プロジェクトINAZUMA BLOG

2009-10-05

[]『演出実習2007』+『演出実習2008』ノート目次

『演出実習2007』

『演出実習2007』インタビューノート(冨永圭祐)

『演出実習2007』編集ノート(北岡稔美)

『演出実習2007』製作ノート(1)(井川耕一郎)

 1.演出を学ぶ授業が必要、2.「演出実習」という授業

『演出実習2007』製作ノート(2)(井川耕一郎)

 3.10期初等科演出実習の記録ビデオを見る

『演出実習2007』製作ノート(3)(井川耕一郎)

 4.『演出実習2007』、5.演出とは監督の頭の中にあるイメージの再現ではない

『演出実習2007』製作ノート(4)(井川耕一郎)

 6.「撮影現場・段取り篇」(万田邦敏の授業)について

『演出実習2007』製作ノート(5)(井川耕一郎)

 7.「ホン読み篇」(西山洋市の授業)について

『演出実習2007』製作ノート(6)改訂版(井川耕一郎)

 8.「リハーサル篇」(井川耕一郎の授業)について

『演出実習2007』製作ノート(7)(井川耕一郎)

 9.補足(いくつかの注意)、10.最後に


『演出実習2008』

『演出実習2008』製作ノート(小出豊)


[][]『演出実習2007』製作ノート(7)(井川耕一郎)

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9.補足(いくつかの注意)

・『演出実習2007』と『演出実習2008』を見て、同じシナリオでも監督がちがうと、こうも芝居がちがってくるものなのか、と思うひとがいるかもしれない。だが、その感想には間違いが含まれている。

・第一の間違いは、芝居を監督の表現としてだけ見てしまうことである。芝居は監督の表現であると同時に、役者の表現でもある。同じ監督でも役者が別のひとであれば、芝居が変わる可能性が出てくる。

・第二の間違いは、最終的にできあがった芝居がちがうことから、演出は監督の思いつきで自由にやってよいのだと思いこんでしまうことである。

・『演出実習2008』をつくった小出豊くんは製作ノートの中で「演出の順序は問題の発見、そして対処だ」と書いているが、これは重要な指摘である。ただし、小出くんの指摘には、あとちょっとだけ補足説明をつけくわえておきたい。役者や場所などの条件がちがえば、対処方法にちがいが出てくるのは当然だが、『演出実習2007』と『演出実習2008』で私たちが示したかったことは、問題については、どの講師も同じような問題に直面しているということだ。

・具体例を一つあげると、ちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフを正当化するような芝居は何か?が、それにあたるだろう。演出は監督の思いつきで自由にやっていいものとは言えないのである。


・「演技」と言うと、多くのひとは登場人物の感情を表現することをまずイメージするのではないだろうか。けれども、登場人物の感情表現と同じくらい、いや、それ以上に重要なことは、登場人物の存在感を表現することである。

・「撮影現場・段取り篇」で、万田さんは良江役の生徒に、カーテンを閉めること、布巾をしぼること、ちゃぶ台を拭くことなどを正確に行うように求めていた。これは、日常生活を送る身体に登場人物の存在感があらわれやすいからである。

・「ホン読み篇」で、西山さんは良江役の秦さんの口調、ちひろ役の原さんのたたずまいなどを芝居に取り込もうとしていた。この西山さんの試みは、役者の身体が無意識のうちに表現しているもの、つまり、役者の存在感を、登場人物の存在感の表現に活かそうとする試みだと言うことができるだろう。渡辺護の名言に、「スクリーンに演技力など映らない。スクリーンに映るものは、役者の存在感であり、人柄だ」というのがあるが、この言葉は西山洋市の試みと重なり合う部分が多いように思う。

・登場人物の存在感を表現することの重要性を忘れてしまうと、感情表現に対する演出もおかしくなってくる。観客に向かって感情を説明するような芝居を正しい感情表現だと思いこんでしまう危険性が出てくるのだ。

・また、感情を説明する芝居が正しいと思ってしまうと、役者間で芝居の交流ができているかどうかの判断ができなくなってしまう。感情は登場人物間の対話の中から生じるものだということを忘れないように注意してほしい。


・万田さんが演出実習で撮影まで行ったのはなぜだろうか。また、西山さんがインタビューの中で、撮影のときにホン読みやリハーサルでやったこととちがうものが出てこないとつまらない、と言ったのはなぜだろうか。それは、演出の最終的な目標が撮影のときに一番いい芝居を撮ることだからだ。

・撮影のときに一番いい芝居を撮るためには、役者の生理も考慮しなくてはいけない。以下に引用する二人の監督の言葉は大いに参考になるだろう。


 ぼくは、リハーサルを完全にやってはいけないというのが方針なんで。世の中の監督は馬鹿が多いから、完全なものを見てから本番をやる人がいるんですね。完全なものを見たら、その次は、完全なものよりは落ちるに決まってるんですよ。だからぼくは、次に完全になるだろうというときを見計らって、「本番」というわけね。

大島渚大島渚1960』青土社


 一〇時頃、うーんイイ線いってるな、これもキープしておこうと口走りますよね。そして夜一二時を過ぎますと、スタッフの中にありありとさっきのキープをOKにした方がいいんじゃないかみたいなことになってくるわけです。それをもう一遍乗り越えるとすぐに不安がこみあげてくるんです。さっきの一〇時の段階よりいいカットにそれがなるのかどうか、何の保証もないわけですから。そこであきらめて、はい、やめましょうなんて言ったら、俳優さんに対する侮辱だし、こっちの見識も問われるわけです。それでそういう時に何故か不思議に三時、四時になると、いい芝居が出来上がって、それはみんなスタッフも共演者も納得なんですよ。それでワーッと拍手が起きる。

深作欣二日本映画監督協会新人賞シンポジウム」『映画芸術』95年夏・第356号)


・おそらく、いい芝居を撮るには、1テイクで決めるか、さもなければ100テイク以上やるかのいずれかなのだろう。10テイク、20テイクやってねばった気になるのが一番まずいことなのかもしれない。


・『演出実習2007』と『演出実習2008』を見て、これで演出のやり方が分かった、と思うひとが出てくるかもしれない。だが、その考えは間違いである。前にも書いたように、『演出実習2007』と『演出実習2008』は、演出マニュアルではない。演出とはどういう作業なのかを探究する試みなのだ。

・また、『演出実習2007』と『演出実習2008』を見て、演出について自分も同じことを考えていたのだ、と思うひとが出てくるかもしれないが、そういうひとも注意した方がいいだろう。あなたは単にビデオを見て考えた気になっているだけで、まだ自力では何ひとつ考えていないかもしれないのだ。

・『演出実習2007』と『演出実習2008』は映画美学校事務局が保管していて、映画美学校関係者(在校生及び修了生)ならば、いつでも見ることができる。また、素材となった記録映像も映画美学校関係者なら、見ることができる(ただし校内での閲覧となる)。演出について考えてみたいというひとは、これらの映像も活用するといいだろう。


10.最後に

 私たちは『演出実習2007』を三度つくった。

 一度目は、素材映像を分節化し、45分にまとめるという形で。

 二度目は、インタビューするという形で。

 三度目は、製作ノートを書くという形で。

 だが、演出については分からないことがまだまだある。現時点で私たちに言えるのは、「演出とは、監督の頭の中にあるイメージの再現ではない」ということくらいだ。

 私たちは探究を続けなくてはいけないだろう。ただし、これから先は、実作という形での探究になるはずである。


追記:あるブログに書かれていた感想を引用しておきたい。

『演出実習2007』、『演出実習2008』のねらいをきちんと読み取ったうえで紹介してくれた文章だと思う。

どうもありがとう。


午後、美学校へ。美学校映画祭、前夜祭。「演出実習2007」「演出実習2008」「演出実習2009」。生徒と同じシナリオを渡された講師たちが、実際にじぶんならどうするかを実践していく授業の記録と、それに関する後日インタビュー。各講師たちの、どう人物を動かしていくか、どう発声をさせていくのか、どう現場でカット割りまでを考えるのか。それを分節化してひとつひとつみていく映像になっている。画面で起こっていることに興味を引っ張られていると、その起こっている事柄はどういう意図を持って演出する講師たちに仕組まれていたのか、それはこうではなかったかと字幕とインタビューによって(あと当日配布されたA4・22枚もの制作ノートという資料!によって)補足されていく。見ながら気をつけて考えないといけないのが、制作ノートにもあるように、ここで演出している講師たちは、本人たちは自分たちの演出意図にかならずしも自覚的ではないということで、最初から頭の中にあったゴールを目指して役者をコントロールしているというのではないということだ。分節化して振り返ってみるとシステマティックに最初から明確な着地点を目指して進んでいるようにみえるが、それはシナリオを役者に演じてもらっているうちに変わっていったもので、決まったものに向かうために行われていたのではない。(いや変わっていくというとどんどん別物になるような気がするので、研がれていく、というべきか)最初から考えていたことと、現場で考えられたこと、役者が動いてみた印象、それによるシナリオの読み直し、さらに役者の芝居をみて、と、どんどん思考が重ねられて研がれていく。その段階でこっちだろうと判断をして着地点を見つけていく。もしくはさらに探していく。「2007」「2008」で試行錯誤していた各講師のやり口と、シナリオは違うものの各講師が実際に演出した「演出実習2009」での作品群まで見比べるととても面白い。


 http://wakadosiyori.blog89.fc2.com/blog-entry-140.html

2009-09-17

[][]演出実習2007製作ノート(6)(井川耕一郎)

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8.「リハーサル篇」(井川耕一郎の授業)について

 「リハーサル篇」はなかなかつくる気にならなかった。というのも、分析の対象が私の授業だったからだ。自宅で素材となる記録映像を見ようとするのだが、一、二分見たところでビデオを止めてしまうということが何度かくりかえされた。実習の内容以前に自分の姿や声にうんざりしてしまうのである。

 しかし、こういう自己嫌悪ナルシシズムの裏返しみたいなものだ。いつまでもイヤだイヤだと言っているのもみっともない。塩田明彦の授業が素材として使えないのだから、これで「リハーサル篇」をつくるしかないのだ、と自分に言い聞かせていたところに、北岡さんから連絡があった。

 素材をパソコンに取り込むところまではやったのだが、どうやって45分のダイジェストをつくっていいか、まったく方針が見えないとのことだった。

 私のリハーサルのやり方は、演技経験があまりない素人のひとに出演してもらうときのものだ。

 まずはシナリオの一行目をくりかえし演じてもらう。そして、先に進めそうな感じになってきたら、今度は二行目までをくりかえし演じてもらう。そうやって演じる芝居の量を一行ずつ増やしていくのである。演技することにちょっとずつ慣れていってもらうやり方と言ったらいいだろうか。

 驚き呆れたのはリハーサルの回数だった。私は20〜30回くらいだろうと思っていたのだが、そうではなかった。北岡さんがカウントしたところ、88回やっていたというのだ。これにはもう笑うしかなかった。


 だが、北岡さんを困らせていたのは、リハーサルの回数の多さだけではなかった。リハーサルの一回一回の意味がよく分からない。そのため、リハーサルの何回目を使って、何回目をカットしたらいいかという編集方針が立てられない、と言うのである。

 そこで、私たちは学校の編集室で素材の記録映像を頭から見ることにした。

 それは何とも奇妙な体験だった。二年前に自分がやったことなのに、そのほとんどを忘れている。なのに、見ているうち、ああ、こいつは次にこんなことを言うだろうな、と画面の中の自分の考えが想像できるのである。「思い出す」というのとはちがう。まるで未来の自分の行動を予測しているような変な気持ちになってきたのだ。

「さっき、ちひろ役の福井(早野香)さんがちょっとイスをずらしただろ。こいつはきっとそれが気になってる。だから、『もう一回お願いします』と言うはずだよ……ほら、言った」

 そんなことを半分冗談みたいに言っていると、北岡さんがふいに画面を止めた。そして、私に質問をしだしたのである。


「井川さんはちひろ役の福井さんの芝居が変わるといいなと思っても、福井さんには直接何も言わないんですね。そのかわり、良江役の今岡(陽子)さんに、ちひろの芝居を変えるような芝居をするように指示を出している」

「ああ、そうかもしれないね」

「で、良江の芝居をああでもないこうでもないと変えていくうち、ちひろ役の福井さんが思わず反応して体を動かす。その無意識の動きを見て、井川さんは、あっ、これは使えそうだな、と思ったら、『もう一回お願いします』と言って、同じ動きをするかどうか確かめるんですね」

「うーん、そうなんだろうなあ」

「そうして、福井さんが同じ動きをやったら、井川さんはその動きをいかした芝居を考えるってわけですね」

 「なるほどね。そういうことか……」と私は思わずつぶやいてしまった。北岡さんが指摘したことは、演出のときに私があまり意識せずにやっていたことだったのだ。

 要するに、私が役者に求めていたことは、登場人物の内面を説明するような芝居をしないでほしいということだった。役者には登場人物間の関係の変化を意識して演じてもらいたい。そのために、ある役者に芝居に関する助言をするときには、相手役の芝居を変えるという間接的というか実にまわりくどい方法で助言していたのだ。


 北岡さんは「リハーサル篇」をどうやって編集したらいいかをつかみかけているみたいだった。そこで私は自宅で素材映像を見直し、新たに気づいたことをメールに書いた。

(参考までに言っておくと、私は課題シナリオの舞台を学校の教室に設定し、ちひろがメールで良江を呼び出したというふうにしている)


北岡さんへ


演出実習の素材、見直してみた。

で、たぶん、ここが重要だったんだろうなというところがいくつかあったので、以下に記しておきます。


1.良江役の今岡さんが「ごめん、遅れた」と言いながら、教室に入ってくる芝居を何度かくりかえしているうち、

「十分遅刻にしていいですか?」と提案してくるところ。

今岡さんの芝居が変わる徴候だな、と思ったのをおぼえている。

で、今岡さんの芝居が変わる方に力を入れて、

今岡さんの芝居を通して、福井さんの芝居が変わればいいと思ったんじゃないかな。


2.良江役の今岡さんが「男、紹介しろってこと?」と言って、ちひろ役の福井さんの隣の席に移動すると、福井さんがちょっとイスをずらして離れようとするところ。

福井さんが最初に決めた席付近でずっと芝居が続くのはつまらない。

どこかで福井さんが移動した方がいいと思っていたんだけど、

福井さんがイスをずらすのを見て、あっ、席の移動は、このあとでできると思ったんだな。

だから、今岡さんが「じゃあ、何なのよ」と言うときに福井さんにもっと接近させようとしたんだと思う。

しきりに今岡さんと福井さんが、近いよね、近いよね、と言っているけれど、

そういう違和感がうまく席の移動につながればいいなと思っていたのであった。


3.福井さんが机の上にのっかって後ろの席に移動したあと、今岡さんが思わず笑うところ。

今岡さんの笑いを見て、福井さんの移動はユーモラスであるといいなと思ったんだと思う。

もし本番の撮影をやるのなら、

福井さんの移動を見て今岡さんがつい笑ってしまうという芝居を撮らないといけないなと思ったのを思い出した。


そういえば、授業前に考えていたのは、

福井さんはネズミとかリスとか小動物ぽいただずまいだな、ということで、

そういう小動物ぽさがうまく使えないかなと思っていたのだ。

机の上をどんどん歩いてもらうようにしたのは、

小動物が追いつめられて逃げる感じを狙っていると思う。


4.今岡さんが「ドアを閉められると恐い」と言うところ。

重要なことを話すときには、ドアを閉めるだろうと思って、福井さんにはドアを閉めてもらったんだけど、

それを恐いと今岡さんが感じるとは思わなかった。

で、恐いという感じは面白いな、それを活かせないかなと思ったんだと思う。

電気を消したり、ゾンビみたいに歩いて今岡さんに近づいて、と福井さんに言っているのは、

今岡さんの反応を参考に考えた芝居のはず。


ざっと見て気になった場面はこの四つかな。

この四つは芝居を考えるヒントになったところだと思う。


井川


 北岡さんは私のメールなども参考にして45分の授業のダイジェストを編集してくれた。となると、次は私が作業をする番である。

 北岡さんがまとめたものを見てまず思ったのは、自分の演出過程が大きく二つに分割できるということだった。前半はリハーサルの37回目までで(課題シナリオで言うと、良江が「じゃあ、何なのよ」と言うところまで)、このパートでは、良江役の今岡さんの芝居を変えることで、間接的にちひろ役の福井さんに今いる場所から動くように求めているみたいだった。一方、51回連続で行われる後半のリハーサルでは、逆に福井さんの芝居を変えることで、今岡さんに福井さんを追いかけるように求めているみたいだった。さらに、前半については、9回目のリハーサルまでは、ドラマが始まる前の二人がそれぞれどうであったかを探る段階のように思えた。

 また、画面に映る自分を見ていると、五つくらいの課題を設定して、それらを解決するためにあれこれ試行錯誤を行っているように見えた。

 そこで私は「リハーサル篇」の構成を次のように考えた。


 1.芝居の準備


 2.良江の芝居がちひろを動かす

  課題1:ちひろにどう接近するか

  課題2:ちひろをどう動かすか


 3.ちひろの芝居が良江を動かす

  課題1:良江を動かす芝居は何か

  課題2:良江を再び動かす芝居は何か

  課題3:良江にどう接触するか


 ところで、「撮影現場・段取り篇」でも「ホン読み篇」でも問題となった部分、つまり、


良江「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」

ちひろ「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」


という部分は、二年前の私の演出実習ではどうなっているのだろうか。

 リハーサルをくりかえすうちに見えてきた芝居の流れは次のようになっている。


・ちひろは「でも、男になりたいわけじゃない。分かんないよ」と言って、教室の電灯を消す。この消灯という行為は、良江に向かって二つのメッセージを同時に発しているように見える。一つは「私をあなたの前から消し去ってしまいたい」というもの。そして、もう一つは「私を放っておかないで」というもの。

・良江は灯りをつけ、カーテンの後ろに隠れているちひろを発見する。だが、ちひろは黙ってしゃがみこんだままである。このとき、ちひろの身体は「そばに来ないで」というメッセージを発している。しかし、これは良江を学校の教室に呼び出したメールと矛盾するメッセージである。

・良江は「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ」と言いながら、ちひろが座っていたイスをもとの位置に戻す。それから、ちひろから離れたところにあるイスに座ると、「何もしてやれないよ」とつぶやく。


 この芝居の中で、ちひろは他のメッセージと矛盾する内容のメッセージを二度発しているが、重要なのは二度目のメッセージを受け取ったときの良江の反応だろう。良江は矛盾にとまどい、「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ」と突き放すようなことを言ってしまう。だが、その一方で、ちひろの身体が発しているメッセージよりも、メールの方が彼女の本心を伝えていると考え、教室にとどまることにする。つまり、良江もまた、ちひろのように矛盾したメッセージを発するようになっているのだが、この無意識の模倣がちひろを心配していることの証となっているのである。

 しかし、こう書いてしまうと、二年前の私がちひろ役の福井さんに矛盾したメッセージを発する芝居をしてもらおうと意識的に考えたように見えるかもしれない。が、それは実際とはちょっとちがう。

 二年前の私はちひろ役の福井さんに「高校のとき、つきあってた子に彼氏ができた」と言う前にドアを閉めるように求めた。そうして何度かリハーサルをくりかえしていると、良江役の今岡さんの芝居が変わってきたのだった。「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり?」と言いながら立ち上がり、カバンを置いたところに戻るという芝居をするようになったのだ。私には今岡さんがなぜそういう芝居をするのかがすぐには分からなかったが、その芝居が間違っているようにも見えなかった(ドアを閉められたときに感じた恐さをごまかすためだったということには、あとになって気づいた)。いや、それどころか、このあとの展開に活かせそうな何かがあると感じられたのだ。そこで私は遠くに離れてしまった良江を呼び戻す芝居をちひろにさせてみようと思い、消灯を思いついたのだった。

 要するに、二年前の私はすべてを意識的に考えていたわけではなかった。今岡さんの芝居が使えるかもしれないという勘に衝き動かされるようにして演出していた、と言った方がいいくらいかもしれない。

 おそらく、演出を学ぶ授業の難しさはこの点にあると思う。講師は無意識に助けてもらいながら演出を行うために、自分がしたことについてその場で正しく解説することができない。より正確な解説を行うには、時間をおいて演出をふりかえってみることと、講師の無意識を指摘するような質問をするインタビュアーの存在が必要不可欠なのだ。


 冨永くんのインタビューは、「〜したらどうなりますか?」という口癖についての質問から始まり、私の無意識にどんどんふみこんでくるものだった。だが、私は冨永くんの質問に分かりやすく丁寧に答えていただろうか。あとで15分に編集することを考えて、短く素っ気ない答え方になってしまったような気がしてならない。

 中でも気になっているのは、ちひろ役の福井さんが唐突に机の上を歩く芝居についてだ。冨永くんは、ああいう芝居はちひろのキャラクターから大きくはずれそうな心配があるのですが、と尋ねてきたのだが、私はそれに対してきちんと答えていないと思う。

 普通、「キャラクター」と言ってひとが思い浮かべるものは、第三者の目から見た普段の印象みたいなものだ。だとしたら、登場人物のキャラクターが有効に機能するのはドラマの半ばくらいまでで、関係が変化して、たとえば、登場人物が追いつめられるような状況に陥った場合には、そのキャラクターの維持は難しくなる。

 つまり、別の言い方をすれば、キャラクターには大きく分けて二つあるということなのだろう。一つは普段のキャラクターで、これはドラマが進むにつれて破綻し、使い物にならなくなってくる。そこで、関係の変化に対応した新たなキャラクターが普段のキャラクターに取って代わることになる。

 ちひろ役の福井さんがいきなり机の上を歩くのは、ちひろの普段のキャラクターが破綻してしまったことのあらわれだろう。その後、ちひろはひとの前で、ドアを叩き、スイッチを切り、というふうに身近な物にあたるキャラクターとなっていく。

 ところで、気になるのは、まわりの物にあたるという行為があらわれるのはリハーサルの後半になってからではないということだ。「芝居の準備」と名づけた最初の段階で、福井さんは良江が来るのを待つちひろを演じているときに、ペットボトルで机を叩いていたのである。ドアを叩いたり、スイッチを切ったりという芝居は、これの変奏であると言っていいだろう。

 同じようなことは良江を演じた今岡さんにも言える。今岡さんは机の上を歩いたあとのちひろに近づくときや、ちひろに「じゃあ、わたしとつきあってくれる?」と言われたときにふいに立ち止まる芝居をする。しかし、この立ち止まる芝居は「芝居の準備」の段階でも見られるものなのだ(9回目のリハーサルで、今岡さんは教室に駆けて入ってくるなり急に立ち止まっている)。

 ということは、こういうふうには言えないだろうか。「芝居の準備」の段階は、福井さんや今岡さんにとっては、演じる役に慣れ親しみ、演技に勢いをつけるために必要なものであった。一方、演出する私にとっては、キャラクターの変化に左右されない登場人物の仕草を発見する段階であった。たぶん、そうした仕草を発見しないことには、私は演出の方向性についてきちんと考えることができなかったにちがいないのだ。

 だがそれにしても、キャラクターの変化に左右されない登場人物の仕草とは、その登場人物の存在感のことではないだろうか。と同時に、演じる役者自身の存在感のことでもないだろうか(注13)。


注13:私は以前、プロジェクトINAZUMAのパンフレットに次のようなことを書いたことがある。

「私たちは役者の演技の中に演じられる役と役者自身の存在感とを同時に見てしまう。そして、この二つのものの間で視線がゆれ動いてしまうことが劇映画の魅力の基礎になっていると言うことができる。問題は、役者が役そのものになりきったときに、役者の存在感が見えにくくなってしまう事態が起こりうるということである」

「私たちは役者の身体や芝居との対話を通して演出プランを何度も破棄・更新する。しかし、役者の存在感をどう表現するかという演出上の危機に直面したときこそがもっとも重要な飛躍のときである。そのとき、私たちはドラマの核心をどう表現したらいいかという問題も同時に解決する可能性を引き寄せているのである」

(井川耕一郎『プロジェクトINAZUMAは演出について考える』)

2009-08-31

[][]『演出実習2007』編集ノート(北岡稔美)

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映画美学校2期初等科時代、提出したビデオ課題を見た担当講師の井川さんの講評はこうだった。

「おそらく北岡さんは、考えてきたカット割りをこなすことばかり気にしていて、演出を怠っていたのではないだろうか。」

はい、ごもっともです井川さん、でも私、怠っていたというより、演出ってもんがよく分かってないんです……

当時、そんな言い訳めいたことを言った気がする。

それからは「演出」について考えてみたものの、考えれば考えるほど、どうやったら「演出」したことになるのか分からなくなった。おかげで2回目のビデオ課題は散々な結果となり、「演出できない自分」がトラウマになった。


あれから10年。


「演出とは何か?どうやったら演出ができるようになるか?」という疑問をずっと抱き続けていた。

なので井川さんから「『初等科の演出実習』記録を素材にした教材ビデオを作りたいので、編集を担当して欲しい」とお話をいただいたときには、渡りに船とばかりに引き受けた。


映画美学校の授業内容は、年々変化していっている。


私が現役生だったときには、このような「同じシナリオを使ってグループ毎に演出・撮影をする」という実習はあったが、さらにその後で「同じシナリオで講師が演出をして見せる」というステップはなかった。なので、これは非常に画期的で魅力的な授業に思えた。現役時代、こんな授業があったらなぁ……と羨ましくさえなった。


よし、これは良い機会なので、自分のために引き受けるとしよう!本音はそんなところである。


こうして教材ビデオ制作が始まった。


まず手始めに、実習の記録ビデオを借りて見ることにした。

講師一人につきDVテープ3〜4本、軽く3〜4時間分。恐ろしく長く、正直ゲンナリしたが、編集前の素材のチェックも兼ねているので見なければならない。いや何より演出を勉強するんだから見るべきなんだよ自分!と自らにハッパをかけて見始めたら、これがたいそう面白く、興味深い授業記録であった。確かに、これをデッドストックにしておく手はない。よし、君ら(記録ビデオたち)に日の目をみせてやる!

見処は山のようにあるので編集するのはもったいない気もしたが、ダイジェスト版以外に完全版も自由に閲覧できるようにすると聞いたので、ダイジェスト版は演出を考えるための導入と捉えることにした。

ひとつ気になったのは、後ろで見学している初等科生たちの様子だった。

講師の演出をしっかり見て勉強しよう!と気負いつつ参加したのであろうが、ただ見学しているだけの状態が何時間も続くと、さすがに辛かろう。こんな授業があって羨ましいなどと思ったりもしたが、もし自分があの場にいたとしても、恐らく彼らのような状態で最終的にはボンヤリ見ているだけになってしまうのではないか。それでは単に授業に出席したという事実だけが残り、肝心の演出について何も学んでいないことになる。そんなことも感じたので、このビデオは「授業に出てみたけれど、よく分からなかった」初等科生がいると仮定し、そんな初等科生を始めとする演出初心者(自分も含む)向けに編集することにした。


久しぶりのファイナルカット。腕が鳴る。


万田さん、西山さん、井川さんの3講師の演出記録を見て、いちばん動きがあって進行も分かりやすい万田さんのダイジェスト版から編集に入った。

井川さんから、「実際の時間を入れてください」という指示があったので、素材を取り込んだ後はまず5分刻みの分数を入れた(これは基本フォーマットとして、他の2本にも同様にした)。


万田さんの場合、とにかくよく動く。美学校のロビーに椅子を並べて家具に見立て、即席のセットを作る。作られた空間を歩いてみて、位置を調整し、そこで実際に登場人物二人の動きを試してみる。ベッドに見立てた椅子に横たわろうとし、「いや違うな」という感じで首をかしげて起き上がる万田さんには、ついクスリとしてしまう(万田さんゴメンなさい)。しかしこのシーンは重要なのだ。実際に自分の身体を動かして考える。それはこの実習のあいだ常に万田さんがしていたことだ。その万田さんの動きを中心に繋げばいい。編集方針は決まった。

とはいえ、膨大な素材のどこをカットし繋いでいくか。特に万田さんの場合、実際に撮影するところまで進んでいたので、使えない部分を切っただけでも1時間15分くらいあった。あますところなく丁寧に繋げば、それはほとんど編集しないまま見せることになる。

困り果てて井川さんに相談すると、では実際に撮影をする前まで(カット割を発表するところまで)にしましょう、ということになった。撮影に入るところまでで約65分。あとは方針通り万田さんの「動いて考える」動きを中心に、テイクを重ねている部分や内容的に分かり辛い部分をカットし、なんとか45分のダイジェスト版にまとめた。

ちなみに字幕を付けることにしたのは井川さんのアイデアである。字幕を付けたことで進行がより明確になったのは良かったと思う。


西山さんの場合は、本読みから始まり、リハーサルに移行していくというやり方だった。

しかしこれは、前もって井川さんから「今回は本読みの部分だけを使いましょう」という指示があったので、編集的にはあまり困ることがなかった。というのも、見ていただければ分かるように、一連の流れで進行しているので、切りようがなかったのだ。

しいて言えば、冒頭で、試しに役を入れ替えたのが、そのほうが面白いということになり、入れ替えたまま続行することになった経緯を説明すべきかどうか迷ったことだったが、井川さんの「字幕を入れるだけでいいよ」の一言で解決した。

編集がスムーズにいったから、というわけではないが、西山さんのはフィクション映画を見ているようだった。

西山さんは役者の生徒に対して、様々な指示を出して本読みをさせる。そして尋ねる。「今、何回くらい読んだかな?」「自分の中で、役に変化は出てきた?」そうして役者との対話を通して、西山さんの中にも新たなキャラクターを生み出そうとしているように思える。その流れが、なんとも不思議なやり方に思えてドキドキするのだ。西山さんは一体何を考えて、どこに向かっていくのだろう?と、ワクワクしながら編集していたことを思い出す。(そしてその謎は後日のインタビューで明らかになるのだ。)


井川さんの場合が、一番困った。

リハーサルをやっているわけだが、説明もほとんどなく、「もう一回お願いします」を繰り返すばかりである。

初めて見たときから、リハーサルの回数を字幕で入れることだけは頭にあった。

なので、とりあえず回数を入れてみた。

1回目、2回目、3回目……15回目、16回目……50回目、51回目!

これには当の本人・井川さんもビックリするやら呆れるやらで、思わず笑ってしまった。

この「回数を重ねる」というところが、井川さんの特徴だろう。

ところが。では××回目と××回目を使って、××回目と××回目をカットする、というのが皆目見当がつかない。

結局この『リハーサル編』に関しては、本人に編集構成を考えてもらうしかなかった。

自分が演出している姿を自分で編集するなんて、相当やり辛かったと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいである。


こうして、3本の教材ビデオの編集は終わった。


万田さん、西山さん、井川さんはそれぞれ違ったやり方で演出をしていた。それはきっと、経験を積み重ねて到達した自分なりの方法なのだろう。

つまり。演出が分からないと嘆くより、どんどん経験を積むべきだ、ということか。うーん、そうだったのか……

『演出実習2007』は演出のお手本ビデオではない。自分なりの演出を模索するときの研究資料として、大いに役立てていただければと思う。勿論、自分にとっても……

2009-08-29

[][]『演出実習2007』製作ノート(5)(井川耕一郎)

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7.「ホン読み篇」(西山洋市の授業)について

 西山さんが演出実習の授業で行ったのは、ホン読みとリハーサルだった。

 ただ、リハーサルは西山さんが初等科生の前で演出してみせるという感じではなく、さまざまな設定を考えて生徒と一緒に芝居を模索してみるというものだった。

 これはこれで授業としては興味深いものだけれど、講師をサンプルに演出について考察するという私たちの方針からはずれる部分があった。なので、ホン読みの部分だけを45分にまとめることにした。

 また、一番最初のホン読みでは、秦俊子さんがちひろを、原貴子さんが良江を演じているのだが、途中でそれを逆にするという事態が起きている。

 この役の変更にいたる過程を授業のダイジェストに組み込むかどうかは北岡さんと悩んだところだったが、最終的に45分にまとめるためにカットした(ただし、冨永くんによるインタビューでは、この件について西山さんに尋ねている)。


 西山さんの授業をまとめた「ホン読み篇」を見て、万田さんは、あれは役者の演技に絶望したことのあるひとがやるホン読みだよね、というようなことを言っていた。万田さんのこの言葉は、西山さん流のホン読みがどのように始まったのかを言い当てているように思う。

 役者の中には、感情をたっぷりこめて演技するのが正しいのだと思いこんでいるひとがいる。

 けれども、そういう役者の芝居を見ていてつい思ってしまうのは、この演技には感情の説明しかなくて、肝心の感情がないではないかということだ。あるいは、役者が感情の説明ばかりしていて、登場人物を演じるのを忘れているといったらいいだろうか。

 似たようなことはホン読みを見学しているときにも時々感じる。

 思いきり感情移入してホン読みをする役者の声を聞いていると、セリフがさっぱり頭に入ってこないときがある。その役者の声が「この声の主は今ここにいる私ですよ」というメッセージを伝えようとばかりしているからである。

 また、ホン読みが白熱しているように見えるときにも、危険なものを感じてしまうことがある。役者同士が感情移入の能力を競い合っているだけで、演じるべきドラマがどのようなものかを忘れている場合があるからだ。


 西山さんのホン読みを見てまず感じたのは、西山さんの指示が「演技とはこういうものだ」という思いこみの解体を目指しているのではないか、ということだ。

 「抑揚をつけずに」という指示は、「演技とは感情をこめるものだ」という思いこみを解体するためのものなのだろう。

 「間をつめて」もそうだ。インタビューの中で西山さんは、間の中には余計な感情や表情が入りこんでしまいやすい、と言っているけれども、「間をつめて」は、それら夾雑物を排除するための指示だろう。

 それから、「声を低く」という指示は女性に対しては有効なものかもしれない。「女の子らしさ」という紋切り型を演じるには、高い声を発するのが手っ取り早い方法だからだ。


 だが、西山さんのホン読みが何を目指しているのか分からないものになっていくのは、これらの指示が何度かくりかえされたあとからなのだ。

 「低い声でボリュームを上げて」だとか、「低い声で元気よく」といった指示は何なのだろう? 声を発するのがとても難しい指示のように思える。嫌がらせすれすれの指示と言ってもいいのではないだろうか。実際、演じている秦さんも原さんも西山さんの指示にとまどっているのが記録映像からもよく分かるのである。

 それから、もう一つ気になることがある。そもそも、演技に対する思いこみを解体するようなホン読みが、原さんと秦さんに必要だったのかということだ。

 自分の思ったとおりにホンを読んでみて、と西山さんに言われて、二人が行った最初のホン読みは悪くないのである。過剰な感情移入を避けているのだ。なのに、なぜ西山さんは上に記したような指示を二人に出していったのか。


 どうやって分節化したらいいかを考えながら、西山さんの授業の記録映像を見ているうちに気がついたことがある。

 30分経過したあたりから、ホン読みの進め方に変化があらわれるのだ。

 それまでのホン読みは西山さんが次々と指示を出し、それを秦さんと原さんが実行するというふうに、西山さん主導で行われてきた。

 だが、西山さんが演じる二人に「もう何回くらい読んだかな……。自分の中で、役に変化は出てきた?」と尋ねだしたあたりから、様子がちょっとちがってくるのである。秦さんも原さんも、自分が身をもって感じたことを素直にできるだけ正確に話そうとする。すると、西山さんは二人の言葉をじっと聞いてから、ホン読みの新たな指示を出すようになるのだ。

 30分目を境に、ホン読みの主導権が西山さんから演じる二人の生徒へと移りかけているとでもいったらいいだろうか。特に良江役の秦さんの言葉は、西山さんの思考力をかなり触発しているように見えるのである。


 ――と、そこで私はふと思ったのだった。

 ひょっとしたら、今回のホン読みでは、最初の30分間は演技に対する思いこみの解体を目指すというより、30分目以後の役者との対話を準備するために行われていたのではないか。

 だとしたら、30分目以後の演出作業を分節化するには、西山さんを中心に記録映像を見ていてはだめだろう。演じる二人の生徒、特に秦さんの言動に注意して見る必要がある。

 そこで、私は北岡さんに次のようなメールを書いて送ったのだった。


北岡さんへ


ビデオを何度か見ていてどう整理したらいいか分かった。

西山さんのホン読みは、大体、次のような流れで進んでいますね。


(1)まずは役者の思ったとおりにホン読みをしてもらう。


(2)抑揚をつけずに、間をつめて、低い声でホン読みをしてもらう。

 さらに、低い声で大きく元気よくホン読みしてもらう。

 こうすると、役者はセリフに感情をこめることが難しくなる。


(3)上記(2)の読み方をしてどう感じたかを役者に尋ねる。

 このときに、役者は不自然で無理な読み方をしているときに感じた違和感をとおして、登場人物の感情を再発見する。

 また、自分の身体(発声)と登場人物のキャラクターを結びつけて意識的に考えるようになる。


(4)上記(3)で感じたことをふまえて、

 ホンの解釈を行い、ドラマの流れに沿った具体的な指示を出して、ホン読みをする。

 全体を通しで読んだあと、いくつかのブロックに分けて細かく指示をする。


というわけで、編集の方針ですが、

まずは、西山さんのホン読みが四段階になっていることを字幕で明確に示す必要がありますね。


で、次に重要なのが(3)なのだ。

ここは一見すると、休憩時間の雑談のように見えてしまう。

ところが、ちがう。

西山さんは役者の言葉に触発されるようにして演出を考えている。

(3)がないと、(4)での指示は出せないのだ。

なので、(3)で何が起きているかを丁寧に分節化しないといけないでしょう(注10)。


井川


 編集作業中のことで印象に残っているのは、北岡さんの言葉だ。西山さんがシナリオの解釈を話しだすあたりで、北岡さんはマウスを持つ手を止めると、ふっと笑ってこう言ったのである。「何だか、西山さんと生徒のやりとり、劇映画みたいですよね。シナリオがあったんじゃないかな?」

 たしかにそんな冗談を言いたくなるくらい、ここは劇的な展開なのだ。

 秦さんと原さんがホン読みをやってみて感じたことを話しているうちに、話題はシナリオそのものに対する感想になる。すると、秦さんが違和感を感じてどうしてもひっかかってしまうセリフということで問題にするのが、「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」なのである。

 「撮影現場・段取り篇」の解説でも書いたように、このセリフはちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフと並んで、シナリオを解釈するときに一番注意して読まなければならないものである。それを秦さんはずばり指摘しているのだ。

 そして、秦さんの指摘を受けて、西山さんはちょっと考えてから自分の解釈を話しだす。親しい間柄なら、これくらいそっけない言い方をするものじゃないかな。良江とちひろは中学くらいからの長いつきあいなんじゃないだろうか、と(注11)。それから、西山さんはもう一回、秦さんと原さんにホン読みをしてもらうと、すぐに具体的で細かい指示を出していくのである。

 このあたりの秦さんと西山さんのやりとりの無駄のなさは、ちょっと普通ではない。シナリオがあったんじゃないかと疑いたくなるくらい、二人の思考は見事に連結・連動している。


 だがそれにしても、西山さんのシナリオ解釈と具体的な指示を成立させている条件とは何なのだろう。秦さんの「そっちに分かんないって言われたら〜」というセリフに対する違和感だけなのだろうか。

 「ホン読み篇」を見直して気になったことがある。シナリオを解釈する段階に入る直前、西山さんはふいにホン読みに割りこむようにして秦さんに言うのだ。「ちょっと待って。今のニュアンスを声を低くしてできないかな」

 このとき、西山さんが言っている「ニュアンス」とは何なのだろうか。良江の感情をどう表現するかというようなことではないだろう。それなら、西山さんはホン読みを途中で止めたりせず、最後まできちんと聞いたはずである。

 西山さんが言う「ニュアンス」とは、冒頭の良江の「どうした?」というセリフだけで分かるようなものでなくてはおかしい。つまり、それはドラマが始まる前の良江、日常生活を送る普段の良江、言い換えれば、良江の存在感みたいなものではないだろうか。

 登場人物が今ここに存在しているという感じが表現できているかどうかを見きわめること――このことも、シナリオ解釈と具体的な指示を成立させる重要な条件の一つにちがいない。

 では、西山さんの「今のニュアンスを声を低くしてできないかな」という指示の「声を低くして」は何を目指しているのだろうか。

 冨永くんによるインタビューの中で、西山さんは、「間をつめて」や「抑揚をつけないで」といった指示はシナリオの解釈にかかわるものだが、「声を低く」はそれらとはちがって、役者の身体に直接かかわるものだ、と答えている。「声を低く」という指示は、役者に自分の身体を意識してもらうためのものだ、と言っているのだ。

 つまり、こういうことではないだろうか。西山さんの「声を低く」という指示は、秦さんがあまり意識せずに表現できてしまった良江の存在感を次から意識的に表現できるようにするためのものであった、と。


 西山さんのホン読みについては次のように整理することができる。

 西山さんがまずやろうとしたことは、何となく分かった気になっている状態を排除することだった。

 そのために、西山さんは自分自身に対しては「役者に会うまでは、何も考えない」という指示を出す。

 また、役者に対しては、「間をつめて」や「抑揚をつけないで」といった指示をとおして、ドラマや登場人物について意識的に考えることを求め、「低く大きな声で」という指示をとおして、自分の身体に意識的になることを求める。

 だが、西山さんがホン読みをする役者の声から注意深く聞き取ろうとしているものは、役者の意識的な努力の成果ではない。役者が無意識のうちに表現してしまった登場人物の存在感を聞き取ることが大切なのだ。なぜなら、それこそが西山さんを触発し、演出について具体的に考えるようにうながすきっかけとなるものだからである(注12)。


 似たようなことはリハーサルの段階にも言えるだろう。

 リハーサルの途中で、西山さんは助監督の生徒に意見を求める。すると、その生徒は、ちひろ役の原さんがイスに座っているというふうにしてみてはどうでしょうか、と提案し、実際に原さんにイスに座ってもらう。だが、西山さんはそれを見てこう言うのである。「これは直感でしかないんだけど、原さんは立っていた方がいいね。そう思わない?」

 このとき、西山さんが思い出しているのは、試しに自由に演じてもらった一回目のリハーサルだろう。そのときにちょっと困ったように突っ立っていた原さんの姿に、西山さんは触発されたのだ。原さんの身体が無意識のうちにちひろの存在感を表現していた、と言ったらいいだろうか。

 おそらく、西山さんが演出するときに重視しているのは、その役者だけにしかできない存在感の表現、その役者の身体の独自性であると言えるかもしれない。


注10:完成した「ホン読み篇」の構成は以下のとおり。


 (1)役者の解釈によるホン読み

 (2)役のイメージを白紙に戻すホン読み

 (3)役者との対話

   (a)違和感の確認

   (b)間について考える

   (c)発声とキャラクターの関連について考える

 (4)解釈と演出を考える。

   (a)シナリオの解釈

   (b)具体的な指示


ただし、西山さんによると、実際のホン読みでは、「役者との対話」が一つの段階としてはっきり分かるような形で行われるとは限らないとのことである。


注11:西山さんのシナリオ解釈は、誰でも思いつくことができそうな当たり前のものに見える。ところが、初等科生の多くはこの当たり前の解釈ができず、つまづいてしまう。ちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフにひっかかりを感じても、そこからちひろと良江の関係について考えることができない。

ちひろのセリフを彼女の内面を表現するモノローグというふうに受け取り、「わたしのことを心配してほしいのに……」の反語的表現であると解釈してしまうのだ。なので、ちひろの芝居は伝わる見込みのない思いを独り言としてしゃべり続けるだけの芝居となってしまう。

一方で、良江の「何もしてやれないよ」というセリフは、文字どおりちひろを突き放す良江の冷たさを表現しているものと受け取られる。だから、良江はちひろを無視したり、避けたりする芝居をあからさまにしてかまわないということになってしまう。

つまり、ちひろと良江は同じ空間でそれぞれ一人芝居を演じているだけとなり、二人の間に関係が成立しなくなってしまうのである。


注12:西山さんが何となく分かった気になっている状態を排除しようとするのは、役者の身体の独自性を発見するのに適した環境をつくるためである。この点を見落として西山さんのホン読みを真似すると、途中でどうしていいか分からなくなり、失敗する。

2009-08-28

[]『演出実習2007』インタビューノート(冨永圭祐)

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○インタビューまでの経緯

井川さんの演出実習2007教材ビデオ化計画は、万田邦敏篇(撮影現場・段取り篇)の編集から始まった(と思う)。で、僕にインタビューの話が来たのは、2008年の9月ごろだった(と思う)。初等科も終わり、高等科まで少し間が空いて、一度実家に戻った。のんびりと過ごしていると、メールが来た。井川さんだった。12期初等科で、最初のクラス別講義があるので、よかったら井川クラスに遊びに来てください。とのお誘いだった。東京へ戻る新幹線では全く何もせず、外を見るふりを続けた。緊張していたのかもしれない。そんな初対面の12期生の中に、まじれるわけがない。僕は東京駅で新幹線を降り、その足で映画美学校へ向かった。井川さんのことだから、早めに授業を切り上げて飲んでいるに違いないと思い、おつまみも持っていった。

教室のドアを開けると、やはり授業は終わっていた。隅っこに一人見慣れたやつが座っていた。僕と同じ11期井川クラスの、メロンにまつわるシナリオを書いてきた変わったアイツだ。僕は彼のとなりに座り、12期生たちがお酒やおつまみを用意するのを眺めたり、時には手伝ったりもしたかもしれない。12期生は動きがよかった。ハツラツとしている。井川さんは、僕を「串刺しのビデオを撮った人」と紹介してくれた。以来、時おり12期生から「串刺しの人ですよね」と声をかけられるようになった。

その後、千年そばで飲んでいる時だっただろうか。井川さんから、10期の時の万田さんの演出実習の映像を、見やすいように1時間ほどに編集しているという話を聞いた。で、最終的には45分ほどにし、15分のインタビューをくっつけたいという事だった。現役の美学校生に向けた教材ビデオなので、インタビューする人間も現役の生徒がいいだろうということで、僕にお声がかかった(のだと思う)。僕は即座に引き受けた。恐らく、万田さんに色々質問できる、お話ができる、とスケベ心も働いたのだろう。


○僕がインタビューを行うことについて

インタビュアーを引き受けることになった当時、僕はちょうど美学校の初等科を修了し、高等科が始まったばかりの頃であった。

初等科の1年間は、ほぼ全ての事が新しい経験だった。それは、フィルムを使った撮影などの技術的な所ももちろんそうなのだが、それ以上に演出について考えるという所が大きかった。僕は美学校に入る前に、大学で2年間、自主映画のサークルに入っていた。何本かどうしようもない短編を撮っていたのだが、「演出」というものが何なのかについて考えたことはなかった。監督・撮影・編集…自分 というのが当たり前のサークルで、特に疑問を感じずにビデオカメラを回していた。どういうカットを撮るのか、どう編集するのかが、自分にとって一番大事なことだった。お芝居については、そのカット内で自分がイメージしているしゃべり方や間に近づける作業でしかなかった。それが監督のしていることなのだと思っていたのだ。

そして美学校に入った。演出が、役者の芝居について考えることなのだと知った。もちろん、画面における演出も監督の演出のうちだとは思うが、それをするためにはまず、目の前で役者が繰り広げる芝居が面白くなくてはいけない。

なるほど。それまで自分は、登場人物が会話しているシーンをうまく撮れなかった。どういうカットを撮ればいいのか分からなかった。とりあえずきりかえしたり、1カットで撮ったりした。だから、そういうシーンに興味も持てなかったし、シナリオを書くときにもすごく困った。今思うとそれは、お芝居についてちゃんと考えていなかったからなのだろうか。撮り方しか考えていないから、あらかじめ頭の中でカット割を考えなければならなかったのだ。それはそれで楽しいのだけど、全然思いつかない時、とても困った。それも大体、本来重要になるはずの、複数の登場人物が言葉を交わしあうようなシーンだったりする。そういうシーンを、通しのお芝居で考えることなく、いきなりカット割で1シーン考えようとしていたのだから無茶な話である。


初等科のカリキュラムには、演出について考える機会として演出実習があるわけだが、僕達11期は、見事にこの機会を無駄にしてしまった。演出実習は、まず初等科の生徒が班分けして同じシナリオでそれぞれ演出・撮影し、それを講師が講評。その後、講師も演出実習を行い、それをふまえた上で、もう一度生徒たちが同じシナリオで演出し、撮影する、といった手順だった。今考えると、このカリキュラムの狙いは明確なのだが、当時の僕達は狙いを読み取れず、シナリオをめちゃくちゃな解釈で撮影してしまった。僕のいた班も例外ではなく、最もひどい解釈をした班の一つだった。井川さんが激怒したのは言うまでもない。

その後、初等科修了制作企画のシナリオ執筆と共に課せられる、3分ビデオ課題は演出について考えるよい機会となった。自分の書いているシナリオの一部分、3分間を演出して撮影してくるというものであった。僕はこの機会に、今までとは違う方法で撮影をしてみた。現場で1シーン通したお芝居のリハーサルをし、それからカット割を考えるといったものだった。それはとても新鮮で興奮する体験だった。演出は面白いと、初めて思った。

その後、修了制作の現場を経験し、改めて演出の難しさにぶち当たっていたときであった。

絶えず演出について考え続けている人たちに、率直に質問する機会が僕に与えられた。正直に、僕はラッキーだと思った。


○インタビュー・万田邦敏篇

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演出実習2007の万田さん篇は、撮影現場・段取り篇として編集された。あらかじめ編集されたDVDを受け取っていたので、それを見て万田さんへの質問をノートにまとめる作業を行った。


撮影現場・段取り篇は、万田さんがお芝居をつけていく工程が非常にわかりやすく編集されている。DVDを何度か見ていると、この芝居のポイントが二人の役者の距離であることがわかってきた。そのことは分かってきたのだが、見れば見るほど、分からなくなることがあった。

「一体、万田さんはどこまで事前に考えてきたのだろうか」

映像の中で、万田さんは「ちひろ」という役の役者を、くるくる回るイスに座らせている。このイスを使った「ちひろ」の動作は、どの時点で思いついたのだろうか。二人の距離のとり方にも関わってくる動作なので、ある程度考えていたのだろうか。ということは、二人の距離や動作は、シナリオを読んだ時点であらかじめ見えていたのだろうか。

では、シーンの設定はどの時点で思いつくものなのだろうか?

こういう動作をさせるために設定が出てくるのだろうか。それとも、設定自体は結構アバウトに決まるもので、その中で動作を決めていくのだろうか。

僕は混乱してしまった。芝居を作るための出発点、きっかけが分からなかった。それほどに、シーンの設定や役者の動作、小物などの使い方がかみ合って作用しているのだ。

たくさん質問はあったが、そのうちの大事なもののほとんどが、「万田さんはどこまで事前に考えていたのか」につながっていった。

万田さんの演出の特徴として、芝居の段取りを自分の身体を使って考える、という事があげられるが、これも「事前に考えてきたこと」から、お芝居を現場で作っていくうえでとても重要な作業となっているようだ。

インタビューでは、万田さんが事前に考えてきた事というのが、思いのほか少ないことがわかった。現場でお芝居を作るきっかけとして、最低限の設定やポイント(今回でいうところの距離、しかも、お芝居を始めるときの最初の二人の距離のみ)ぐらいのことしか決めていなかったようだ。一体、それでどうやって、現場でお芝居を組み立てていくのか。

そこで、万田さんが行うのが、上記の自分で動いてみてお芝居を考えるという方法である。万田さんが現場でお芝居を臨機応変に変更できるのは、この手順によるところが大きいようだ。役者の目線に自分が立つことで、そこから何が見えるか、そこにお芝居に使える何があるのかを考えることができる、と万田さんは言う。


万田さん篇のDVDは万田さんがカット割りをして、実際に撮影に臨むまでが収められている。万田さんは、以前は現場に入る前にコンテを書いていたという。最近では、お芝居のリハーサルをするまで、事前にカット割は考えなくなったというが、この点に関しては単純には考えられないところがあるのではないだろうか。

役者の芝居が見えてこないと、カット割りが見えてこないのは確かにそうだが、その一方で画面の演出が大切であるのも事実だと思うからだ。お芝居の演出と画面の演出は、切り離せないものであるはずなのだけれど、かと言って、いい芝居を作ってそれをしっかりカット割りして撮れば、すばらしい映画になるのかといえば、一概にそうとは言えないかもしれない。万田さんもお芝居を決めた後でのカット割りの難点について触れている。以前のような、あらかじめカット割りを決めての撮影にも限界を感じていたのだが、現在のようにお芝居をつくってからのカット割りだと、どうしても説明的なカット割りになってしまう。役者が動いて、その表情を見せるためにカットを割って、今度はこちらから撮る、といったような、ある意味で見せすぎてしまうようなカット割りになる恐れがあり、それはそれでどうなのかと感じている。と、万田さんは言う。そういえば、インタビュー後にお酒の席で、「現場でお芝居をつくってからカット割りすると、平面的なカット割りになっちゃったりしないですか?」と自分のビデオ課題での経験を質問すると、万田さんも「そうなんだよね」と答えていた。自分がお芝居を見たい位置にカメラを置くので、俯瞰のショットなどがどうしても想像しにくい。


万田さんへのインタビューは、演出というものが、監督の中にあるものではないということ、こうすれば面白く映画が撮れるのだという正しい答えが、決してあるわけではないことを改めて知るきっかけとなった。


○インタビュー・西山洋市

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万田さんへのインタビューが終わり、飲み屋から帰るときに「次は西山さん篇をお願いします」と井川さんが言った。

初耳だった。演出実習教材ビデオ化計画が、1年以上を費やす壮大な計画であることを知ったのはその時であった。


11期高等科は講師とのコラボレーション企画に入っており、僕は大工原組でチーフ助監督を担当していた。実習とはいえ、初めて経験する本格的な準備と現場に、精神的なプレッシャーはなかなかのものだった。しかも、当たり前のように問題山積みだった。

現場に入る直前、井川さんから激励のメールが届いた。メールの最後には、「終わったら西山さん篇お願いします」と付け加えられていた。僕は井川さんからの差し入れのお菓子を現場の誰よりもたくさん喰らった。さーたーあんだぎーの一個一個が井川さんの顔に見え、「西山さん篇…」と話しかけてくるように思えたのだ。


現場も終わり、まもなくインタビュー・西山さん篇の撮影が行われた。今回は万田さん篇に比べて当日までの日数があまりなく、急ぎ足で西山さんの監督作と演出実習映像を見た。


演出実習2007・ホン読み篇は、とても編集が難しかったのではないかと思った。僕にいたっては、段階を分け、しっかり字幕の入った編集版を見なければ、何が行われているのかすら分からなかったかもしれない。西山さんの行っているホン読みは独特というほかないのである。そもそも、ホン読みとはここまでやるものなのか。

例えば段階2(と、編集版では定義されている)で、まず間をつめて読ませている。さらには、それぞれの役のセリフだけを連続して読ませている。恐らくこれは、相手のセリフに影響されないようにするためなのだろうな、ということは分かる。が、なぜそうするのか具体的な狙いが分からなかった。

そして、低い声で、抑揚をつけずに読んでもらう。特に、声を低くすることにはかなり執着している。役者がやりづらそうでも、さらに低く、というような指示まで出している。一体なぜか。

西山さんによると、この段階は役者個人の解釈を一度フラットにする作業であった。シナリオをあらかじめ読んでくると、どうしても出来てしまう先入観のようなものが、間や抑揚に入り込んでしまうのだという。

では、西山さんはどうなのだろうか。西山さんも、あらかじめシナリオを読んできているのだから、先入観のようなものを持ってしまわないのだろうか。

今までの経験から、実際に役者に会うまでは、なるべく何も考えないようになってきたのだと、西山さんは言う。自分がシナリオを読んでイメージしてきた芝居は、実際に演じてもらうと大抵裏切られ、がっかりする。しかし、そのがっかりには意味がないのだ。自分がイメージしたものと違うものが出てきたほうが面白い、ということが分かってきたのだ、と。これは、顔見知りの役者のときでも変わらず、シナリオが違う以上は毎回違うのだと言う。

ここで、万田さん篇の時との共通点が出てきた。

演出が、監督の中にあらかじめ存在するものではない、ということ。

この時点になって、初めて気づいたことがあった。西山さんが、役者の二人に対して行う質問、それに対する役者二人の答えの重要さである。二人は、西山さんの質問に対して、とても素直にどう感じるかを答えている。西山さんはその答えを聞いて、一緒に考えて、そこでやっと見えてくるシナリオの解釈を、最終的に役者に伝えていたのだ。

危険なのは、見方によっては西山さんが狙ってやっているように見えてしまうことだ。段階4で、二人のキャラクターのこの親密さなら、(良江役の役者が冷たいと感じた)そっけないぐらいのしゃべり方が普通じゃないのか、という解釈が出てきたとき、誰もがはっとしたと思う。少なくとも、僕はした。そして、性懲りもなく、西山さんがこの解釈へ向かって、今までのプロセスを行ってきたのだろうか、と思ってしまったのだった。


そうした解釈などとは別のところの、西山さんのこだわりとしてある「セリフを低く、大きく読んでもらう」という演出には、西山さんのセリフに対する考え方がぎっしりつまっている。普段しゃべる時とは違う声の発し方をしてもらうことで、芝居でセリフをしゃべるということに意識的になってもらい、西山さん自身も、セリフというものが意味内容だけではなく実際に声に出していうものだということを確認しているのだという。これは、映画の中でフィクションの世界を立ち上げることにも関係しているのではないだろうか。西山さんは、「フィクションの世界の中で、セリフというものが、純粋な音としてどういう可能性があるのか、今よりもより具体的に、実践的に、つきつめていきたいと常に思っている。今はまだ途中の段階だ」と答えてくれた。

この点に関して、15分に編集されたものとは別のインタビュー・完全版(約60分)にて詳しく返答が聞けるので、そちらも是非参照していただきたい。


○インタビュー・井川耕一郎篇

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西山さん篇から約1ヶ月ほど後、井川さん篇のインタビューが行われた。

しかしこの井川さん篇が、北岡さんにとっても、僕にとっても、また井川さんにとっても一番の難関になることは明らかだった。ずっと前からそう思っていたし、実際やはり難しかった。今まで井川さんと北岡さんは、各講師の演出を客観的に分析し、分節して編集する作業を行ってきたわけだが、今回は井川さんである。井川さん自身は自分の行っていることを客観的に見れないと言うし、そうなると客観的な視点で分析・編集できるのが北岡さんだけになってしまう。万田さんも西山さんも、編集されたDVDを見て「なるほど、俺はこういうことをやっていたのか」とおっしゃっていた。それは分析と編集の的確さを表している一方で、本人たちは自分が行った演出のプロセスを自覚しているわけではないということも示している。

僕のほうも、11期の時の井川さんの演出実習を目の前で見ていたので、井川さんの演出がどういう感じで進められていくのか、知らないわけではなかった。そして、あんな感じなのだとしたら、どうやって45分にまとめるのだろう。質問も難しそうだな。と、思った。


井川さんの演出は、リハーサル篇ということもあってか、繰り返し演じてもらう回数がとても多い。それも、シナリオにおいて冒頭1〜2行目でしかない最初のやりとりにはいるまでの動きを、何度も繰り返し演じてもらう。

これは、11期の時も同じであった。何度も何度も同じ部分を演じてもらい、しかもその度何か指示をするでもなく、「もう一回お願いします」とだけ言ってやってもらう。その後のお酒の席で、井川さんにどうしてそういうやり方をするのか尋ねた。井川さんは、自分もわからないから何度も演じてもらうんだ、とおっしゃっていた。

多分その時が、演出というものが監督のなかにあるものではない、という事に直面した初めての機会だったと思う。

今回のインタビューでは、さらに興味深い返答を聞くことができた。

なぜ、冒頭からあんなに繰り返すのか。それはシナリオを書くときと近い感覚なのかもしれない。冒頭1,2行がうまくいかずに何度も消しては書き直す。それは、うまい書き出しを書くためではなく、何か次に続きそうだな、という感じがするまで繰り返しているのだという。

これは、西山さん篇のキャスティングを入れ替えたことについての返答にも共通しているかもしれない。西山さんは、元々のキャスティングでもよかった、むしろはまっていた。が、入れ替えてみたときに、試行錯誤をしなくてはならなくなったけれども、何か違うものが出てきそうな予感がしたのだという。

自分の中にある既成のイメージとは違う、目の前にいる役者で芝居をつくっていくうえでこの感覚はとても重要なのではないだろうか。

井川さんは今回、最初に役者の二人に設定上の細かい部分を自分で考えてもらっているが、ちひろ役の福井さんに座る位置を決めてもらった時、内心まずいと思ったらしい。お芝居の中で、ちひろが圧迫感を感じて良江から逃げるように距離をとる、という動きをつけようと思っていたのに、その位置は全く逃げ場がないじゃないか、と。

試行錯誤しなければならない状態に陥ってしまったのである。が、その結果、ちひろに面白いアクションが生まれ、それに対して良江役の今岡さんにもいいリアクションが生まれることとなった。


井川さんは役者自身の無意識の仕種や、ひとりでに出てくるものをお芝居の中に取り入れている。この人はどういう動きをすれば面白いのか。それを導きだすためにも、回数を重ねる必要があるのだろう。あるいは、役者自身が何か考え始めるまで、永久に出てこないかもしれない。それは、自然な演技、ナチュラルな芝居というものとは違い、相手の動きや言葉に対して、ひとりでに出てしまう反応のようなものである。演出における井川さんの試行錯誤は、この反応を導きだすための課題を、どうクリアしていくかの過程なのだという。

今回でいうところの、「良江の芝居がちひろを動かす」、「ちひろの芝居が良江を動かす」である。ちひろ役の福井さんが、圧迫感を感じて思わず少しイスをずらす仕種があった。冒頭の芝居を何十回も繰り返してやっているのは、その仕種を導く良江の動きを発見するためでもあったはずだし、その後は距離をとろうとするちひろを、良江が追いかける必要があり、良江役の今岡さんが思わず追いかけてしまうような動きをちひろにつける必要があった。福井さんが机の上をまたいでいく距離がどんどん長くなったのはそのためだという。

面白いのは、最初から考えていたお芝居ではないはずなのに、キャスティングの際に福井さんを指名した理由と、この動きがマッチしていっていることだ。

以降の芝居も、今岡さんはひとりでに動いているように見える。福井さんの芝居によって、そう動いてしまう。そして井川さんはそれを見て「どうして今岡さんはそうしたのだろう」と考え始める。すると、芝居中のセリフとは別のところで今岡さんがこぼした言葉などがヒントとなる。

これもひとりでの仕種などと同じであろう。井川さんはそれを見逃さない。

ここでも、演出が監督の中にあるものではない、ということが明らかになった。

井川さんの場合、それが役者に対しての話しかけ方からも表れている。井川さんは「こうしてください」とは決して言わず、「こうしたらどうなりますか」と言うのである。

つまり、「指示」ではないのだ。


万田さん、西山さん、井川さん、それぞれ演出の方法は全然違うのに、一つの共通したものを見つけることができた。

演出が監督の中にあるイメージに近づける作業では決してないということ。

だから、このビデオを決して教則本のように見てはいけないと思う。


冨永圭祐:1983年生まれ、映画美学校11期高等科生。高等科修了制作シナリオ選考で、シナリオ『乱心』が選ばれ、現在撮影に向けて準備中。完成した作品は、来年度の映画美学校映画祭にて初お披露目予定。


[][]『演出実習2008』製作ノート(小出豊)

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 演出とは問題を発見し対処することだ。シナリオの問題を発見し、台詞を声に変える際の問題を発見し、動作の問題を発見し、その諸々をどのように見せるかという問題を抱え込み、それに対処していく。演出の順序は問題の発見、そして対処だ。そこに変動はないから、多様な対処法を習得しても、対処すべき問題を発見しなければ何の役にもたたない。まずは問題の発見だ。


 ぼくも映画をつくっている。自作を見返したり、それに評価を受けたり、また人の映画を見たり、批評を読んだりすると、自分がいくつもの問題を見逃し、漫然と撮影してしまったことに気付き、恥ずかしい。それは、問題を発見し、その対処方が上手くいかなかったことよりずっと恥ずかしい。

 『映画の授業 映画美学校の教室から』という本がある。その本の演出の項では、万田邦敏が、画面を覆うモヤモヤしたもの、上下の運動、主人公の登場のさせ方、そしてそれらの具体的なイメージが映画全体をどのように貫いているかを言及しながら、作り手の問題群を発見している。また、塩田明彦は、空間を隔てる敷居や、ゴジラの足音などの問題を発見している。繰返すが、そういうことをまったく意識せずに映画を撮ってしまうと、たとえ素晴らしい脚本を書いても、大変恥ずかしい思いをする。恥ずかしい思いをしないために、人の映画を見て、人の抱える問題をくまなく汲み尽そうと日々精進する。しかし、具体的なイメージが定着してしまった後の作品は、問題発見後の対処の姿であり、どのような作法でそれが発見されたのかは映っていない。映画には残念ながら演出する監督の姿は映っていない。

 今作『演出実習』の特徴は、演出家がどのように問題を発見していくのか、その経緯を目撃することにある。そして、その経緯を目撃し、問題を発見する作法を自分なりに発見したいという欲望が今作を作る核になっている。


 目撃して、大工原正樹らしいなと思ったのは、大工原が人と話す際に、相手の目をまっすぐ見ることだ。画面には大工原と2人の女性が映っている。大工原に見られ、ひとりの女性は大工原の目をまっすぐ見返し、もうひとりの女性は大工原の目を直視できない。大工原はまっすぐ見るというアクションで、まっすぐ見返すのと、目をそらすという異なるリアクションを引き出したのだ。そして「見る/見られる」の問題を発見し、以下のような動きに昇華している。

 シーン冒頭、良江が帰宅する。部屋中央の椅子に座るちひろに気付き立ち止まる。次に、ちひろの周りを歩きながら、バッグを置いたり、コートをかけたり、咽を潤わせたりして、良江は椅子に腰掛ける。なんということはない帰宅後のアクションだ。これを「見る/見られる」という問題でスクリーニングすると、良江の動きのすべてが、ちひろの「まっすぐ見る」というアクションによって引き起こされたリアクションに見える。改めて正確に動きの印象を記すなら、ちひろはまっすぐ見るだけで、帰宅直後の良江の足を止める。良江は、ちひろの視界から逃げるように背を向け部屋の周縁を歩く。鞄を置いたり、コートを掛けたりする日常の動作は、その実、ちひろの視線を逃れるためにやっている動作なのでなんともぎこちない。すると、ちひろは椅子から立上がり、逃げる良江の正面に回り込むように自分も部屋の周縁に行き、良江をまっすぐ見る。ちひろに見られることで周縁に場を失った良江は、あたふたと目に付いた中央の椅子に腰掛ける。が、それは先ほどまでちひろが座っていた椅子だ。まっすぐ見るという行為をくり返すだけで、ちひろは良江を中央に座らせて身動きの取りづらい状態におく。そして、罠にかかった獲物を仕留めるように、ちひろが良江の正面に座り、まっすぐ見つめてこのシーンは終わる。


 もうひとつの『演出実習』の特徴は、井川耕一郎らが他の演出実習の様子を編集してまとめてくださったことで、それぞれの演出家が発見した問題群や、それらを発見する経緯を見比べられることだ。500字弱のワンシーンからこれほど多様な問題と、その発見の経緯があることに驚くはずだ。例えば、台本上には、良江の家にちひろが向かうということになっているが、大工原の場合は良江が家に帰ってくると、勝手にあがりこんだちひろが部屋にいるという設定に変わっている。他の演出家もどこからこのシーンを始めるの かそれぞれ問題を抱えており、それだけでシーンの印象は大きく変わっている。今後もこの実習を撮影・編集し、比較検討の材料を集めていきたい。


 ところで、『演出実習』は演出の作法を学ぶマニュアルにはならない。それぞれの問題にはそれぞれの問題の発見の作法がある。自分なりの問題を発見するには、自分なりの問題の発見の作法を発見しなければならない。また、他人の問題を再発見する際にも、まんま発見の作法を真似すればいいかというと疑問だ。例えば、NBAの名シューター、ラリー・バードのようにシュートをやたら決めたいと思い立ち、ぼくはラリー・バードとそっくりのシュートフォームを練習したが上手くいかなかった。身長はまったく違うし、彼のようにしなやかな間接をぼくはもっていなかった。シュートフォームはその人の体躯と間接の可動域と筋力にあったそれぞれのものがある。演出も同じだろう。


 最後に、今作のもっともスリリングな瞬間は、大工原がちひろに、良江の頬に触れる動作を説明しているところだ。触れ方の「いやらしさ」に敏感に反応するちひろ役の女性は、静かにぐっと抵抗する。頑な女性をどのように自分の欲望へと導くか、その経緯を目撃し、大工原正樹は柔軟だが、芯のぶれない人だと改めて思う。


[][]『演出実習2007』製作ノート(4)(井川耕一郎)

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6.『撮影現場・段取り篇』(万田邦敏の授業)について

 万田さんは演出実習の授業で、リハーサルを行ってから、実際に撮影をしている。

 そこで、私たちはリハーサル部分を45分にまとめ、インタビューのあとに完成作品をつけるという構成を考えた。だが、万田さんに撮影したテープのことを尋ねると、どこにあるのか分からないとの答がかえってきた。

 インタビューの中で万田さんは、リハーサルで決まるのは芝居の大まかなところまでで、細かな部分の演出は1カット1カット撮るときに行う、と語っている。

 万田さんの演出の全過程を紹介しようとするなら、『撮影現場・段取り篇』に完成作品の収録は必要不可欠だったはずなのだが、それができなかったのは残念である(注6)。


 万田さんの演出作業の分節化はそれほど難しいものではなかった。万田さんは新しい段階に進むたびに「これから〜をやります」というふうに生徒たちに説明していたからだ。

 けれども、演出しているときの万田さんが何をどのように考えているかを読み取る作業は容易ではなかった。

 万田さんは一階のロビーのイスを並べなおし、良江の部屋をつくると、その簡単なセットの中を歩き回りだした。どうやらシナリオをいくつかの部分に分け、まずは良江を演じ、次にちひろを演じ……というふうにして芝居を考えているようだった(注7)。

 そこで私たちはこの段階を「芝居を考える(身体を使って)」と名づけた。

 それから、万田さんは演じる二人の生徒に声をかけ、自分が考えた芝居を説明し、試しに一度演じてもらうのだが、この「段取り1(説明しながら)」という段階で、私たちは、おや?と思ったのである。

 良江役の生徒が「じゃ、何なのよ」と言ってベッドに腰かけてから、「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり? その気さえあれば、彼氏なんてすぐできるよ」と言うまでの芝居を見て、万田さんが「何かやらないと、芝居がもたないね」と言いだしたからだ。


 実はその前の「芝居を考える(身体を使って)」の段階で、万田さんはベッドに腰かけると、ひじをついてちょっとだけ横になる姿勢をとっている(おそらく、良江が「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり」と言うあたりの芝居を探っていたのだろう)。

 けれども、万田さんはすぐに上半身を起こすと、この動きはちがうな、というふうに首をふり、立ち上がってちゃぶ台のところまで歩いていったのだった。

 ということは、芝居を考える段階で、万田さんにはベッドにただ腰かけたままの芝居ではもたないということがすでに分かっていたのではないだろうか。

 ここで私たちは二つの疑問を感じることになる。

 一つ目は、なぜ万田さんはちょっと横になる以外の動きを事前に考えることなく、「段取り1(説明しながら)」の段階に進んだのかということ。

 二つ目は、「段取り1(説明しながら)」の段階で、万田さんが良江の芝居に新たにつけ加えた動作に関することだ。

 万田さんは良江の芝居をもたせるには何か小道具が必要だと考え、クッション(といっても、毛布をたたんだものだが)をベッドの上に置く。そして、良江役の生徒に「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり?」と言いながら、クッションをひざの上に乗せるように指示するのである。

 どうして、クッションを使った動作が芝居をもたせるためにふさわしいものとして選ばれたのだろうか?――これが二つ目の疑問である。


 この二つの疑問を解くためには、課題シナリオを読み直す必要があるだろう。

 一読したときには分かりやすいシナリオのように思えたのだが、何度か読み直しているうち、私たちはちひろと良江の会話にひっかかりを感じるようになる。

 ちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフがそれだ。

 課題シナリオの中で、良江はちひろを心配するようなことを何一つ言っていないのである。特に「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」というセリフなどは心配するどころか、ちひろを冷たく突き放しているようにしか読めない。

 にもかかわらず、ちひろには、良江が自分のことを心配しているように感じられるのはなぜなのだろうか?

 この問に答えるには、字面というか言葉のレベルだけでシナリオを読んでいてはいけないだろう。身体のレベルでシナリオを読み直す必要がある。

 要するに、ちひろは、「じゃあ、何なのよ」以後、良江の身体がセリフとはちがうメッセージを発していると感じたのだ。良江の声、仕草、たたずまいなどが「あなたを心配している」と告げているように感じられ、身体レベルの発するメッセージこそ、良江の本当の気持ちなのだ、というふうに思ったのだろう。

 そして、たぶん、万田さんもこれと同じシナリオの読み方をしていると思う。「何かしないと、芝居がもたないね」の「何か」とは、セリフとはちがうメッセージを身体が発することを指しているはずである。


 言葉のレベルと身体のレベルとで正反対のメッセージを発するような芝居をするなどと書くと、恐ろしく難しい芝居のように見えてしまうかもしれない。

 けれども、それはちがう。課題シナリオのもととなった矢部真弓さんの5分ビデオ課題は、完璧とは言わないけれども、それを実現している。良江役の生徒の、ひとの良さそうな、おっとりした顔つきが、セリフとは異なるメッセージを発していたのだ。

 演じるひとが素人であっても、どこかに良江と共通する部分があれば、身体がセリフとは正反対のメッセージを無理なく自然に発してしまう場合があるのである。

 万田さんが「芝居を考える(身体を使って)」の段階で、良江のベッドに腰かけてからの芝居を細かく考えなかったのはなぜなのだろうか?

 それは、良江役の生徒の芝居を見てから考えた方がよいという判断が働いたからだろう。役者が何気なくやってみせた仕草の中に演出のヒントがあるかもしれないからだ。

 ところが、良江役の生徒はひどく緊張していて、ベッドに腰かけるとそのまま体がかたまってしまった。

 そこで、万田さんが考えたのは、クッションを使った芝居だった。クッションをひざの上に乗せて前かがみになることで、良江とちひろとの距離はちょっとだけではあるが縮まる。そうすることで、口では何と言おうと、ちひろの相談に乗る親密な雰囲気が良江役の生徒の身体から出るようにしたのだろう(注8)。


 「段取り1(説明しながら)」のあと、万田さんは芝居を最初から最後まで通して演じてみる「段取り2」を行い、「段取り3」に移った。ここで、万田さんは芝居を五つのパートに分けて、細かく演出を行っていくのだが、その中で気になった演出が二つあった。

 一つは、良江が「そっちが分かんないって言ったら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」と言うあたりの芝居。ここは、「段取り1」では、良江はベッドから立ち上がると、ちゃぶ台の前に座るというふうになっていた。万田さんはそれを良江がちゃぶ台に腰かけるというふうに変更したのである。

 これは、「段取り1」で決めた芝居だと、良江の身体がセリフとはちがった親密なメッセージを発することが難しいと考えたためだろう。たしかにちゃぶ台の前に座ると、ベッドに腰かけていたときよりちひろと離れてしまうのである。それに、二人の間にちゃぶ台が障害物のように置かれることになってしまう。

 だが、「段取り3」で重要なのは、良江が「どうした?」とちひろに尋ねるまでの芝居に対する演出ではないだろうか。万田さんは自ら布巾を手にすると、こういうふうにちゃぶ台を拭いてほしいと手本を見せたのである。


 万田さんはインタビューの中で言っている。人間は一度に一つのことしかできない、と。

 芝居をするときには、登場人物がそのとき何を一番意識しているかに注意してほしい、と言っているのだ。

 たしかにシナリオに書かれている芝居は、ちひろと良江の関係の変化である。けれども、良江は常にちひろを意識しているわけではない。「どうした?」と言うまでの良江が一番意識しているのは、食後の後片づけをすることなのである。

 このことから、万田さんが演出するときに何に気をつけているかがうっすらと分かる。

 万田さんは人間の身体をいくつかのレベルに分けて考えている。この演出実習の場合には、たぶん、三つのレベルだろう――言葉を発する身体のレベル、言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル、日常生活を送る身体のレベル。

 そして、関係が変化するにつれて、どのレベルの身体が重要になってくるかが変わってくるというふうに考えているにちがいないのだ(注9)。


 その点で興味深いのは、良江が「当たり前じゃん」と言うあたりの芝居だろう。

 「段取り1」で、万田さんは小道具として紙コップ(コーヒーカップのつもり)を二つ、新たに追加し、「当たり前じゃん」と言ったあとに、それを持って台所に行くように指示している。

 このとき、万田さんはこう考えているのだ――良江はちひろの愛情を感じ取り、内心とまどっている。しかし、そのとまどいを表に出して、ちひろから離れるという芝居ではどこか幼稚だ。だったら、コーヒーカップを洗うという口実で、台所に逃げたらどうか。

 要するに、万田さんは、三つのレベルの身体のうち、言葉と矛盾するメッセージを発する身体を抑圧しているのだが、抑圧することで逆説的にそれこそが重要だと示そうとしているのである。

 これはちょっと複雑な演出かもしれない。けれども、これとよく似た演出について、吉村公三郎は『日本映画を読む パイオニアたちの遺産』(ダゲレオ出版・84年)という本の中で次のように語っている。


たとえば、夫婦の間にいさかいがあるという場面で言いますと、NHKのドラマなら、どちらか一方がプイと立って、何の用もないのに窓や縁側に行き、相手にお尻を向けて会話したりする。ひどいのになると、壁の方を向いて喋ったりする。テレビ・ディレクターは、こういうのが演出だと思っているフシがある。蒲田ではこういうことは許されないんです。どうするかというと、お皿を重ねて台所へ行って、後片づけをするという一連の自然な動作の中で会話を続けるというように撮りますね。そうすれば、ドラマの中に会話も動作も無理なく溶け込むわけですからね。

(吉村公三郎「第二章 蒲田調・大船調」、『日本映画を読む パイオニアたちの遺産』)


 つまり、万田さんが演出実習でやっていることは別に新しいことでも何でもない。かつては常識的に行われてきた演出なのである。


注6:『撮影現場・段取り篇』というタイトルについては、ちょっと説明しておいた方がいいかもしれない。

私たちはあとでつくる『リハーサル篇』と区別するため、万田さんに撮影前に行う芝居に関する作業のことを何と呼んでいるのかと尋ねてみた。すると、かえってきた答は、「リハーサル、テスト……、あるいは段取りかな」というものだった。

三つの答のうち、「段取り」を選んだのは、それが形だけの演技というマイナスのイメージを持っていたからだった。段取りであっても、これくらい丁寧に演出は行われるべきではないか、という意味をこめて『撮影現場・段取り篇』としたわけである。


注7:インタビューの中で、万田さんは、ロケ場所を実際に歩き回って、役者の目に見えるものなどを確かめてからでないと、芝居については何も考えられない、と言っている。

ということは、「芝居を考える(身体を使って)」の段階で、万田さんは良江を演じるときには、良江の目にちひろと部屋がどう見えるかを想像しながら、そして、ちひろを演じるときには、ちひろが後ろにいる良江の気配をどう感じているかを想像しながら、芝居を考えていったということなのだろう。


注8:クッションをひざに乗せて前かがみになるという姿勢は、防御の姿勢のようにも見える。万田さんは、ちひろと距離をおいてつきあいたいという良江の無意識の欲望をクッションを使う芝居の中にこっそりこめていると言えるかもしれない。


注9:万田さんが授業で行った演出は次のように整理できるだろう。


(1)「芝居を考える(身体を使って)」の段階では、万田さんは自分の体を動かしながら「言葉を発する身体のレベル」を中心に芝居を考えている。と同時に、万田さんは、シナリオのどの部分が「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居を要求しているかの確認も行っている。


(2)「段取り1」の段階では、役者が「言葉を発する身体のレベル」の芝居を行っているけれども、万田さんにとって重要なのは、役者が自分の考えたとおりに動いているかどうかを確認することではないだろう。この段階で万田さんが考えようとしていることは、「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居をどうするかである(この課題を考えるには、演技する役者を見なくてはならない)。


(3)「段取り2」の段階では、役者は「言葉を発する身体のレベル」と「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居を行っている。しかし、万田さんがどうすべきかを考えているのは、「日常生活を送る身体のレベル」の芝居である。


(4)「段取り3」の段階では、万田さんは「日常生活を送る身体のレベル」を中心に芝居を考えている。また、「日常生活を送る身体のレベル」と重なる部分が大きい「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居についても、どうしたらいいかを再考している。