筒井武文『孤独な惑星』について(井川耕一郎)


『孤独な惑星』を見たあと、まず思うのは真理を演じた竹厚綾の魅力は背の高さだな、ということです。おそらく、監督の筒井武文が彼女を主演に選んだ一番の理由もそうだったのではないでしょうか。
「まだおれのことが好きなんじゃないの?」と真理に言い寄ってくる面倒くさい男を、水橋研二が本当にこのひとはそんなやつなんじゃないかと思えてくるくらい、実にたくみに演じていますが、このひとと並ぶと竹厚綾の背の高さがきわだちますね。きっと、水橋研二を起用した理由の一つとして、身長差があったはずです。
それから、ベランダに間借り(?)した綾野剛演じる哲男と話すとき、真理は窓の上部についている換気小窓を開け、ちょっとだけ背伸びをします。あの背伸びは、竹厚綾の背をもっと高くしようという試みのように見えて微笑ましい。しかも、この試み、うまくいっているんですね。背伸びするたびに、竹厚綾がどんどん魅力的に見えてくる。


『孤独な惑星』の竹厚綾のもう一つの魅力は姿勢のよさです。
背の高い女性は、自分の背の高さを恥ずかしく思うのか、猫背になってしまいがちなのですが、竹厚綾にはそういうところがない。
真理の部屋の真中には、一本の柱がありますね。おそらく、可動間仕切りをはずした結果、あの柱だけがぽつんと残ったのだと思うのですが、それが不思議と彼女の部屋にふさわしく見えてしまうのは、竹厚綾の姿勢がよいからだと思うのです。あの柱が竹厚綾と姉妹のように見えてくる。
映画の後半、酔ったふりをして押しかける水橋研二が竹厚綾に抱きつこうとして抱きつけず、かわりに柱に抱きついてしまうのも当然かなと思えてきます。
それから、隣に哲男と一緒に住んでいる亜理紗がつくったシチューを一口食べて、真理が「チクショー、うまい……」とつぶやくところ。いきなりガクッとうなだれてつぶやくマンガっぽい演技がきまるのは、その前後の竹厚綾の姿勢がよいからではないでしょうか。


背の高さと姿勢のよさ――これが『孤独な惑星』における竹厚綾の魅力であるわけですが、と同時に、彼女の行動を制限する枷ともなっているところが面白い。
真理の部屋には、テレビがありません。
そりゃあ、そうでしょう。三村恭代演じる亜理紗が横になってビデオをぼんやり見ている場面(というか、顔のアップ)がありますが、テレビというやつは、ああいうだらけた姿勢へとひとを誘導する装置なのです。
竹厚綾演じる真理は姿勢がいいから、だらけることができない。テレビを見るのには向かない身体といったらいいでしょうか。だから、だらけた格好でうつらうつらするということもない。疲れを感じたら、すぐにベッドに向かって眠るという感じです。


それから、真理の身体は、竹厚綾が演じることによって、恋愛に向かない身体にもなっていますね。
真理には、亜理紗のように恋人といちゃつくことができない。いちゃつけないということは、その反動で痴話喧嘩をするということもできないというわけです。
でも、まあ、恋愛に向かない身体であることは、大した問題じゃないでしょう。ひとは恋愛などしなくても生きていけるのですから。
やっかいなのは、あちらこちらで流行り病のように誰もが恋愛しているということです。そんな姿を見ていたら、恋愛に向かない身体を持った真理も、恋愛しなくちゃいけないのかな……、と思ってしまうでしょう。
で、そんな真理のところに、隣に住む哲男がやって来る。


哲男役の綾野剛もたぶん背が高いと思うのですが、『孤独な惑星』における彼の魅力は背の高さではないでしょう。このひとの魅力は、しゃがむ姿にあるのではないでしょうか。
初登場カットからして、綾野剛は体育座りです。しかも、その座り方が膝小僧からいきなり頭が生えているみたいで、思わずぷっと吹いてしまうほどおかしい。味のある体育座りの世界ランキングがあるとしたら、まちがいなく一位でしょう。


最初のうち、綾野剛のしゃがむ姿は、竹厚綾の背の高さを引き立てるためのもののように見えていたのですが、おや?と思ったのは、部屋から追い出された哲男を真理が部屋に泊めてやった晩のことです。
真夜中、真理がふと目を覚ますと、間近に哲男の顔があるのですね。ベッドのすぐ横で体育座りしているわけです。そうして、真理に、寝ますか?なんて尋ねてくる。
哲男は泊めてもらったお礼に真理と寝てもいいかなと思っている。自分の欲望というものがなさそうな彼のあり方は、どこかすっとぼけた感じがあって面白い。しかし、真理は自分の中にひそむ欲望をずばり指摘されてしまったみたいで、うろたえてしまう。このあたりの二人の芝居は見ていてとても楽しい。と同時に、こうも思うわけですね――ああ、哲男のしゃがむ姿は、真理の欲望をのぞきこむのに適した姿勢でもあるのだ、と。
となると、私たちは、次に姿勢のいい真理が横になるのはいつなのだろう?と期待せずにはいられなくなります。そのとき、きっと哲男はしゃがみこんで、真理の顔をのぞきこむことになるのですから。


もちろん、真理の顔のすぐ近くまで哲男の顔が接近する瞬間はそう簡単には訪れません。
ベランダに数日、泊めてほしいという哲男の頼みを真理は受け入れますが、鍵をかけて自由な出入りができないようにもしてしまう。
興味深いのは、ベランダに出た哲男と話すときの真理の姿勢ですね。気がつくと、ソファーに座っている。その姿勢が、映画を見るときの姿勢によく似ているのです。
映画を見るとき、私たちはスクリーンからある程度離れてなければいけません。そういう意味では、真理は哲男との間に適当な距離をおいたことになります。しかし、映画を見ているうち、私たちはスクリーンまでの距離を忘れてしまう。スクリーン上に展開するもう一つの世界に没入したいと思ってしまうわけです。
つまり、映画を見るようにベランダの哲男を見ることの裏には、哲男との距離を縮めたいという欲望がひそんでいることになるのではないでしょうか。


そうして映画の後半、ついにそのときがやって来ます。
帰宅した真理は携帯を使ってベランダの哲男と話をしますが、途中でソファーから立ち上がると、窓をほんの少しだけ開ける。直接、話そうというわけです。
ところが、仕事の疲れが出て、急に横になってしまう(このとき、「本末転倒……」とつぶやいて横になるのがおかしいですね)。そして、「タカシさん……わたしもシカゴに連れてって……」という寝言が彼女の口からもれる。
タカシという名は初めて聞くものです。哲男はその名前に、おや?と思ったあと、物干竿を使ってソファーで眠る真理に毛布をかけてやる。それから、窓を閉めようとしてふと思いとどまり、部屋の中に入って、彼女のすぐそばまで来るとしゃがみこむ。
このシーンは本当に素晴らしい。まずは、窓のすきまから物干竿が入ってくるという、実に古風なエロ表現をあえてやってみせているところが愉快です。次に、足音がしないようにそっと哲男が部屋に入っていくのがいい。彼は真理が見ているであろう夢の中へと入っていこうとしているわけです。そして最後に、しゃがみこんだ哲男が真理の顔にぎりぎりまで接近し、彼女のにおいを嗅ごうとしているのがいい。このとき、映画を見ている私たちは、ふいに肉感的なものを真理から感じ取ってしまうのですね。恋愛には向かないはずの真理の身体がそうではなくなっていくわけです。


ここまで来ると、観客はどうしても真理と哲男の恋愛を期待してしまいます。
しかし、映画はそんな期待をはねつけてしまう――あれは一晩だけのはかない夢だった。目が覚めれば、やっぱり、真理は恋愛に向かない身体のままなのだ。そして、それが現実なのだ、と言わんばかりに。
『孤独な惑星』の後半の展開には不満があるひとがいるかもしれません。しかし、私は後半の展開に「大人の映画」を感じました。
前にも書いたように、ひとは恋愛などしなくても生きていけるのです。ひとが生きていくうえで絶対に身につけなければいけないこととは、恋をする方法なんかではなくて、孤独と仲良くする方法なのではないでしょうか。というのも、恋愛をしている最中にだって、ふと孤独は忍びよってくるものなのですから。
映画のラストで、真理は夜のベランダに出て故郷のお母さんと電話で話します。このとき、真理の身体は今まで以上に充実しているように見えます。おそらくそう見えるのは、彼女が孤独と仲良くする方法をあとちょっとで獲得するところまで行っているからでしょう。


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『孤独な惑星』公式サイト http://kodokuna-wakusei.com/top.html
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