プロジェクトINAZUMA BLOG

2008-02-24

[][][]井川耕一郎論・試論〜上映予定の三作品について〜(佐野真規)

 まず、これは自分の思い込みかもしれないと断っておく。そうして、以下に取り上げる事柄については諸兄が既に指摘されて議論をなされた、既に自明の事柄であろうことも想像に難くない。が、愚弟としてようやく今日、井川耕一郎の監督作品を見たぼくが、以下についてぐたぐたと述べる事は思い込みであるとするならば、井川耕一郎の映画について諸兄が語ったであろうこともひょっとしたら思い込みではないかとも思わなくはない。

 と、いうのは厚顔無恥であるぼくが、というよりも井川耕一郎が、映画を見るものにそうした思い込みを思い込ませており、かの映画はそのように人を思い込ませるように出来ており、そうして我々は、井川耕一郎の手の上で、転がされて各々そう思わされているのではないか。手の上で不得要領にさせられているのではないか。と、井川耕一郎に思い込まされたからである。

 フィクション初等科D組が主催して井川耕一郎上映会を行うということで、D組のぼくはD組講師である井川耕一郎の映画を見た。「西みがき」を最初にみた。訳が分からなかった。途中で記憶を失った。寝た。見終わった後、D組の冨永くんが「井川さんの映画は死が画面に溢れていますね」と言った。それでぼくはようやく分かった。ぼくは寝ていたのではなく井川耕一郎に殺されていたのだ。

 そうしてぼくは思い込んだ。死が溢れているというのはどういうことか。思い込まされた。井川耕一郎の映画には生と死がダブル(=分身)となって繰り返し現れる。エロスとタナトスがダブルとなって繰り返し現れる。それらが荒唐無稽な形象をとってスクリーン上に現れているうちに、そうしているうちに、いつの間にか観客は井川耕一郎に殺される。スクリーンを見ているはずの観客は、「西みがき」の「西口くん」のように、死んでいるのに死んだ実感がない幽霊なのか何なのかよく分からない正体不明の存在にさせられる。死んでいるのに死んだ実感がない。それは生きているのに生きている実感がないのと同じ事である。そうだ、だからぼくは寝ていたのではなく井川耕一郎に殺されていたのだ。「映画が終わると愛が終わったように感じる」、と言っていたのはカサヴェテスだった。「映画を見ると何度も繰り返し殺されたような気になる」のが井川耕一郎の映画なのだ。

 死んだ「西口くん」は死んでいるのに生きているようである。だから首を絞めて殺される。だから袋に詰めて遺棄される。「三本足のリカちゃん」はペニスを持っているのか。臍の緒を持っているのか。だから殺される。バラバラにして殺される。性欲(=生欲)を持っていると殺される。エロスは生命の表れであり死の表裏となって現れる。死んだ「西口くん」はリカちゃんの足を、まるで自分の男性器に触れるかのように触れ、気を遣った。気を遣るということ(=性的絶頂)は死に似ていると言っていたのはバタイユではなく井川耕一郎の映画を見たぼくである。嘘である。バタイユである。小さな死。ゆっくりと、穏やかに、緩慢に、首を絞められていく。そう、映画の中で何度も繰り返し生かされ殺されるのだ。ぼくらは井川耕一郎によって。

 「ついのすみか」を次に見た。生き物は、生き物の前提として、生きている限りゆっくりと死に向かっている。また、死はその前提として、生き物が生きていない限り訪れ得ない。浅蜊が砂を吐かされている。塩水の入ったボウルの中で、包丁を抱かされて浅蜊は砂を吐かされる。塩水の中でゆっくりと浅蜊は砂を吐く。苦しそうに、いや気持ちよさそうに。それと同じ、塩水に付けられた浅蜊と同じ、その部屋で、女は男に何度も髪の毛を撫上げられ、繰り返し繰り返し、女はつぶやく。女は浅蜊のように、包丁を持たされ塩水に晒されそうして砂を吐こうとしてもほかの浅蜊が吐いた砂を吸ってしまうと。ボウルの中の、恍惚とした浅蜊のように。塩水と包丁に晒されて苦しんでいる浅蜊のように。緩慢に死に向かわされている。殺すために生かされる。生に向かうために殺される。いや、生きている事は緩慢な死の中にいる事だと示される。井川耕一郎の映画によって。

 男と女の間で、女性器と男性器の関係を思わせるような言葉のやり取りが繰り返される。包丁を握った女が、ゆっくりと、包丁を握ったその手を繰り返し動かす。何度も何度もなでるように、刺し殺すように。砂を吐かされ、死に向かっている浅蜊のように。首を絞められる女のように。女と、その姉がダブルである。生と死がダブルである。「ついのすみか」は「西みがき」のダブルである。またしてもぼくらは井川耕一郎に殺されている。生かすために殺され、殺すためにまた生き返させられる。

 それが繰り返される。「繰り返される諸行無常、よみがえる性的衝動」と歌ったのは向井秀徳だったが、「繰り返される生と死、よみがえる生的衝動」と、それを映画に撮るのは井川耕一郎である。観客は殺される。さらに観客は、井川耕一郎によってもう一度殺されるために、そのために生き返させられる。そうして観客は、そう、もう一度殺されるのだ。生死を解脱した仙人のようでありながら、徹底して観客を殺し、そして生き返らせるのは井川耕一郎である。

 三本目に「寝耳に水」をみた。Mの性癖を持つ女性。ファーブル昆虫記。その女性を操るタクト。M女性の御主人様とその奴隷契約書。二人いる田代弘美というダブル。エロティシズムと死のダブル。「寝耳に水」は「伊藤大輔」のダブルでもあるだろうか。いや、そうかもしれない。いや、違うかもしれない。と。ぼくが思い込むに至る前にある人物が、井川耕一郎の映画を見るぼくたちの前に現れ、そう、ここでは仮にI沢さんと呼ぶ事にするが。そのI沢さんは、ぼくたちが映画を見ている映画美学校の部屋に入ってきて、「もう十一時だけど。いつ終わるの?」と、ぼくたちに聞いたので、ぼくたちはすぐさま「寝耳に水」を中断し、今回の事前試写を撤収し、I沢さんに平謝りして外に出た。なので、「寝耳に水」はそうである。途中である。ぼくらはI沢さんに殺された―この時は井川耕一郎によってではなかったのだった―

 そう、以上は全てぼくの思い込みである。責任は取れない。ダブルなどは存在しない。エロスとタナトス、それらはダブルだと、ただ言いたいだけなのかもしれない。責任は取れない。また、ぼくは井川耕一郎監督の映画を二本と半分しか見ていない(「伊藤大輔」と脚本作を除いて)。なので、ぼくの井川耕一郎についての試論が、今回初めて井川耕一郎の映画を見る人への、導入になるかもしれない。もしくは、ならないかもしれない。と、いうことかもしれない。以上は、全てぼくの思い込みである。


佐野真規:1982年生まれ。滋賀県出身。シネフィルぶって「映画は映画館で見なきゃ」と、映画館に映画を見に行くが、十中八九寝る。

映画美学校11期フィクション初等科井川クラスに在籍中。

2007-06-17

[][]『明治侠客伝 三代目襲名』1(三島裕二)

 この映画のラスト、鶴田浩二は組の敵である星野組の元に単身乗り込む。星野組に入るなり、鶴田は星野を日本刀で一突きにする。近くにいた唐沢(鶴田にとっては恋敵である)が身の危険を感じて逃げ出す。必死の形相で逃げる唐沢が、後ろを振り返るとそこには、右手に日本刀、左手に拳銃を掲げた格好でこっちに走ってくる鶴田浩二がいる!やがて鶴田は、唐沢に追いつき、唐沢の腹部に日本刀を突き立てた。

 このシーンを見ると僕は「カッコイイな。なんてカッコいいんだ」と単純に興奮してしまうのだが、しかし、このシーンは同時にある疑問を抱かせる。一体どうして鶴田浩二はあんな姿で走っているのだろうか。考えてみると変な姿である。ちょっと不恰好でさえある。そもそも、あんな格好では、早く走れるはずがないように思える。特に変なのは拳銃の存在だ。実は、唐沢を走って追いかけている時点で、弾を全て撃ちつくしているのだ。だったらそんな無用な拳銃は、さっさと捨ててしまえば良いではないか。事実、やくざ映画などでは、弾切れの拳銃を敵にむかって投げつける場面をよく見かける。しかし、鶴田浩二はその無用の拳銃をいつまでも握り締めたまま走り続け、唐沢に追いつくにいたり、ようやく拳銃を投げ捨て、両手で日本刀を握るのだ。


 実は鶴田浩二は、彼自身がラストで見せた前述のような格好に類似した格好を、映画の中盤においてすでに見せていたことを、映画を見終わった僕たちは思い出すだろう。それは鶴田浩二藤純子が、橋のたもとで始めて会うシーンにおいてである。

 藤純子は、やって来た鶴田に故郷の土産として果物(あれは桃だろうか?)を手渡す。鶴田は藤から受け取った二つの桃を、両手にそれぞれ一個ずつ乗せてみせるのだ。その鶴田の格好は、両手で持っている点、腕を少しだけ高く掲げるようにしている点において、ラストでみせるあの姿に似ている。

 桃を慎ましやかにどこかに仕舞い込むのでもなく、かといって、それを何か誇らしげに顕示してみせるのでもなく、その桃は極めて中途半端な位置にあるのだが、しかし、鶴田浩二藤純子もその事に何の違和感も抱いていない様子である。これはとても変だ。桃を手渡すという行為において能動的に動いているのは明らかに藤の方なのだから、まず疑問に思うべきは藤の方であろう。ここで藤順子は一体何がしたかったのだろう?藤純子は岡山からわざわざ持参した桃を、風呂敷にも包まずに手渡しているのである、それも二つというこれまた中途半端な数を。


 拳銃を握る格好と桃を持つ格好が、共によく似ていること。その拳銃が弾切れであったことを合わせて考えてみた時、この映画において桃は食べられることを目的とされていない、とは考えられないだろうか。

 映画のラストにおいて拳銃を持って走る鶴田にとって、少なくとも拳銃を持っている目的は撃つためではないことは明らかだ。だとしたら、桃もまた食べるために持たれている訳ではないのではないだろうか。その証拠に、藤と鶴田が二人で桃を食べるシーンはあって、何の不思議も無いし、むしろあって然るべき場面だとさえ思われるのだが、桃が食されるシーンは映画の中に存在しない。

 この映画において桃は、鶴田の両手に持たれるためだけに存在しているのではないだろうか。だとしたら、桃が包まれる事なく、二つ手渡されたことも理解できる。そして、藤純子は、桃を二つ手渡すことで、鶴田の両手を塞いでしまうこと、鶴田の手の平の自由を奪ってしまうことを意図していたように思えるのだ。


 桃を手渡すエピソードからしばらく後、藤と鶴田はこの場所で再び対面するのだが、その場面での藤のアクションは、鶴田の両の手の平の自由を奪おうとする藤の意図を、より発展させた形で示している。

鶴田浩二が木屋辰組三代目を襲名するその日に、唐沢に身請けされることが決まった藤純子は「もう一度だけ、会いたい」といって、二人は橋のたもとで再会することになる。ここでの藤純子はシーンが始まったと同時に、鶴田浩二にしなだれ掛かり、彼の両腕をかかえ込むようにして鶴田に抱きついていくのだ。そして鶴田は、「堪忍してくれ!堪忍してくれ!」と言いながら、体を揺すらせるのだが、藤は決して鶴田から離れようとはしない。ここでの藤は、鶴田の腕の自由を奪おうとしているように見える。

 物語に即して言えば、ここでの鶴田浩二は藤と結ばれることよりも木屋辰組の三代目を襲名することを選んでしまったことを詫びているのだが、それは直接的には、自分に抱きつくのを「勘弁してくれ」と言っているのだ。鶴田は自分の体にまとわりつくように抱きついてくる藤純子にたいして、離れてくれと言っているように聞こえてくる。このシーンで藤純子が鶴田に対して行う、鶴田の両腕を抱え込むように抱きつく動きは、前の場面での桃のやり取りと同様に、鶴田の手と腕を封じてしまいたいという藤の願望の現われであり、ここでの鶴田は、体を揺すらせることによって、そのような藤の願望に抗おうとしているようだ。


 はたして藤純子は自ら意識して、鶴田の手と腕の自由を奪おうとしたのだろうか。恐らく、藤はそんなこと露ほども思っていなかっただろう。好意を寄せる相手の事を想い、彼女は岡山の実家の庭の桃を捥いで来たに違いない。にも拘らず、藤の桃を渡す目的が手に平の自由を奪おうとすることにあるのならば、その目的とは藤純子の無意識の目的だということができるのではないだろうか。藤は無意識に鶴田の手と腕の自由を奪おうとしていたのだ。これらのシーンが喚起的であるのは、二人の行動に、二人が意識してはいない身体の自由を巡るやり取りを僕たちが見ているからではないだろうか。


 藤が無意識に鶴田の手と腕の自由を奪おうとしていること。この映画での藤と鶴田のやり取りをこのように見る視点を、とりあえず「身体表現的、無意識的」視点と名づけてみよう。そして、藤の行動を鶴田への思慕の情だと理解する視点を「言語表現的、意識的」視点と呼んでみる。

「身体表現的、無意識的」なレベルで見ること、つまり、二人の身体の動きに注視してみることによって、この映画は僕たちに思ってもみなかった意外な表情をみせてくれる。その表情をつぶさに追ってみるのは、この映画を単に仁侠映画のルーティンとして消費してしまうよりも遥かに刺激的な体験である。

以下で鶴田と藤が映画の中で、その身体をどのように動かしているのかを、具体的な物語に即しつつ個別に見ていきたい。


 まずは鶴田浩二について。

 鶴田浩二は木屋辰組のメンバーであり、ヤクザものである。しかし、鶴田は決して、喧嘩っ早い荒くれ者といった感じではない。「言語表現的、意識的」なレベルで言えば、彼は非常に理性的な人物であり、暴力的にことを解決することを常に避けているように見える。しかし、暴力を振るわないのは、必ずしも彼自身の意図によるものではない。この映画の冒頭部分で示される鶴田の置かれた状況は、鶴田が自身の意思を基に積極的に行動すること、積極的に身体を動かすこと、つまりは暴力を用いることを禁じているかのように見える。

 鶴田の所属する木屋辰は、浄水所工事の資材納入を巡って、星野組と対立関係にあり、星野たちは木屋辰組に執拗な嫌がらせを行っていて、映画のオープニングは木屋辰の二代目が星野組の人間によって刺されてしまうところから始まる。二代目を刺したのが星野組であることは明白なのだが、確かな証拠がない。そのために鶴田たちは反撃に行くことが出来ないで、じっと耐えざるを得ないでいる。そして、それは二代目の教え――商売に絡んだ喧嘩は、たとえ売られても買うたらいかん――によっても禁止されている。

 また、鶴田たちが喧嘩沙汰を起こすことは、星野組に攻撃の口実を与えることになるのであり、鶴田たちは足元をすくわれないように慎重に行動することが求められている。星野組に討ち入ろうとする木屋辰の部下達を鶴田が諌めるシーンでは、自らの置かれた状況を鶴田自身が自ら言語化している。「俺達はジーッとたえな、アカンのや」

このような鶴田の身体を拘束し、自由な運動を妨げようとする外的要因は、上で見たような木屋辰外部の要因だけではなく、木屋辰内部の要因さえもが鶴田の拘束に加担するよう組織化されている。それは木屋辰組、三代目を巡る組織内の緊張関係である。

 二代目が襲撃にあいつつも、何とか一命はとりとめたという映画前半部分において、木屋辰二代目がまだ生きているにも関わらず、鶴田は三代目の最右翼と目されてしまっている。そのような状況で自ら積極的に星野組との抗争に乗り出す事は、鶴田が三代目襲名に名乗りを挙げたと見なされかねない状況なのだ。さらに、二代目の息子、春ボンは三代目の座に就くことに意欲的な素振りを見せている状況で、二代目から自分が死んだら春ボンの面倒を見てくれと頼まれている鶴田は、春ボンの手前もあり、さらに動きづらくなっている。この状況では、鶴田に出来ることは、ただ「ジーッ」としていることのみだろう。

 このように、この映画の前半において鶴田浩二を取り巻く組織内部、外部の環境が、彼自身の自由な身体の動きを妨害するもととして、彼の周りを幾重にも取り巻いていると言うことができるだろう。そして、その中心近くで、彼の体に密着することで、物理的に直接的に彼の動きを封じるものとして、藤純子がいるという図式ができあがる。

 藤純子は鶴田の腕と手の平を拘束することで、彼に暴力を振るうことを出来なくしているのだ。


 だからと言って、事態の推移を傍観しつづける訳にはいかない。そこで鶴田は、ある非常にアクロバティックな解決法を見出すだろう。それは、自らの身体を積極的に動かせないのだとしたら、その消極性を積極性に反転させるという戦略だ。そのことが端的に出ている場面は野村宅でのエピソードだ。

 星野の手先から襲撃にあい、野村組に納めるセメントを川に投げ込まれてしまった鶴田は、野村演じる丹波哲郎の家に向い、セメント納入が遅れたことを直接詫びようとする。しかし、丹波哲郎鶴田浩二に会おうとはしない。「事情がどうであれ、工事に遅れを来たすことは許されない」とする丹波に対して鶴田は「会うと言ってくれるまで、ここで待たせて貰いまっせ!」といって、雨の降る中、玄関先でいつまでも待ちつづける。

 雨の中をたち続ける鶴田を捕らえた幾つかの固定ショットと移動ショットを組み合わせで構成されているこの場面は、鶴田が両腕を硬く組んでいるのを見せることで、鶴田の非能動性を慎ましくも示しているように見えるのだが、ここで指摘したいのは鶴田がこのようにして丹波との面会を実現させて、丹波からセメント納入をこれかも木屋辰から変更しないという確約を取り付けることを成功さたのが、鶴田がただ「ジーッ」としていたという極めて消極的な行動によって導き出されたことだ。もしこの時、鶴田が積極的な働きかけを見せて丹波を説得でもしてしまっては、鶴田に木屋辰の危機を救ったという手柄をもたらすことになり兼ねない事態であり、それは鶴田にとっては避けるべき事なのだ。ただ、実際に鶴田がしたように、「ジーッ」と丹波が家に入れてくれるのを待つことにしたならば、積極的に家に迎え入れたのは丹波の方であり、鶴田のそのような行動によってほだされたとしても契約継続の約束も丹波の方が勝手に言ったことだ、というエクスキューズを作ることが出来る。

 このような鶴田の行動のあり方をパフォーマンス的と呼ぶことにしたい。パフォーマンス的であるとは、鶴田の行動が直接的な作用を意図して行われるのではなく、その間接的な効果を期待して行われていることを指している。

 映画の中盤で木屋辰の二代目が死に、その跡目を誰が相続するかの相談を行う場面において、鶴田は聞き分けのない春ボンを衆目の前で殴りつけるのだが、この時の鶴田もまたパフォーマンス的であると言える。この時の鶴田の行動は春ボンを痛めつけることが目的なのではなく、その目的は春ボンを改心させることにある。その様な意味で、ここで鶴田が行ったことを暴力と呼ぶことは出来ない。ここでもやはり鶴田は暴力を振るうことが出来ないでいる。

 「パフォーマンス的」という語は、僕がこの映画を見るときのキーワードの一つである。それは鶴田の行動のあり方を示すと同時に、僕がこの映画における重要な小道具であると見なしている桃と拳銃の特性についても当てはまる言葉である。

 この映画において桃は食べられることが目的ではなかったことはすでに指摘済みである。桃は食べるという本来の目的ではなく、手渡されて鶴田の手を占有するという一種のパフォーマンスにおいて重要な存在である。同様に拳銃のありかたもパフォーマンス的である。それは映画の中での拳銃が武器としてではなく、鶴田と唐沢の藤を巡る関係の中で、ロシアンルーレットとして使われていたことを思い出せば十分であろう。


三島裕二 1980年3月生まれ。映画美学校フィクションコースに8期生として入学。現在は9期高等科に所属し、古澤ゼミで「修行」中の身。


[][]『明治侠客伝 三代目襲名』2(三島裕二)

 さて次に藤純子の行動のあり方について見てみよう。映画の中で藤純子は娼妓として登場する。彼女は星野と共に木屋辰組を陥れようと画策する唐沢という男に気に入られて身請けされようとしているのだが、劇中に何度か登場する「売りもん、買いもん」とう台詞が示しているように、彼女はその身体を金銭によって買われる身であり、そのような意味で鶴田と同じく自らの身体の自由を奪われている存在であると言うことができる。

 藤純子は田舎の父親が倒れたことを知らされるも、その日は唐沢が店に来る日であるために藤は田舎に帰ることが出来ないでいる。そこに通りがかった鶴田は「よっしや。この娘は3日間ワイが買うた」といって女将に財布を投げる。そして、藤は三日だけの期限付きながら、「売りもん、買いもん」という拘束から解放されるのだ。

 しかし、三日過ぎれば藤はまた、もとの拘束状況に帰らねばならない。藤の立場で考えてみれば、自身の身体の全的な解放のために、鶴田と結ばれようとするのは当然かもしれない。藤は鶴田が自分の近傍で「ジーッ」としていてくれる事を望むようになったと言い換えることができるだろう。そして、藤純子は田舎で父親の死を看取って戻ってきた直後に、鶴田に桃を手渡すことになる。藤純子は、自らの身体の解放のために、鶴田浩二の身体の自由を拘束してしまうのだ。それを無意識的に行っている点が、なんとも恐ろしい。「身体表現的、無意識的」視点を導入した時あきらかになる藤純子の拘束の身振りは、町の不幸な小娘といったものを遥かに逸脱していて、ほとんどファム・ファタルのようでさえある。むしろ、藤に抱きつかれてどうする事もできず、「勘弁してくれ」と言い続ける鶴田の方が町の小娘に近いとさえ言える。


 次に映画の中で藤純子が見せる、ある動きについて考えてみたい。その動きとは例えば、鶴田の三代目襲名のその日に、身請けを行うと唐沢から聞かされた藤純子が見せる、スッ立ち上がりその場から逃れるように二階へと続く階段を駆け上がるアクションであったり、例えば、藤山寛美から鶴田のいる神戸に一緒に行こうと誘われた時の、画面の手前に倒れ込むようなアクションの事だ。

 例えば『日本侠客伝』シリーズなどでマキノ雅弘が藤純子に振付ける「重心移動」とも非常に近い関係にあるように見えるのだが、これらのアクションは、しかし幾つかの点でマキノ的な「重心移動」とは異質であるといえると思う。マキノ的「重心移動」は思慕の対象との距離が縮まりを契機として起こっている(場合が多い)のだが、この映画では逆に、鶴田との距離の隔たりを契機として藤はあの特徴的な動きをしている。またそのとき、移動方向が横方向ではなく縦方向の動きが強調されていることも異質であると言える。先ほど挙げた二つの例はともに、そのような点でマキノ的な「重心移動」とは異質である。

 

 なぜこの映画の藤純子はこのような異質な動きをしているのだろうか。思うに加藤泰はこの映画を「身体表現的、無意識的」な位相において捉えていたのであろう。そして、そのような視点にふさわしく「重心移動」を変化させたのだろう。第一にこの映画において、藤純子は自身の身体を自由に動かすことが出来ないでいる人物であるべきだ。だとしたら、藤が動きを見せるのは、身体を動かせないでいる事への抵抗として行わなければならないはずだ。ならば、それは藤に自由をもたらす鶴田との距離が近づく時ではなく、鶴田との距離が離れたときに起きなければならないはずである。

 同時に藤の身体は、鶴田の身体を拘束するべく機能しなければならない、その時、藤は鶴田を両手で拘束するだけではなく、自身の身体の重みさえも利用するだろう。映画の後半部分、鶴田と藤が初めて肉体的に結ばれた夜、危篤の二代目が心配な鶴田が帰ろうとしているシーンで藤は鶴田の膝に圧し掛かるような格好で、ここに留まるように懇願する。鶴田はそれを振り切り立ち上がろうとするのだが、すかさず藤は鶴田に倒れこむようにしてしな垂れ掛かり、壁と自身の身体で鶴田を挟み込む。この映画で見せる藤の縦方向への動きは、重力の存在を意識化させ、それは鶴田に圧し掛からんとする藤の身振りが藤の拘束からの解放の欲望と底通していることを示しているのだ。


 さてここまで来て、僕たちは桃を手渡されること、抱かかえられること、膝に乗られることによって鶴田浩二が手と腕と足の自由を奪われたのを見てきた。手と腕の機能を奪われた鶴田は暴力を振るうことが出来ない状態であり、足の機能を奪われたことにより鶴田は二代目の死に目を看取ることも叶わなかった。

 鶴田は木屋辰をヤクザ家業の木屋辰と土建屋としての木屋辰に分離させて、春ボンを土建屋の社長に据える。そして、自らはヤクザ稼業としての三代目の座につくことを決心する。それは映画の冒頭で丹波哲郎の家の前で「ジーッ」としていたのの再演であり、鶴田らしいパフォーマンス的な行動と言える。土建屋としての木屋辰に迷惑が掛からないようにヤクザ稼業を営むというのは、ヤクザ稼業を行わないことと等しく。鶴田の拘束はここに極まったと言える。


 その後、土建屋の社長に就任した春ボンが星野組によって襲撃を受ける。そして神戸から木屋辰組の元に舞い戻るときの、疾走する馬とそれを走らせる鶴田のカットバックのみなぎるような運動性は、身体の拘束から解放へと転調したことを密かに告げている。


 星野組では武装した連中たちが、襲撃に備えている。そこに列車がやって来て、車両の間に身を潜めていた鶴田がニュッと姿をあらわす。このカットで鶴田は列車の屋根に両手を乗せて身を乗り出すのだが、僕たちは鶴田が両腕を肩よりも高く挙げているのに気づき、驚く。鶴田は自らの身体を解放させたのだ。次のカット、仰角で捕らえられた屋根を軽やかに進む鶴田は、更に次のカットで、星野組の事務所めがけて跳躍する。その足は藤純子の体重を受けて失っていたその機能を、驚異的な運動性によって取り戻している。


 星野組に、文字通り単身飛び込んだ鶴田浩二は、星野の腹に日本刀を突き立てた後、ザコたちに向けて発砲する。そして、逃げる唐沢を追いかける。そして、ようやく冒頭に触れたシーンにたどり着いた。鶴田は右手に日本刀、左手に拳銃を持ち、更にその両手を高く掲げて、走っている。このシーンが感動的なのは、これまで状況的、肉体的に拘束され続けていた鶴田の身体が、見事にその機能を回復させていることからくるのだ。

 足は走り、手は物体を握り、腕はそれを高く掲げる。ここでの鶴田はいささかもパフォーマンス的ではない。彼は敵を殺すために殺している。要するに本気なのだ。ゆえにここでの鶴田は圧倒的に強い、そして恐ろしい。鶴田自身が強くて恐ろしいのだ。決して、彼の握っている拳銃や日本刀が強くて恐ろしいのではない。彼がそれらを握っていること、それを掲げていることが恐ろしいのだ。

 ここでの鶴田の強さと恐ろしさを前にしたならば、その拳銃が弾切れであることなど何の問題にもならないことは言うまでもない。恐ろしいのは鶴田の腕であり、足であり、手なのだ。


 唐沢は自宅まで逃げてきて、玄関口で鶴田に刺される。唐沢の自宅には身請けした藤純子がいる。藤はとどめを刺そうとする鶴田の腕を制止するように、鶴田に抱きついた。この時僕たちは、たった今まで繰りひろげられていた鶴田浩二の身体の自由な運動が、身請け人である唐沢を殺すことにより、結果的に藤の身に自由をもたらした事に気づかさせられる。結局のところそれは、パフォーマンス的であったのだ。


 映画のラストシーン。唐沢を刺殺し終えた鶴田は手錠を掛けられ、警察に連行される。それは鶴田の身体が束の間の解放を終えて、再び拘束状態の中に身を落とす姿だ。そして、連行されていく鶴田に藤が近づき鶴田の体を抱きしめる。

 そして、藤純子は自由の身となった。鶴田が刑期を終えるのは、いったいいつ頃だろうか。刑務所から出てきた鶴田に藤は抱きつくことだろう、鶴田の両腕をかかえるようにして。


三島裕二 1980年3月生まれ。映画美学校フィクションコースに8期生として入学。現在は9期高等科に所属し、古澤ゼミで「修行」中の身。


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2006-11-10

[]黒沢清監督『LOFT』を鑑賞して(mk)

 まず物語のあらすじを簡単に示しておく。スランプに陥った女性作家・春名(中谷美紀)が田舎に引っ越しをしたところ、今やほとんど人の出入りがない大学の研修施設で、1000年前の女性ミイラを極秘保存していた教授・吉岡(豊川悦司)と知り合うことになる。ある日、珍しく学生たちが施設を訪れることとなり、ミイラを隠したい吉岡は春名に二、三日の間ミイラを保管して欲しいと頼みに来る。吉岡はたびたび姿を現す女の幻影(安達祐実)に悩まされていたが、春名もまた彼女を目にするようになる。その後、担当編者・木島(西島秀俊)の異常な性癖や彼と女の幻影の関わりが明らかになっていく中で、春名と吉岡はお互いを求め合うようになる。しかし吉岡は女の幻影が自分の前に姿を現すのは、自分が彼女の死に関連があるのだというおぼろげな記憶を持っていたため、その恐怖から逃れることが出来ずにいた。殺人事件、女の幽霊、呪われたいわく付きのミイラ、永遠の愛を求める男女——異様なモチーフの絶妙な掛け合いで、幾重にも折り重なったかのような複雑な物語は二転三転しながら展開していき、一度はすっきりと解決されたかに思われた全ての事象を引っくり返すラストシーンでの吉岡の突然の死が、一瞬にして新たな混乱のうちに観客を引き込んで突然終わりを告げた。

 さて、これから私的な考察とともに映画『LOFT』に関する批評を書き記していくのだが、初めに最初の2カットについて特筆しておきたい。それは物語の重要な鍵を握る沼の描写であった。沼というよりは泉のような滑らかな水面を取り囲む木々——その緑を基調とした色彩の美しさは息を飲むほどで、それだけで観客をあっという間にこの映画の世界観の中に引きずりこむ力が感ぜられた。無気味さを包容する圧倒的な美しさを初めに提示することで、この映画そのものをその最初の2カットで私は既に甘受してしまったようだ。

 

 『LOFT』には二つの恐怖が介在していたと言えるだろう。一つは映像として明らかに描写され、視覚・聴覚に対し突発的な刺激を与える恐怖。吉岡に襲いかかるミイラや、春名や吉岡の前に現れる女の幽霊などがそれである。そしてもう一つは直接的には描かれることのない、つまり映像をただ眺めているだけでは感覚的な薄気味の悪さとしか受け取れない恐怖である。

 訳の分からない恐怖、というのは黒沢清の映画からは切り離せないものであるが、『LOFT』はこれまでの作品におけるそれとはまた趣を異にするように思う。というのは、『LOFT』においてのこの種の恐怖があまりに意図的に隠された影の存在、あるいは裏の存在と言えるからだ。『カリスマ』『回路』『ドッペルゲンガー』『CURE』等、これまで数多くの「怪異」を物語のテーマとして取り扱ってきた黒沢だが、これらの作品は訳の分からない恐怖、或いはそうした恐怖に怯える人々の描写に徹していたように思う。彼の描く恐怖の特徴として、従来のホラー映画とは全く異質の無気味さがあると思うのだが、その恐怖は常に人間の心理に由来・関係していた。にも関わらず、あくまで恐怖は決定的な発生源、要因が明かにされず、訳の分からないものであり、それに関してあからさまな恐怖の描写というのはなされていなかったように思う。

 『LOFT』では見るからにおぞましいミイラや幽霊の突然の襲来という怪異的存在の派手なモーションが一見して全面に表れることで、この黒沢清特有の恐怖に関する描写が意図的に隠されている。

 

 長い前置きをしたが、私がこの映画の中で気掛かりに思ったのは、春名と吉岡が心を通わせてからの二人の変化である。吉岡と春名は深夜雑木林へ向かい、まるで何かが埋められているかのような不審な場所をを掘り返す。そこには二人が幾度となく目撃した女の無惨な死体があるかに思われたが、何もない。妙に吹き付ける風の中で二人は笑いながら固く抱き合い、これまでの過去を全て捨ててしまおうとお互い誓い合う。

 春名はその後、逮捕された担当編者・木島から盗作原稿を取りかえして焼くが、この直後の辺りから、二人の形相が急激に変化していように感ぜられる。それまで内気で陰気にさえ感ぜられた春名が次々と熱烈な言葉を発するようになり、吉岡もそれに応じる。まるで演劇かひと昔前の小説のように大げさな台詞回しをする二人だけを観ていると、この映画が全く別のドラマのように思えるだろう。物語の流れから完全に浮き立ったこの二人の掛け合いはしらじらしささえ滲む。この奇妙さへの疑問を思慮する暇もないほど、クライマックスの展開は目まぐるしいのだが、よくよく考えてみればこのような演出は黒沢清にとって極めて珍しいと言える。しかしこの奇妙さにこそ、幽霊やミイラとは異なる、まさしく黒沢流の恐怖が描かれているではないだろうか。春名の変化の正体とは、一体何なのであろう。

 

 ここで唐突ではあるが、少し私の話をしようと思う。以上の私の考察をより深く理解していただくためには、少なからず必要な事項であると思われるからだ。

 私には変貌を遂げた春名の行動に、実際の経験の中に思い当たる節があるのだ。というのは、私が高校生の時分のことである。おそらく春名が同じ年頃からそうであったように、私は自分が小説家になるだろうと思っていた。それは今考えれば実に高慢なことだが、私は願望としてではなく、予感としてそのように思っていた。私はただ級友たちよりは多くの文芸や思想に触れていたために、必然の結果として多くのイメージや語意を貯えていたに過ぎないのだが、そうして私が執筆した作品に関して、周囲の評価は予想外に高く、国語教師たちには我ながら随分と可愛がられたものだった。初めて書き上げた長編小説が小さな文学賞の三次選考を勝ちあがると、ますます図に乗った私は、自分が特別だというありがちな選民意識に飲み込まれ、当然のようにこのまま小説家になるのだろうと思い込んでいた。

 その少し前の頃から私はしばしば、知らず知らずのうちに小説の世界を実生活にそのまま投影しようと試みていたように思う。島田雅彦や町田康の小説は数回目を通すとそれだけでほとんど暗記して頭に入ってしまって、極めて強いイメージを脳内で保った。そのため、私は小説の中の「彼ら」のように思い、行動したいと考え、また実際そのようにふるまった。「彼ら」がどことなく私自身に似ていたことは確かかもしれないが、この一種の真似っこは、自分が小説を書くようになるとより頻繁になった。自分の小説の主人公のふりをするようになってからである。

 私がその時分に書いていた小説はどれも「彼ら」にどことなく似た「私」の物語だった。嘘をつくのが上手く、比較的上流階級の出身であり、性行為に関しての意識が極めて寛容であり、人付き合いが下手なために学校に友人は多くなく、いたとしても少し頭のいかれた子で、自分は大人たちをだまして容量よく過ごしているにも関わらず、時代錯誤のパンクス精神を掲げている・・・いつもだいたいこんなめちゃくちゃな少女が主人公だった。

 思春期の「彼ら」に似た少女が、「彼ら」に似た「私」を主人公に、それも一人称で長編小説を書き上げようとするのは、危険な行為であるし、また無謀だったと言ってよいと思う。ただでさえ激しい思い込みがいとも簡単に、私自身と主人公の同一化を可能にしてしまうからだ。

 高校生の私は、私の小説の主人公に大変よく似通ってはいたが、実際私の世界はもっと虚ろで、そのドラマは実に陳腐だった。現実の不格好なドラマを卑怯にも濾過する形で私は小説を書き、また見て見ぬ振りをしながら実生活の感触をもすり変えていた。私は小説的人間であろうとし、当時の私は確実に自分を小説的人間であると認識していた。だいたい高校二年の終わりから高校三年の終わりまでそうした「作家生活」は続いた。

 大学に入学してからだんだんと私は小説を書けなくなった。中編から短編なり、超短編になり、やがて詩になった。

 私は小説家としては、劇中の春名と同様にスランプを迎えたのだ。しかし私は、多少戸惑ったりはしたものの、やがて仕方がないと楽観的になり、そのかわり映画の世界へとのめり込んでいくことになった。文字として表すことの出来なくなった表象を、変わりに映像として映し出そうした。私はそうして、欲望の生むイメージを発散する場を移行したのだ。

 私の中で、小説を書いていたころの現実的な感触は日々薄れていき、自分でそんなつもりはなくても、どんどん過去はどこかに勝手に捨てられているような感覚がする。

 しかし春名は自ら進んで過去を捨て去るために、わざわざ盗作原稿を取り返して燃やす。彼女自身の中で忘却の彼方へと自然に葬ってしまえばそれで済むものを、彼女はそれで満足できない。彼女が作家として最後のプライドを守るために執筆した盗作小説を消滅させてしまうことで、彼女はこれまで自身を支えてきた矜持さえ、強引に全て捨て去ろうとした。

 けれどきっと彼女は、物語の創造を求める作家としての性質まで捨て去ることはできなかったのだろう。矜持を捨ててもイメージは絶えず彼女の内で湧き上がりつづける。

 春名は行き場を失ったイメージをどうしたのだろうか。小説を書くことをやめて、かわりに春名は一体何をしようとしたのだろう。


 随分と遠回りをしてしまったが、話をここで『LOFT』のクライマックスに戻すことにする。

 木島が逮捕されたものの、女を殺したのは自分ではないのかという疑惑を拭いきれない吉岡は春名に促されて沼へと向かう。吉岡の無実を確信する春名は怯える吉岡を励まし、桟橋に佇むクレーンを引き上げさせる。一つの大きな箱が現れ、二人はおそるおそる箱を開けてみるが、そこには何もない。二人は抱き合い、愛を確かめ合う。「もう離さない」「永遠に」と語り合う二人は瞬く間に恐怖を乗り越えてしまっている。本来なら、このシーンが前述の雑木林におけるものの繰り返しであることから同じ結末であるわけではないという予感を覚えるのが当然であるのだが、やはりそうした猶予もなく、沼からは突然新たなる女のミイラが飛び上がるように現れ、吉岡は沼に落ちる。「永遠の愛」とともに春名は一人取り残されるのだ。

 あまりにもあっけなく、彼女はドラマを失ってしまう。

 このように考えることはできないだろうか。小説家であったことを捨てた春名はそれと引き換えに、まるで彼女自身も気付いていないとでもいうような調子で、いつの間にか劇的な虚構を現実の生活に投影した。彼女は、現実世界の陳腐なドラマを誇大化して捉えることに熱中していった。彼女の欲望は、虚構の体験を迷信し、その中で生きていこうとするよりほかに、最早解消する術がなかった。そしてこの突拍子もない彼女の妄想世界を成立させるためには吉岡は不可欠であった。春名にとって彼はその頼りない世界を支える根拠であり、希望であったから。しかし吉岡は沼に飲み込まれ、突然の死を余儀なくされる。それはそのまま現実世界で創造し得たはずの、紛れもなく彼女自身が主人公であったドラマの終焉そのものでもあった。


 高々と掲げられたミイラ化した女の死体を見上げる春名の呆気に取られた表情は、最愛のものを失った衝撃からなのか、それとも闇雲に溺れ込んだドラマの脆さを突き付けられた絶望からなのか。

 『LOFT』は「永遠」への執着とその限界というものを根本の主題としながら、幾つもの解釈を孕んだ物語を描く不思議な映画であった。

2006-11-03

[][][]大和屋竺『荒野のダッチワイフ』論(小出豊)

井川さん

こんにちは。

唐突ですが、

『荒野のダッチワイフ』の主人公の殺し屋は、目が見えないのではないではないでしょうか?

 彼は、雇い主から女性が陵辱されているフィルムを見せられ、「さっぱり見えねえな」と云っています。また、直後に「ひでえ雨降りだってんだよ」とその理由を述べていますが、その映像はすり切れて雨が降っているように見えるものの、何が映っているのかわからないほど痛んではおりません。また、町中でいきなりチンピラ風の尾行者をひねりあげた彼が、マッチにどんな絵柄が書かれているのか云えと強要する様は、盲人が目の前に広がる景色を云って聞かせてくれと人に頼むのとそっくりです。あるいはまた、このように見ることに失調をきたしている彼は、生きている人間が決して見られるはずのない、自らの死体を幻視したりもします。そのシーンは、<彼が足下に視線を送る>/<自分の屍骸が床に転がっている>/<彼が何かに視線を送っていた>というように、いわゆるマッチ・カットでつながれ、あたかも彼が足下に倒れた自らの死体を見ているかのようになっております。

つまり彼は、現実にあるはずのものが見えず、その代わりになにか別のものを見ているようです。

 そして、主人公の殺し屋が自らの死体を幻視するマッチ・カットからわかるように、『荒野のダッチワイフ』において、現実界と、(妄想や回想や幻想という現実とは別の)異界との境は、「見ること/見られているもの」という関係の間に現れているようです。殺し屋は、その間に一瞬現れたなにかにより視線を屈折され、その先に異界というものを垣間みるのだと思います。彼の言葉を借りるなら、一瞬現れるそのなにかとは銃を発砲した際に「銃身にのぼるカゲロウ」のようなものなのでしょう。

 また、夜の街で客引きをしていた娼婦が、殺し屋とその仇敵のナイフ使いに「似たり寄ったりの虫けら!あいつもあんたも双子みたいに同じなんだ!お笑いだよ!やることも同じなら、喋ることも同じ!」と叫ぶように、この映画における人物たちは台詞や身振りを互いに模倣しあうのですが、「見ること/見られているもの」の間に穏当な関係を取り結ぶことができないのは、どうやら主人公の殺し屋だけの特権的な身振りではないようです。

先の台詞を発した娼婦も、そういった振る舞いをしているのではないでしょうか。

 午前3時、ナイフ使いらが殺し屋と娼婦の寝込みを襲いにホテルの扉を開きます。そのシーンは、<ナイフ使いらが急襲してくる(彼らはストップモーションを擬態している)>/<視線をフレームの外に向ける娼婦のバスト・ショット>のカット・バックが数回続き/続いて画面が黒くなり/次のカットではいきなり<真っ昼間の町並み>に画面は飛んで、現実とは別の世界が広がり出します。そこでは現実とは逆に、主人公が仇敵のナイフ使いを殺し、復讐を果たすと いう出来事が起こり/その後、<めくるめく白光>とともに現実にもどり/<娼婦が何かに視線を送っていた>というカットのつらなりになっております。つまり、それは、(異界のパートが長いために少しわかりづらいのですが)自らの死に様を幻視した殺し屋のシーンとほぼおなじアイライン・マッチでつながれているのです。

 とすると恐らく、その真っ昼間の町並みの後に続く映画中盤の異界の出来事は、主人公の殺し屋の妄想と広く流布しておりますが、そうではなく、それは現実(<ナイフ使いらが急襲する>)を見ていた娼婦がある一刹那を経て、異界を垣間見たものと見なすことが出来るのではないでしょうか。そして、現実界から異界への移行を引き延ばしたものが、<見ている娼婦>/<ナイフ使いらが急襲する>のカットバック/、続いて<ナイフ使いらが急襲する>カットがブラック・アウトしていくという一連の流れなのだと思います。よく見ると、<見ている娼婦>の間に挟まれている<ナイフ使いらが急襲する>カットは、最後のブラックアウトに向けて、次第に暗くなっていっているのです。つまり、そこは娼婦の視界の先からだんだんと現実が暗く消えていく様が描かれているのです。だから、<ナイフ使いらが急襲する>カットは、一般には「ストップモーション」を擬態して、時間の静止を表しているように解釈されていますが、そうではなく、実は、わずかではあるが確実に動いている時間の推移を表すために、「スローモーション」を擬態しているのではないでしょうか。不安定な姿勢を保ち続けようとする彼らがどうしても静止し続けられずに少しばかり揺れ動くのを、撮影時の苦労を推し量ったりしながら微笑とともにやり過ごすのではなく、その微動こそ見るべきものとしてわれわれの前に差し出されたものなのだと思うべきなのでしょう。

 さらに付け加えると、シナリオにおいて、殺し屋の回想または幻想は必ずそれだとわかるようにト書きされておりますが、多くの人が殺し屋の妄想と思っているパートの1部分にしかそのようなト書きはされておりません。ということは、ト書きに殺し屋の幻想(あるいは回想)と書かれていない他の大部分は、殺し屋とは別の誰かに帰属する妄想であるという可能性がさらに大きくなると思います。

 主人公の殺し屋が現実にあらざるものを見る頻度が多いばかりに、その行為を彼の特権と考え、今回もまた異界へと視線をのばしているのが彼だと妄想しがちですが、かように、映画の定型に則ってその像の連なりを愚直に解読していくと、ぼくには、それが娼婦が見たものだと思えてならないのです。

長くなりました、最後まで読んでいただいてありがとうございます。そろそろ筆をおこうと思います。失礼致しました。

小出豊


(この批評は、昨年七月のシネマアートン下北沢「大和屋竺作品集」のトークショー(大久保賢一・井川耕一郎)のときに配布された資料からの再録です)


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2006-10-06

[][][]『引き裂かれたブルーフィルム』(監督・梅沢薫、脚本・大和屋竺)について(井川耕一郎)

 『引き裂かれたブルーフィルム』を見終えたばかりの今、あなたの中に強く焼きついているイメージは何だろうか。たぶん、二つのイメージがあるはずだ。一つは、ラストのスクリーンをはさんでの銃撃戦。そして、もう一つは、女をくくりつけて闇の中を飛ぶ巨大な凧。

 以前、私は梅沢薫監督にインタビューしたことがある(「鉈の暴力、ナイフの暴力」『ジライヤ別冊・大和屋竺』(1995年・雀社))。そのときに聞いた話によると、企画会議で、梅沢監督が二つに裂けたブルーフィルムをセロテープで貼り合わせて見たら、画がずれて面白かったという体験を話したとたん、大和屋竺は身を乗り出してきたという。大和屋の想像力に火がついたのだ。梅沢は火を煽るようにこう言葉を続けたという。「ブルーフィルムに映っているやつだって人間だ。そういうやつの血がフィルムの裂け目から流れ出さないかな……」。

 だとしたら、『引き裂かれたブルーフィルム』は、まず最初にスクリーンをはさんでの銃撃戦から発想されたことになる。そして次に、大和屋竺の頭の中で風が吹き、四角いスクリーンが宙に舞い上がり、凧に変化していったのだろう。

 ところで、この解説を書くためにシナリオ(月刊シナリオ1970年11月号に「拳銃の詩」というタイトルで掲載されている)を読み直してみて気になったことがある。一体、土居(津崎公平)は大原(野上正義)を巻きこんで何をしたかったのか、ということだ。

 映画の冒頭で、土居はヤクの取引で動く二千万円を強奪する計画に大原を誘っている。しかし、二人はすぐには現金を積んだ黒木の車を襲撃せず、まずは黒木の情婦・美那(桂奈美)を拉致して一千万をゆすろうとするのだ。土居の美那に対する強い執着があるにしても、これはどう考えても、無駄な回り道ではないだろうか。

 それに冒頭の土居と大原のこんな会話も気になる。「良い役回りがあいてるぜ」「色どしまをひん剥いたりする役かね? そんなら乗ってもいいが」「よし、じゃきまった」。だが、土居の計画の中に、大原が色どしまをひん剥く場面など一度も出てこない。まるで真っ二つに裂けたフィルムをセロテープで貼り合わせたかのように、何かが微妙にずれたまま、話がどんどん進んでいく感じがこの映画にはあるのだ。

 たぶん、土居が大原を巻きこみたかった企みとは、現金強奪ではなく映画製作ではなかったか。大和屋は『荒野のダッチワイフ』『殺しの烙印』などで、拷問フィルムをくりかえし見る男たちの姿を描き、映画の魔力にとり憑かれるとはどういうことかを執拗に追求してきた。そしてついに『引き裂かれたブルーフィルム』では映画製作がテーマとなる。映画の魔力を大原にも感染させ、自分の映画に嫉妬するように仕向けること――それこそが土居の無意識が求めていたものではなかったか。だから、土居は大原に美那をひん剥く役を与えず、カメラを回させたのだろう。

 そして、土居の無意識が欲した通りに大原も映画の魔力にとり憑かれ、映画製作をはじめる。ドラマの中盤、土居は大原の映画を見るのだが、その映画は主演女優である美那の活弁つきで上映され、ひどく生々しい。そのことが土居の欲望をさらに煽っていく。嫉妬が嫉妬を呼ぶ悪循環としか言いようのない世界――そこではもはや生身の女などどうでもよい。ラストで瀕死の土居が見入ってしまうのが床に転がる美那の遺体ではなく、スクリーンに映る美那であることからも分かるように、倒錯した男たちにとって価値があるのは美那の映像だけなのだ。

 だがそれにしても、このシナリオを何度読み直しても惹きつけられるのは、大和屋が書く言葉のスリリングな連関だ。「……からだ中がだるくってそのことしか考えなくなるのよ、くらげになるのよ」「ミミズが居るのよ、背中のところに……ウヨウヨして、背中の神経を食べるのよ」というふうに、大和屋は美那の台詞の中に生物をまぎれこませる。すると、生物は増殖して、「後ろに縛られた指先がいそぎんちゃくのように、ゆっくりと開いたり閉じたりしている」というようにト書きの中にもあふれだし、やがて十和田という「胃袋にヒメマスでも泳いでそうな名前」を持つ男を登場させるに至る。そして十和田は凧あげをする土居に「タコやきのとっつあん」と呼びかけてしまうのだ。物語とは別の回路で言葉がつながっていく不思議さとでも言ったらいいだろうか。シナリオは映画の設計図として機能すればそれで充分なはずなのに、大和屋のシナリオにはそうした常識を打ち破って読む者の想像力を挑発する力があった。

 そういえば、梅沢監督にインタビューしたときのことだ。枚数の都合でインタビュー原稿からはカットしてしまったのだけれど、梅沢さんは大和屋のシナリオの魅力を伝えるこんなエピソードを語ってくれたのだった。

 ――撮影が終わって家に戻ると、夜中に美那役の桂奈美から電話がかかってきたんですよ。「監督、明日の凧あげのシーンなんだけど、あたし、真っ白な服を着てみたいの」「えッ! そんな服、用意してないよ」。そうしたら桂奈美が言うんですよ。「大丈夫。今、あたし、縫ってるところだから」。桂奈美なんて頭の鈍い女優なんです。でも、そんな娘でも大和屋さんのホンを読むと、一生懸命考えてくる。そうして、徹夜して自分の衣裳を縫ってくる。大和屋さんのホンには、このホンに応えなくっちゃ、と思わせる力がありましたね……。

 そこまで話すと、梅沢さんは喫茶店のテーブルの上に置かれた『引き裂かれたブルーフィルム』のシナリオに目を向け、ちょっとの間、当時を思い出しているようだった。


(この批評は、昨年七月のシネマアートン下北沢「大和屋竺作品集」のトークショー(大久保賢一・井川耕一郎)のときに配布された資料からの再録です)



参考資料:梅沢薫インタビュー『鉈の暴力、ナイフの暴力』より

 次の『引き裂かれたブルーフィルム』は、国映からアクションものをと言われて撮った作品です。最初の打ち合わせのとき、国映の専務だった矢元一行(朝倉大介)が、何か変わったことをしよう、としきりに言うんですよ。でも、具体的に何をどうすればいいのか分からない。そのとき、雑談で、8mmのブルーフィルムを見ていたら、フィルムが縦に真ッ二つに裂けた話をしたんです。裂けたフィルムをセロテープで貼り合わせたら、画がずれているのが面白かった……。すると、大和屋さんが、何?!と身を乗り出してきたんです。それでぼくは言った。ブルーフィルムにうつっているやつだって人間だ。ぎりぎりのところで生きているんだろう。そういうやつの血がフィルムから流れ出さないかな……。

 大和屋さんはぼくの話したことをもとにホンを書いてきました。一読してぼくがのったのは、津崎公平と野上正義が凧あげをするシーンです。殺し屋が何を子どもじみたことに夢中になっているんだ、ってところが好きでした。このシーンはアパッチ砦(注:今の多摩ニュータウンのあたり。当時は造成中であった)で一日かけて撮ったんです。スタッフが呆れてましたけれどね。それから、巨大な凧に女をくくりつけるというのも、いかにも大和屋さんらしい発想だと思います。これは夜中にビルの屋上で撮りました。巨大な凧をつくって、バックのビルに大きな暗幕をかけて撮ったんです。大和屋さんのホンには、現場のスタッフや役者に、このホンに応えなくっちゃあ、と思わせる力がありましたね。

 撮影で一番苦労したのは、ラストのスクリーンを挟んでの銃撃戦です。ホンには、


 <スクリーンに、突然大原の顔と体が写し出される>

 土居、反射的にぶっ放す。

 穴のあいたスクリーン。

 <そこに縛り上げられた大原を、あっけなく射殺する十和田と美那が写し出される>

 スクリーンに開いた穴から、血がジワリと吹き出している。


とある。ぼくはここで実像と虚像のズレを示したかった。それがこの映画のテーマですからね。それで、あらかじめ撮っておいた16mmフィルムでは、野上正義が撃ち殺された直後、素早くズームバックしたんです。そして、そのフィルムをスクリーンにうつして、最初、重なっていた実像と虚像の血が、次の瞬間、ずれるというふうにしてみた。このあたりの銃撃戦は、映写のタイミングがなかなかうまくいかなくて何度も撮りなおしましたね。

 試写のとき、大和屋さんはラストの銃撃戦に文句を言ってきました。スクリーンの裏にいた美那が撃たれて倒れるカットが説明的だと言うんです。「梅沢、倒れた女の顔なんか見せなくたって、美那だってことは分かるよ。あんな説明カット撮るなんて、お前は三流監督だな」「うるさい。三流と言いたきゃ、勝手に言ってろ。俺は美那の実像と虚像のズレを見せたかったんだ」……。ぼくは今でも倒れるカットは説明カットじゃないと思ってます。大和屋さんには大和屋さん独特のこだわりがあるんですよ。そう言えば、一日かけて撮った津崎公平と野上正義の凧あげのシーンを見て、「バカだなあ。あんなにたくさん撮って。あんなもん、二、三カットでいいんだ」と笑ってました。でも、そういう大和屋さんは凧あげのシーンを細かく書いてきているんです。どう考えたって、二、三カットで撮りきれるシーンじゃないんですよ。


(このインタビューは『ジライヤ別冊・大和屋竺』(1995年、雀社、編集:福間恵子、発行:福間健二)に掲載されたものです)