福間健二『岡山の娘』について(4)(井川耕一郎)
『岡山の娘』には、2007年6月に岡山で行われた詩の朗読会のドキュメンタリー映像が入っている。
その朗読会で、みづき役の西脇裕美は詩人の北川透に、「文学をやるうえで一番重要なことは何ですか?」と質問するのだが、それに対して、北川透はこう答える。「弱い心、何にでも傷つきやすい心」と。
北川透が言おうとしていることは、単なる弱さではないだろう。「弱い心、何でも傷つきやすい心」と言い切ってみせることで、弱さを隠さない強さが必要だと言おうとしているのだと思う。
だとしたら、北川透の言葉は、みづきに父と向き合う勇気をもたらすものとして使うことができるだろう。
具体的に言うなら、
(1)友人たちに「人間以外の親を選ぶとしたら」と尋ねるシーン
(2)水野照子に母のことを尋ねるシーン
(3)詩の朗読会で北川透に尋ねるシーン
という順番につなげば、みづきが自分の弱さに気づき、父と向き合う決意をするまでのドラマがつくれることになる。
だが、監督の福間健二はそうつないでいない。(3)→(2)→(1)と逆の順番でつないでいる。
その結果、みづきは自分の弱さにうすうす気づいているのに、どうすることもできない登場人物になっていく。
これではドラマを先に進めることは難しくなるばかりだと思うのだが、一体、なぜ福間健二は袋小路に入っていくようなことをしてしまうのだろうか。
夕陽のあとの字幕に関して書き忘れたことが一つある――あの字幕は本当は誰の言葉なのだろうか。
「わたしには関係ない」という前半の字幕は、みづきの言葉として読むことができる。
けれども、後半の「とは言えないだろう。あのことも、このことも。」はどうなのだろう。みづきの言葉として読めないこともないが、監督の福間健二自身が発した言葉のようにも読めてしまう。
ということは、こうは言えないだろうか。
夕陽のあとの字幕以後の展開で、福間健二がやろうとしていることは、みづきを描くことではなかった。みづきが感じているいらだちや混乱そのものを生きることであった、と。
(続く)