用いられている。


 旧訳が訳された当時は、記号化、計量化するような「精密科学」、その根底にある確率論的なアプローチが、イデオロギー的に批判された時代で、ミルズの批判はそのような文脈で読まれ、評価されたことは間違いないように思う。私は環境問題研究会にいて、他方でこうしたイデオロギー批判をゼミで学んだ。そのなかで、ゼミ先生にぶつけた疑問をきっかけに大学院の入院主題を決めた。このことは、中村との共著でも触れている。

 1961年秋に睡眠薬として用いられていたサリドマイド妊婦が用いた場合の副作用に対して、ドイツ(当時西ドイツ)の小児科医レンツが警告をする。イギリススウェーデンドイツなどの諸国では、製造の中止と製品回収が即座に行われた。1962年5月に『朝日新聞』が、サリドマイドの薬害について報道を行い、事件は大きな注目を集めた。論壇などでも論争が展開されることになる。しかし、日本では行政的な対応も、企業の自主回収も行われなかった。結果として、軽度の場合は指の一部、重度の場合は四肢全部に欠損がみられる子供が誕生することになる。被害者は1000人弱と言われる。国と厚生省、取り扱い製薬会社責任を追及する損害賠償訴訟が起きた(1974年製薬会社と原告が和解)。いわゆるサリドマイド事件である

 裁判において有力な証拠として用いられたのが、いわゆる疫学的方法で、推測統計学を用いて、サリドマイドの使用と四肢欠損の発生の関わりを調べ、両者の間に統計的意味のある関係があるかどうかを調べた。製薬会社は、推測統計学の方法をマルクス主義の立場から厳しく批判を行っていた哲学者に面談を申し込む。サリドマイドと四肢欠損との「因果関係」を統計的に推測することが学問的に問題があるということについて、学識経験者からの意見を求めるという製薬会社の意図に、哲学者は気づいた。そして、哲学者は、一つの論考を発表した(岩崎1973)。大企業が、「敵」であるはずのマルクス主義哲学者意見を求める。マルクス主義哲学者が、批判対象であった推測統計学的方法――この場合は被害者の立場にたった立論をしている方法――の妥当性について論じる。こうした状況で哲学者の論じている内容は、科学の立場性、社会問題をめぐるクレイ申し立てといった問題とも関わる興味深い内容を含んでいる。

 そのなかでも一番興味深いのは、哲学者の議論において――確率論などの妥当性の吟味とならんで――「精密科学化」に大きなポイントがおかれていることである。統計や数学を精密化のために利用することはよいとしても、精密化が自己目的化し、あらゆる探求が「精密化のゲーム」に解消されてしまうことを批判している。精密化が一人歩きすると、扱う問題が矮小化されてしまったりする。哲学者は、そういった論点について再確認している。・・・(中略)・・・

 しかし、ミルズもサリドマイド問題における推計学的論証を批判したりはしないだろうと思われる。ミルズは、方法それ自体を否定しているわけではない。ミルズが批判しているのは、「方法の一人歩き」であり、探究が数量的な方法に解消されてしまうことである探究概念操作に解消するものとしてグランド・セオリーが批判されたのと同様に、数量的な方法へと探究する議論をミルズは批判した。そうした議論の背後に、アメリカ民主主義体制を「最終決着」とする論理ミルズは読解していた。システム論も社会調査も、「同じ盾の両面」として、最終決着の論理――端的に言えば社会の工学的制御――をになうものとミルズは考えていた。

伊奈正人中村好孝『社会学想像力のために』世界思想社 第3章冒頭)

 実はこのエピソードを入院試験前の夏合宿の報告で紹介し、問題提起を行った。先生は即座に、「私は民衆の立場に立たない証言は行わない」と繰り返された。この意味を考えるために社会学に転向すると入院の面接で私は宣言した。正直自分でもよくわからなかったのであるが。

[]社会学想像力ノート3 translation

 パーソンズについては、「どんな心ない批判を受けても、なぜそれを言われたかを常に考え抜いた人だ」と、しゅ〜矢澤が授業で紹介したのが印象に残っている。ミルズの『パワー・エリート』だけははげしく批判したパーソンズだが、ミルズの批判を受け止めて、さらに論を展開しているようにも思われる。社会進化論、『政治社会構造』、とりわけシンボリックメディア論、そして日本で行われたパーソンズ・シンポでも行われた人間条件パラダイム等々。

 そうしたパーソンズに対して、ミルズは随分な批判をしているのもまた確かであるパーソンズの著作のわかりやすさ(intelligible)を問題にして、それを「普通の英語」に翻訳するという方法をとっている。ミルズはふざけたところもある人で、テキサス出身のアーバン・カウボーイを自負して、真っ黒なつなぎを着て巨大バイクニューヨークの街をぶっとばして写真を撮らせたり、ホワイトカラーの表紙ではホワイトカラーを自ら演じたりしている。翻訳というやり方も、同じように調子に乗りすぎた結果かもしれない。

 さて、翻訳だが、まず長々と引用して、呆れて読むのをやめないでください、などとかますところからはじめる。555ページの『社会システム』1冊もこんなに短くできると言っている。随分ふざけた言い方だし、酷い話である

 しかし、自分の本も一文で要約できると言って行っている。またパーソンズの本は検討に値するとも言っている。なぜなのか?大衆社会論争、中間階級論争、権力論争、さらにはもしかすると現代資本主義論争の核心部分につながっている論点にパーソンズが向かい合っていて、そこに一つの結論づけを行っていることを示すためではないか。そしてそれを批判して、論争の争点を際立たせるためではないか。

 読んでみると、いささかアレな部分もあるミルズの著作なのだが、そうした社会の根幹と関わる論争にコミットした議論であるがゆえに、今日もなおいろいろな検討が行われているのかもしれない、ということは、少なくとも仮定してみる価値はあるように思う。「なぜグールドナーではなくミルズなのか」というタイトル論文があって、私なども、まぢかよ、と思ったりもしたのだが、最近は理解できる面もあると考えている。


 翻訳論については、ベンヤミン翻訳論との関連なども気になるが、さすがに牽強付会かも知れない。この問題については、成城大学紀要の矢澤修次郎教授退任記念号に「公共社会学の現代的条件 : プラグマティズムと「公衆との対話」 」という論文を書いている。東北大学で行われたシンポジウムにおける矢澤先生の批判に応えたものだが、翻訳論の論点は、いまだに気になっている。

 純粋社会学などというといくらなんでも大仰であるが、ミルズの批判は、社会科学の原基的な問題を見すえ、現代社会論を根源的に問い直すためのものではなかったか。そして、翻訳はそのための方法ではなかったか。ミルズの翻訳は、痛快無比ということもあるかもしれないが、ひとつひとつを丁寧に整理しながら読んでゆき、現代社会の論争と照らしあわせてみるとじつに味わい深いようにも思われる。少し長くなるが、最後に引用しておく。論文へのリンク引用末尾にある。

柄谷行人は、二葉亭四迷を中心に翻訳論を展開した折、ルター聖書翻訳に触れ、ジャコビーが言った人々に届くということとは正反対の面に触れている(柄谷行人2005)。それは、ラテン語聖書によって、近代ドイツ語が体系的に整備されたという側面である。柄谷は次のように言っている。


ルターが『聖書』をドイツ語俗語翻訳したこと、そして、それが標準的ドイツ語になったことはよく知られている。フィヒテは、ドイツ語ギリシャ語のみが比肩しうる唯一の原言語であり、その他の不純な言語と異なると言った。彼はドイツ語翻訳によって形成されていることを忘れて、そのオリジナリティを主張しているのだ。ドイツ語だけではない。近代なナショナル言語はすべて翻訳を通して形成されているのである。しかし、大切なのは、何故ルター翻訳ドイツ語形成してしまうほどの強い影響力をもったのかということであるベンヤミンは、ルターの『聖書』がもった影響力を、やはり、それが逐語的な翻訳であったことに見出している。」(柄谷2005、p.14-15)


わかりやすい、こなれた訳をする意訳は、意味に囚われた翻訳である。これに対して、逐語的翻訳とは、翻訳元において意味に囚われている「純粋言語」を、翻訳先のことばにおいて救済する作業である。そう柄谷は言う。(柄谷2005 p.13)ルター翻訳は、テキストへの揺るぎない信仰に基づいたものであり、神聖なもの、純粋なものを救出する営為であった。翻訳とは神的な不変に向けた探求である。柄谷はベンヤミン翻訳論を引用している。


「純粋言語とは、みずからもはや何も志向せず、何も表現することもなく、表現をもたない創造的な語として、あらゆる言語のもとに志向されるものなのだが、この純粋言語においてついに、あらゆる伝達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらがことごとく消滅すべく定められたひとつの層に到達する。そして、まさにこの層から、翻訳自由ひとつの新たな高次の正当性をもつものであることが確認される。この自由は、あの伝達される意味――この意味から解放することがほかならぬ忠実さの使命なのだが――によって存続するのではない。翻訳自由はむしろ、純粋言語のために、翻訳言語を拠り所としてみずからの真実性を証明する。異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること、作品のなかに囚われているものを改作のなかで解放することが、翻訳者の使命にほかならない。この使命のために翻訳者は自身の言語の朽ちた柵を打ち破る。そのようにして、ルター、フォス、ヘルダーリンゲオルゲドイツ語限界を拡大したのだった。」(ベンヤミン1996、p.407-408)


 ここに描き出されている翻訳は、普遍的な純粋性、神聖性に向かうことであり、翻訳者はそれを実践する歴史的な主体である。公衆を、そうした翻訳者としてとらえ返すこともできるであろう。対話する相手が、社会的な弱者、マイノリティ、あるいは「向こう岸」(良知力)の人々である場合も同様であろう。そうした対話においては、当たり前を疑い、異化することは、純粋型を探求する双方向的な共同作業としてとらえられることになる。そしてこう考えることで、大衆文化におけるアウラに注目すること、わかりやすく語ることなどが、普遍的歴史的主体の往還的、媒介的探求として明確にとらえ直される。

 ミルズが提起した動機の語彙論は、ことばの原基的構造を問うものだった。これを、ことばの純粋型などと読み替えれば、翻訳言語の純粋型という論脈に接続することも可能となる。また、ミルズにおける公衆論の展開、世界戦争論などを、動機の語彙論に照らして、歴史の主体論として読み替えてゆくこともまた可能となる。こうした解釈を採るならば、アメリカ社会学のなかで例外的ヨーロッパ的な視点に立った社会学者晩年マルクス主義への接近といった旧来の解釈を検討しなくてはならないかもしれない。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009889140

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[]社会学想像力ノート4 trap

 書き出しの一文、まだどう訳したのかという問題が残っていました。1日何冊ではなく、1行に何日かけられるかが勝負だ、というような先輩たちにしばかれながら勉強したもので、この一文に一ヶ月くらいかけたわけで、話があちこち飛ぶこともありますが、それだけではありません。


もう一度引用しておくと、原文は次の一文である

Nowadays men often feel that their private lives are a series of traps.(SI p.3)

個人的な生活が一組の罠なのであって、そこに罠が仕掛けられているわけではない。個人的な生活=生活圏・ミリューとイコールでむすべるかはわからない。ともかく、個人の生活圏は、罠である。生活圏の含意からすれば、可能性でもある。そうならないかと考えた。

で、一組であるとか、ひと連なりであるとか、一つのからくり仕掛けであるとか、そういう訳し方にずっとこだわっていた。編集者は、それを最初の最初から、「罠の連なり」と添削した。確かにリズムのイイことばだと思った。しかし、a series of がどうしても気になる。で、何度もチャレンジしたのだが、OKが出ない。

結局、こう訳すことになった。

こんにち、自分の私的生活は罠の連なりなのではないかという感覚に、人はしばしば囚

われる。

 ゲラを見ながら思い浮かべたのは、むかし皮肉交じりに言われたことばである。「要するに、ミルプラトーを俗流にインチキに理解したつもりになっただけぢゃね?」まあたしかに、そんなものちゃんと読んではいないに決まっている。しかし、そういうものが出てきた時代というものは、ちょこっとだけカスっているかもしれない。少なくとも『構造と力』の最初の章だけは、ちゃんと読んだと思う。千のプラトー、千の罠というイメージが浮かび、上記の訳をすることになった。