プロジェクトINAZUMA BLOG

2007-07-05

[][][]常本琢招への手紙1(井川耕一郎)

 西山洋市、大工原正樹と来て、今回は常本さんに演出について訊いてみたいと思います。とは言え、演出について論じるのは難しいですね。

 たとえば、大工原さんが撮った『赤猫』で、ぼくが、おお!と声をあげそうになったのは、映画の後半で森田亜紀演じる主人公が、見てはいけないものを見てしまった、と言うところでした。このとき、森田亜紀はソファーに横たわって台詞を言うのですが、これはぼくがシナリオに書いた動きとはちがうのです。ぼくは、主人公が立ったまま、台詞を言うというふうに書いていたはずです。

 しかし、森田亜紀の横たわるという演技は、シナリオの狙いを無視しているのかというと、そうではないのですね。彼女は見てはいけないものを見てしまったことに怯えているのだけれども、その一方で、見てはいけないものに魅せられてしまっている。そのまったく正反対の感情を同時に抱いてしまっている状態を、森田亜紀は横たわって台詞を言うことで見事に表現しているのです。つまり、森田亜紀の演技は、シナリオの狙いをシナリオ以上に的確に表現していると言っていい。

 こういう芝居は、監督が現場で女優のことをきちんと見ていないと、引き出せないものでしょう。そういう意味で、ぼくは森田亜紀の横たわって台詞を言う芝居に大工原さんの演出力を強く感じる。しかし、批評の言葉はこういった演出のすぐれたところを的確に指摘することができるかどうか……、これはかなり疑問です。

 そういえば、常本さんは「大工原正樹の返信」を読んでどう思いましたか*1。特に『風俗の穴場』を撮っているときに、石川萌にどんな演出をしたかという部分なのですが。大工原さんは自分の演出について「ことさら書くまでもない、画を見れば分かることであるし、監督だったら誰もが普通にやっていること」だと書いていますが、この簡単なことが批評の言葉ではなかなか書けないのですね。

 実際、ぼくは『風俗の穴場』についてこのブログに批評を書いているけれど*2、こうした演出についてはまったく言及していない。しかし、ぼくが批評の中で指摘したようなことは、大工原さんの演出上の細かな工夫の積み重ねがあって初めて成立するものであることも確かなのです。批評の言葉は演出のもっとも基本的な部分を見逃してしまうことが多いように思えます。


 演出について論じるのが難しい理由はもう一つあります。演出している監督自身が自分の演出方法を明解に説明できない場合があるということです。こうすれば演出がうまくいくということは経験的に分かっていても、なぜ自分はそうしてしまうのかという演出のメカニズムについてはよく分かっていない場合があると思うのですね。

 映画美学校では、生徒に役者になってもらって、講師が演出をしてみせる授業があるのですが、そこでぼくは生徒からこんな質問を受けたことがあります。

「なぜ井川さんは芝居を見たあと、こういうふうにして下さい、という具体的な指示を出さないまま、もう一回お願いします、と言ったりすることがあるのですか?」

 そのときには、「一回見ただけでは芝居のどこが問題なのかが分からないから」と答えたのですが、あとから考えてみると、それだけでは答として十分ではなかったのです。

 たぶん、質問した生徒は、ぼくの頭の中に正解の演技があるはずだ、と思っていたにちがいないのです。だから、演出とは正解の演技とどこがどうずれているかを役者に伝えて、正解に近づけるように修正することだと思っていたのでしょう。

 ところが、どうやらぼくはそんなふうに演出していなかった。頭の中にこういう演技をしてほしいというアイデアはあるけれど、それは決して唯一の正解というようなものではないのですね。だから、頭の中のイメージとのずれはマイナスの価値しか持っていないというわけではないのです。プラスの価値を持っている場合もある。おそらく、ぼくは、演出とはプラスのずれを発見して、それを活かすことだと思っているのではないか……。

 高橋洋はプロジェクトINAZUMAのチラシに「プロジェクトINAZUMAとは科学なのだ」という推薦の言葉を書いていますね。この言葉は演出について考えるときの基本姿勢を簡潔に表現しているように思えます。と言っても、これは別に誰でも演出できるようになるマニュアルを作成しようということではなくて(そんなものは作れるわけがない)、もっと単純に「演出について分かったふりをしない」ということでしょう。自分を一個のサンプルとして観察することで、演出するとはどういう作業なのかを研究する――それがプロジェクトINAZUMAの基本姿勢かな、という気がします。もっとも、こういうあり方は、パンフレットの巻末原稿「プロジェクトINAZUMAは演出について考える」にも書いたことですが、「昆虫学者であると同時に昆虫」みたいなもので、実にやっかいなのですが。


 前置きが長くなってしまいました。常本さんに訊きたいことは次のようなことです。


(1)なぜクランクイン前にリハーサルをやるようになったのか?

 常本さんは監督デビュー作『制服本番 おしえて!』のときからずっと撮影前にリハーサルをやっていますね*3

 しかし、考えてみると、これはかなり特殊なことでしょう。常本さんが助監督としてついた監督は誰もそんなことをしてこなかったし、常本さんの作品に助監督としてついた後輩たちもそんなことをしていない。常本さんの演出方法は、常本さんが属している先輩監督―後輩監督の系譜の中で奇妙な形で孤立しているように思えます。

 一体、なぜ撮影前にリハーサルをやろうと思うようになったのか、まずはその点をあらためて訊いてみたいのですが。

 また、常本さんはリハーサルをやろうとしたときに、二人の監督を参考にしたと前に言っていましたね。神代辰巳相米慎二がその二人なのですが、具体的に二人の演出のどこをどんなふうに参考にしたのか、そのあたりのこともちょっと詳しく訊きたいのですが。

[][][]常本琢招への手紙2(井川耕一郎)

(2)リハーサルで目指しているものは何か?

 常本さんは撮影前のリハーサルについて自作解説の中で次のように書いていますね。


「この作品は様々な事情で撮影が延び、余裕ができたということもあって、リハを2週間行いました。撮影自体は6日間なので、倍以上。その間なにをやっていたのか……についても憶えていませんが、とにかく、芝居に関してはリハ中にすべてを固めることが出来た記憶はあります」(『黒い下着の女教師』自作解説)*4


「僕はそれまで、リハーサルをして演技を練り上げていく、という作業を行ってきたのですが」(『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』自作解説)*5


 リハーサルで芝居を「練り上げて」「固める」――さっと読んで何だか分かったような気になる文章なのですが、よく考えると、肝心なところが分からないのですね。一体、常本さんは、どういう判断基準で役者の演技にOKを出しているのか。

 と言うのも、常本さんは『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』の自作解説の中でこう書いていますね。


「僕自身の好みとして、巫女的な体質というか、役にのめりこんでしまう憑依型の女優が好きな傾向がありますが、麻田真夕はまさにこのタイプでした」(『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』自作解説)


 これは増村保造の「女優=巫女になるための条件は」というエッセイを思い出せるものです。増村はそのエッセイの冒頭に次のように書いています。


「女優さんが演技するということは何か? 私は通常の一人の女性が神がかった巫女となり、表面的な常識をかなぐり捨てて、意識下の異常で本能的な姿を露出することだと思います。そのとき、何を口走り、どんな行為をするか、全く予想もできませんが、それがすべて真実であり、独特であり、誰の真似でもなく、彼女自身の本来の姿であると言えるでしょう」(増村保造「女優=巫女になるための条件は」(『映画監督増村保造の世界』ワイズ出版))


 なぜ増村は「何を口走り、どんな行為をするか、全く予想もできませんが」と書いてしまうのか。女優はシナリオに書かれた台詞を喋り、ト書きに従って動くのだから、別に予想不可能なんてことはないはずです。

 しかし、こう書いてしまう背景には、増村が撮影現場で感じた実感があるのでしょう。要するに、シナリオどおりに台詞を喋り、動いても、増村保造の予想を超える何かが、巫女的な女優にはあるということになる。そして、増村はその予想を超える女優の何かにとり憑かれているということになるのでしょうか。

 話を常本さんに戻すと、常本さんがリハーサルで女優の演技にOKを出すときの基準はどうなっているのでしょう。リハーサルで芝居を「練り上げて」「固める」という言い方は、何だか粘土で造形しているような感じがしますね。でも、巫女的な女優というのは粘土みたいな感じなのだろうか、という疑問があります。粘土よりももっと扱いづらい独特の抵抗感がある存在のようにも思えるのですが、どうなんでしょう。

 リハーサルをくりかえすうち、巫女的な女優は次第に憑依状態に入ってくる。すると、常本さんが頭の中で思い描いていた演技に自然に近づいてきて、OKとなるのでしょうか。それとも、自分の想像を超える何かが女優の演技の中から出てきたらOKということなのでしょうか。

 だとすると、撮影現場でOKを出す基準はどうなるのでしょうか。リハーサルと同じ演技をすれば、OKということなのでしょうか。けれども、増村保造は別のエッセイの中でこんなことを書いていますね。


「普通の俳優さんは、何回かテストを重ねて、まァ満足のできる本番テストにたどりつく。ところが、本番テストの芝居の出来を百とすると、いざ本番、廻るカメラの前で演じる芝居は八十くらいにダウンしてしまう。集中力とスタミナが続かないからである」(「『偽大学生』の思い出」)


 常本さんが好む巫女的な女優にはこういう本番でのダウンということがないということなのでしょうか。それとも、理想を言えば、女優はリハーサル以上の憑依状態に入って演技してほしいということなのでしょうか。


(3)「リハーサルをやらないとカット割りができない」とはどういうことなのか?

 常本さんはよく「リハーサルをやらないとカット割りができない」と言っていますね。この言葉が何を意味するのか、ぼくは今まできちんと常本さんに訊いてこなかった。というのも、ぼく自身が役者の芝居を実際に見ないことにはカット割りができない人間なもので……。

 とは言え、ぼくのカット割りは、ここからここまでは一つながりの芝居だから、1カットで撮った方が役者も演じやすいだろう、というような実に簡単なもの。あれやこれやいろんなテクニックを使って撮る常本さんの細かなカット割りの方がはるかに高度なわけです。

 では、一体、常本さんが言う「リハーサルをやらないとカット割りができない」とはどういうことなのでしょうか。

 芝居的に複雑で難しいシーンについては「リハーサルをやらないとカット割りができない」ということなのか。それとも、撮影前に実際に役者が動き、話している姿を見ることで、リハーサルをしていないシーンについても、カット割りのよりよいアイデアが出てくるということなのか。

 いや、そもそも常本さんはどういうことを考えてカット割りをするのですか。そこが知りたい。何か方針のようなものがあって、それに基づいて具体的なカット割りをしていくのですか。

 たとえば、『みつかるまで』の場合、最初のうち、板谷由夏は、挑戦的な目で周囲をにらみつけているというか、ずいぶんと無愛想な顔つきをしていますね。ところが、水橋研二と出会ったことで、彼女の顔に変化が生じてくる。特に最後の方では、はっとするくらい最初とはちがう印象的な顔をするときがある。プロジェクトINAZUMA公式サイトで常本さんは「このカットの板谷さんの表情こそ、この作品で僕がたどり着きたかったものなのだ」*6と書いていますが、あの顔などは確かにいいですね。

 となると、常本さんは、板谷由夏の表情の変化を強く印象づけるように、カット割りを考えていたのでしょうか。


(4)なぜ男は女の肩に頭をのせるのか?

 常本さんの監督デビュー作『制服本番 おしえて!』では、山下麻衣演じる少女は、売春すると見せかけて、客の男に睡眠薬をのませて、金を奪うという犯罪をくりかえしていましたね。ところが、山下麻衣のそういう面を知りながら、田辺広太演じるラブホテルの従業員の男はあえて彼女の客となって接近しようとする。ここには、女に翻弄されたい、圧倒されたいというマゾヒスティックな欲望が感じられます。

 で、このマゾヒスティックな欲望は、以後も常本さんの作品に出てくる男たちの中に読み取ることができるのですね(脚本を書いているひとはばらばらなのに)。『みつかるまで』で水橋研二が演じる哲史もそうです。彼は板谷由夏が泥棒だと知ったうえで近づいていく。そして、最後には(ネタバレになるので、具体的なことは書きませんが)板谷由夏のためにひどい目にあってしまう。

 ついでに言ってしまうと、ぼくの目には、常本さん自身も常本さんの作品に出てくる男たちのようにマゾヒスティックに見えるのです。たとえば、『制服本番 おしえて!』の自作解説のこんな部分。


「(リハーサルをやっていくうち)、特に山下麻衣はどんどん輝いてきました。はじめのうちは、待ち時間の間はよく笑う、普通の女の子といった風情だったのですが、次第に距離をとりはじめ、超然とした一人の時間に入り込むようになったのです。そんな山下を見ているうち、僕は(初めにも書いた)作品を作る手ごたえについて、主演女優をこのまま輝かせることに集中すればいいんだ、それが達成出来ればこの映画は造る価値がある、と確信できたのでした」(『制服本番 おしえて!』自作解説)*7


 超然とした雰囲気をただよわせる主演女優と、その輝きを撮ろうと考える監督。これなんか、まさに女王様と彼女に奉仕する召使いの関係ですね。

 ――と、ここまで考えて、常本さんの映画にくりかえし出てくるある印象的なイメージをぼくはふと思い出したのです。男が女の肩に頭をのせるイメージ。これはたしか、『黒い下着の女教師』に出てきたのが最初で、その後、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』にも出てくる。そして、『みつかるまで』にも出てきますね(チラシにはその場面のスチル写真が使われている)。

 一体、なぜ男が女の肩に頭をのせるイメージがこうもくりかえされるのか。ひょっとしたら、これは女王様が召使いに与えるごほうびのようなものではないか、とも思えるのですが、どうなんでしょう。いや、それよりも、常本さんはどの程度、このイメージを意識して反復しているのか。『みつかるまで』では、またやってしまったな、と思いながら撮ったのでしょうか。

 ところで、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』で麻田真夕の肩に頭をのせる佐藤幹雄や、『みつかるまで』の水橋研二について、常本さんは興味深いことを書いていますね。


「幹雄は、いまどきの若い兄ちゃんなのですが、性格が良いということが気に入っています。加えて、演技について、僕の手に余るところが新鮮でした。どういうことかというと、僕はそれまで、リハーサルをして演技を練り上げていく、という作業を行ってきたのですが、幹雄にはリハーサルが通用しません。リハをして、演技がよくなるどころか、次第にダレてきて芝居が良く無くなってくるのです。「これからの俳優はこうなのか。今までやって来た俺のやり方は通じないのか」と思いましたね」(『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』自作解説)


「現場での水橋くんは、正直やりづらそうだった。僕は役者密着型の監督で、役者にべったりくっつき、細かくやり取りしながら演出をしていく。しかし、水橋くんは放任された方がやりやすいというのだ。たしかに、佐藤幹雄もそうだったが、リハーサルをやりすぎると良さが死んでしまう。僕のやり方とは違う、こんなタイプの役者もいるんだな・・・と思った」(プロジェクトINAZUMA公式サイト)*8


 常本さんは「今までやって来た俺のやり方は通じないのか」と思ったらしいけれど、ぼくは別のことを感じました。常本さんは佐藤幹雄や水橋研二に翻弄されることをずいぶん愉しんだのではないか、と。今まで常本さんのマゾヒスティックな欲望は、巫女的な女優との関係でしか満たされることがなかった。ところが、『恋愛ピアノ教師 月光の戯れ』以後、常本さんは男優との関係においてもマゾヒスティックな欲望を起動させるようになったのではないでしょうか。要するに、常本さんは今、男優との理想の関係を発見しつつあるんじゃないか、と思うのですが、どうなんでしょう。


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