プロジェクトINAZUMA BLOG

2006-10-21

[][]『死なば諸共』に関する覚書1(井川耕一郎)

f:id:inazuma2006:20060826013212j:image

 ある男が吉原の遊女と深い仲になり、身請けすることを約束する。だが、その後、男は遊女に手紙を送る。「自分は財産を失い、約束が果たせなくなった。どうか私のことは忘れてほしい」。遊女は着物と金を男のもとに届けさせ、会って話し合うことを求める。すると、男は吉原に来て遊女に言う。「二人で一緒に死ぬことができたら、思い残すことはないのだが」。しかし、男には身請けするだけの金は十分にあった。彼は遊女の本心を見ようとして嘘をついていたのだ……。

 これが井原西鶴『諸艶大鑑』の中の一篇「死なば諸共の木刀(きがたな)」の大まかなすじである。四百字詰め原稿用紙で八枚ほどの短い作品だが、底無しの疑念にとり憑かれた男の姿が不気味な印象を残す。しかも、『諸艶大鑑』の序文にあたる部分には、「登場人物は仮名にしてあるが、その道に通じているひとには誰がモデルか分かるであろう」というようなことがもっともらしく書かれている。実録小説が持ついかがわしい生々しさ。一体、この物語をどうやって低予算の自主映画で実現すればいいのか。

 現代に置き換えて映画化するという手が、まず考えられるだろう。しかし、身請けできないので心中するという部分をどう翻案すればいいのか。『曽根崎心中』の最後に「恋の手本になりにけり」という一文があるが、江戸時代の心中が持っているそういう輝きを現代を舞台に描くことはとても難しい。

 この映画化に関する問題を解くために西山洋市が参考にしたのは山中貞雄だった。西山は、山中貞雄は「江戸の人々にとっての現代劇」をコンセプトにして映画を撮っていたのではないか、という仮説の上に立ってこう書いている(注1)。「そして、それが『現代的』に見えてしまうほど江戸の人々のセンスは現代人より現代的だったのではないか」。これは一見、山中に対してよく言われたという評言「ちょんまげを着けた現代劇」を曲解した屁理屈のように見える。だが、本当にそうだろうか。山中貞雄が生まれたのは一九〇九年。江戸時代は四十数年前までのこと、つまり、祖父母の時代のことなのだ。山中にとって、江戸時代は、想像力を働かせれば、自分との連続性が感じ取れるような時代だったはずである。

 以上のことをふまえて、西山は脚本の片桐絵梨子の助けを借りながら、映画化に向けてアクロバットを演じる。『死なば諸共』を撮るのに、江戸時代の完全な再現は必要ではない。必要なのは、山中貞雄のように過去に向けて想像力を働かせることだ。となると、ぎりぎり連続性が感じ取れる過去は、大正か昭和初期あたりになってしまうだろう。だが、それでかまわない。昭和初期の風景の上で江戸時代(刀、手紙、筆)と現代(キックスケーター、自動車)を出会わせればいいのだ。ちょうど手術台の上でミシンとコウモリ傘が出会ったように……。こうして『死なば諸共』は、現代への翻案でもなければ、江戸時代の再現でもない、ユニークな歴史感覚に基づいてドラマを展開することになる。

f:id:inazuma2006:20061021171848j:image

注1:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060826

注2:1898年生まれの伊藤大輔は自作『下郎の首』について論じた文章の中でこう書いている。「それは、遠い遠い昔の出来事ではない。現代とは遠からぬ、しかし、遠過ぎてはいけない。現代に接続している過ぎしある時期=われらの時代に血肉の感じを失わないでつながっている、ちょっとした昔=という狙いから、およそ百年あまり以前のこと、としたのであって、詭弁でも遁辞でもない、そうした意味の百年であったのだ。これには拠りどころがある。自分の父は安政の生まれだ。だから、それを基準として、それよりもちょっと以前、およそ我が祖父の時代と目安を立てたのである」(「花中舎独語・その三・喧嘩を買う」より)

[][]『死なば諸共』に関する覚書2(井川耕一郎)

 それにしても、一体、なぜ原作『死なば諸共の木刀』の男は心中未遂事件を起こしてまで、遊女を試そうとしたのだろうか。遊女が自分に惚れているのは、単に自分が金持ちだからではないか、と男は疑ったのだろうか。たしかにそれも理由の一つになるだろう。だが、監督の西山洋市と脚本の片桐絵梨子は、男の中にさらに別の理由を見つけているようである。

 西山と片桐が原作の中で特に注目しているのは手紙だ。原作の中で、遊女・若山は十日以上会いに来ない男に手紙を書く。それは、自分の思いをつづったあとに、百も二百も「涙」という字が並ぶものだったという。一体、彼女はどのような姿でその手紙を書いたのか。映画『死なば諸共』には、西山朱子演じる若山が手紙を書く姿が映るが、その姿は目に涙を浮かべながら手紙を書くというものではない。布団に入って待っている客を背にして、若山は立膝で手紙を書く。そして、客がそばにやって来ると、「見ちゃ駄目」と笑ってみせる。つまり、客の相手をしている若山は、手紙の上でしか泣くことができないのだ。

 だが、そんな若山もひさしぶりに岡部尚演じる男(原作では半留(はんる)だが、映画では戸那(こな)という名)と再会したときには、涙を流す。すると、戸那は涙を指先ですくって舐め、こう言う。「お前は、涙をこぼしてくれるんだな」。それに対して若山は「女郎のそら涙というそうな」と無理に微笑んでみせる。

 このとき、若山は「本心と演技の決定的な違いを見極めよ」と戸那に求めている。だが、戸那はそう考えていない。そもそも、若山を最初から愛していたかどうかも疑わしい戸那にとって、本心と演技の違いなどどうでもいいことだ。彼が若山の中に見ようとしているのは本心そのものではないのである(「涙をこぼしてくれるんだな」と言うとき、たぶん、本心もまた演じられて存在するものだと考えている)。彼が興味を持っているのは、書かれた言葉と行動の関係だ。手紙を脚本にして、若山がそこに書かれたことをどれだけ本気で演じられるか。それこそが戸那の最大の関心事なのだ。間違いなく、戸那にとって、吉原は劇場なのである。そして、若山は熱演が期待できる一女優にすぎない。

 と、ここまで見てきて、やっと映画『死なば諸共』の最初のシーン(これに該当する部分は原作にはない)の意味が分かってくる。冒頭で、戸那は使いの少女にぼろぼろの起請文を見せて言う。「若山と俺は生まれ変わっても夫婦となり愛し合うと神々に誓って書いてある」「その名前は血で書いたんだぞ」「3枚同じものを書いて各々一枚ずつ肌身離さず持つ。そして最後の一枚は熊野牛王に捧げる。そうすると熊野神社の烏が三羽、落ちて死ぬ」。きっと若山は三羽の烏が死んだと確信しているだろうが、戸那にとっては、これまたどうでもいいことだ。なぜなら、起請文は永遠の愛の誓いなどではなく、若山に今もっとも演じてもらいたい脚本なのだから。生まれ変わって結ばれることを願いつつ心中する遊女の役――これほど本気度が要求される役は他にはないだろう。

f:id:inazuma2006:20061021171846j:image

[][]『死なば諸共』に関する覚書3(井川耕一郎)

 さて、原作では、心中未遂事件のあとの展開は次のようになる。半留(映画では戸那という名)は大金を払って若山を請け出すが、いよいよ心中というときに彼女の口から漏れた「ああ、悲しい」の一言が気に入らないと言って、夫婦になるのを拒む。その後、彼は明石という遊女の客となり、その遊び方のうまさは人々が見習うほどのものであった……。

 映画『死なば諸共』の後半の展開は、ほぼ原作の通りである。ただし、映画には最初から、吉原のにぎわいなど存在しない。だから、当然、戸那と明石のことを噂する人々も出てこない。にぎわいの存在しない空洞のような吉原――そこで、戸那と明石は使者の少女を介しておおよそこんな会話をする。


戸那「明石は、……怖いのかな……俺は遊女の芝居を見定めずにいられない性分だからなあ……」

明石「怖いのか? ……ふ、小賢しい。あげてやんなさい。ひどい目にあわせてやりましょう」


 「ひどい目にあわせてやりましょう」という言葉を聞いた瞬間、戸那は若山を超えるような本気度の高い女優に出会ったことを確信したはずだ。明石は決して若山のような本心を持つことはないが、戸那を誘惑し、翻弄するために熱演するだろう。そして、戸那もまた、若山とのとき以上に本気で明石をふりまわすような策を練るにちがいない。では、一体、二人の芝居の行き着く先はどこなのか。空洞化した吉原では、吉原存続のために遊女と客が守るべきルールなど存在する意味がない。戸那と明石の騙しあいに歯止めをかけるものはどこにもないのだ。だとしたら、二人は心中ごっこを演じるかもしれない。今度は偽物ではなく、本物の刃を用いて互いの体を傷つけあうのだろうか。まるで『INAZUMA 稲妻』の主人公二人のように、くりかえしくりかえし……。

 『INAZUMA 稲妻』は、十字が刻印されたカメラのファインダーのような画面によって、観客に「見ることの罪」を意識するようにうながす映画であった(注3)。『死なば諸共』では、「見ることの罪」から一歩踏みこんで、「演出することの暴力」とでも呼ぶべきものを観客は意識することになる。心中の前日、戸那は「てれん・てんてんてん……」と呟きながら、何度も刀を振り下ろす練習をしている。その姿を見ているうち、観客は戸那が若山に対してどんな演出を行うかを期待してしまうはずだ。そして、若山の首すじに刀が当てられた瞬間、戸那とともに絶頂感を味わうだろう。もっとも、その一瞬後に若山が「ああ、悲しい」と呟くことで、戸那は白けてしまうのだが。

 しかし、私には、この後の若山の姿が強く印象に残った。すべてが嘘で、戸那に心中する気などまるでなかったことを知った若山は、「命が、惜しいか」と言うなり、自分の首すじに剃刀をあてる。片桐のシナリオでは、血がほとばしって、近くにいた少女にまで飛び散るとあるが、映画では首に一すじの赤い線がつけられるだけである。だが、そのときの若山の倒れ方が人間の倒れ方ではないのだ。まるであやつり人形の糸がぷつんと切れたかのような倒れ方――若山の剃刀は首ではなく、人形である自分と操る戸那とをつなぐ糸を断ち切ったのだろうか。

 数日後、戸那が若山を車に乗せて故郷に帰す場面でも、若山は人形を演じ続け、無言・無表情を貫き通す。若山は戸那を心の底から軽蔑しているのだろう。だが、ひょっとしたら、人形を演じ続けることで、また役が与えられることを待ち望んでいるのではないか……。そんな思いがふと私の頭をよぎってしまうのは、間違いなく若山を演じた西山朱子が素晴らしいからだ。彼女は物と化す演技を通して、逆説的に人間の複雑さを見事に表現していると思う。


注3:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060519


f:id:inazuma2006:20060829220034j:image