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数馬の『幕末への旅路』 -遥かなる幕末へ-

2011-10-31

吉田松陰東北紀行

 歴史書などに掲載されている吉田松陰の肖像を見ると、細身で、かなり年をとっている印象を受ける。柔和な感じがするが、彼が実際にとった行動は他人に真似できないようなことばかりであった。 その一つに「東北紀行」を挙げることができる。九州旅行のときに知り合った宮部鼎蔵と一緒に東北地方の海防の状況を見ようというものであった。
 松陰は「亡命」という形をとらざるを得なかった。
 江戸藩邸から旅行の許可が下り、あとは藩主の許可を待つばかりとなった。萩にいる兄に資金を頼んだりしていたが、安藝五蔵も加わることになった。本名は江幡五郎で、兄の仇討ち盛岡へ戻るという。出発の日を赤穂浪士討入の日、一二月一四日(嘉永四年・一八五一)とした。
 しかし問題が起きた。出発間際になっても通行手形が出なかった。松陰は親友と交わした約束が何よりも大切だと考え、江戸藩邸を後にした。水戸で宮部らと合流し、江幡五郎とは白河で別れた。

 東北の見聞録である『東北遊日記』を読んでいると文章は簡潔ながらも細かい観察をしていることが分かる。地名が豊富に記されており、どこを通ったかがすぐ分かる。水戸会津佐渡日本海を北上して津軽半島で引き返し、仙台経由で江戸へ戻っている。その紀行をたどろうと思うのだが、全部にお付き合いするのは無理であり、どこをたどってみようかと私なりに思案した。その思案は半年以上にも及んだが、ついに実行することとなった。

 寝台特急あけぼの」に乗るべく上野へ向かう。
 旅程であるが、結局は日本海ぞいに北上して弘前で泊り、小泊を経て竜飛岬にある吉田松陰の碑まで行くことにした。『東北遊日記』を参照しながら、私なりにも観察を加えたい。
 21時41分が発車時刻であるが、かなり早く上野に到着したので、近くにある史跡を訪ねることにした。
 通勤客で溢れている不忍口を出て、営団地下鉄日比谷線に乗り、小伝馬町へ向かう。小伝馬町伝馬町牢屋敷のあったところで、吉田松陰は「安政の大獄」でそこで処刑された。三〇歳であった。
 上野より一〇分ほどで小伝馬町に着く。4番出口の階段を上って地上に出ると国道四号線「江戸通り」で、地下鉄出入口の道路に面したところに「江戸傳馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉之地」と刻まれた石碑がある。近くは小伝馬町の交差点で、トラックが無理に通過しようとしてけたたましいクラクションを鳴らしていた。
 出入口の裏手に寺院があり、寺院の門前に「十思公園」がある。このあたりが牢屋敷跡にあたり、暗闇の公園内に「・・終焉之地」という石碑があった。暗闇だから読み取れない。夜に訪ねるような場所ではなく、今度は昼間に来ようと思う。ホームレスだろうか、空缶を潰している。その音が暗闇の公園に響いて不気味であるが、そうしないと生活できない人もいるのである。

 上野へ戻り、「あけぼの」が発車する地平ホームの15番線へ向かう。電車がいないホームでは鳩のつがいが戯れている。電車を待つ通勤客の目など気にしていない。
 21時20分に列車が尾久方面より推進運転で入線してきた。行き止まりホームなので機関車の入れ替えができず、客車を押してくるのである。
 新幹線の延伸や夜行バス、他にもあろうが、ここ数年で夜行列車は激減し、「青森行」の夜行列車は「あけぼの」だけになってしまった。それでも利用客を獲得しようと、指定席特急料金で寝台を利用できる「ゴロンとシート」が登場した。寝台に備え付けてあるものを無くしただけであり、横になれるのは有り難い。私はこれを利用する。
 車内に入るとすぐに車掌がやってきたので切符を見せて、「酒田まで」と言っておく。酒田からは普通列車に乗ることにしている。せっかく青森まで行く列車で特急料金も同額なのだが、ゆっくりと風景を見ながら行きたい。私の特急券酒田の先、羽後本荘までとなっている。切符を購入するときに「酒田まで」と頼んだのだが、端末に入っておらず、羽後本荘から先しかないと言うので、後は放棄である。窓口の女性は「酒田で降りてしまうんですか」と不思議そうであった。車掌酒田と告げたのは、もし起こしに来たときに消えていては、心配するかもしれないからだ。
 「がくん」と衝撃があって、定刻に動き出した。車内放送が流れ、翌日の放送は秋田到着の二〇分前からと言っている。寝過さないようにしなければならない。私は早々とカーテンを引いて横になるが、向かいの中年男性は「酔っ払ったあ」と言いながら、寝ない様子である。

 何度か目を覚ましては眠ったが、「あつみ温泉」に停車したところでもう眠れなくなった。酒田5時08分着まで約一時間である。雨が窓をたたきつける。
 揺れる列車の洗面所で歯を磨き、顔を洗う。寝台に戻って景色を眺めるのだが、まだ暗闇で、街灯と車の尾灯ぐらいしか見えない。
 少し明るくなったのは鶴岡付近である。この時期にして稲は緑色で、ニュースで一〇年ぶりの不作だと報じていたのを実感する。余目を出ると車掌が起こしに来てくれた。酒田までと告げておいたのは正解であった。
 最上川を渡る。豪雨で外が見えなくなる。『舟にて川を濟る、闊さ六町餘。川を越ゆれば則ち酒田なり』

 酒田で下車し、5時50分の大館行を待つ。酒田江戸時代北前船の拠点として栄え、松陰は『川には大船を泊すべく、新潟以北にて最も繁盛の地なり』と記している。酒田の豪商といえば本間家であり、「本間家旧本邸」が公開されている。
 やってきた電車はロングシートの三両編成である。ドアは自分でボタンを押して開閉する方式なので、知らない旅行者はドアの前で立ち尽くすことになる。またドアを開けずにホームに停車していると、回送列車に思えてしまう。
 やがて発車し、放送で「途中、女鹿(めが)には停まりません」と言う。信号場から昇格した駅であり、朝の上り二本と午後の下り四本しか停まらない。
 『海を離れて行くに、峻嶺雪を含み卓然として前に當るものを鳥海山と爲す』
 今日はあいにくの天気で鳥海山は見えない。列車は内陸を走っていたが、吹浦に着くと釣道具屋が見えるので、海が近いことがわかる。松陰は『吹浦に宿す。海濱なり』と記している。
 『驛を出づれば關あり。女鹿に至る、又關あり。共に庄内侯の置く所なり。關を過ぎ山に登る、石路〓(「石」偏に「含」)砑、是れを武也武也關と爲す。乃ち鳥海山の脚を海濱に伸せるもの。關にて飛島を望めば甚だ近し』
 羽越本線で絶景なのはこの区間である。
 列車はトンネルを抜けると海岸へ出る。右手には山が迫っており「鳥海山の脚を…」と記したのは鋭い観察であると思う。女鹿は一瞬で通過した。海岸は断崖状をなしており、線路は海岸線より高いところに敷かれ、カーブが続く。曇っているので判然としないが、日本海に平べったい島影らしいものが見える。飛島であろう。飛島へは酒田から船が出ている。
 小砂川で女子学生が乗ってくる。まだ六時半前である。象潟で通学生が大勢乗ってきて満席となる。向かい側にはサラリーマンが三人座っている。象潟を出ると右手の水田に小島のようなものが点在しているのが見える。
 象潟はその名のとおり入江をなして、百近くの島が水面より顔を出していた。文化元年(一八〇四)の大地震で地面が二・四メートル隆起して、松島と並ぶ象潟の風景は一変してしまった。松陰は『象潟あり。寺はありしも、四十九年前、地震寺を毀ち、今は則ち平田漫々たり』と記している。地質学上でも貴重な場所である。
 羽後本荘で通学生が降りたが、今度は通勤客が乗ってくる。秋田への通勤圏なのだろう。雨は止み、青空が見える。羽後亀田を過ぎると海岸ぞいに走り、松林が続く。海も青く、白波が海岸に打ち寄せている。新屋で立客が多くなり、雄物川を渡る。『新屋を經、舟にて御裳川を濟る』

 秋田では六分の停車。高校生がまだ乗っている。秋田からは奥羽本線を走る。
 追分男鹿半島へ通じる男鹿線が分岐しており、男鹿線からやってきた秋田行のディーゼルカーは満員である。
 大久保は八郎潟干拓地から風をまともに受けるためか、フェンスが設けられている。広大な水田が広がっているが、畑もある。遠くに山が見えるが寒風山であろうか。雲に覆われていて上部は見えない。隣のじいさんが新聞を広げているので天気図を覗くと、ちょうど前線がこのあたりにかかっている。八郎潟で高校生も降りて車内は閑散となった。左手に広大な水田地帯が見られるのも過度までである。
 「八郎潟」はかつて琵琶湖に次いで大きい湖であったが、水深が浅くて肥沃であったため、昭和三二年から四四年にかけて干拓事業が行われた。その干拓地大潟村となり、大型機械によるモデル地区とされた。松陰が通った頃は湖であり、『大久保よりここ(過度)に至るまで、道、八郎潟の傍らを過ぐ。潟の廣さ四里、袤さ七里、鯉・たなご(原文は漢字)の諸魚多く産す』と記している。
 東能代より東へ進む。米代川が流れているのだが、少し離れており、車窓からは見えない。富根を過ぎて米代川を渡ったが、二ツ井を出るとトンネルに入ってしまう。ここは当時の羽州街道の難所であり、舟を利用していた。松陰が来たときには雪解け水で増水していたらしく、『舟野代川泝るも亦漲甚だしきを以て人を通さず。因って小路を取り』とあるように別の道を選んだようである。小綱木(小繋)に泊まり、『是の夜、加賀の船頭青森より歸る者と同宿す。云はく「西洋の舶、松前津軽の間を過ぎしもの、今年已に三四隻」と』と、外国船が津軽海峡を通過したことを聞いている。

 大館より10時05分の弘前行に乗り換える。その前に売店で駅弁の「鶏めし」を買って食べる。
 森林の中を走り、トンネルを抜けると白沢で、松陰は国境の役人である山内儀兵衛宅に泊まった。 陣場を出ると矢立トンネルで「ピイ」と警笛を鳴らして入る。鉄道や車なら難無く通過できる矢立峠は松陰が来た頃は『修路の政なし』で膝まで水につかりながら何度も川を渡ったことが日記に記されている。またこのとき雪の深さが二尺(約六〇センチ)あまりあり、それも難儀したようである。『而も道路の荒廢かくの如し。隣と交はる道果たして何如ぞや』と嘆いている。
 トンネルを抜けると青森県津軽湯の沢で下車する。この近くに碇ケ関関所が復元されており、それを見たいので降りた。降りたのは私だけである。「本線」なのだが下り列車は六本しかない。トイレで用を足していると長大なコンテナ列車が通過していった。

 駅から国道七号線に出ると「津軽藩碇ケ関関所」の標識があり、津軽街道(国道二八二号線)が合流する場所に復元された関所がある。実際には集落の南外れにあったようで、ここは番所が設けられていた。関所は天正一四年(一五八六)に津軽為信秋田比内の浅利氏を攻め、帰陣する際に設置したという。
 「碇ケ関御関所」と墨書きの看板がある門を入る。各建物には人形が配置されている。責任者がいる「上番所」では一人の旅人が座って手をついている。奥には番頭が控えている。吉田松陰と宮部鼎蔵もこのように手をついていたのであろうか。
 屋外には刺又や袖搦といった関所道具が立て掛けてあり、持ち上げてみたものの、屋根につかえるので止めた。売店で関所についての冊子を買ってバス停へ向かう。松陰の日記に『嶺を下り橋を渡りて關に入る。乃ち津軽の置く所、驛を碇關と曰ふ、温泉あり、浴す』とあり、温泉に入ってみたい。
 11時25分の弘南バスで碇ケ関の町へ向かい、五分ほどの「碇ケ関温泉会館」で降りる。古びた建物の一階に農協が入っており、係員に尋ねると、もうここで温泉はやっておらず、建物裏手の川を渡ったところに公衆浴場があるとのこと。そちらへ行く。
 平川を渡った所に「碇ケ関温泉会館」があり、入浴料金は村外二〇〇円、村内一〇〇円となっている。単純温泉で、効能は神経痛や筋肉痛など。平日だからか誰もおらず、浴槽を何度か出入りし、脱衣所にある扇風機の風にあたる。外はまた雨が降り出したようで、トラックの水しぶきを浴びながらバスを待つのも嫌だなと思う。
 12時29分の弘前バスターミナル行に乗る。列車を利用したかったが、本数が少なく、このままバスで弘前へ向かう。
 大鰐駅を過ぎると左前方に岩木山が見えてくるが、あいにく上半分は雲に覆われている。今日は朝から山には見放されている。石川地区を過ぎるとりんご畑が広がる。雲に覆われているものの、岩木山裾野の広がりは分かる。
 松陰は石川より近道をして弘前へ向かっているが、関所で購入した『碇ケ関御関所』(碇ケ関村商工観光課)によれば、当時は通行禁止であった石川村と堀越村の農道を通ったことが書かれている。
 13時20分頃、イトーヨーカドーがあるバスターミナルに着いた。雨は止んでいる。
 松陰弘前に着いた翌日に伊東廣之進を訪ね、津軽半島の海防の状況や藩校稽古館のことを教わった。松陰は次の日まで滞在し、山鹿素水の弟・荒谷貞次郎を訪ねている。弘前城を一周して旅支度をし、伊東のところへ戻り、伊東は二つの絶句で二人を送った。
 その伊東の旧宅の一部が「養生幼稚園」に残されており、そこは青森銀行弘前支店の近くにある。見学を事前に予約しておいた。
 養生幼稚園を訪れると「お待ちしておりました」と女性に迎えられる。庭には樹齢二五〇年といわれるアイグロマツがある。当然、松陰と宮部が訪れるのも見ていたであろう。
 「松陰室」に通され、パンフレットをいただく。松陰の肖像が掲げられている。これはなかなかいい青年に描かれており、私の松陰に対するイメージが変わった。山県有朋の書もあり、ここへ来て楽しく半日を遊んだことを記念して書いたのもという。山県は松陰の門下生である。
 「偉人棚」と称されている木箱や盃などが置かれた棚がある。中の物を出すことはできないようで、「私が撮りましたが」とアルバムを見せてくださった。東郷平八郎の書、乃木大将の囲碁西郷隆盛の手製烏賊釣道具など、他にもいろいろある。
 松陰室は伊東廣之進の子孫が移住したあと、隣家の伊東重が邸宅を購入し、幼稚園を創立するときに残したものである。玄関に続く部屋に伊東重の書が襖に張られているが、穴が空いていたり破れている。隣は幼稚園の部屋へ続いており、「いろいろありまして」と笑う。園児が「園長先生! 」と、呼んでいる。
 伊東重が提唱した「養生哲学」が活かされているとのことで、その養生とは「養財」「養躰」「養神」からなるものであり、それを示した書が床の間にある。あまり園長先生を引き止めているわけにもいかないので見学を終えようと思うが、アルバムにあった「吉田松陰の盃」というのが気になっていた。箱の中にしまってあるのだろうと思って尋ねると、偉人棚の中ほどに置いてある小さな盃を教えてくれた。

 弘前城へ行く。桜の名所として全国に知られている。弘前に近い黒石出身の職場のマネージャーが「春に行けばいいのに」と言ってくれたが、今回は申し訳ないが、どうでもいい。
 重厚な造りの「追手門」より入る。一帯は公園となっているが、平日ということもあって閑散としている。これぐらいが私にはちょうど良い。濠の水面はハスの葉で覆われている。
 天守閣史料館となっており、「山鹿流具足武功絵巻」があった。具足の着用から敵を倒すまでの一連が絵で解説されている。松陰は一一歳のときに山鹿素行の『武教全書』を誤りなく講じたという。九州遊学では平戸の山鹿万介、江戸で山鹿素水に学んでいる。宮部も山鹿流の軍学者である。
 三階から岩木山を眺めるが、晴れ間はあるものの、上部はまだ雲に覆われたままである。
 夕食をとるべく食堂を探しに駅方面へ歩く。街頭で三味線を弾いている一人の若者がおり、やはりここは津軽である。

 5時20分。ビジネスホテルの窓から太陽が昇るのを見る。ホテルの窓から朝日が見えるとは思わなかった。今日は岩木山が見えるかもしれない。

 5時53分、五能線直通の鯵ケ沢行に乗る。弘前を出ると左手に岩木山が見えてきた。松陰は日記で石川より弘前へ向かうところで『岩城山雪を含みて高く聳え、三峯魏然として宛ら富岳の如し。宜なり俗に之を津軽富士と謂ふも』と記している。その「三峯」が今日は見える。標高は一六二四・七メートルである。
 川部で進行方向を変え、五能線に入る。岩木山を背にりんご畑がどこまでも続く。まだ緑色のものや袋を被せたもの、赤い実をつけたものがあり、品種の違いであろうか。
 松陰伊東家を発ったあと、藤崎に泊まり、『藤崎を發す。板柳鶴田を經て御所河原に至る』と、北上を続ける。列車も藤崎、板柳を通る。駅間はりんご畑が広がり、これは見事というほかない。五能線の車窓は日本海の眺めが売り物で、展望列車を運行しているが、りんご畑も良いと思う。特に冬などはモノトーンの世界となり、荘厳な感じすらある。
 6時40分、五所川原に着く。7時03分の津軽鉄道に乗り換えるが、津軽鉄道は「津軽五所川原」を名乗っている。古びたディーゼルカーが一両待機している。車内に入ると時代を逆行したかのごとく床は板張りで、壊れた窓にはテープが貼られている。かつて国鉄で使われていたようで、灰皿にJNRのマークがある。車内の中ほどに「津鉄文庫」と称して本が数冊置いてある。
 車体を震わせて発車し、水田の中を走る。「五農高前」などいかにも津軽らしい。途中で対向列車と交換するが、新型車の車内は通学生で満員である。
 大きな町並みが現れ、金木に着く。二人乗っていたが、降りてしまった。太宰治の出身地で、近くに「斜陽館」がある。次の芦野公園は太宰治が幼い頃に遊んだ所と言われている。
 車内をよく見ると車端の上部に鈴虫の飼育ケースが付けられている。冬はストーブ列車が走ることで有名なこの鉄道だが、夏は風鈴列車、そして鈴虫列車と、少しでも乗客に楽しんでもらおうという努力が伝わってくる。地方鉄道の現状は厳しい。地元客を大切にして全国からも集客せねばならない。鈴虫の鳴き声はついに聞けずに7時40分、終点の津軽中里に着いた。
 少々話が逸れてしまったが、松陰は『金木を經て中里へ至る。是れを本道と為す。土人の誤る所となり赤堀に至る』と道を間違えたようである。
 津軽中里駅生協と同居している。スタンプがあったので押すと、これから向かう十三湖と「吉田松陰遊賞之碑」が描かれていて嬉しくなる。鈴虫のケースがあり、こちらは元気良く鳴いている。

 駅前より8時00分発の小泊行の弘南バスに乗る。バスは五所川原からやってくるので鉄道に乗る必要もないが、もし鉄道を利用しなければスタンプも鈴虫も楽しめなかったであろう。
 若干の通学生を乗せたバスは市街地を抜けて小泊道を走る。沿道には家が並び、茅葺きの家もある。玄関が二重で煙突があるのは北海道でも見かけており、冬の厳しさを物語る。
 今泉集落を抜け、「今泉北口」で降りる。風が強い。少し歩くとしじみ料理の店が現れ、十三湖が見えてくる。駐車場があり、トイレの洗面台には「この場所でしじみ貝を洗わないで下さい」とある。 駐車場の一角に「吉田松陰遊賞之碑」がある。昭和六年に地元有志により徳富蘇峰の揮毫による碑が建てられ、今のは当初の碑に基づいて復元した三代目である。
 『今泉・合津を經、十三潟邊を過ぎて小山を越ゆ。山は潟に臨みて岩城山に對し、眞に好風景なり』 
岩木山は見えない。湖では強風のなか、腰をかがめてしじみ貝を採っている人がいる。一般にも解放されているが入漁料を監視員に払う必要がある。
 次の小泊行まで時間があるので、小泊方面へ歩く。ダンプカーが多く、危ない。十三湖は見えなくなり、山道になる。途中に「七平展望台」があり、樹海の向うに広がる湖を眺める。
 
 国道から外れたところにある上太田バス停で9時59分のバスを待つ。近くの家からは母が子供を叱りつける声が聞こえてくる。反対側の家の庭先にはハナマスの赤い花が咲き、実もつけていた。
 やがてやってきたバスは乗客がいないのか、ラジオを流している。リクエスト曲などを聴いていると何となく旅情を感じてくる。
 相内地区に入ると運転手はラジオを止めた。相内はちょっとした町だが誰も乗ってこない。国道へ出ると、「小泊10Km・竜飛34Km」の看板が見えた。
 国道を外れて海岸ぞいに走る。左前方に権現崎が見える。消波ブロックに波が打ち寄せて砕け散る。脇元で一人降りた。乗客がいたのには気付かなかった。日記には『山を下りて海濱に出て、磯町、脇元を經』とあるが、さきほど海岸ぞいを通ったところは磯松で「磯町」は磯松のようである。
 バスは断崖のカーブする道を行く。左下に下前漁港が見え、ヘアピンカーブを下りて漁港へ向かう。そこで一人を乗せて戻り、山を越えて小泊に出た。松陰も『山を越えて小泊に出づ、亦海濱なり』と記している。バスは小泊港を左に見ながら町並みを通り、10時40分、町はずれと思われる小泊案内所に着いた。
 松陰は小泊に泊まり、『戸を推して望むに、松前の連山咫尺の間に在り』と北海道を見ている。私はバスで奥まで入ってしまったのでこれは見逃してしまった。
 ここから先はバスがなく、係員にタクシー会社を教えてもらおうと思って話すと、相乗りタクシーが竜飛へ運行されており、次は13時40分とのこと。それを待っている時間は無く、普通のタクシーでいいからと呼んでもらう。係員同士が会話しているが、難解で内容が分からない。
 タクシーはすぐにやってきて、さっそく乗り込む。途中の「みちのく松陰道」の入口で停めてくれるように告げる。運転手は私より若く見え、素直に「ハイ」と言う。聞いてみると二七歳とのこと。関東へ出稼ぎに行ったことがあると言う。買い物は五所川原か金木まで行くとのことで、日用雑貨などは地元で済むのかもしれないが、なかなか大変である。途中「七つ滝」でタクシーを停めてくれる。「一応、観光名所なんで」と言う。
 やがて「ここです」と「みちのく松陰道」の入口に着いた。傾り石沢に架かる長浜橋があるところに石柱が建てられており、それを写真に収める。宮部と松陰は当時は道無き道を三厩まで行っている。そこへ長年かけて「みちのく松陰道」が整備された。歩くと四、五時間かかると言う。当初の計画ではこの道を歩くことを前提に計画をたてたのだが、整備されているとはいえ山道である。一人旅であり、車は通らないこの道で何か起きたことを考えると諦めた。運転手も「話し相手がいればいいかもしれないですね」と言う。宮部鼎蔵なら何かあったら三厩まで背負ってくれそうな気がする。
 小泊を出た松陰は海沿いを歩き、砲台を確認したが、砲自体は板屋で覆われていて確認できなかったようである。『行くこと二里、海を離れて山に入る。山に澗あり。澗に沿いて登る。是れを寒澤と為す。藩、旅人の此の路を過ぐるを厳禁す。故を以て路を修せず。澗を渉ること數次、深さ毎に膝を没す。行くこと里許、始めて其の巓に至る。巓を越えて下ること二里許り、雪の深さ二三尺、愈ゝ下れば澗流愈ゝ大なり、又渉ること數次、困苦太甚し。詩を作りて云はく』
 その詩碑が竜飛岬にある。
 タクシーは「竜泊ライン」を行く。開通したのは昭和五九年である。冬期は閉鎖され、「ここで閉鎖されるんです」と運転手は開いているゲートを示した。
 左右にカーブがある道を上っていくと「眺瞰台」で、展望が素晴らしい。日本海はおろか、小泊方面、北海道風力発電のプロペラがある竜飛岬が見える。視界がよければ下北半島岩木山八甲田山が見えるという。また小泊から竜飛、竜飛から北海道までの距離が大体同じ二〇キロぐらいと言う。
 タクシーは竜飛岬を目指す。運転手に、いきなり灯台へ行かないで漁港で下ろして欲しいと頼む。 地図で眺めると国道三三九号線は津軽半島をカバーしているが、実は岬の先端部分は「階段」になっている。それを目当てに訪れる観光客もいる。近くに車道が設けられているので、車が通れないという心配はない。漁港で下ろして欲しいと申し出たのは階段を上りたいからである。

 運転手は漁港近くの「階段国道」の入口で降ろしてくれた。運賃を渡すと、「楽しんでください!」と言ってくれた。私より年下で爽やかな運転手であった。
 集落に入口がある国道はエンジ色のカラータイルで分かるようになっている。人が二人歩ける幅である。民家には漁具が置かれ、洗濯物が干してある。
 民家の間を通り抜けると岬に通じる階段が続く。三六一段あるという。国道の標識は間近で見ると意外と大きい。ここが国道に指定されたのは昭和四九年で、このような事態になってしまったのは、当時の関係者が現地を見ないで指定したからだといわれている。国道なのできちんと整備され、手摺もついている。ただ出入口にあたる民家の人々は様々な人がやってくるから落ち着かないであろう。
 階段を上りきると竜飛埼灯台がある。風が強いようで、草木がみな傾いている。草木の背丈も低い。 灯台の反対側にレストハウスがあり、その裏手に「吉田松陰先生詩碑」がある。碑の向こうは日本海津軽海峡が望め、北海道が間近に見える。松陰三厩へ至ったときに作った詩がここにある。

  去年今日發巴城
  楊柳風暖馬蹄軽
  今年北地更踏雪
  寒澤卅里路難行
  行盡山河萬夷險
  欲臨滄溟叱長鯨
  時平男兒空抗概
  誰追飛將青史名

 意味は、
 去年の今頃萩城を発ったときは、春の暖かい風が柳の枝を揺らし、馬の蹄の音も軽く感じられた。今年は北にいて、雪を踏み、寒々とした山や沢の長い道のりで難儀している。目的地に達して蝦夷地の山を望むことができたが、青い海を見て、外国船が行き交うのを止めさせたいと思う。時勢が穏やかなことに男として憤りを覚える。誰か漢の李広のような者が現れないだろうか。

 といったところであろうか。李広は弓に長けた武将で、匈奴を撃って武功をあげた。「飛将軍」の名は、李広の行動が迅速かつ武勇であったので、匈奴にそう呼ばれた。
 ともかく彼らは雪の中の東北紀行であった。私は季節の良い時期を選んで行くが、志の熱い者に季節は関係ない。一心不乱に突き進んで行く。日本の行く末を思うとじっとしていられない。東北を旅した二人がまさにそうであった。

                             平成一五年九月二(火)〜四(木)

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