2012-02-29
2012-02-14
書評 (大出俊幸氏)
史跡探訪のバイブル
おもしろい。とっても面白い。
読んでいてスイスイと頭に入ってくる。というより、幕末史跡探訪の旅を、ローカル線に乗って、最終バスに乗って、北の果て、駅前のビジネスホテルに泊って、いっしょに歩いている気になる。
車窓から、さわやかな風が急ぎ去りゆき、村はずれの寺でいただいた戊辰役の小冊子をめくっている気になる。
旅先で手に入れた資料を、列車に揺られながら眺めるのは、たまらなくいいものだ。
と、著者の仲井正和氏は書いている。至福の時だ。
敗(ま)けた旧幕府側の記念碑、供養碑を草の根わけて探し出し、田舎の道でおばあさんに戦死者の墓を教えてもらい、車にのせてもらい、山奥の逃走したルートをたどる。小栗忠順は罪なくして斬られたが、身重の夫人を権田村の村人たちが山の中、道なき道をかき抱いて越後路‐会津と逃げていくルートも、実況中継のように描かれ、感動する。昼食の握り飯をつくってもらい、戦跡を探して歩く、ローカル線、ローカルバスの発車時刻は一日二本しかない。平成○○年○月○日と記された日本列島の幕末史跡めぐりは、いや、史跡さがしの哀愁ただようエッセイは仲井正和氏の青春のバイブルであり、金字塔といえよう。
大出俊幸
(元・新人物往来社々長)
2012-01-27
芳年、その魅力と思考
幕末の浮世絵師、月岡芳年は「残酷絵師」とも呼ばれる。生首の血を飲む人の姿など、尋常ではない作品が多い。版元の意向もあるのだろうが、好きでないと描けないのも事実だろう。
なぜそれほど血の表現にこだわったのか。有名なのが『魁題百撰相』のシリーズである。印刷物では見たことがあるが、やはり本物を見たい。最近は企画展などをやっていないようなので、その大部分を収蔵している町田市立国際版画美術館に問い合わせた。すると特別閲覧制度があるという。学芸員に相談すると、閲覧の二週間前までに見たい作品十点を選んで予約して欲しいとのことである。約二万点ある収蔵倉庫から学芸員本人が引っ張り出してくるそうで、日を改めて連絡を入れた。
浮世絵が好きな知人がいる。月岡芳年のことを話したら作品に興味があるとのこと。その世界の師弟関係にも詳しく、そのあたり私はさっぱりであるから「一緒に見よう」と誘った。すると「三島由紀夫が割腹自殺する前日に、月岡芳年の画集を見ていたそうです」と、そんな情報も持っていた。
二人で美術館へ出向く。まず見せてもらったのが、負傷した者を介抱しているものである。人物略伝のようなものが書かれているが、そのほとんどが『太閤記』の登場人物であるとのこと。
学芸員は作品一つひとつを丁寧に解説してくれる。やはりポイントは芳年の絵師としての技量と木版画の技法である。
芳年は彰義隊の戦争後、上野山に出かけて死体をスケッチしたと言われている。その成果であろうか、生首の血を飲んでいる「佐久間大学」の腕に流れ落ちる血の筋がリアルである。血は固まると色が変わるが、それをよく表現しているのが、槍を持って顔から血を流している「辻弥兵衛」である。 「死んだ人は耳まで青くなるのでしょうか」と学芸員が「小幡助六郎」の作品を見て言う。描かれた人物の顔が青くなっているが、唇も青く描かれている。切腹して果てる場面である。
「小寺相模」は坊主頭である。刀で生首を刺して持ち上げている。生首の口に突き刺しているので顔が下に向いているのだが、「球体の表現がよくできている」とのこと。浮世絵師の力量は「髪の生え際」とのこと。坊主頭の小寺相模は顎鬚がある。知人は「この髭が良いですね」と発言した。
血なまぐさい作品が続いたので、他にもいくつか…
「比田帯刀」は赤熊を被った、洋装の隊長姿だ。当時の情勢で名前などが置き換えられているのは『仮名手本忠臣蔵』のようでもあるが、この絵はどう見ても「隊長」だ。それよりも浮世絵によく見られる顔ではなく、ごく普通の顔の描き方である。他の作品もそうだが、弟子や近所の人などをモデルにしているのではないかとのこと。
芳年は後年に精神的な病になり、後年の作品にもその影響が現れているとのこと。学芸員いわく、いちばん力強さが出ているのは「駒木根八兵衛」ではないかと。正面に鉄砲を向けて、力強いまなざしでこちらを見据えている絵である。黒目のハイライトもポイントだが、着ている白い服を見ると、凹凸で布地の表現がされている。剣術の稽古着に見える。
他にも、普及品になると背景のグラデーションが省略されるとか、黒い夜空の背景に輝くものは雲母(砂金と間違えられる)であるとか、教わらないと分からない部分まで解説していただいた。木版画の世界に引きずり込まれそうだ。
学芸員は、「芳年の作品の様々な部分を見ることができ、いい作品選びをしましたね」と言ってくださった。ということは、芳年の思考が私のどこかにあるのだろうか。
平成十七年十一月五日(土)
2012-01-19
競馬
競馬にはいい印象がなかった。「なかった」というのだから、いまは好転している。
好感を持てなかったのは父の影響が少なからずあると思われる。タバコの煙がたちこめる場外馬券売場、日曜日の午後のテレビは決まって競馬だ。テレビが一台しかなかったし、父は絶対権力だから仕方のないことだ。
学生時代にアルバイト仲間で競馬場に行こうということになった。学生は馬券を買えない。競馬場では有名な馬の引退式が行われた。もっとも興味がなかったから馬の名前も覚えていないのだが、意外だったのは家族連れや女性客もいることだった。ギャンブルではなく、馬が好きという理由で見に来る人も多いのだろう。
社会人になってから、神奈川県内を営業として車を運転することになった。営業車にカーナビは無いので、地図を見ることになる。横浜の本牧に得意先があり、帰りに車を止めて道順のおさらいをしていた。ちょっと不思議に思ったのは、根岸台というところにある楕円状の緑地、「根岸森林公園」だ。なぜこんな形の公園なのか。
調べてみれば、そこは競馬場の跡地であった。しかもそこで幕末に競馬が行われていた。博物館もあるようなので行ってみることにした。
根岸線の根岸で下車し、駅前より横浜市営バスに乗る。坂道を登ったところの「旭台」で降りた。
広園内を歩いてみる。芝生広場では若い女性グループがドッヂボールをしていたり、家族連れが多い。一周できるのでマラソンをしている人もいるし、何よりも周囲が森林で囲まれているので、建物などの人工物が見えない。こんな世界が広がっているとは思わなかった。
「馬の博物館」に入ってみる。ここを見るだけなら「滝の上」で下車するとよい。
そもそも洋式競馬の始まりは、横浜に居留していた外国人達が埋立地の広場を利用して楽しんでいたらしく、「いつ」というのは確定していないようだ。万延元年(一八六〇)九月に現在の元町で行われた記録があるという。その後も開催されたが、生麦事件や居留地の市街地化の影響で、山手の練兵場や射撃場で行われるようになった。
根岸競馬場は慶応二年(一八六六)に造られ、翌年一月十一日に初レースが開催された。ジャパン・ヘラルド紙で「観客数も非常に多く、天候にも恵まれ、レースも素晴らしかった」と競馬開催の様子が伝えられた。第八レースまで行われ、その優勝馬が列記されている。第三レースの一着は「サムライ」。競馬場は昭和十七年まで使用された。米軍に接収された後、横浜市が公園として整備した。 当時はサラブレッドではなく、日本在来馬や中国の馬が主流だったようだ。日本在来馬の代表格が「南部馬」であるが、昭和初期に絶滅したという。その南部馬のはく製が展示されている。明治四年から十二年まで活躍した「タイフーン号」である。幕末をこんな馬が駆けていたんだと感慨にふける。
それよりもテレビで競馬に興ずるお父さん。子供の理解を得るためにも、ぜひ一度訪れてほしい。子供向けのコーナーもある。ポニーに乗せてあげれば今度の日曜日は「お父さん。お馬さんを見に行こうよ」と、せがまれるかもしれない。
《訪問》平成十七年七月九日(土)
2012-01-13
「長州・大江戸スタンプラリー」
「長州・大江戸スタンプラリー」に参加することにした。長州藩ゆかりの史跡をスタンプラリーで楽しもうというもので、スタートは長州藩上屋敷跡である日比谷公園、ゴールは松陰神社(吉田松陰墓所・世田谷)である。他のポイントは護国寺(山県有朋・山田顕義墓所)・椿山荘(旧山県有朋邸)・乃木神社(乃木希典旧宅)・六本木ヒルズ毛利庭園(長府藩邸跡)・靖国神社(大村益次郎銅像)がある。
またこの日は松陰神社で「幕末維新祭り」が開催される。せっかくなので奇兵隊パレードも見たい。学生時代に初回を見ているが、今年が十四回目となると、約十年ほど行っていないことになる。
全てのスタンプを集める義務はないのだが、今回のスタンプは全て集めなければ意味がないと思っている。駅に置いてあるスタンプはいつでもいいが、この種のものは「当日」しか収集できない。押し忘れることはなさそうだが、やり直しがきかない。
それよりもまだ行っていない史跡がある。結婚式や会合などで利用される椿山荘はしばらく縁が無さそうだし、六本木ヒルズに庭園があるとは思っていなかった。
午前九時がスタートであるが、松陰神社に午後三時まで到着せねばならない。史跡はじっくり見学したい。果たして六時間で足りるのか。またいくつかのポイントで萩博物館学芸員である一坂太郎氏の解説がある。著書を何冊か持っているので、いちど解説を聴いてみたいと思った。
当日の午前八時半頃、日比谷公園に着く。指定された集合場所へ向かうとすでに受付を始めており、名前を申し出ると史跡を紹介したガイドブックを渡される。アンケートも。ガイドブックの表紙は日比谷公園で撮影したと思われる奇兵隊に扮した数人。ガイドブックはスタンプ帳も兼ねている。
九時になり、楽しみにしていた一坂太郎氏による解説が始まる。
「長州藩」とは。現在の山口県がそのまま当てはまり、国境は変わっていない。毛利家はもともと広島にいたのだが、関ケ原の合戦で西軍側の大将となって敗北。減封のうえ、現在地へ移る。瀬戸内海に城を持ちたかったが、家康は認めなかった。以後、「いつか幕府をひっくり返してやる」という思いが募ることになる。
正月に家老と殿様で奇妙な挨拶が行われていたという。
家老・「今年、致しましょうか」(幕府を討つこと)
殿様・「まだ、早かろう」
また「西枕」で寝る家が多かった。自然、家康の方に足が向く。
一坂学芸員いわく、「今だにそうしている家もあるそうで…」
参加者一同から笑いが起きる。
一坂学芸員の解説を全て聴いていると全てを回ることは難しいようで、解説を聴くのはここだけにして、スタートとする。多くの人は有楽町線で桜田門から護国寺を目指すようだ。
霞ヶ関より日比谷線で六本木を目指す。
六本木ヒルズの毛利庭園に着く。「ヒルズ族」などが流行語になりそうではあるが、あまり関心はない。それよりも庭園の池に芸術作品がある。作品の評価はともかく、庭園に相応しいものなのか。 歩いて乃木神社へ向かう。結婚式があるようで、新郎新婦の姿が見える。家族連れのお母さんが、「お嫁さん、きれいね」と子供に言っている。男は女性に引立て役である。ここで絵馬と子供向けの絵本を買う。絵本は自分で読むためである。
乃木坂より千代田線、大手町で半蔵門線に乗り換えて九段下へ向かう。大村益次郎の銅像がある靖国神社だ。
神社の境内では骨董市が開かれている。欲しいものはないのだが、思わず足を止めてしまう。商家で使用されていた大きな算盤をいじってみる。売り物だからすぐ元へ戻す。
銅像脇でスタンプを押してもらい、改めて銅像を見上げる。頭と肩にハトがとまっている。大村益次郎にずいぶんなついている。せっかくなので拝殿で参拝した。小泉首相が数日前に小銭を賽銭箱に入れる形で参拝して話題になったが、私も同じ形式だったりする。
市ヶ谷から有楽町線で江戸川橋へ向かう。そこから椿山荘と護国寺へ行くことにしている。
地下鉄車内で参加者を見かける。同じガイドブックを手にしているからすぐ分かる。相手のスタンプシートを見てしまう。私の方が数が多かったりすると優越感があったりする。私のように一人で気ままに、あるいは数人のグループで、それぞれ楽しんでいるようである。主に地下鉄利用であるが、都内の道路は日曜日で空いている。車やバイクを駆使している参加者もいるだろう。
江戸川橋で下車して椿山荘へ向かう。川ぞいの遊歩道を歩いていく。
椿山荘の庭園は無料で散策できるようになっている。台地の斜面を生かしているため、趣あるつくりになっている。こうして都会に広大なオアシスがあるのも山県有朋のおかげだと思うが、藤田観光の企業努力であろう。それにしても明治の官僚は贅沢である。
護国寺へ向かう。有楽町線に同名の駅名があるが、ここから歩いてもそう遠くはなさそうである。 こうしてみると、散策を楽しめるスタンプラリーもいいと思う。「地下鉄」のスタンプラリーであったら、地上に出ることはほとんどない。地下鉄のスタンプは中学生の頃に集めたことがある。夜遅くなってしまい、叱られた記憶がある。
正午過ぎに護国寺に到着。あとはゴールを目指すのみとなった。係員がスタンプを見て、「おお、これはすごい」と言う。六本木ヒルズのビルに入ったりはしないが、史跡はしっかり見ている。
本堂裏の墓地に山県有朋の墓、こちらは門が閉ざされており、外で手を合わせる。山田顕義の墓にも手を合わせる。
永田町で半蔵門線に乗り換えて、東急線三軒茶屋へ。さらに世田谷線に乗る。
松陰神社前で下車。商店街を抜ければゴールの松陰神社である。
商店街は「幕末維新祭り」で盛り上がっている。お御輿や露店など、第一回に比べてずいぶん賑やかになった感じだ。参道は人々で溢れ、なかなか先へ進めない。
最後のスタンプを押してもらう。それを見た人が、
「あら、いいわねえ。私も来年やろうかしら」
吉田松陰の墓に手を合わせたあと、記念品を受け取る。参加賞が萩焼とは。主催者も奮発したものである。さらに抽選があって、これは外れたが「フク茶漬」であった。
それよりも地下鉄駅にあったポスターが欲しくなり、頼んでみた。余っているのがないか探してくれるとのこと。アンケートを回収していた青年が、
「これ、僕です」
ポスターの写真にいる奇兵隊の一人で、「長州・大江戸スタンプラリー」の旗を持っている人物だった。こういう何気ない明るい青年が奇兵隊士だったりするわけだ。
ブラスバンドに先導される形で奇兵隊の行列がやってきた。ブラスバンドが目立ち、また奇兵隊の服装は黒いために、メインの行列が目立たない。また行列の先頭に吉田松陰とその門弟である高杉晋作と久坂玄瑞がいる。松陰先生は本を読んで歩いている。
奇兵隊はいくつかの小隊に分かれているが、みな黙々と行進しているなかで、ある一団が、「宮さん宮さん」を歌い始めた。私は思わず拍手を送ってしまった。
平成一七年十月二十三日(日)


