プロジェクトINAZUMA BLOG

2007-06-04

[][]大工原正樹への手紙(1)(井川耕一郎)

大工原さんへ

 大工原さんにも演出についていろいろと尋ねたいことがあるのですが、ちょっと回り道をして万田さんの話からしてみたいと思います。たぶん、そうした方がこれを読む他のひとたちにとっても親切なんじゃないかな、と思ったからですが、さて、分かりやすく問題を整理して書くことができるかどうか――。


 『映画の授業 映画美学校の教室から』という青土社から出ている本がありますね。この間、それに収録されている万田邦敏さんの講義録「私たちは映画の何を見ていないのか 『ダーティーハリー』をめぐって」をひさしぶりに読み直したのですが、これはムチャクチャ面白い読み物ですね。

 講義は『ダーティーハリー』の物語をどう要約するかという問から始まって、具体的に画面に映っているものに着目してみようというふうに展開する。そうして、この映画は「警察バッジで始まって、警察バッジで終わる映画」であるととらえてから、その他に映画の中でくりかえし映っているものはありませんか、という問いかけに移っていく。

 で、水、高低差、十字架などがくりかえし出てきていることが分かるのですが、そこまで来て、ふいに万田さんは、「さてじつは、いままで言った繰り返されるものたちが、冒頭のクレジットのシーンですべて出てきている」と言い出すのですね。そして、冒頭部分を見直してみると、本当にすべてが出そろっている。

 おお!と思わず声が出そうになりましたね。万田さんが、ほら、ここに出ている、ここにも出ている、とくりかえされるものを一つ一つ指摘するあたりは、まるで名探偵の謎解きのようです。この講義録は推理小説的な面白さに満ちていて、ああ、この講義、実際に聞いてみたかったなあ!と思ってしまう。


 それにしても、読み終えて気になるのは、この万田さんの講義録が演出の章に収録されていることです。これって演出に関する授業なんだろうか。たぶん、万田さん自身、そうは思っていないでしょう。映画美学校の授業の枠で言えば、これは「映画表現論」というやつにあたるのではないか、と。

 というのも、本の構成を考えた編集者の意図に従って、万田さんの講義録を演出に関する講義として読んだ場合、ちょっとひっかかってくる部分があるのですね。講義の終わり近くに出てくる次の言葉がそうです。

「つくり手は必ず何をどう見せるかということに腐心している。いままで皆さんに質問してきたようなことは、つくった人たちならば即答しているわけですね」

 この部分は、万田さんが生徒の映画の見方を揺さぶるためにあえてついたウソだと思うのですね。万田さんの問に本当に『ダーティー・ハリー』を撮ったドン・シーゲルたちが即答できるかどうかはちょっと疑わしい。

 冒頭の警察バッジやプールに浮かぶ犠牲者などは、一生懸命考えてラストシーンから逆算して産みだされたものだろうという気がします。消火栓から吹きだす水や砂埃などについては、撮っているうちに、ああ、おれたちは似たようなことをくりかえしやっているよなあ、というふうに思うかもしれない。

 けれども、十字架はどうなんだろう? スタジアムでハリーが犯人を痛めつけるシーンで、万田さんはここにも十字架は出ていると言って生徒と一緒にビデオを見直しています。すると、何と「命乞いをする犯人ごしの地面にはっきりと白い十字状にラインが引かれている」というのですが、そこまでドン・シーゲルたちがきちんと考えて撮っているかどうか。スタジアムの白い十字は、作品完成後、ひとに指摘されて、あ、そうなんですか、と初めて気づくようなものではないか、と思うのですが……。


 一体、スタジアムの白い十字や、くりかえされるものがすべて登場している冒頭部分については、どのように考えたらいいのだろう。「偶然、映っただけ」というのが一番まともな答なのでしょうが、本当にそれを正解と言ってしまっていいものなのかどうか。

 「偶然」と言っても、それは意識から見た場合でしょう。無意識から見た場合には偶然ではないかもしれない。

 監督の無意識をスタッフが読み取って、「偶然」を意識的に実現させたのかもしれないし、監督の狙いを聞いているうち、スタッフの無意識が働いて「偶然」を引き寄せてしまったのかもしれない。あるいは、監督もスタッフも皆がまったく無意識のうちに「偶然」を引き寄せ、実現させていたのかもしれない。

 でも、こんなふうに言ってしまうと、別の問題が出てきそうですね。映画表現を豊かにするものが撮影隊の無意識だとしたら、意識的な努力にはさして価値はないのか、と問い質されてしまいそうな感じがします。

 ――と、ここで唐突にぼくが思い出すのは、大学のときに体育の授業でやったトランポリンなのですが(しかし、何でぼくはそんな授業をとってしまったのか……)。

 トランポリンの授業で、ぼくら生徒は皆、バク転をやらされたわけですが、そのときに先生がこう言ったのですね。後ろに回ろうと意識すると、後頭部から落ちて首の骨を折る危険がある。単に高くジャンプして、顎をくいっ!と素早く上にあげるだけでいい。そうすれば、体はひとりでに回る、と。

 演出についても似たようなことが言えるのではないか、と思うのですが、どうなんでしょう? つまり、ある問題をどう解決するかを考えていると、無意識がそれに連動して他の問題も同時に解決してくれるのではないか、と。逆に言えば、ある問題について意識的に考えないかぎり、無意識は作動しない、と。

 万田さんの講義録と結びつけて言うなら、「つくり手は、必ず何をどう見せるかということに腐心している」けれども、では、一体、「何を」とは何なのか――それを探ることが演出について考えるとっかかりになるのではないでしょうか。


 そういえば、常本さんの『制服本番 おしえて!』の自作解説*1には、こんなことが書いてありましたね。


撮影が始まりました。問題は、カラミ、セックスシーンです。どうやって撮っていいか分からない。撮影前に、カラミがいやらしい小沼勝監督作品を見て勉強しましたが、到底同じことができるはずもない。結局、中途半端でだらだらしたカラミにしかならず、この映画で一番反省している部分です。

カラミはその後の作品でも鬼門で、要するに「臨場感」が出せない、ということなのですが、なんとなくいやらしく撮れる感触が遠くに見えてきたのが『黒い下着の女教師』、これならいやらしいか?と自分で納得できたのが、たぶん最後のVオリ作品になる『恋愛ピアノ教師』でしたから、長い道のりでした。


 ここで常本さんはカラミをどう撮るかだけを問題にしているのですが、実は話はそれだけで終わらないと思うのですね。カラミをいやらしく撮るには、その前後の芝居をどうするかも考えないといけない。特にカラミの前の芝居ですね。ここで気分を高めていかないと、カラミはいやらしく撮れない。

 そういう点から、常本さんがぼくにシナリオの直しを求めてきたときのことを思い返してみると、ああ、なるほど、と思うことがあるのです。たいてい、常本さんは、カラミの前の芝居を直してくれ、というのですね。セックスしようと誘うあたりの芝居をもっといろんな工夫を入れて倍の長さにのばしてくれ、と。どうやら「誘惑する―誘惑される」という関係を丁寧に描きたいようなのですね。

 となると、カラミの臨場感をいかに出すかという問題は、常本さんがいかに人間関係をとらえているかということにもつながり、つきつめていくと、カラミとはまるで関係のない細部の演出にも実はかかわっているのではないか、と思えてくるのですが……(もちろん、この点については、個別の作品分析をしないと、はっきりしたことは言えませんが)。


(続く)

[][]大工原正樹への手紙(2)(井川耕一郎)

 さて、そこで大工原さんの場合ですが――(ずいぶんと回り道をしてしまいました)。

 大工原さんはこのブログに自作解説をいくつか書いていますが、それらを読みなおしていてひどく気になったものがあるのです。監督デビュー作の『六本木隷嬢クラブ』に出演した叶順子について書いた次の部分がそうです*2


この頃、ピンク映画とロマンポルノはオールアフレコでした。セックスシーンの艶めかしい声は息を吐き続けることになるので、時々酸欠になる女優がいます。彼女のアフレコ初体験で頑張りすぎたのでしょう、本番中に酸欠で気を失いました。ソファーに寝かせて回復を待ったけれど、うわごとが続きなかなか意識が戻りません。

結局タクシーで病院に運ぶことにしたのですが、そのときの目を瞑りうわごとを言っている彼女の表情がなんとも言えず美しく、思わず見とれてしまいました。とぎれとぎれに彼女の口から漏れる言葉がまた切なく、美しいもので、スタジオに居合わせたスタッフはみな異様な感動に包まれていました。その内容は私的なことに関わるのでここには書けませんが、引退した眠り姫の役だった彼女のこういう姿を、なぜ映画の中でイメージできなかったのだろうと悔しい思いをしたものです。


 この体験、大工原さんにとってかなり重要なものだったのではないか、と思うのですが、どうなんでしょうか。たぶん、この体験は大工原さんに、映画を撮るときに二つのことを常に考えるようにうながしている、と思うのですが。

 一つは「引退した眠り姫の役だった彼女のこういう姿を、なぜ映画の中でイメージできなかったのか」という反省がもたらしたもの――つまり、役者の素の魅力を発見し、それを映画の中で活かせ、ということですね。たとえば、『未亡人誘惑下宿』の自作解説の中で主演の岩崎静子について書いている以下のような部分に、それを強く感じます*3


見ていて驚いたのは、普段はちょっとツッパッていて素っ気ない印象を与える彼女が、役に入ると豊かな感情を示してみせることでした。あるときは下宿生たちの狼藉に本気で怒り、あるときは人の気を逸らさない温かみのある笑顔で微笑み、またあるときは悩み、恥じらい、驚き、心配し、といった包容力の必要な表現がきちんと自然に出来るのです。これは、演技の技術ではなく、彼女の柄がそのまま現れたものなのでしょう。だとすると一体この人はどんな生き方をしてきたのだろう、と少し興味をそそられました。


 もう一つは、気を失った叶順子の姿に見入ってしまった体験がもたらしたもの――その登場人物が眠るのにふさわしい場所を想像せよ、ということ。もう少し分かりやすく言うと、登場人物にふさわしい住まいを探せ、ということですね。このこだわりが無意識と連動して起動する瞬間をもっとも劇的な形で書いているのは、『風俗の穴場』の自作解説の次の部分だろうと思います*4


そんなロケハンのある日、主人公の部屋となるマンション候補を見せられた帰りに、製作部が「シナリオではマンションだけれど、この近くに古い一軒家があるからついでに見ませんか」というので、ワラをも掴む気持ちでついていきました。小さな庭付きの日本家屋でした。中を見て回っているうちに、突然、マンションの設定では動かなかった登場人物たちが生き生きと動き始めたような気がしたのです。現金なものです、そうなると、ドラマになっていないと悩んでいた部分など取るに足らないことのように思えてきて、この人物たちを動かせばそれだけで最後までいけるんじゃないかと。


 そういえば、ぼくは前にこのブログに『風俗の穴場』のちょっと長めの分析を書きました*5。そこでぼくは、風がこの作品のテーマになっている、と記し、縁側、うちわ、扇風機オカリナなどがドラマの中で果たしている役割を見ていったわけですが、しかし、大工原さん自身は風がテーマだなんてことをそれほど重要視してなかったろう、と思うのですね。

 たぶん、大工原さんが一生懸命になって考えていたのは二つのことだけなんじゃないでしょうか――石川萌の素の魅力をどうやって活かすかということと、撮影に使った家をどうやって石川萌の住まいらしく見せるかということ。しかし、この二つについて考えることが無意識と連動して、風というテーマを呼び寄せたのだろう、と思うのですが……。


――ずいぶんと前置きが長くなってしまいましたが、ぼくが大工原さんに訊きたいことは、主に、役者の素の魅力を活かすためにどんなふうに演出をしているのか、ということです。


(1)『風俗の穴場』の石川萌にはどのような演出をしたのか?

 大工原さんは『風俗の穴場』の自作解説の中で、こんなことを書いていますね。「撮影初日にラスト近くの森のシーンを撮っているとき、エンジのワンピースで木々の緑の中に立っている彼女の姿がとても良くて、ああ、こういう姿を丹念に拾っていけば彼女の映画にできるかもしれない、なんてことを考えたりもしました」。

 で、実際に「こういう姿」を丹念に拾うために、石川萌に対してどんな演出をしたのでしょうか。シナリオに書いてあるのとは違う芝居などをさせたりしたこともあるのでしょうか。

 渡辺護さんは、東てる美美保純可愛かずみらのデビュー作を撮った映画監督でもあるわけですが、新人女優の演出についてはこんなことを言ってますね。新人に感情を表現するような芝居をムリにさせることはない。「五歩歩いてから立ち止まって、うつむいて三つ数える。そうしたら、ふりかえってごらん」というふうにやればいいんだ、と。

 ただし、感情を表現するような芝居はさせなくていいけれど、監督は新人女優の普段の姿を観察しておくべきだ、と言うのですね。意識せずにやっている仕草などに魅力的なものがある。それを芝居にうまく取り入れていけば、ああ、あの子、魅力的だな、とお客さんは思うようになる、と。

 大工原さんも石川萌に対しては似たような演出をしたのでしょうか。


(2)『未亡人誘惑下宿』の岩崎静子にはどのような演出をしたのか?

 『未亡人誘惑下宿』の岩崎静子も石川萌と同じく演技経験がほとんどない新人だったわけですが、彼女に対してはどのように演出したのでしょうか。自作解説を読むと、こんなことが書いてありますね。「未亡人を取り巻く5人の下宿生役の役者たちが気のいい人ばかりで、すぐに彼女と仲良くなってくれたのも良かったのでしょう」。ということは、芝居以外の場で他の役者に見せる岩崎静子の姿などを映画の中に導入しようと考えたのでしょうか。

 また、岩崎静子は大工原さんの他の作品に出ていますね(『のぞき屋稼業 夢犯遊戯』『痴漢白書8』)。これらの作品のときも、大工原さんの演出の姿勢は同じだったのでしょうか。それとも変化はあったのでしょうか。


(3)『赤猫』の衣装合わせを終えたあと、役者をじっと見ていたのはなぜか?

 『赤猫』の衣装合わせ(役者に実際に衣装を着てもらって、撮影で使うものを決める作業)を終えたあと、森田亜紀さんと李鐘浩さんが雑談をしていましたね。

 その二人の姿を大工原さんはちょっと離れたところから、じっと見ていたのですが、あれは何をしていたのでしょうか。普段とはちがう、異様に真剣な目つきで見ていたのが妙に気になったのですが。

 夫婦であるという感じを出すにはどうしたらいいかを探っていたということでしょうか。ああいった観察は他の作品でも行っているものなのですか。


(4)キャスティングについてどう考えているか?

 『赤猫』のキャスティングは、役にもっともふさわしいひとを選んでいるという感じがしましたが、大工原さんがいつもそういう基準で役者を選んでいるかというと、どうもそうではないような気がします。

 たとえば、『未亡人誘惑下宿』の自作解説には、岩崎静子を面接したときのことが書かれていますね。「岩崎静子の最初の印象は、派手な娘だなあ、というものでした。茶色でウエーブのかかった髪、露出の高い値段も高そうな服、スタイルはある意味抜群に良くて色っぽいのですが、大きなおっぱいとくびれた腰、細くて長い手足は……、愛する夫亡き後、健気に下宿を維持している未亡人のイメージを重ねるのが難しい外見でした」。

 にもかかわらず、大工原さんはその場で岩崎静子を主演に決めていますね。一体、なぜ彼女を主演にしようと思ったのでしょう? 低予算のエッチVシネマでは、女優探しにそんなに時間をかけてはいられないのかもしれませんが、しかし、『黒い下着の女教師』のときの常本さんのように一度決まった女優を断ることだって、やろうと思えばできたわけですね。しかも、完成した『未亡人誘惑下宿』に出ている岩崎静子はなかなかいいわけです。だとしたら、彼女に決めた積極的な理由があるように思うのですが。

 もうちょっと話を広げると、大工原さんがキャスティングについてどう考えているかを知りたいということです。かならずしも、役にふさわしいひとでなくてもOKということでしょうか。


井川