プロジェクトINAZUMA BLOG

2012-12-25

[]『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』、ちば映画祭で上映(1月27日(日)16:10〜・千葉市民会館 小ホール)

f:id:inazuma2006:20110923172716j:image:w360


木更津とその周辺で撮影した『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』が、ちば映画祭で上映されます。


ちば映画祭VOL.5


1月27日(日)16:10〜


『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』(2010年・49分・監督:大工原正樹)

同時上映:『純情NO.1』(2011年・20分・監督:大工原正樹)

(上映後、大工原正樹のトークショー)


当日:1200円、前売り:1000円


千葉市民会館 小ホール

 千葉市中央区要町1-1

 043-224-2431

 (JR千葉駅から徒歩7分/京成千葉駅から徒歩10分)


詳しくは、ちば映画祭公式HPをご覧ください。

 http://www.chibaeigasai.com/


f:id:inazuma2006:20110923172713j:image:w360


<『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』について>


公式サイト:http://hotohotosama.web.fc2.com/index.html


監督コメント:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20100609


脚本家コメント:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20100311/p2


『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』を見て思ったこと(井川耕一郎)

 第1回: http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110924/p2

 第2回: http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110925/p1

 第3回: http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110926/p1


f:id:inazuma2006:20110920173507j:image:w360


<『純情NO.1』について>


『純情NO.1』の、ちょっともやもやするところ(清水かえで)

 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110920

2012-02-06

[][][][]映芸シネマテークvol.12で大工原正樹『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』、井川耕一郎『西みがき』などを上映(3月9日(金)19時〜・人形町三日月座B1F/Base KOM)

f:id:inazuma2006:20120210181942j:image

映画芸術」、「coffee & pictures人形町三日月座」主催の映芸シネマテークで、大工原正樹『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』、井川耕一郎『西みがき』『玄関の女』が上映されます。


「映芸シネマテーク」vol.12(3月9日(金))のお知らせ


 大工原正樹監督の映画ではとても普通じゃない愛や憎しみばかり描かれているのに、見ていて不思議と納得してしまう。昨年公開され話題を呼んだ『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』も、あてもなく町をさまようだけのロードムービーかと思ったら、過去の因縁にとらわれた男女の激しい感情が燃え立つまでを見るドラマでもあったような、今まで一緒に見たことない二つのジャンルの混在する映画だった。

 この奇妙さは大工原正樹監督の作家性なのか? それとも脚本の井川耕一郎によるものなのか? 井川耕一郎監督作品『西みがき』は『姉ちゃん〜』と同じく、姉弟の愛と幽霊をめぐる話だ。しかし二本を比べて見ると『姉ちゃん〜』の俳優の堂々とした佇まいと、『西みがき』のどのように動くのか予測のつかない不安定な仕草は、全くの別物だ。

 大工原正樹・井川耕一郎、両監督作品を続けて見ることで、それぞれの演出・脚本のあり様の違いと、そこから醸しだされる怪しげな魅力に迫りたい。


f:id:inazuma2006:20110923172713j:image

『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』

監督:大工原正樹 脚本:井川耕一郎

撮影・照明:志賀葉一 録音・整音アドバイザー:臼井 勝

編集:渡辺あい 大工原正樹 音楽:中川晋介

出演:長宗我部陽子 岡部 尚 森田亜紀 高橋 洋 光田力哉

2010/49分


f:id:inazuma2006:20060827220140j:image

『西みがき』

監督:井川耕一郎

撮影:福沢正典  録音:臼井 勝  編集:北岡稔美

出演:本間幸子 粕谷美枝 西口浩一郎 中村 聡 前田怜子

2006/53分


『玄関の女』

監督:井川耕一郎

撮影:松本岳大 録音:光地拓郎 編集:北岡稔美

出演:本間幸子

2011/5分


開場:3月9日(金)18時30分 開映:19時

19時〜:『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』

19時50分〜:『西みがき』『玄関の女』

20時50分〜:トーク 大工原正樹・井川耕一郎


会場:人形町三日月座B1F/Base KOM

http://www.mikazukiza.com/map/

中央区日本橋人形町1-15-5柏原ビルB1F 電話03-3667-0423

人形町駅A2番出口より徒歩1分、水天宮前8番出口より徒歩1分


入場料金:1500円


※当日はDV-CAMもしくはブルーレイ上映になります。

※予約は電話、メールにて承ります。問い合わせ先まで、お名前、連絡先(電話番号/メールアドレス)、枚数をお知らせください。予約にて定員(30名)となった場合、当日券はございません。


主催:映画芸術、coffee & pictures人形町三日月座

予約・問い合わせ:映画芸術編集部 電話:03-6909-2160

メール:eigei×y7.dion.ne.jp

(×印に@を入れて送信してください)

映画芸術ホームページ http://eigageijutsu.com/


各作品に関する情報は以下をご覧ください。


<大工原正樹『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』について>

f:id:inazuma2006:20100609085955j:image

公式サイト:http://hotohotosama.web.fc2.com/index.html

監督コメント:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20100609

脚本家コメント:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20100311/p2

『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』を見て思ったこと(井川耕一郎)

 第1回: http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110924/p2

 第2回: http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110925/p1

 第3回: http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110926/p1


<井川耕一郎『西みがき』について>

f:id:inazuma2006:20060904011950j:image

監督コメント「彼女たちを撮りたいと思った」:

 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060904/p2


出演者コメント

 本間幸子:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060904/p3

 粕谷美枝:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060827/p2

 中村聡http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060904/p4

 西口浩一郎:

  井川耕一郎 脚本・演出『西みがき』出演者の追想

  http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060827/p3

  『西みがき』劇中映画『真・三本足のリカちゃん』の演出と出演をしてみて。

  http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060903/p1


西山洋市「『西みがき』の演技の演出について」:

 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20061018/p1


佐野真規「井川耕一郎論・試論〜上映予定の三作品について〜」:

  http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080224/p4


北岡稔美「『西みがき 断片・夫の話』供養のいきさつ」:

 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20061029/p1


<井川耕一郎『玄関の女』について>


監督コメント:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20110730/p2

2011-10-01

[][][]『赤猫』をふりかえって(井川耕一郎)


大工原正樹の『赤猫』は、『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』の併映作品として、10月4日(火)に上映されます(オーディトリウム渋谷、21時10分〜)。


f:id:inazuma2006:20060518035743j:image:w360


(『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』について書いたときと同じように、とりとめない雑感になってしまうかもしれないが、『赤猫』についても書いておくことにする)


『赤猫』のシナリオを大工原さんにメールで送り、あー、終わった、終わった、と清々した気分で缶ビールを何本も飲んだのだ。

しかし、一日たち、二日たつうち、だんだん心配になってきた。

あの分量のシナリオだと、いつもなら30シーンくらいでまとめている。ところが、『赤猫』は60シーン以上だ。それに画面外からの声と回想をたんと使っている。あんな変てこなシナリオを渡されて、大工原さんたちは困っているのではないか。


というわけで、スタッフの映画美学校生に準備の進み具合を尋ねてみた。主人公の千里役をどうするかで、大工原さんはもう何人もの女優さんと会っています、とのことだった。

私には、あて書きとか、イメージキャストとかいうやつがよく分からない。だから、どうぞご自由にやって下さい、と監督をやるひとには言ってきた。しかし、今回ばかりは、それでは無責任なように思えてきたのだ。


映画美学校で撮影の準備をしている大工原さんに会ってみた。

女優の面接を記録したビデオがあるんですけど、見ますか?と言うので、見せてもらった。ちょっとでも、大工原さんの助けになればと思って、教室で真剣に食い入るように見た。

五、六人分の面接を見たあと、大工原さんがビデオを止めて、どうですか?と尋ねてきた。

三番目の女優がよかった、質問を聞いているときのたたずまいがいいですね、と答えると、大工原さんは言った。ああ、そうですか。やっぱり、井川さんもそう思いますか。森田亜紀さんってひとなんですが、いいですよね。いいんだよなあ、彼女は……。

私は大工原さんの顔を見てあきれてしまった。バカヤロー、ひとを試しやがって。いや、要らぬ心配をしたおれの方がもっとバカか。大工原さんはとうに主演女優を見つけていたのである。


四年前にシネマアートン下北沢で『赤猫』を上映したときに、大工原さんはパンフレットにこう書いている。


「森田亜紀は、スタッフがインターネットで様々な劇団のHPを閲覧して見つけてきてくれた女優です。初めて会ったときの印象は、とにかく利口そうで感じのよさそうな人だなあと。シナリオの感想を聞いても受け答えがしっかりしているし、絶えず見せる笑顔が朗らかでたいへん魅力的だったのです。この人が千里を演じたらどうなるだろうと想像するのが楽しかった。それが何より決め手になったように思います」

(大工原正樹『「赤猫」森田亜紀について』・プロジェクトINAZUMAパンフレットより)


今、読み返してみると、「この人が千里を演じたらどうなるだろうと想像するのが楽しかった」と書いてあることにはっとさせられる。

大工原さんは続けて、主人公の千里について、「静かに狂っていく人物でありながら、語りは口調も内容も明快」、「夫の浮気を疑ったという話を夫本人に語りながら、決して感情的ではなく、まるで心がそこに無いように語る女」と書いている。

しかし、森田亜紀さんに主演を頼んだのは、大工原さんが考える千里という役にぴったりのイメージを持っていたからというわけではないだろう。もしそうなら、「この人が千里を演じたらどうなるだろう」などと思ったりはしないはずだ。

森田亜紀という女優を通して千里を探究すること、そして、千里という登場人物を通して森田亜紀の魅力を探求すること――この二つの課題がからまりあいながら、『赤猫』を監督するときの大工原さんをひっぱっていったのではないだろうか。


完成した『赤猫』を見て、アニメーション作家の新谷尚之さんは次のようなことを書いている。


「この作品で最も印象的なのは主演女優のモノローグのアップである」「女の喋るどこからがどこまでが真実なのか。もしかして全てが幻想なのか。何重にも入れ子状になったこの作品で、唯一揺るがないステージ。それがあのアップだ。どこで喋っているのか、どこを見つめて、誰に向かって喋っているのかもわからない(もちろん、夫にだが、独り言のように見えてくる)。単なる古典的手法。経済的、効率的に撮影するためのブリッジカットこそが、この映画の最深部であり、誰もがそのカットに魅入られてしまうのだ」

(新谷尚之『じっと見つめる―大工原正樹の映画について―』より

 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060527/p3


たしかにそうだと思う。シナリオでは画面外からの声として処理されている部分のいくつかが、映画では闇の中で千里がカメラに向かって語りかけるというふうになっているのだが、そのときの森田亜紀さんのアップが実に素晴らしいのだ。

大工原さん自身は、このアップを撮ったときのことをこう記している。


「最終日だったでしょうか。千里のモノローグを、声だけでなく彼女の表情も込みで撮っていこうと思い立ち、カメラをほぼ回しっぱなしにして演じてもらいました。

正面を見据えて語る彼女は、それまでに増して怖かった。カメラの横で森田亜紀の芝居を見つめながら「千里という女はこれほど狂っていたのか!」と心底驚いたことを今でも覚えています」

(大工原正樹『「赤猫」森田亜紀について』・プロジェクトINAZUMAパンフレットより)


このとき、大工原さんは「森田亜紀という女優を通して千里を探究すること」という課題に対する答をやっと見つけることができた!と思ったのではないだろうか。


『赤猫』を見直して気づいたことがある。最終日に撮ったという千里のアップが映画の中で最初に使われるとき、彼女はカメラに向かって何も語りかけていないのだ。

夫が浮気しているかもしれないことを、彼が地下室で猫とじゃれている形で表現しているシーンがあるのだが、そこでふいに千里の無言のアップが入るのである。

それは地下室へと下りてゆく階段の途中で立ち止まり、息を殺してじっと夫の様子を見つめているようで、ぞっとする。地下室のシーンは、シナリオでは千里の想像のシーンだったのだが、完成した映画では現実になりかけているのだ。


この千里の無言のアップに気づいたとたん、映画の見方が変わってくる。

彼女がカメラに向かって語りかけるアップが強く印象に残るわけについて、以前、それは目の持つ力や、声の質感によるものだと思っていた。

しかし、あらためて『赤猫』を見てみると、語りだす前や、語り終えたあとの間が、ほんのちょっとだけだが、長くつないであるのである。

あのアップが見る者を惹きつけるわけは、このほんのわずか長い無言にあるのではないか。


そういえば、私が大工原さんに女優の面接ビデオを見て口にした観想は、「質問を聞いているときのたたずまいがいいですね」だった。

私が無意識のうちに感じていたのは、森田亜紀の魅力は無言のうちにあるということだったのだろう。いや、より正確に言えば、無言から発話に移る瞬間、唇がかすかに動きだす瞬間が魅力的だということになるだろうか。

大工原さんは私とちがって、森田亜紀さんの魅力についてかなり意識的に考えていたのだと思う。だから、モノローグのアップをつなぐときに、ほんのちょっとの間を大切にしたのだ。

つまり、モノローグのアップは、「千里という登場人物を通して森田亜紀の魅力を探求すること」という課題に答えるものにもなっていたと言えるだろう。


またしても長い文章になってしまったので、あと二つだけ、ここが見所と思うところを記して終わりにしたいと思う。


これから『赤猫』を見るひとのために、はっきり具体的に書くことはしないけれども、映画の後半で千里が思いもよらないタイミングであるものを見てしまったことを夫の内村に語る場面がある。

シナリオではこの場面は、次のようになっている。


○ ダイニングキッチン

  窓の方に向かってゆっくり歩く千里。

千里「最初、わたし、それが何だか分からなかった。だって、生まれて初めて、それをじかにこの目で見たんだから……」

  千里、窓際に立つと、カーテンを握りしめる。

千里「でも、気づくのが遅かった。もっと早く気づいていれば、目を背けたのに……」

内村「……一体、何を見たの?」

  千里、ふりかえって内村に言う。


しかし、完成した映画ではセリフはそのままだが、動きがちがっている。森田亜紀さん演じる千里は、「一体、何を見たの?」という問に答えるとき、ソファーに横たわっているのだ。

これには、本当にうなってしまった。セリフの上では、彼女は見てしまったことを後悔している。だが、身体は見てしまったものをありありと思い出し、今もそれに魅了されていることを告げているのだ。

セリフと身体が同時に正反対のメッセージを発しているというのは、シナリオでもねらっていたことだった。しかし、これほどまでに鮮やかに正反対が表現されるとは思ってもいなかったのである。

それに、森田亜紀さんのソファーに横たわっている姿がなぜだかとても色っぽかったのだ。


シナリオだと、夫の内村の存在感はとても希薄だ。たぶん、シナリオを書いているときの私は、夫なんかどうでもいい、千里の姿だけがスクリーンに残ればそれでいいんだ、と思っていたのではないだろうか。

だが、完成した映画では、夫の内村が丁寧に撮られている。千里の話すことをただ黙って聞いているだけなのだが、そのたたずまいが素晴らしい。内村を演じた李鐘浩さんがさりげなくいい芝居をしている。彼の受けの芝居が森田亜紀さんを輝かせているのだ。これも見所の一つだろう。

そういえば、衣装合わせのとき、初対面の森田さんと李さんがあいさつをし、話しだしたとたん、大工原さんがちょっと離れたところに立って、黙ってじっと見つめだしたのを思い出す。あのとき、大工原さんは二人の何気ない姿の中から夫婦の雰囲気をつかみとろうとしていたのだろう。

大工原さんはデビュー作『六本木隷嬢クラブ』のときからそうだったのだが、家族的親密さを描くのがとてもうまい。あのうまさは、こういう観察の積み重ねから生まれてくるものなんだろうな、と私は思ったのだった。

2011-09-27

[]『赤猫』についてもっと詳しく


f:id:inazuma2006:20060527053256j:image:w360


大工原正樹の『赤猫』は、『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』の併映作品として、9月27日(火)、10月4日(火)に上映されます(オーディトリウム渋谷、21時10分〜)。


このブログに掲載されている『赤猫』に関するコメント、批評は以下のとおりです。


『赤猫』のスタッフのコメント


『赤猫』シナリオについて(大工原正樹)

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060517/p2

今回の『赤猫』でも、井川との最初の雑談では、ある夫婦の間の小さな亀裂が一人の少年(もしくは少女)の登場によって修復不能なまでに大きくなり崩壊する、という簡単なプロットがなんとなくの合意となっていた。


大工原の主演女優にハズレなし。(井川耕一郎)

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060517/p3

大工原作品を見ていると、この女優はこんなに良かったのか!と発見させられることが多い。大工原のヒロインは皆、一見おっとりしたたたずまいである。だが、内に秘めた堅い芯があらわになるときがあって、そこが魅力的なのだ。


『赤猫』をふりかえって(井川耕一郎) new!


『赤猫』に関する批評


じっと見つめる―大工原正樹の映画について―(新谷尚之)

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060527/p3

この作品で最も印象的なのは主演女優のモノローグ場面のアップである。肯定否定に関わらず、誰もがあのアップを口にする。「単なるエキストラカットのつもりだったんです。でも編集し始めたら一杯使いたくなってしまって」大工原の弁である。


『赤猫』―――化けること・1(小出豊)

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060528/p2

『赤猫』―――化けること・2(小出豊)

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060529/p1

ただ、この透明になろうとする身振りは、古典的なハリウッドの形式を無批判に踏襲するという悠長なものではなく、『赤猫』において主要な「化ける」という行為を、映画の語り手である自らも実践してみせるというものなのだから、凡庸などというものからは遠く離れた身振りなのだ。


プロジェクトINAZUMA公式サイトにも『赤猫』に関する情報が載っています。

プロジェクトINAZUMA公式サイト http://project-inazuma.com/


ストーリーと解説

http://project-inazuma.com/?p=67


キャストについて

http://project-inazuma.com/?p=74


スタッフについて

http://project-inazuma.com/?p=80

2011-09-26

[][][]『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』を見て思ったこと・第3回(井川耕一郎)


f:id:inazuma2006:20110923172712j:image:w360


今年の三月にアテネフランセ文化センターで大工原正樹特集があったとき、チラシには次のような『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』の紹介が載った。


子供の頃に義父から受けた虐待の記憶に苛まれる姉弟が、母の死を機に故郷の港町を久方振りに訪れる。彼らの願いは、忌まわしい過去の呪縛の象徴である亡霊から解放されること。ゴーストタウンのような風景に佇む長宗我部陽子と岡部尚の姉弟の寂しげな姿が印象に残る。隣人役の高橋洋の怪演にも注目。


よくまとめてある紹介だと思う。しかし、「故郷の港町を久方振りに訪れる」のあと、すぐに「彼らの願いは、忌まわしい過去の呪縛の象徴である亡霊から解放されること」とつなげてしまうと、結論を急ぎすぎているように見える(150字くらいでまとめるとしたら、これは仕方のないことなのだが)。

木更津を訪れた時点で、姉も弟も自分が求めているものが何なのか、まだよく分かってはいなかったろう。二人が自分たちの欲するものに近づくことになるのは、その日の晩、姉の気まぐれで旅館に泊まったときではないだろうか。


夜、うなされて目ざめた弟は姉に子どもの頃に「あいつ」から受けた虐待の記憶を語る。すると、姉も今まで弟に黙っていた虐待の記憶を語る。しかし、二人とも記憶を語ったあとにすぐ、大人になった今となっては、こんなことはどうってことないのだ、と言葉をつけくわえている(このとき、子どものときから顔つきがあまり変わってなさそうな岡部尚が「バカみたいだろ?」と言って、自嘲するおっさんのように笑うのがとても印象的だ)。

忌まわしい過去は、大したことないと軽く見るか、忘れ去ってしまうかしないといけない。でないと、普通の生活は送れないだろう。たぶん、姉も弟もそう考えて今まで生きてきたにちがいない。


だが、姉は母の死をきっかけに思ったのではないか――わたしは悲しみや苦しみや恐怖については知っている。けれども、憎しみについてはあまりよく知らないし、知ろうとさえしなかった。それでいいのだろうか。わたしの人生は嘘なのではないか……。

そこで、姉が憎しみの対象に選んだのは母だった。とはいえ、その憎しみは「わたし、母さんのこと、ずっと憎んでいたかもしれない」というような不確かなものであり、「母さんも、わたしのこと、憎んでいたんじゃないかな」という仮定の上に成り立つもろいものだった。だから、旅館で姉が語る母に対する憎しみは、弟によってすぐに否定されてしまう。


ところが、姉の憎しみを否定することで、今度は弟が憎しみにとり憑かれてしまうのだった。姉さんは憎む相手を間違えている。憎むなら、母さんではなく、「あいつ」でなくてはいけないんだ……。そう考えた弟は、「あいつ」がどこかで生きていることを望み、この手で殺すことを欲するようになる。

姉は弟に、恐ろしいことを考えないで、と言っているが、彼女の潜在意識はどうなのだろう? 弟の「あいつ」に対する憎しみは、姉が心の奥底で求めていたものではなかったか。つまり、姉にはそのつもりはなかったが、潜在意識が欲する方向へと弟を誘導したのではないだろうか。

(注:まるで他人の作品を批評するような書き方になっているのには訳がある。私はシナリオを完成させると、書いていたときに考えていたことのほとんどを忘れてしまうのである。だから、自作であっても推測するように書くしかない)


旅館の場面は、完成した映画を試写で見て、ここは何度見ても見飽きることがないだろう、と思ったところだった。

シナリオでは、姉が母に対して抱いていたかもしれない憎しみを弟に語るところは、布団に入ったまま、弟に背を向けて語るというふうになっていた。

けれども、映画では、セリフはシナリオのままだが、姉を演じる長宗我部陽子さんは布団から出て、どうしていいか分からないといったふうにいらいら歩きまわっている。

この姉の姿を見て、弟はどう思ったのだろう? 彼は自分が見ているはずのない過去を思い出してしまったのではないか。そうだ、姉さんが「あいつ」にされたことを告げたとき、母さんはあんなふうに家の中を歩きまわっていた……、と。


そして、母に対して抱いていたかもしれない憎しみを弟が否定すると、姉は「そうだよね。わたし、どうかしてた」と言って布団に戻り眠る。

だが、岡部尚さん演じる弟は上半身を起こしたまま、まっすぐ闇を見つめている。

するとそのとき、シナリオには書かれていないことが起きる。夜の海をバックに顔をおおって泣く少女の姿が映るのだ。それは少女だった頃の姉である。姉は寝てしまったというのに、弟は見たこともない過去をなおも見続けている。弟の中に「あいつ」に対する憎しみが芽生えるのはもう時間の問題だろう……。

つまり、大工原さんたちは、姉から弟へ憎しみが飛び火する過程を見事に画にしてみせたのだ。弟が「あいつ」に対する殺意を静かに語りだすとき、窓外が赤く光りだす。赤い光が炎のようにゆらめくのを見ながら、シナリオを書いた立場としては、ただただ現場の努力に感心し、うなるしかなかったのである。


とりとめない文章がどんどんとりとめなくなっていくみたいなので、ここらでやめようと思う(最後の最後にスクリーンに映る長宗我部さんのカットが持つ不思議な味わいについても書こうと思ったのだが、これはひとによってはネタバレと感じるかもしれないのでやめておくことにした)。

だが、あと一つだけ記しておきたい。

旅館で、姉と弟は浴衣の帯の端をそれぞれ自分の手首に縛り、何かあったら連絡するようにしていた。これの元ネタは、もちろん、幸田文の『おとうと』である(『おとうと』で使ったのは、見舞いの果物籠のリボン)。姉と弟のドラマを書くとなると、『おとうと』は避けては通れない作品のように思えたのだ。

シナハンで木更津に行ったときのことだった。映画館が撮影に使えるなどといった情報は事前に大工原さんから聞いていたが、まさかここまでひとがいない街だとは思っていなかった。あちこちに廃墟となった旅館やホテルがあったのもちょっとショックだった。

港まで歩き、中之島大橋の上から街を見渡したとき、ふと「うっすらと哀しいのがやりきれないんだ」という言葉が浮かんできた。『おとうと』で弟が姉に言うセリフだった。弟は丘の上から海と港町を見下ろす自分を想像して、こんなことを言うのだった。

「そういう景色、うっすらと哀しくない? え、ねえさん。おれ、そのうっすらと哀しいのがやりきれないんだ。ひどい哀しさなんかまだいいや。少し哀しいのがいつも侵みついちゃってるんだよ、おれに。癪に障らあ、しみったれてて。――」(新潮文庫・p139)

与三郎通りのことも合わせて考えてみると、どうやら木更津は姉と弟のドラマを書けと脚本家にささやき続けていたように思えるのだが……。