プロジェクトINAZUMA BLOG

2006-09-17

[][]グロヅカ&INAZUMAレポート(飯田佳秀)

f:id:inazuma2006:20060523001423j:image

ある日、講師である井川さんから突然メールが来た。内容は西山洋市氏の劇場新作である「グロヅカ」に、希望者の中から抽選二名限定で無料招待してくれるというものだった。僕は当然、「行きたい!」と思った。しかし、その招待には条件があったのだ。映画を診た者は「作品がどうすれば面白くなるのか?」考えてレポートにして提出すること、それが条件だった。誰もが思うだろう。「何て嫌な条件なんだ・・・」行きたいような、行きたくないような・・・。僕は迷ったが、まあ、他にも観たい人はいっぱいいるだろうし、抽選は狭き門だろう。駄目で元々、いちおう参加希望としておこう。しかし、僕は見事に抽選に当選してしまった。参加希望した人間は僕を含めて二名しかいなかったのだ。僕は応募しなかった人達をけしからんと思い少し恨んだ。こうして僕は、重い足取りで劇場のある渋谷へと向かい、「グロヅカ」を観た。以下の文章は、そうして提出された僕の「グロヅカ」レポートである。


「グロヅカ」はどうすれば面白くなったのか?

脚本について、まず考えるのが「何故、開かずの間を入れなかったのだろう?」という事でした。解説を読むと「古典的怪談『黒塚』に現代的サイコサスペンスの要素を融合」とある。主人公達は『黒塚』の山伏達に対応する存在であるなら、当然「開かずの間」を期待してしまうと思うんですが、脚本家の村田青氏(原作の久保忠佳氏?)はその要素を投入することに抵抗があったんでしょうか?その理由はなんだったんだろう?と考えてみて思ったのは「鬼女(犯人)を縦横無尽に動かしたい!開かずの間なんてスイッチは必要ない!反則技でもいいからところ構わずアイドル達を襲うのだ!」という物だったのでは?と勝手に想像しました。

しかしこの作品の鬼女は、泥眼の面を着けることによってモンスターではなくなっている。『呪怨』の伽椰子にはなれず、『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスでもない。中身が「人間」である以上、「誰?」という問題と「動機は?」という二つを期待してしまう。そして、このふたつに対する回答も・・・面白いとは思えないのがつらいところでした。伏線というものがあまりないからでしょう。なんたって一番やらなそうな人を犯人に持ってきてるだけですから。他は誰がやってもおかしくないという感じですけど。

じゃあどうすればいいのかというと、僕が思うのは中盤くらいで犯人明かしちゃったほうがまだいいんじゃないかと思いました。もちろん動機もそこで明かしちゃってですね。犯人を縦横無尽に動かすのはそれからでも面白いんじゃないかと。そしたらあの超人的な動きが余計に際立つと思うんです。後はその欲望が向かう先をとことん見せるというか。その時点で主人公と犯人以外は全員殺しちゃって「開かずの間」に入れておけばいいのでは?とすら思いました。

そうすると主演の森下千里さんには犯人に負けない強い性が必要かもしれません。映画の森下千里はどうもキャラが薄く感じました。犯人も三○谷○子じゃいまいち・・・。舞台挨拶を見ていると福井裕佳梨さんは「この人の内面ってどんなんだろう?・・・いや、こういう人が実は結構・・・」と思わせる怖さがありましたけど。(でも彼女が泥眼の面着けてても身長でばれますかね)この映画の脚本にはキャストに均一的に見せ場を作るという配慮が感じられるのですが、それでもその中でもう少し誰かに絞るべきだったと思うのです。全員を活かすのならば犯人なんていらない。疑心暗鬼で互いに滅びあうっていう手もあったと思います。(『レザボアドッグス』みたいになっちゃいますけど)

あとは、せっかく映画を撮っているという設定があるんだからそれをもっと活かすということでしょうか。この映画で、いったい森下千里はどんな作品を撮る気だったのでしょうか?スナッフフィルムを発見して、その場所での合宿を企てようとするのは安藤希だった方がよかったのでは?ビデオと同じ事が起こってしまえばいいなんて欲望を皆の前で吐露するとか。そして一番の標的は福井裕佳梨。僕には安藤希福井裕佳梨の「陰と陽」の対決が一番面白く感じられる・・・。二人に憎悪愛とかあって、その二人が一緒に毛布に包まって校歌歌うシーンとか見てみたいです。そうすると犯人は福井裕佳梨で、過去のスナッフフィルムを作成したのも実は彼女。安藤希でスナッフフィルムの続きを作成したいと考えている。伊藤裕子はそのことに気づいていて、止めようと同行するが途中で気づかれ逆に殺害されてしまう。行方知らずの裕子を捜索しているうちにミイラ取りがミイラになり映画中盤で残されたのは福井裕佳梨安藤希だけ。安藤希が遂に皆の死体を発見すると、そこには福井裕佳梨が微笑んでいる。安藤希が一番「死ねばいい」と思っていた福井裕佳梨は、自分こそが殺人者であること、スナッフフィルムの主演女優には安藤希こそがふさわしいことを告白する。安藤希は彼女の中に自分より深い闇を見る。必死に逃げまとう安藤希。そこにはひきこもりだった頃の面影は微塵も感じられない。対照的に福井裕佳梨はその追っかけこそを楽しんでいる。そして二人ともだんだん疲弊してくる。二人ともボロボロになりながらも追っかけが続く。舞台はもはや山を越え二人は砂漠に辿り着く。福井裕佳梨は遂に安藤希を捕まえる。が、二人とも肉体の限界に倒れる。スナッフフィルムは二人の死で完成される。

以上が僕の考えた『グロヅカ』です。後半は僕の妄想が入っていますが、なんせタイトルも『黒塚』から『グロヅカ』ですから、もっと脚本段階から遊んでいいとは思ったんですよね。(次回作なんて『ナイチンゲーロ』だし・・・)

ああ、でも本当に福井裕佳梨安藤希で校歌歌うシーン見たかったなぁ・・・。

グロヅカ [DVD]

グロヅカ [DVD]


この恥ずかしいレポートを提出した半年後に、僕は『INAZUMA 稲妻』を見てしまった。(ちなみに『ナイチンゲーロ』はまだ見ていない。DVD化されたら見てみよう)見てしまったからには、その体験について書かないわけにはいかない。『INAZUMA 稲妻』は、僕が『グロヅカ』に感じた欲望を遥かに高いレベルで満たしてくれたからだ。『グロヅカ』レポートの中で福井裕佳梨安藤希で夢想した関係性がそこにはあった。しかし、スクリーンの中でお互いに傷つけ合う男女を見たいという僕のやさぐれた欲望は、この映画の中では、ある代価を強いられることになる。この映画が劇中劇という構成であり、カメラのファインダー越しの映像が挿入される事によって「見られる者」と同時に「見る者」の関係性までが浮上してしまう構造になっているからだ。その関係性には観客である僕も含まれていると感じてしまったことが問題だった。強いられたと言ったら言い過ぎか?劇中のカメラの視線は、主演男優の妻である千華と同じ視線を観客に共有を施すものだ。『グロヅカ』にも撮影者が存在するビデオの視線というものがあったが、あっちが観客に「恐怖」を共有させるものであるなら、『INAZUMA 稲妻』はどうだろうか?僕は千華と「嫉妬」を共有してしまった。主演男優と女優の情念のアクションに対して、素直に没頭することを許してはいない映画だと思う。(それは編集のカット繋ぎにも現れていたはずだ)劇中劇の主演の二人は芝居から逸脱して、互いの肉体に互いの痕跡を残すことにしか興味がない。彼らは自分達が「見られる者」であることを忘れている。女優は言う。「あんたの血が見たい」それをテレビの前で見せられた千華が感じたものは何だったのか?次の場面で「役者なんて・・・辞めてしまえばいいじゃありませんか」と千華は、仕事に出かけようとする夫を初めて引き止めてみせる。夫に「見られる者」であることをやめて欲しかったというわけか?「見られる者」「見る者」の関係性に凶々しさを感じ取り、それを断ち切ろうとしたのか?女優は刀という媒体を通して男優の体に痕跡を残すが、玄関先で出て行こうとする夫の背中に向かって千華は靴を飛び道具として投げつけることしかできない。この映画の中で、彼女は痕跡をなぞることは出来ても、痕跡をつくることは出来ないのだ。この辺で、千華の孤独がこっちの身にまでしみてくる。千華はその後、夫と女優の関係性に割って入ろうとアクションを起こしていく。人質となった千華を媒介として発生したラストの果し合いには、もはや十字を切ったカメラのファインダーは登場しない。あの十字架はカメラのレンズから、千華の眼に完全に移行を完了してしまっているからだ。再び、斬り合いを開始する二人に千華はカットを掛けることができるか?否。カットを掛けたのは夫のほうだった。「見られる者」「見る者」の関係性を文字通り断ち切ってみせる。そういう断絶の場面でも、この映画は観客に対し叙情的になることは許さない。まるでこれからが始まりであるかのように勇壮な音楽が流れ出し、かえって非情さが際立ってくる。夫婦という「永遠」を志向する関係性はこの映画の中で無残な敗北を喫し、「永遠」を放棄した男優と女優だけが勝利を手にする。流されていく子舟から見える丘の上の二人の死闘が遊戯性を帯びて見えてしまったとき、「ああ、かなわないな」と思う。この「かなわない」という感覚は、映画館の暗闇の中で図らずも傑作に出会ってしまい、涙するときの条件と言ってもいい。「うらやましい」と思い「ちくしょう!」と思う。要するに嫉妬か・・・。僕達はいつだって映画に嫉妬している。増村保造の後期傑作「遊び」のラストは、切磋琢磨してきた男女二人が素っ裸で小舟を押して消えていくというものだった。「捕まるよな・・・」と思いながら笑いながら泣いた。さて、千華と火消しを乗せた小舟はどこに向かうだろうか?彼らの命運を祈る。

f:id:inazuma2006:20060916223718j:image

飯田佳秀:1979年生まれ。福井県出身。8mmでの自主制作を経て映画美学校に入学。

井川耕一郎監督「西みがき」では撮影助手を担当。現在はシナリオ中心に自主制作の未来を模索中。

2006-05-31

[]宮田亜紀(セリ)

f:id:inazuma2006:20060531015733j:image

西山監督の作品には何度か出させていただいているのですが、『INAZUMA 稲妻』はいつもと違っていました。西山監督の現場は淡々とスムーズに進んでいく印象があったのですが、今作品ではテイクを重ね、じっくり、粘っこく撮られていたように思います。

 私の役は相手役と冒頭から終わりまで何度となく刀で相手を傷つけ、憎しみ続ける。その為、現実での私も、どこに山を持っていけばよいかわからず、結局撮影初日から苛立ち続けるしかなかったのでした。 共演者の方々にはかなり無愛想な奴だと思われたかもしれません。

作品を初めて見た時、冒頭からロープが切られる瞬間まで異様なテンションが続いており、私は苛立ちや憤り等いろんな感情が甦ってきて、役のセリ同様じわじわと傷をつけられていくような感覚に襲われました。

そんなこんなでとても客観的には観られないので、一人でも多くの人に観ていただき、できれば感想をお聞かせ願えればと思います。


宮田亜紀:1976年大阪府生まれ。『シネマGOラウンド』の「桶屋」(01年・西山洋市監督)、「月へ行く」(01年・植岡喜晴監督)を皮切りに、「CH4メタン」(02年・西山洋市監督)、「ソドムの市」(04年・高橋洋監督)等に出演。

[]松蔭浩之(加嶋)

f:id:inazuma2006:20060531015847j:image

「顔に傷もつ男」主演の不思議な映画。

チャンバラ劇なんだけど現代劇、劇中劇


十数年ぶりの電話。私にとっては久々の俳優業のオファーだった。西山監督のデビュー作である「おろし金に白い指」で、主人公の夫役を演じさせていただいたのが1991年だったと記憶しているから、随分と長いブランクである。

本業の現代美術家としてのキャリアは積んできた。バンドでライブ活動も続けている。が、俳優業はあれっきりに近い。

であるからして、私はとにもかくにもうれしいのだが、躊躇せざるをえない。しかも、私の外見はもうあの頃とはあちこち変わってしまっているのである。

身体のラインは中年にしてはスリムなままだろうが、髪はすっかり薄くなり、頬も落ち、積み重なる飲酒の果てに肌の色がすっかり落ちてしまっている。そんな私が主演の大役をつとめることができるのか?


「今のオレを確認せずに決めちゃっていいんですか?」

「イイんです。決定」


再会となった映画美学校での本読みはやはり緊張した。

私なりに雷蔵か三船か、なんて勝手に解釈して、主人公「加嶋」の台詞を朗々と読み上げたら、苦笑されるというより、微妙な寒い空気に包まれたのには、身も心も赤くなった。

「マッちゃん、もっと感情入れずにそっけなくやってみよう」

「もっと、もっとそっけなく」

「そこも、そうだなあ、そっけなく!」

結局台本の私の台詞の上にはすべて「そっけなく」と書き込まれた。


そうやって「加嶋」が生まれた。


はからずも、加嶋は誰より、現実の私が考える以上の私に映っているから驚いた。私はこの男が嫌いだ。だが、この男であることからなかなか飛び出せない。


なんとも愛おしい作品である。


松蔭浩之:1965年福岡県生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業。現代美術家。90年アートユニット「コンプレッソ・プラスティコ」でヴェネツィア・ビエンナーレ・アペルト部門に世界最年少で出展。以後個展を中心に国内外で活動。写真、パフォーマンスグラフィックデザイン、空間デザイン、ライターなど幅広く手掛け、アート集団「昭和40年会」、宇治野宗輝とのロック・デュオ「ゴージャラス」でのライブ活動でも知られる。

[]西山朱子(千華)

f:id:inazuma2006:20060531015932j:image

「INAZUMA 稲妻」の妻は ツマハジキのツマよ〜♪

 私が演じた役、千華は、あらすじにあるような“嫉妬に狂ってふたりの関係に割って入る”女の子ではなく・…セリちゃんに花火を投げつけるといったちょっかいは出しますが、あれはもう功を奏す狙いはなく、困っちゃって参っちゃって声を上げただけで・…、誰かを傷つけることなく自壊してゆく女の子でした。

 それは私がそうやろうと目論んだものではなく、シナリオにそうあったので(…のに何故あらすじはそう書くのか。まぁそれはさて措き)、純情であるだけの「千華役を」、という要請は、ひゃ、畏れ多いことで。やんわり「ん〜…。無理があるのでは?」と辞退したら「やる前から出来ないなんて言うな!」と一喝され、「はい、わかりました」となりまして。で、純情というものに想いをめぐらせたら泣けちゃって。去ってゆく相手を引き戻す術を持たず、もう、ただ知る、ただ見る、千華の純情とはそういう行為だと思ったからです。

 千華は二人の戯れを徐々に知ってゆき、そこに交ぜてもらえず悲しみ、あがいて届かぬ声を上げ、最期までその戯れを見続ける…。そういう一途な道程がしっかり書いてあったシナリオに臨んだ私は、行動するにつれ深まる彼女の孤独を、遣る瀬なく抱えておりました。


西山朱子:今関朱子を改名。唐十郎に師事。舞台『ファンキー』(大人計画)、『愛の罰(再演)』(大人計画)出演、他。映画『YYK〜永遠の誤解』(監督:沖島勲)、『桶屋』(監督:西山洋市)、『稲妻ルーシー』(監督:西山洋市)出演、他。

2006-05-30

[][]緋色の研究 『INAZUMA 稲妻』を読む(松村浩行)

(この批評は『INAZUMA 稲妻』についてかなり詳しく論じています。ネタバレが気になる方は映画を見たあとにお読み下さい)

f:id:inazuma2006:20060530001834j:image

囚われた妻を救い出すため、川岸へと通じる地下道の闇のなかを、刀片手に、痛めた足をもどかしそうに引きずって急ぐ加嶋を包むように、どこからかセリの声が響いてくる。おおい、千華ちゃんのとこに行くの? もうそんなに傷ついてるじゃない。止めなよ。止めときなよ。

 その身体に傷を負わせようと、いくども執拗に斬りかかっていった宿命の仇役に向かってかける言葉としてはあまり相応しくないけれど、その声は何だか拍子抜けするほど幼くて可愛らしく、まるで子供が、不意に遊びから抜けて家路についた友達を呼び止める声のようにも聞こえて(加嶋にならってなのか、ここだけ千華をちゃんづけで読んでいるせいもあるのだろう)、二人の関係の奥底には、どこか児戯めいた無窮性が潜んでいるのかも知れないと思える。

 しかしいま、そうしたセリの呼びかけも加嶋の足を止めることはなく、かれをしてただ苛立たしげに、こう叫ばせるばかりだ。うるさい、おまえにはわからないんだ!

 セリの呼びかけがどこか子供っぽい調子をまとっていたのとは対照的に、加嶋の返しは、まるで不倫関係を清算して家庭に帰ろうとする男が、すがる女に向かって浴びせる捨て台詞のようで面白い。思うに「おまえにはわからない」と加嶋が決めつけたこと、それは、何も夫婦のあいだの愛や絆といったことに限定されない、「刀」という媒体を介在させずに取り結ばれる個との個の関係性を指すのだろう。

 ここで興味深く思われるのは、ふたたび加嶋がこれとまったく同じような言葉を、しかしまったく反対の意味で、今度は千華に向かって吐き出すことだ。土手の上でまたぞろはじまったセリとの際限のない果たし合いを止めさせようと、川辺に係留された小舟の上から夫に呼びかける妻へ、加嶋は自棄気味に声を張り上げる。うるさい、おまえに何がわかる?

 この反語的な問いかけは、さきのセリへの断定と正確な陰陽をなしている。千華には「わからない」こと、それは、「刀」(正しくは真剣だけれど)という媒体を介在させることでしか築き得ない、個と個のあいだの特殊な関係性にほかならない(かつて「刀って怖いわね」と千華はいった)。

 「おまえにはわからないんだ!」から「おまえに何がわかる?」の間隙でなされた、最終的な、もはや取り返しのつかない転回に、このドラマのクライマックスは賭けられている。かくしてセリの頬を斬ったときと同じく、上段から振り下ろされた太刀によってロープは断ち斬られ、千華と火消しを乗せた舟はするすると川面を滑って、「わかっていない」人間たちと「わかっている」人間たちとのあいだの隔たりを決定的なものにしていくのだ。

 けれども、あくまで「仇討ち」というものを然るべき手順を踏めば実現可能な(そしてその実現とともに解消されるような)企てとしてしか解していない様子の火消しは措くとして、千華を単なる「わかっていない」人間として斬り捨てることだけは留保しなくてはならない。なぜなら彼女は「わかる」「わからない」の分別(それはあくまで加嶋の側からの分別なのだ)を越えた、あるひとつの根源的なイメージに、映画の半ばで触れていたからだ。

 菓子を食べながらぼんやりとテレビ画面を眺める千華は、いくぶんカマトト的と聞こえなくもない調子で、当事者の妻としてよりは、いち視聴者然として、「この二人、何のために戦っているのかしら?」と独ごつ。と、シーンはテレビのなかのセリと加嶋に移り、まるで千華の問いを承けて答えるかのように、「あたしはね、」と切り出すセリは、うつ伏せになった加嶋の背中に短刀を突き立て、あらわにした肌へその刃を滑らせる。刃はインクをたっぷり含んだペン先のような慎重さで、ゆっくり赤い線を引きはじめる。すると画面は赤というか朱というのか、濃い朱、緋色のような一色に覆われて、そこにセリの声、「あんたの血が見たい。あんたの血潮を浴びたいの」

 西山氏の近作にしばしば挿入される、身も蓋もないほど過激に平板で説明的な図版化の一種とも思えるその単色の画面は、後続する夫婦の部屋のシーンにもう一度現れる。

 疲れて仰向けになっている加嶋を、千華はマッサージを口実にわざわざうつ伏せにさせ、おもむろに手を夫の背に置く。そして芝居をしているあなたが好きだった、あなたと芝居をしているときうれしかった、セリさんのことがうらやましいと告白したのち、そっとシャツの襟を下げる。夫の背中を見下ろす妻のアップに、あの緋色の画面が短く挟まって、ああいう愛し合い方も、あるものなのかしらという千華に、あれはただの殺し合いだよと加嶋が受け流すと、千華はそうかしらと呟いて、指先が傷を、まるで書かれた線を読み取るようにたどりはじめる。

 これを境に、千華は傍観者から妨害者へと立場を変えて、積極的に事態に介入しはじめるのだから、彼女は夫の背中に刻まれた傷に、大きく芝居を逸脱した愛のしるしを読み取り、激しい嫉妬に駆られもしたのだろうけれど、何よりここで大切なのは、うつ伏せになった夫の傍らで、千華がセリと同じ角度から背の傷跡を見下ろしたということ、そしてそうした俯瞰する眼差しの共有のなかで、彼女たちが等しく緋色のイメージに触れたことだと思う。

 おそらく、千華はその反復のうちに、セリによってあらかじめ見られたその緋色のイメージのうちに、みずからの疑問、いったい何のために二人は戦うのかという問いへの、ある簡潔な(しかし言語化することのできない)答えをも垣間見たのではないか。そして「仇討ち」の名においてなされる、二人の濃密な関係性への憧憬すら感じて、ゆえに、いま起こっている状況への参与へと、急速に駆られていったのではないだろうか。

 うつ伏せた加嶋の背に二度立ち現れ、二人の女の眼差しによって密かに分ち持たれていたそのイメージを、しかしかれ自身が目にすることはない。冗談のようだけれど、誰しも自分の無防備な背中を見下ろすことなどできないのだから。それゆえ、あの緋色は加嶋の分別からこぼれ落ち、ドラマの基底に、かれの目には隠された色調として横たわっている。

 それに触れ得た女たちと、触れ損ねた男たち。緋色の画面を透かすことで、『INAZUMA 稲妻』はそのような物語として読めたのだった。


松村浩行:1974年生まれ。北海道出身。大学卒業後、98年映画美学校第2期フィクション科に入り、井川耕一郎、西山洋市などに学ぶ。監督作品として99年『よろこび』、02年『YESMAN NOMAN MOREYESMAN』*1。現在、次回作『トーチカ』撮影に向け長い準備中。

*1:「ブレヒトの戯曲の日本語訳を外国人を役者に起用して映画化するという試み。下手をすればコントすれすれの発想だが、この作品ではその無茶な試みが成功している。極端なまでに直訳の台詞がたどたどしい日本語で語られるのを聞いているうち、いつしか見ている者は言葉を聞いて理解するとはどういうことかを考えだすようになるだろう。少年と母が住む家がまるでフェルメールの絵のように美しいのも忘れがたい」『映画芸術』402号「2002年度日本映画ベストテン・ワーストテン」の井川の選評より。

2006-05-29

[][]『INAZUMA 稲妻』について(大工原正樹)

井川さんへ

(前文略)

ところで昨日、『INAZUMA 稲妻』をついに観ました。

信じられないような綱渡りを見事にやり切っていますね。

映画が始まった瞬間から、何か大変な試みを西山さんはやろうとしているのだ、という気配がビンビンと伝わってきて、鳥肌が立ちっぱなしでした。

つい最近、増村保造『曽根崎心中』を見直して、この梶芽衣子はやはり凄い、と興奮したばかりだったせいか、スクリーンに映る宮田亜紀の芝居が梶芽衣子にダブってしょうがありませんでした。仇の男を見据えるとき、眉間にしわが寄り自然に首が前に突き出る。普通だったら、なり振り構わぬ必死さだけは伝わっても、決して美しく見せることは困難な姿勢と表情が美しいのですよ、宮田さんも。

短刀を持って動くアクションももちろん素晴らしいのですが、床を這う、男にゆっくりと首を切られる、火照る頬の傷を柱に押し付ける、といったギリギリと軋みが聞こえるような宮田亜紀の動きが目に焼きついて離れないのですね、この映画では。

そうかと思うと、仇の男に馬乗りになって刀を突き立てているシーン。スタッフのマイクがフレームに入り演技が中断されるや否や、キッとマイクを睨みつけるカットがありましたね。そのとき彼女の「ヒュッ」という息遣いが大きく入るのですが、その息遣いの官能性たるやアクション映画の醍醐味としか言いようのないシャープさが傍らにある。

そう、これらは全て西山さんがやっていることなんですよ。

あれは何なんでしょうか、カットが潔いまでに短い。

映画はアクションとしての芝居をカットで繋ぐ、時間もアクションとしてカットで繋ぐ、当たり前のことなんですが、今これが出来るプロの監督を僕はほとんど知りません。こういった才能がそれほど高度でない人でも面白い映画が撮れてしまうところがまた映画の奥深いところなんですが、題材を選ばずこれが自在に出来るのが、僕の知る限り西山さんと、あと常本なんです。

例えばアップの決まり方が、常本の場合はここぞというときのケレンが効いているから、時間が止まることで目に付きやすいのですが、西山さんの場合は性格の慎ましさなのか、それとも厳格さなのか、完璧な画の流れの中でカットをぶつけていくため、ぼんやり観ているとアクションが感情としてしか残らないのですね。

この映画でも余韻をバッサリ切り捨てていくため、返って情念だけがクローズアップされて、やたら泣ける。

泣けるのに、変なことをやっているんですよ、あの人は。

あの筋立てで、あの適役の4人を得て、あの演出技術をもってすれば、それだけで情念をめぐる傑作アクションになるというのに、笑いを入れるのですね。

普通は怖くて出来やしない。

ところがこの笑いが、情念のアクションと共鳴し合っているから鳥肌が立つわけです。

といっても、見ている最中はただひたすら動揺するばかりで、頭がぐるぐるしていたのですが……。

(注意! 以下の記述の中にはネタバレの部分があります)

f:id:inazuma2006:20060529002334j:image

子分になる消防士は、宮田亜紀に惚れて仕返しに加担するというシリアスな役回りはあるものの、もっぱら思いつめた彼女との対照で笑いを誘う役です。彼の掘った穴に喜劇の定石どおり3回人が落ちる。この3回の見せ方が見事でしたね。

もう一人、男の妻である西山朱子さんは、キャラクターそのものが情念と喜劇を内包している重要な役でした。なまめかしい存在感にぞくぞくしたのですが、家に帰っても、あの奥さんがいたら怖くて絶対に寛げない。あの男が決闘に向かわざるを得ない運命であることが画で分かってしまう。

玄関のカバンをめぐるやり取りが一番可笑しかったのですが、これは演出。誰もがああいう間の芝居をやってみたいのだけれど、頭じゃ分かっていることをあれほど的確に怖く、しかも面白く見せることはなかなか出来ない。男が玄関を出た後、ドアが閉まるまでにあと何個靴が跳ぶのか、それさえサスペンスになっていました。下手をすると、あそこで緊張の糸が切れてしまうような駄目押しをやっているのにそれが必然に見えてしまう。変な人です、西山さんは。

だからでしょうか、神社の階段のシーンでは、すでに決闘でもなくただ傷つけあっている主役二人の恍惚とした表情がついに情念を超えるのだと思います。

まったく、奇跡のような映画です。

最後、男がとも綱をぶった切り、ボートが岸から離れ、二人の決闘が遠ざかっていくところでは、「やり切った!」という感激とともに、本当に涙がこぼれそうになりました。


しかし、これ、いったい何人が目にすることが出来るのですかね。

『INAZUMA 稲妻』を観ずして前後10年の日本映画を語ることなど馬鹿げている、という事態にすらなってしまったと思うのですが。

大工原

2006-05-23

[][][]『INAZUMA 稲妻』のシナリオの作り方(西山洋市

f:id:inazuma2006:20060523001423j:image

「INAZUMA 稲妻」の脚本は映画美学校7期高等科の片桐絵梨子に書いてもらったものですが、その元ネタとなった企画自体は僕が提示したものでした。僕が提示した企画は、A4の用紙で1ページ半ほどの大雑把なプロットです。プロットというのは、脚本の基本的な骨組みを大まかに記した脚本の設計書のようなものです。

 この最初のプロットと完成した「INAZUMA 稲妻」の脚本はちょっと違ったものになっています。表面的にはちょっとの違いなのだけれど、作品の核心においては決定的に違うと言えるような変更がなされています。それは、脚本作りに取り掛かった初めからそのように変えようとしてなされた変更ではありません。脚本作りの過程で、ある時、ふと浮上してきたコンセプトによって、元のプロットに新たな方向性が導入された時にはじめて決定的な変更が求められた、ということです。ここで言う「方向性」とは元のプロットを見直す新たな視点のことで、その視点に基づいて元のプロットから新たなテーマが掴み出された、ということです。また、「ある時、ふと浮上してきたコンセプト」というのは、「現代劇に、アクション物とは違うコンセプトで『チャンバラ』を導入しよう」という考え方のことです。そういうコンセプトを立てるためには、片桐絵梨子による脚本の第1稿が必要でした。


 最初のプロットには、完成した「INAZUMA 稲妻」にある基本的な人物関係と事件の展開はすべて盛り込まれていました。

 最初のプロットの基本的構成を要約すると、

1、「テレビのヒーロー物で主役のヒーローを演じている中年の男優」がいる。「その正義のヒーローに敵対する悪の組織の一員を演じる女スタントマンは、ヒーローとの戦いを演じる撮影中の事故で顔に傷を負い、女優を引退せざるを得なくなる」

2、「女スタントマンはヒーローを怨み、ヒーローへの復讐を目論むが、女はその復讐を、あくまでも役として演じていた悪の組織の一員として遂行しようとする」すなわち「女は、悪の組織との戦いが行われるはずの撮影現場に向かうヒーロー役の男優をあの手この手で襲撃し、ヒーローを倒すことによって悪の組織に勝利をもたらそうとする」のだ。

3、そのために「女は元消防士だった男を手下として使う」のだが、「度重なる襲撃は不首尾に終わり、最後の手段として女は男優の妻(元ヒロイン役の女優だった)を誘拐して男優を脅迫」する。「男優が悪の組織との戦いを放棄して指定の川岸に来なければ、棺おけに閉じ込めた男優の妻を川に流してしまう」というのだ。

4、「男優は妻を助けるために川岸に現れる。そして男優と女スタントマンとの最後の戦いが行われる」のだった。


 読めば分かるとおり、このプロットの狙いは例えば「007シリーズ」のような娯楽アクション映画です。これを脚本化するにあたって、参考として僕が上げた映画も「007/ロシアより愛をこめて」「大列車作戦」「新ドイツ零年」でした。


 片桐が書いた脚本第1稿は、主役の男女が出演している「テレビのヒーロー物」という設定を「テレビの時代劇」に変えてある以外は、だいたいにおいて僕が出したプロットの展開に沿って書かれた「娯楽アクション物」でした。「ヒーロー物」から変更された「時代劇」という要素も、この時点では表面的な変更に過ぎず、そのことによって作品の核心に決定的な何かをもたらすものではありませんでした。それはそれで片桐の独特なユーモアのセンスが発揮された面白い脚本だったのですが、対立する男女の関係のドラマに深みがないという弱さを感じました。「娯楽アクション物」にそれが必要なのかと言われるかもしれませんが、「娯楽アクション物」だからこそ、より映画を面白くするためにも、それは必要なのです。この脚本の場合、主役の男女の対立から起こるアクションなのだから、そのアクションは男女の対立のドラマと等価、というかドラマそのものでなければならないのです。もうひとつ、脚本に描かれたアクションシーンのスケールや仕掛け(といって普通の商業映画にくらべれば大した物ではありませんが)が、この映画の製作に課せられた撮影日数5日・予算数十万円という枠組みの中では不可能というほどでもないけれど、現実的に考えると実現がちょっと難しいと判断しました。「ロシアより愛をこめて」や「大列車作戦」などを参考例に挙げてしまったのが失敗だったかもしれません。

 これら内容面と製作面での二つの課題を克服すべく、第2稿、第3稿と脚本の直しが試みられたのですが、うまくいきませんでした。どれも第1稿の縮小再生産といった感じのものにとどまってしまって、そこから脱することができませんでした。


f:id:inazuma2006:20060523001506j:image

 

 脚本作りにおいてもっとも難しいと思うのは、最初に書かれたものを生産的に書き直す作業です。一般的に、最初に書かれるものの多くは、イメージや雰囲気で突っ走っているものが多いのですが、そして、そのイメージや雰囲気自体は作品の狙いとして間違っていない場合が多いのですが、ここで見誤ってはいけないのは、イメージや雰囲気というものは、往々にして一般的で使い古されたありきたりな表現に収まりがちだという一つの罠なのです。それに人はイメージや雰囲気といったものに囚われて、そこに安住しがちなものです。イメージを持つことは最初の段階では必要なことだけれど、イメージだけではダメで、次の段階ではそのイメージに新たなコンセプトを導入して新鮮なヴィジョンを立ち上げるクールな客観性を持たなければならない。大事なのは最初のイメージではなくて、しっかりしたコンセプトを持った独自のヴィジョンです。

 脚本の直しでは、最初に書かれたもので構築されてしまったイメージや雰囲気から脱して、客観的に内容を見直し、革新的な変更を行うために、新たなコンセプトを導入する必要があるのです。コンセプトの出所は脚本の内容的な要素に限定されるものではありません。例えば、キャストやロケ場所や美術に関する具体的で面白いアイデアといった演出的、あるいはプロデューサー的な発想などの外的な要因も内容自体に革新的な変更をもたらす新しいコンセプトを呼び込むきっかけになったりします。「INAZUMA 稲妻」の場合は、少ない予算と撮影日数という製作条件そのものが、作品の内容に創造的な変更をもたらすコンセプトを引っ張り出すきっかけの一つになっていることは間違いありません。

 

 片桐の第1稿にはイメージや雰囲気で書かれただけではない独自の表現があったけれど、それをより創造的に進化させるためには、どうしても新しいコンセプトが必要だったのだと思います。そして、そのコンセプトは先ほど説明した内容面と製作面、両面の課題を一挙に解決するものでなければならない。そう考えたときに浮上してきたのが、片桐が書いた「アクション物」としての「チャンバラ」を、「アクション物」とは違うコンセプトで描き直すというアイデアでした。具体的な取っ掛かりとして、プロットでは撮影中の偶然の事故で女が負ったことになっている傷を、実は男優がわざと女の顔を傷つけるためにやったとしたらどうか、というダークな解釈を提案しました。男優の密かな意図に女優が感応して、ダークな情念に取り付かれた男女の倒錯的な果し合いが始まる。元のプロットにも片桐の第1稿にも欠けていたのが、そういうダークな世界観だった。相手を殺すのではなく際限なく続けるしかないエロティックな傷つけあいが、派手な立ち回りでは無いけれども、日本刀を使った男女の激しいドラマとしての「チャンバラ」というヴィジョンとして見えてきました。それによって、脇役の男優の妻や女優の手下である消防士の動きも変わってくるであろうことも見えていました。僕は直感的に「大菩薩峠」を見ることを片桐に薦めました。片桐はレンタル屋で手に入らなかった大映版の「大菩薩峠」三部作のDVDボックスセットをわざわざ大枚はたいて買って見たそうです。「大菩薩峠」に痺れた片桐は、第1稿から脱して「INAZUMA 稲妻」という新しい世界を切り開いてくれました。

 ところで、「大菩薩峠」と「INAZUMA 稲妻」には直接、内容的に重なるところはなく、あのダークなスピリットが参考になるのではないか、とだけ当時は思っていたのですが、もし「INAZUMA 稲妻」を今のラストシーンからさらに発展させて長編化したら、四人の男女の宿命的な愛憎と流転を描く波乱万丈の物語になって、「大菩薩峠」ばりの面白い映画になるに違いないと、今にして考えています。

f:id:inazuma2006:20060523002736j:image