プロジェクトINAZUMA BLOG

2008-02-24

[][][]井川耕一郎論・試論〜上映予定の三作品について〜(佐野真規)

 まず、これは自分の思い込みかもしれないと断っておく。そうして、以下に取り上げる事柄については諸兄が既に指摘されて議論をなされた、既に自明の事柄であろうことも想像に難くない。が、愚弟としてようやく今日、井川耕一郎の監督作品を見たぼくが、以下についてぐたぐたと述べる事は思い込みであるとするならば、井川耕一郎の映画について諸兄が語ったであろうこともひょっとしたら思い込みではないかとも思わなくはない。

 と、いうのは厚顔無恥であるぼくが、というよりも井川耕一郎が、映画を見るものにそうした思い込みを思い込ませており、かの映画はそのように人を思い込ませるように出来ており、そうして我々は、井川耕一郎の手の上で、転がされて各々そう思わされているのではないか。手の上で不得要領にさせられているのではないか。と、井川耕一郎に思い込まされたからである。

 フィクション初等科D組が主催して井川耕一郎上映会を行うということで、D組のぼくはD組講師である井川耕一郎の映画を見た。「西みがき」を最初にみた。訳が分からなかった。途中で記憶を失った。寝た。見終わった後、D組の冨永くんが「井川さんの映画は死が画面に溢れていますね」と言った。それでぼくはようやく分かった。ぼくは寝ていたのではなく井川耕一郎に殺されていたのだ。

 そうしてぼくは思い込んだ。死が溢れているというのはどういうことか。思い込まされた。井川耕一郎の映画には生と死がダブル(=分身)となって繰り返し現れる。エロスとタナトスがダブルとなって繰り返し現れる。それらが荒唐無稽な形象をとってスクリーン上に現れているうちに、そうしているうちに、いつの間にか観客は井川耕一郎に殺される。スクリーンを見ているはずの観客は、「西みがき」の「西口くん」のように、死んでいるのに死んだ実感がない幽霊なのか何なのかよく分からない正体不明の存在にさせられる。死んでいるのに死んだ実感がない。それは生きているのに生きている実感がないのと同じ事である。そうだ、だからぼくは寝ていたのではなく井川耕一郎に殺されていたのだ。「映画が終わると愛が終わったように感じる」、と言っていたのはカサヴェテスだった。「映画を見ると何度も繰り返し殺されたような気になる」のが井川耕一郎の映画なのだ。

 死んだ「西口くん」は死んでいるのに生きているようである。だから首を絞めて殺される。だから袋に詰めて遺棄される。「三本足のリカちゃん」はペニスを持っているのか。臍の緒を持っているのか。だから殺される。バラバラにして殺される。性欲(=生欲)を持っていると殺される。エロスは生命の表れであり死の表裏となって現れる。死んだ「西口くん」はリカちゃんの足を、まるで自分の男性器に触れるかのように触れ、気を遣った。気を遣るということ(=性的絶頂)は死に似ていると言っていたのはバタイユではなく井川耕一郎の映画を見たぼくである。嘘である。バタイユである。小さな死。ゆっくりと、穏やかに、緩慢に、首を絞められていく。そう、映画の中で何度も繰り返し生かされ殺されるのだ。ぼくらは井川耕一郎によって。

 「ついのすみか」を次に見た。生き物は、生き物の前提として、生きている限りゆっくりと死に向かっている。また、死はその前提として、生き物が生きていない限り訪れ得ない。浅蜊が砂を吐かされている。塩水の入ったボウルの中で、包丁を抱かされて浅蜊は砂を吐かされる。塩水の中でゆっくりと浅蜊は砂を吐く。苦しそうに、いや気持ちよさそうに。それと同じ、塩水に付けられた浅蜊と同じ、その部屋で、女は男に何度も髪の毛を撫上げられ、繰り返し繰り返し、女はつぶやく。女は浅蜊のように、包丁を持たされ塩水に晒されそうして砂を吐こうとしてもほかの浅蜊が吐いた砂を吸ってしまうと。ボウルの中の、恍惚とした浅蜊のように。塩水と包丁に晒されて苦しんでいる浅蜊のように。緩慢に死に向かわされている。殺すために生かされる。生に向かうために殺される。いや、生きている事は緩慢な死の中にいる事だと示される。井川耕一郎の映画によって。

 男と女の間で、女性器と男性器の関係を思わせるような言葉のやり取りが繰り返される。包丁を握った女が、ゆっくりと、包丁を握ったその手を繰り返し動かす。何度も何度もなでるように、刺し殺すように。砂を吐かされ、死に向かっている浅蜊のように。首を絞められる女のように。女と、その姉がダブルである。生と死がダブルである。「ついのすみか」は「西みがき」のダブルである。またしてもぼくらは井川耕一郎に殺されている。生かすために殺され、殺すためにまた生き返させられる。

 それが繰り返される。「繰り返される諸行無常、よみがえる性的衝動」と歌ったのは向井秀徳だったが、「繰り返される生と死、よみがえる生的衝動」と、それを映画に撮るのは井川耕一郎である。観客は殺される。さらに観客は、井川耕一郎によってもう一度殺されるために、そのために生き返させられる。そうして観客は、そう、もう一度殺されるのだ。生死を解脱した仙人のようでありながら、徹底して観客を殺し、そして生き返らせるのは井川耕一郎である。

 三本目に「寝耳に水」をみた。Mの性癖を持つ女性。ファーブル昆虫記。その女性を操るタクト。M女性の御主人様とその奴隷契約書。二人いる田代弘美というダブル。エロティシズムと死のダブル。「寝耳に水」は「伊藤大輔」のダブルでもあるだろうか。いや、そうかもしれない。いや、違うかもしれない。と。ぼくが思い込むに至る前にある人物が、井川耕一郎の映画を見るぼくたちの前に現れ、そう、ここでは仮にI沢さんと呼ぶ事にするが。そのI沢さんは、ぼくたちが映画を見ている映画美学校の部屋に入ってきて、「もう十一時だけど。いつ終わるの?」と、ぼくたちに聞いたので、ぼくたちはすぐさま「寝耳に水」を中断し、今回の事前試写を撤収し、I沢さんに平謝りして外に出た。なので、「寝耳に水」はそうである。途中である。ぼくらはI沢さんに殺された―この時は井川耕一郎によってではなかったのだった―

 そう、以上は全てぼくの思い込みである。責任は取れない。ダブルなどは存在しない。エロスとタナトス、それらはダブルだと、ただ言いたいだけなのかもしれない。責任は取れない。また、ぼくは井川耕一郎監督の映画を二本と半分しか見ていない(「伊藤大輔」と脚本作を除いて)。なので、ぼくの井川耕一郎についての試論が、今回初めて井川耕一郎の映画を見る人への、導入になるかもしれない。もしくは、ならないかもしれない。と、いうことかもしれない。以上は、全てぼくの思い込みである。


佐野真規:1982年生まれ。滋賀県出身。シネフィルぶって「映画は映画館で見なきゃ」と、映画館に映画を見に行くが、十中八九寝る。

映画美学校11期フィクション初等科井川クラスに在籍中。

2006-09-23

[][]『寝耳に水』について(非和解検査)

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 井川耕一郎『寝耳に水』は、そのタイトルにも拘らず唐突な事件との遭遇を描いたものではない。主人公坂口の後輩・長島の自殺も、その恋人・弘美の死も、唐突に発生するのではなく、そうした事件が“あった”と回想される対象に過ぎない。何より映画自体が、長島の多分に夢/妄想を含んだ回想を、坂口が回想するという複雑な構成を採っている。事物は残像としての、人物は幽霊としての属性を露わにし、時制は曖昧極まりない。その中で、坂口は自殺を前にした長島と過ごした一夜を語ろうとするのだが、それは事件の再現から必然的に逸脱していくであろう。だが、そもそも映画は事件を語ることなど可能なのかという疑問が一方で生じてくる。事件は人物の眼や耳を揺さぶるものであるがゆえに、事件と呼ばれるのではないのか。坂口の(そして長島の)語り口は、事件の再現不能性を再現自体に巻き込むような趣を示していると思える。それを端的に証している場面を、ここでは二つだけ挙げておきたい。


 一つは、長島の耳をクローズアップする場面。井川のコメントによると、この撮影のために六畳間いっぱいの大きさの耳の模型を製作したということなのだが、例えばこの場面を単にカメラを対象に接近させるだけで処理していた場合に比べて、いかなる効果があるだろうか?ここは長島の回想の場面であり、耳を見ているのは長島だと考えられる。そして耳は、事件―――この場合、弘美の死そのものよりも、死の二日前に彼女が漏らした《いたい》と言う二義的な言葉を“耳”にしたという事実―――によって、鋭敏に(=巨大に?)変貌を遂げたのであり、この場面はそのことを示していると言えるだろう。しかし、耳の大きさが実物と模型の間で揺れ動くことは、耳の変貌のみならず話者である―――そして、その耳の所有者でもある―――長島そのものの変貌=小型化をも示す。その結果、長島の肖像はひどく歪んだものになるであろうが、グラス越しの長島の顔を捉えたショットはそれを予感的に表象した物に見えてくる。この顔は一体誰のものなのか?誰がこの場面を見ているのか?


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 もう一つは、団地のベランダから布団が落ちる光景を反映している坂口の瞳をクローズアップする場面。ここで布団の落下イメージは新谷尚之の手によるアニメーションで処理されている。もちろん、実際に布団の映った瞳を撮影するのは極めて困難であり、こうした処理を施すのは妥当であるが、ではなぜ実写の映像を加工することをしなかったのだろうか。答えは今や明らかであろう。この場面によって、落下―――長島の自殺を暗示している―――という事件と同時に、それを見つめる坂口の瞳も曖昧化されるのである。そもそも、坂口は長島の自殺を実際に見ていないのであり、事件が事件の記憶を壊乱したような印象が残されるのだ(事態は、その逆かも知れないが)。


 しかし、二つの場面は坂口、そして長島が語る物語自体を揺さぶることはない。虚実入り混じり、錯綜した印象を与えるものの、二人の語る物語は観客に理解可能である。映画の中で登場する奴隷契約書―――ドゥルーズガタリが『千のプラトー』で引用したマゾヒストのプログラムを想起させる―――や、引用されるファーブル昆虫記は、この物語の堅固さを象徴しているように思われる。事件による変貌にも拘らず、物語は完成してしまうのである。それゆえ映画にはシニズムの気配が色濃く漂う。《寝耳に水》という慣用句=物語や、《薪》と《口火》の挿話が忠実に演じられる場面―――後者は、澤田幸弘『暴行!』の極めて印象的なオープニングを想起させる―――は、その代表的なものであり、ここで映画は物語の堅固さを摸倣しているように思える。何よりラストの、坂口が実際には“いつ”語っているのかについてを明かした挿話などは、出鱈目に過ぎる《物語》ではないか。ここに至って井川のシニズムは、ユーモアへと突き抜けているように思える。映画そのものが事件と化すような、貴重な一瞬が到来したように思える。そして、このユーモアもまた物語に還元されるのであろうが、井川は物語を嬉々として反復し続けるであろう。なぜなら《語り》には主体も、対象も無く、したがって終わりもまた有り得ないからだ。そして、それはこの作品自体が執拗に《語り》つくしたことなのでは無いだろうか?


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2006-08-18

[][][][]「夏祭@映美」によせて(大工原正樹)

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 「シネマGOラウンド」を初めて観たとき、ヘトヘトになった。上映時間はせいぜい2時間強。しかし、この2時間を体験するくらいなら、「旅芸人の記録」「1900年」を続けて観るほうがずっと楽だ。オムニバス映画という体裁で上映されることが多いらしいのだが、この4本はオムニバスの形式にはなっていない。真っ向勝負、全力投球の濃密な短編映画4本の競作、と謳った方が観る人に心構えが出来て親切だ。「夜の足跡」「寝耳に水」「月へ行く」の3本はじゅうぶん長編映画になりうるプロットを30分に凝縮しているため、また「桶屋」はプロットこそ短篇のものだが、主線から逸脱していくエピソードがどうまた主線に返ってくるのかというスリリングな語りをしているため、どの作品も一瞬たりとも画面から目を離せないし、観ながら考えることを休んだ瞬間に確実に置いてきぼりを食わされる。ひとつのテーマを真面目に語れば語るほどその過剰さと歪さが露わになるという、気が狂った、しかし、だからこそ映画作家としての正しい資質を備えた4人がやっていることをこれ以上一括りに出来るわけも無く、後は観て、それぞれの映画を十分に堪能してもらえばいいだけだ。


筒井武文氏による各作品の的確な解説*1や常本琢招*2・和田光太郎氏*3の紹介文でこの4本の異様な面白さは十分伝わっていると思うのだが、あえて付け加えると、「夜の足跡」ではこの深刻なドラマに一気に解放をもたらすのが、役柄でいえばただの通りすがりの女子高生であるという、その呆れるほどの冷徹さを、「寝耳に水」では(日本語で)インテリの男二人が語りあうシーンの呼吸、その官能性を演出することにおいて、今まで日本映画が成しえなかった高度な達成がなされていることを、「桶屋」では映画がトーキーになってから失った喜劇の編集の厳密さを取り戻さんと、サイレントさながらのミディアムショット・固定画面の連鎖で完璧な「間」を示しながら、その上でセリフと音の洪水をいかなるテクニックで処理しているのか、その志の高さを、「月へ行く」ではドロドロとした、人間にしかありえない関係を描きながら全くそうは見えず、登場人物全員が動物のように生息している異世界の楽しさを、注目して観てほしい。


しかし、今回「オトコとオンナの映画秘湯」上映会「夏祭@映美」で上映されるのはこの4本だけではないという。『シアワセ☆ララバイ』『citylights』『もの凄いキック』『巣』という映画美学校修了生の傑作選が加わり、どんな目くるめく体験が待っているのか、「オトコとオンナ映画秘湯」氏によるプログラミングの妙も含めて、ぜひ楽しんでほしい。

2006-08-04

[][][][]乾杯!ゴキゲン野郎(シネマ)〜シネマGOラウンドによせて〜(常本琢招)

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「ハッピーになれるデェ!」とは、阪本順治の呪われた映画『ビリケン』の惹句だったが、僕も今回、完成以来久々、『シネマGOラウンド』の作品たちを見直して、とにかくハッピーな気持ちになったことをまず告白する。なぜか?それはこの映画たちが、今の眼から観ると、それぞれの監督たちが新しいジャンプを行うための、小さな、しかし確実な一歩になっていたのを確認できたからだ。

観る者をハッピーにしてくれる映画がめっきり少なくなった昨今、それだけの理由でもこの上映会、観に来る価値がありまっせェ!と太鼓を叩いて、さらに各作品に触れる前に、ゴキゲンなこの映画たちを語るには、最も敬愛する文章家・故殿山泰司のゴキゲンな文体がふさわしいと思うので、それでイかせてもらうぜヒヒヒヒ。


 『夜の足音』にはとにかく驚かされたなア。万田さんがついに“感情”を取り上げやがったからさ。オレがそれまで一番好きだった万田さんの作品『GIRIGIRIまで愛して』と比べると、まるで別人が作った映画のようだぜ。実は万田さんは人間ドラマが大得意なんだけど、慎み深い性格のせいで今まで隠していたんだなア。蓮実重彦が昔ゴダールについて、「実は観る者の感情を揺さぶる映画を作るのが一番得意なくせに、それを隠している」ってたしか言ってたけど、それを思い出したぜ。

なぜか70年代のイタリア映画を思わせるささくれ立った青春映画の中で、主演の男(最初はなぜこの役者を?と疑問だったのが、だんだん良くなる)が時折見せる荒涼とした表情にオレは胸をズドン!!とやられたね。ボク、オカマとちゃうでェ!!


 『寝耳に水』にはとにかく肯かされたなア。井川さんは常々「僕は演出は下手」と韜晦してるけど、なんのなんの、『ついのすみか』を観れば、井川さんがいかに厳格で個性的な文体を持った演出家であるかお分かりですよねミナサン??それがこの『寝耳に水』を観ると、『ついのすみか』で頂点に達した室内演出の完成度の高さを、今回は崩そう、というか方向転換させようとしているのが見え、新しい演出にチャレンジしようとするその戦いぶりには同じ演出家として共感させられたぜ。お前はなんやねん、井川さんにいいホン書いてもらったお陰で監督面させてもらってるのに、偉そうなことを言うなッ馬鹿!!ヒイヒイ!!


 『桶屋』にはとにかく笑わせられたなア。西山さんの映画はいつもクイクイと見せられて、終わったあとにこの人なんでこんな発想できるんだろうと慄然とさせられるの。今回もドンピシャでその通り。「それぞれの監督たちの新しいジャンプ」って書いたけど、西山さんに関してだけは鈴木清順がそうであるように、ずっと変わらずに鉄板の演出で攻め続けるんだろうなと痛感したね。ウーン!西山さんの映画を観ると、オレの映画がいかに“フィーリング”という曖昧な感覚に流されやすいかを突き付けられるぜ、クククク!アンタ泣いてるのね?


 『月へ行く』にはとにかく襟を正されたなア。植岡さんの映画はこれまで、映画を愛する人が「映画」を描こうとして作っている、という印象だったのが、今回の『月へ行く』は「人生」を描いてるぜ。時々映画ファンらしいお遊びもあるけど、この作品には、親子愛・男女の愛、憎しみ、喜び、悲しみ・・・人生の諸相がすべて詰まっていて、40分の映画でオレに人生とは何かを教えてくれた。自主映画を観て、まるで加藤泰のようだと思ったのは、初めてだぜ。植岡さん、サンキュー!!大きくなった植岡さんの後姿を見て、オレはまた泣いた。


(『シネマGOラウンド』は映画秘湯上映会「夏祭@映美」(映画美学校第二試写室・8月19日(土)13:00〜)で上映されます。詳しい情報はこちらをどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/eigahitokw/20060819


[][][]各作品のあらすじ

『月へ行く』(植岡喜晴)

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豆腐屋の娘、柿の木坂ナオは、担任教師の小山に犯され妊娠して高校を休学中。彼女は、空飛ぶ円盤が自分たちにピンクの光線を浴びせたと公言し、だからお腹の子は宇宙人だと固く思いこんでいる様子。一方、父親のテツゾウも、時を同じくして妻のタマエに家出され、ナオとともに憂鬱な日々を送っていた。

そんなある日、レイプ事件で高校を首になり放浪生活を送っていた小山がふらりと現れ、柿の木坂家に間借りし始めた。そして家を捨てたはずのタマエまでテツゾウとナオの前に姿を現すのだが、小山にはなぜか二人と話すタマエの姿が見えない。テツゾウはタマエの出現に怯え、ナオは激しい気性で彼女を撃退する。

東京に小さな地震が頻繁に起こり出し、テツゾウに想いを寄せていた雇い人の広子が謎の死を遂げるに及んで、ナオは無口になり、テツゾウの心のタガは次第にはずれていった。テツゾウは豆腐作りを止め、ナオの入れ知恵で、新聞の娯楽記事に掲載されていた「ネズミ爆弾」造りに熱中し始めた。


監督コメントと作品解説

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=1626

(4作品とも解説は筒井武文)


『夜の足跡』(万田邦敏)

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川岸に、一人の少年が寝そべっている。傍らに赤いリュックサックが置かれている。同じころ、小さな印刷工場では24歳の青年・洋が働いている。真面目で腕のいい彼は社長夫婦に気に入られていたが、不景気の折から、夫婦は洋に工場を辞めてもらうほかないことを相談している。気のいい社長はそれを洋に言い出せない。自宅に帰った洋は、数年来音信が途絶えていた母親からの留守番電話を聞く。しばらく弟の潤の面倒を見て欲しいという。洋は潤とも数年来会っていない。土手に寝そべっていた少年が潤だった。その夜、二人は再会するが互いに相手を無視するような態度だった。翌日、洋は社長から首の話を聞かされる。洋の地味で単調な生活の歯車が狂いだした。帰途、洋は川岸で異様な光景を目の当たりにする。それは、15歳の時に殴り殺した父親の亡霊だった。消し去ろうとしても消えない忌まわしい過去の記憶が洋を襲う。潤は、洋の蛮行が下人で一家離散したことをなじり、洋の部屋を飛び出す。行き場を失った洋は、かつての恋人に助けを求めるが、彼女にも見捨てられる。洋は潤を探し出す。洋にとって、兄弟という血のつながりだけが自分をこの世界に繋ぎ止めておく唯一の絆だった……。


監督コメントと作品解説

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=1627


『桶屋』(西山洋市)

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この映画のストーリー展開は、日本の古い諺「風が吹けば桶屋が儲かる」のプロットにのっとっている。すなわち、1.大風が吹く。町には砂ぼこりが舞い上がる。諺によれば、この砂ぼこりによって多くの人々が目をやられ、失明するという。2.盲人たちは、古来からの日本社会の伝統に従い、こぞって三味線を習い始める(それを生きる術とするために)。当然、三味線の店は繁盛し、三味線は不足する。3.三味線の皮の原料は猫であった。そこで、町には猫狩りの嵐が吹き荒れ、瞬く間に猫の数が激減する。4.すると逆に、ネズミの数が爆発的に増える。ネズミが暴れて人々に被害をもたらす。諺によれば、ネズミたちは桶を齧るのだという。5.こうして桶屋が繁盛するというのである。

……このような異常事態が発生した世界に住んでいる無為徒食の主人公3人が、事態に多かれ少なかれ影響を受けつつ、彼らのペースで生きてゆく様子を描く。


監督コメントと作品解説

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=1629


『寝耳に水』(井川耕一郎)

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真夜中、ぽたり、ぽたり……と、水の滴り落ちる音がどこからか聞こえてきて、それが主人公・坂口の記憶を呼び覚ます。

三年前の夜、坂口の部屋をふらりと訪れた長島。大学の後輩だった彼は坂口に、近頃、くりかえし見る奇妙な夢の話をする。その夢は、長島の恋人で、交通事故で亡くなった弘美にまつわるものであった。残り火のように長島の心の中でいまだ燃えている弘美への思い。夜ごと、水を滴らせながら長島の枕もとに立つ彼女の幽霊。やがて頭の中で激しく燃えだした火に、長島は苦しみだす。するとある夜、その火を鎮めに来たかのだろうか、弘美の幽霊の口から長島の耳へと一筋の水が注ぎ込まれた……。

一体、長島はどういうつもりでこんな話をするのだ? 坂口は、長島の死んだ恋人に対する狂おしい思いにとまどいつつも、その夢の話に魅了されていく。

その数日後に、長島がビルから飛び降り自殺してしまうことになるとも知らずに……。


監督コメントと作品解説

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=1628