プロジェクトINAZUMA BLOG

2007-12-01

[][]『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(非和解検査)

鈴木と高橋はいずれも新しいパンティーを開発しようとする人物であるが、鈴木は染みを、高橋は匂いを付加することを目論んでいる。彼らはそれが新商品の付加価値たりうると考えているようであるが、冷静に考えれば分かるように分泌物の匂いや染みの付着したパンティーなど―――それが擬似的なものであっても―――デパートで売れるはずがない(※)。パンティーという「商品」に、その価値を打ち消す属性を与えようとする彼らは、映画の展開において一見対立しているように見えても実は相似的な存在なのである。


彼らがそれぞれ理想的な染みであったり、匂いであったりを探していく過程は、その目的自体が不条理であるために逸脱を繰り返す。鈴木の探究は、一見似ても似つかないもの同士―――粘性の異なる「膣分泌液」と「インク」、「ロールシャッハテスト」と「京子のパンティーの染み」―――を結びつけ、その対が入れ替わっていくことで横滑りしていく。そして、ついには「パンティーが、邪魔だ!」と口走ると、鈴木はそれを剥ぎ取って秘部の匂いを嗅ぎ始めてしまうのである。鈴木と高橋の差異を規定していたはずの[染み−匂い]が入れ替わるのだが、この嗅覚の突然の目覚めは既に先行するエピソードの中で予感的に示されている。鈴木は高橋と共に風の中でまどろんでいる京子に誘発されるかのように研究室で居眠りするのだが、その夢の中で彼は全裸の彼女によって陰茎を愛撫される。その際に京子は呟く。「鈴木くんのってかわいいのね・・・子犬のみたい」。そして、デスクに両手をつき、尻を突き出して鈴木を受け入れながら、「ワン!」とうめくのである。[鈴木の陰茎−子犬の陰茎]、[京子の声−犬の鳴き声]という対が入れ替わり、人間と犬が入れ替わる。彼が、京子のサドルの匂いを執拗に嗅ぐのはそのためだ。そして、現実に京子との性交渉が生起するにいたり、決然と弁別されるはずの[夢−現実]の対すらも頻繁に入れ替わるようになる。


一方、高橋はアフリカから取り寄せたシマウマ、マントヒヒ、コウモリの膣分泌物を鼻粘膜から直接吸う―――その仕種は、嗅ぐというよりもむしろ麻薬の粉末を吸う仕種と酷似している。実際にシナリオでは、空港で麻薬と間違えられている―――作業に没頭する。その匂いは鈴木によると「死体の臭い」であり、高橋は次第に「死」へと接近し始める。匂いを嗅いだ高橋が見るのは交通事故で「死んだ」恋人・秋子の写真であり、夢の中で全裸の秋子と遭遇した高橋は「ダッチワイフのようにうつろな目」の彼女と性交する。前述のように、この作品においては[夢−現実]が容易に入れ替わるのであるが、それもまた京子によって媒介される。


町を自転車で走る京子は、写真の秋子にそっくりな女・夕子と遭遇する。京子は夕子を高橋の前に出現させるが、十字路を渡ろうとする夕子は車に轢かれそうになり、危うく高橋から救われる。[秋子−夕子]、[(交通事故の起こった)過去−現在]が入れ替わっているのであるが、そうした死への接近を呼び込んだのが、「死体の臭い」に取り憑かれた高橋なのか、「秋子の幽霊」たる夕子のどちらなのかは判然とせず、彼らもまた対を成し、入れ替わっていく。夢の中と同様に二人は同衾するのであるが、高橋は奇妙な一言を呟く。「俺が寝たいのは、幽霊だ・・・ホントの幽霊なんだ・・・」。そして、高橋は夕子の全身を包帯で巻き、自らはビニール袋に口を押し当てて性交に及ぶのである。[夕子−秋子]の入れ替えから、さらに[秋子−秋子の幽霊]の入れ替えへと発展し、高橋は実体ではなくむしろその幽霊を探求するようになる。だが、それは鈴木ともども自己発見に過ぎない。彼らは、そもそも「下着」という実体ではなく、その実体に対し矛盾をきたす「染み」や「匂い」、すなわち「幽霊」を探していたのである。形を取りえないもの、捕らえられないもの、見定めようとするとぼやけるもの・・・彼らの身振りは「取り戻せない」ということを取り戻そうとする意味で、まさにフェティシストのそれである。彼らの追求が常に横滑りし、目的が矛盾に満ちているとしても、それこそが彼らの欲望を反映しているのである。


そして、二人のフェティシストの上司たる京子は、彼らの欲望を充足させようと目論む。彼女は自らの半裸の体をビニール袋(シナリオではコルクで蓋をした大きな瓶)の中に入れて、彼らの目に曝す。闇の中、その裸体は鈴木と高橋によって懐中電灯の光を浴びせられ、臍や鳩尾や乳房などのイメージへと分解されていく。京子の肉体はぼやけ、全体像を失い、彼女は彼女の「幽霊」と入れ替わる。それはまた、「死」への漸近でもあり、彼女はビニール袋の中で気絶するのである。やがて、ビニール袋から救い出された京子と二人は乱交に及ぶのであるが、そこでは[生−死]もまた入れ替わり、幽霊は幽霊の幽霊、さらに幽霊の幽霊の幽霊・・・へと転じていく。闇の中で互いに見分けがつかなくなる中、単なる「性交渉」ではない、「性質」の「交換」としての「性交」が続くのである。


本来非対称的なものが結びつけられ、その対が入れ替わることで差異が無効化し、意味や価値が横滑りしていくという物語展開は、監督・鎮西尚一および脚本・井川耕一郎のどちらの作品系列にも散見されるものであるが、死に漸近する生の様態を追求するという点においても二人は共通しているともいえる(鎮西は生が死と唐突に入れ替わる曖昧な様態を、井川は生が死の中に、死が生の中に執拗に滞留する様態を追求しているという差異はあるが)。そして、その二つを結びつけるものがまた、フェティシズムであることも興味深い(これもまた、鎮西はマルクス的な価値形態論を展開し、恐慌に至るのに対し、井川はアブジェクティヴなもの―――ぬるぬるした原生質的なもの、言い間違い―――に固執するという差異がある。シナリオにおいては、井川は東南アジアの男を導入し、「アローイ」と「あおーい」、「(ストッキングの)デンセン」と「(性感染症の)デンセン」などの意味の取り違い、言い違いを執拗に生起させている)。


ラスト、京子が去り、取り残された鈴木と高橋(シナリオでは前述の東南アジアの男も含めた三人)は、残されたパンティーに顔を埋めて「イッツ・アラーイブ」と叫ぶ。その「アラーイブ」という言葉の意味は、deadの単純な対義語としての意味からずれているのはいうまでもないであろう。


(※)もちろんデパートで売るのでなければ、染みつき、匂いつきのパンティーも十分に商品価値を持つであろう。

2007-07-21

[][]革命と子供―――大和屋竺と『ルパン三世』(非和解検査)

俗に“旧ルパン”、“緑ルパン”とも称される1971‐72年版『ルパン三世』テレビシリーズは、平均8.8%という伝説的な低視聴率であったにもかかわらず後のテレビアニメの世界に多大な影響を与え、未だに省みられる作品であり続けている。同時に、大隅正秋や東映動画を退社したばかりの高畑勲宮崎駿といった演出陣、大塚康生をはじめとする作画陣にとっても大きな転機―――既に『ムーミン』の演出で知られていた大隅にとってはテレビアニメからの撤退を決断させたという否定的な意味だったとしても―――となったが、それまで映画畑で活動していた大和屋竺にとってもテレビ作品の脚本を手掛けるきっかけとなる重要な作品であった。そもそも大和屋の監督・脚本作品『毛の生えた拳銃』(68年)を観て感銘を受けた大隅が、劇場用アニメ企画『ルパン三世』の脚本を要請したことがシリーズ誕生の契機の1つであり(この企画自体は流れたが)、実際に大和屋が脚本を担当したのは第2話「魔術師と呼ばれた男」と第7話「狼は狼を呼ぶ」の2本のみであるにもかかわらず、シリーズ全体―――少なくとも大隅が演出を担当した第9話辺りまで―――において大和屋的要素が色濃く窺える。そして、その要素こそが『ルパン三世』をそれ以前のテレビアニメ―――『鉄腕アトム』に代表されるSFや『巨人の星』に代表されるスポ根もの―――から隔絶させることとなった。反啓蒙的で反冒険的な人物達による世界システムの読み替え。それはまさに《革命》であった。以下の文章では、この革命がいかなるものであったか、および大和屋がいかなる形で関わったかを、前記2本に就いて分析してみる。

魔術師と呼ばれた男」にはパイカル(脚本では白乾児)という人物が登場する。パイカルは常に前髪がいずれかの眼を隠すという風貌の殺し屋である。この片眼という属性は、パイカルが対象との正確な距離計測の世界に生きる複眼的=視覚的人物ではなく、対象に理不尽にまとわりついてくる単眼的=触覚的世界の住民であることを示している。そのことは例えば殺人の方法が主に指先の延長として対象を舐める火炎放射であること、たとえ銃を用いる時も至近距離で発射していること、初登場が暗闇の中であることなどから窺える。また、アニメ作品では省略され大和屋脚本にのみ読まれることだが、パイカルは殺人の時に被害者の顔を間近に覗き込んでいる。これもその単眼性=触覚性を示していると言えよう。同時にパイカルは他の人物達の視覚性を壊乱させる存在としても現われる。パイカルの襲撃を受けたルパン・次元は車に乗って逃亡するが、パイカルは先回りして2人の前に出現する。恐らく別のシーンでも見られる飛行機による移動を用いたのであろうが、この高速移動は2人を狼狽させる。しかも、パイカルは宙に浮かんだ姿で現われている。この垂直性は“世界一強い男”を僭称するパイカルにふさわしいイメージである。パイカルは滝の近傍に居を構え、不二子を宙吊りにして拷問する。まるでこの世界の王であるかのようにふるまい続けるのだ。

だが、ルパン・次元・不二子(この作品の大部分は、彼らとパイカルの4人しか登場しない)は泥棒という属性そのままにパイカルの王座を奪冠する。まず、ルパン・次元の2人だが、彼らはパイカルのいる世界へのイニシエーションを、鏡を覗くという行為で果たす。《距離は見ることの可能性である》とすれば、鏡は《見ないことの不可能性》(「鏡について」宮川淳)なのである。次元は射撃練習に手鏡を用いることで、ルパンは自らの身だしなみを整えるために鏡を覗き込むことで・・・いや、そもそもルパンは海に浮かべたボートに乗って本作に登場したのであり、ひょっとすれば海面を鏡として覗いていたのかも知れない。作中、パイカルに襲撃されて車ごと海に沈むルパンは、ジャン・コクトー『オルフェ』のごとく鏡の世界へ侵入したのだと言えるのかも知れない。さて、このイニシエーションを果たした2人は、パイカルの謎を解析していく。まず、指先から放たれる炎は小型火炎放射器を用いたものだ。宙空に浮かんでいるのは硬質ガラスを用いたのだ・・・しかし、パイカルがなぜ銃撃や爆弾の炸裂にダメージを受けないのかという謎は解けないままである。2人は再度イニシエーションを果たさなければならない。そして、それは不二子を媒介にすることで行われる。

ところで、不二子はパイカルの何を盗んだのであろうか? 不二子はパイカルの所有していた3枚のフィルムを盗んだ。それらはある偶然を介して、ルパンの手に渡るのだが、それ以上に不二子はパイカルのある“方法”を盗んでいる。その方法とは空間=時間にある2つの地点を自在に結合(associate)させるというものであり、ルパン・次元を狼狽させたものだ。そして、不二子はそれを自由連想(free association)によって敢行する。パイカルによってそのアジトに連行された不二子は詰問を受ける。パイカルの顔を見た不二子は、その昔同じような光景に遭遇したことを不意に想起する(この際、詰問するパイカルの声にエコーがかかっている=現在と過去が二重化されている)。ここにおいて、現在と過去を隔てた距離は廃棄され、不二子はイニシエーションを果たす。現在起こっている出来事が、かつて起きたことであり、同時にこれから起こることであるような世界の住民に。さて、不二子はこの距離を失効させるという方法を行使するのに、いくつかの道具を用いる。パイカルに対しては置き手紙とテープレコーダーの2つ。共に“いまここ”にはいない自分の声を“いまここ”に響かせるという機能を果たし、パイカルルパンとの対決に使嗾する。一方ルパンに対しては近傍、時には眼前にいて、今度は自らの肉声を響かせる。シャワーを浴びながらの鼻歌は暗にパイカルとの対決が迫っていることを伝え、窓越しの語らいではその対決を忌避するように使嗾する。不断に破局へと駆り立てつつ、その瞬間を遅延させ続けようとするこのねじれを孕んだ様態(まるで資本主義のようだ)を、不二子の魅惑の淵源として提出して良いかも知れない。またルパンは触覚の住民らしく、窓の外の木に腰掛ける不二子に飛びつこうとするが、すでに不二子によって足場となるはずだった硬質ガラスが取り除かれていたために地面を愛撫することになる。“いまここ”にいるはずの不二子は、同時に“いまここ”にはいないのだ。そして、この衝撃がルパンに3枚のフィルムの解読方法を教える。フィルムは空間の中で分配された3つの場所に並べられて読み解くものではなく、ある種暴力的に1つの場所に押し込めることで初めて読み解かれる。それはある化学式を示しており、それがパイカルの謎だった。このようにしてパイカルの全てを解読したルパン・次元は、彼の流儀(=世界システム?)に従い彼を殺害するのだ。

ルパン・次元・不二子の3人が敢行した革命を整理してみよう。視覚の世界の住民は常に監視されていると意識することで、実は自分で自分を監視させられている―――まるで鏡を見るように―――というパノプティコン装置の奴隷なのであり、どこにもいると同時にどこにもいない人物に怯え、王として崇拝する。その意味で王は鏡の国の住民である。鏡の向こうに人物は存在しない。しかし、人は鏡の向こうに立つ人物を意識せずにはいられない。“どこにもいない”のに、眼を開く=視覚の世界に依存している限り“どこにでもいる”のである。触覚性―――視覚的人物の眼前に常に遍在し、自らを自らによって監視するように使嗾し続けること―――も垂直性―――視覚的人物の依存する構造から常に逸脱し、その論理で把捉できない存在(不在?)であること―――も共に鏡の国の住民の属性なのである。そこで3人はパイカル=王の触覚性と垂直性を盗んだ。重要なのは、この2つの革命=盗みは同時に行われなければならないということだ。自らを監視させる構造を温存したまま王を殺すことは、世界をただ逆転させただけにすぎない。王を殺した者は、端的に新たな王となるだけである。また、構造の壊乱はたとえそれが大掛かりなものであったとしても、常に漸進的なものでしかありえない。そもそも完全な無秩序はありうるのだろうか。次元は銃の操作に関する知識と技術に長けているために正確な射撃を繰り出せるのであり、ルパン化学の世界に通暁しているためにパイカルを打ち倒したのではないのか?ここで王が本来的に虚無だと主張しても無意味である。王は無であっても、いやむしろ無=不在であるからこそ秩序の世界の留め金として必要とされるフェティッシュなのだ。革命は王と構造が同時に崩壊する無時間的な瞬間に起こさなくてはならない。《革命家は技術の進歩と社会の全体性を分けるへだたりのなかに生きて、そこに永遠の革命の夢を刻む》(「構造について」ジル・ドゥルーズ)。

だが、3人がイニシエーションを行ったとすれば、この瞬間は到来しないであろう。なぜならイニシエーションは前の構造から後の構造へ時間をかけて移行するという行為だからである。たとえそれが閃きのごとく素早く行われたとしても、時間的なズレが介在することにかわりはない。では、彼らは革命を敢行しなかったのか? 違う。彼らは革命のためにイニシエーションを行わなかったのだ。ルパン・次元・不二子はパイカルとの遭遇とは無関係に常にすでに鏡の世界の住民であった。たとえば、冒頭の射撃シーンを見てみよう。次元はすでに“両手”で正確に銃を使いこなしているではないか。この意味で「魔術師と呼ばれた男」は、大隅=大和屋における『風流夢譚』と言えるのかも知れない。さて、3人が本来的に鏡の世界の住民であるとするならば、ここで問題が生じる。では、彼らは王殺しの対象にならないのか?あるいは王が王を殺すことなどありうるのか?とりわけ主人公であるルパンは?そこで、もう1つの脚本作品を検証してみることにしよう。そのタイトル「狼は狼を呼ぶ」は「王は王を呼ぶ」と言い換えうるかもしれない。

ルパンの盗みの対象はある老人が所有する斬鉄剣の製法を記した巻物である。これはその昔ルパン二世が盗み、そしてこの老人によって盗まれたものであった。そして、ルパンはこの巻物を盗み出し、同時に不二子によって盗まれてみせる。彼は自らの父親の行為をまるごと反復してみせるのだ。だが、この反復には奇妙なズレが忍び込む。なぜならルパンが盗み、盗まれた巻物は偽物であったからである。偽物への摩り替えを行ったのは、老人にその巻物の護衛を要請されている五ヱ門である。だが、五ヱ門は巻物を盗まれて逆上するルパンに本物の巻物を与える。つまりルパン同様に五ヱ門も巻物を盗み、そして盗まれる役柄を割り振られていると言えよう。いや、ルパンが偽物をやり取りするのに対し、五ヱ門がやり取りするのは本物であるから、ルパン二世を反復するのはむしろ五ヱ門の方なのである。ルパン二世の嫡子は五ヱ門?ルパン三世=十三代目五ヱ門?ともかく、本作では五ヱ門こそが王であるかのようだ。そもそも作品の冒頭、ルパンは五ヱ門の下に入門しようとしているではないか。

しかし、ルパンは王=鏡の国の住民としての属性を失ったわけではない。ルパンは安中の半次という人物の鏡像として五ヱ門の元に忍び込み、そして同じく入門しようとする不二子(藤波銀子という仮名で登場する)を雑誌に穿たれた穴を通して片眼で覗き込むのである。またルパンは五ヱ門の袴に盗聴器を仕掛ける。五ヱ門はこの盗聴器を斬鉄剣によって斬り捨てるのだが、ルパンはその様子を音としてというよりも、頭蓋骨を揺さぶる衝撃として知覚する。つまり遠く離れているはずの自分と五ヱ門のいる場所を、触覚的に接合してしまうのである。ルパンパイカルに施したのと同様、五ヱ門に対しても王殺しを敢行するのであろうか?

だが、その前に五ヱ門の王としての資質を検証してみよう。先述したように五ヱ門は老人に雇われている。彼はどこにでもいると同時にどこにもいないのではなく、老人の作った示刀流というシステムの指南役という位置、巻物の近傍という位置に固定されている。発信機を斬るという行為も、遠隔地にいるルパンに衝撃を与えるというよりは、老人の“非情さに徹せよ”という言葉に促されてのものであろう(発信機はテントウ虫の形をしており、小鳥を屠殺する老人の仕儀の反復である)。あるいは垂直性ということで言えば、不二子に分があるだろう。彼女は示刀流の本部を襲撃する際には飛行機で武器を投下させ、ルパンの手から巻物を盗み出す際には飛行機から盗み出す。3人の兵士を率いて、襲撃するその姿はまさに王のものであろう。彼らに比べて五ヱ門は格段に王としての資質に欠けるといえる。五ヱ門はただ、本物の巻物を所有しているがゆえに王なのである。斬鉄剣の使い手というその規定も、生殺与奪を握る王のイメージというよりは、王に従うテクノクラートのイメージに近い(事実、後のシリーズでの五ヱ門はまさにそうした存在として描かれる)。しかし、この物語で最も王にふさわしいのは五ヱ門でもルパンでも不二子でもなく、もちろん老人でもない。それは斬鉄剣であろう。あらゆる刀を否定する刀。テクノクラートである五ヱ門や老人に支配されつつ支配するフェティッシュ。さらにいえば作中、斬鉄剣は大量生産される商品として描かれており、オリジナルとコピーの差異がないという意味でも王―――というよりは天皇?(三島由紀夫)―――なのである。そして、ルパンは五ヱ門に対してではなく、斬鉄剣に対して王殺しを敢行するのだ。だが、それはどのようにか?

この作品の脚本段階でのタイトルは「ドンパチのない日」というものであった。だが、作品中には先述したように不二子一党による銃撃戦が描かれるのだから、このタイトルは正確には「チャンバラ(による殺人)のない日」と書き換えるべきかも知れない。この作品の中では、4度チャンバラが描かれる。時系列順に並べると、まずはルパン二世と若かりし日の老人との間のチャンバラ。これは二世の持つ短刀型の斬鉄剣が老人の日本刀を破壊するところで終わる。次にルパンと老人の巻物をめぐるチャンバラ。これはルパンが老人を陥穽に誘い込むことで終わる。三度目はルパンと五ヱ門の間のチャンバラ。これも同じく五ヱ門が陥穽に落ちるところで終わる。最後にもう一度ルパンと五ヱ門の間のチャンバラ。乗り込んだ車を斬鉄剣によって真っ二つに切断されたルパンは、二輪車と化した車で五ヱ門を追跡する。そして唐突に終わる。これらのチャンバラに共通しているのは、それらが殺人に用いられる前に不意に中断されることである。特に三度目のチャンバラに至っては、五ヱ門は刀を抜いてすらいない。これが本作での王殺しである。斬鉄剣を破壊=殺害したり、強度を損なったりすることなく、ただそれを殺人という目的=結末に向かう運動から逸脱させること。それはパイカル=鏡に対し、いわば合わせ鏡としてふるまって殺害したのとは違う形での王殺しだ。そして作品は五ヱ門のルパングループへの加入を描いて終わるが、これは五ヱ門に対する王殺しといえるだろう。

ところでルパングループとはどういう集団であろうか? それは、タイトルの通り“狼”の群れである。《狼はいつだって8匹か10匹、6匹か7匹なのよ。これはつまり、たった1人で同時に6匹か7匹の狼であるというのではなく、他の狼たちの中の、他の5匹か6匹の狼と一緒の、1匹の狼であるということだ》《私はこの群れの縁に、その周辺にいる―――でも、私はそれに所属している、私はそれに私の体の先端で、片手か片足で結ばれているの》(「狼はただ一匹か数匹か?」ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ)。ドンパチのない日。それは逆に狼になり、司令部から前線まで組織化され国民を総動員するような旧来型の戦争を異化する、いわば“戦争に抗する戦争”としての革命を記念する日の謂いであると言えようか(その意味で、“狼”と名乗ったニューレフト集団、東アジア反日武装戦線を想起しても良いかも知れない)。タイトルは「王は王を呼ぶ」ではなく、やはり「狼は狼を呼ぶ」がふさわしいのだ。

大和屋はこの革命を先駆的に提示した作家であった。それは『殺しの烙印』(鈴木清順・67年)、『処女ゲバゲバ』(若松孝二・69年)などの脚本作品や『裏切りの季節』(66年)、『荒野のダッチワイフ』(67年)といった監督作品にも描かれているが、何よりもここでは前記した『毛の生えた拳銃』を指摘しておく。この映画は麿赤児扮する高と大久保鷹扮する商という殺し屋コンビが、吉沢健扮する司郎という美少年を追跡するという物語を持っている。司郎はオープニングで路上のカーブミラーに反射した姿で現われるように、ルパン達と同様に鏡の国の住民である。そして高と商の2人を暗闇や雑踏といった触覚的空間に誘い込んでは、その殺意を萎えさせる。2人組は語る言葉や膨らませた妄想が実体化してしまうかも知れないという不安に怯えている。胃袋を引きずり出して踏んづけてしまいたいと語る商を高は戒める。《踏んづけてえなんて思っちまったら、もう半分踏んづけているようなもんだ》と。しかし、この戒めはすぐに破られる。それは司郎への同性愛的な感情を語り合い、彼の情交を想像し合うという形で行われる。これを境に司郎は2人組の妄想にしか現われなくなる。葡萄畑での司郎との決闘は回想なのか妄想なのか―――あるいは未来を回想している?―――分からない時制で描かれるし、組織のボスを襲撃する司郎はカウボーイのような珍妙な姿をしている。そして、どちらも決定的な破局を迎える前に唐突に打ち切られる。殺人はおろか、司郎の実体が固定されることすらない。だが、2人組はいつしかそれを楽しむようになる。彼らも鏡の国の住民になるのだ。象徴的なエピソードがある。2人組がそれぞれ娼婦と同衾する時、彼らは鏡を間に置いたかのように対称の挙動を示すのだ。そして革命が生起する。組織は掃討され、同時に2人組は声を響かせるだけの存在へと変貌を遂げる。しかし、その声はなんと肯定的であることか。《司郎の奴に会えるかな・・・会えるだろう・・・又奴にハジキの使い方教えてやろう》。狼は低く唸りあう。それは子供が語り合っているようでもある。

『毛の生えた拳銃』が製作された68年は、パリ5月革命をはじめとする学生運動が燃え上がった年であった。革命の主体は前衛党から子供に推移していたのである。そして、大和屋の革命の担い手も子供であった。報酬を日払いから月給にすることを求めている高と商の抱えた経済不安は、大学が労働者育成機関としての機能を喪失しはじめていた68年の学生をとらえ、運動へと駆り立てたものと同型である。あるいはルパンや五ヱ門が子孫を現わす名前で呼ばれていたことを想起しよう。“子”の1文字を名前に含む不二子も、オリジナル(=元)の後継(=次)であることを告げる次元もそうだ。しかし、それは彼らの系譜的な本来性を保証するものではない(逆に青山真治が指摘するように、そう名乗らなければならない素性の怪しさを示したものと考えた方が妥当であろう。「ルパンゴダール あの馬を見たのは誰か?」参照)。それよりも、子供であることが保証するのは群れであるということではないか?“こ・ども”という呼称を見れば分かるように、子供はそれ自体で群れなのである。そして、この群れとしての子供という概念こそが『ルパン三世』に子供向けアニメというジャンルからの飛躍をもたらしたのは冒頭に記した通りである。

2007-01-22

[][] シニカルな痴漢たちのユートピア―――大工原正樹『痴漢白書8』(非和解検査)

『痴漢白書8』の物語は、結婚を間近に控えた看護士・みゆき(岩崎静子)が電車の中で官能小説家・倉持(諏訪太朗)に痴漢行為をされるところから始まり、婚約を破棄して倉持を選ぶところで終わる。この《倉持を選ぶ》に至るまでのいささか胡散臭い過程をいかに描いていくかが演出の焦点となってくるはずであり、作品にはそのために配されたであろう細部が散見されるのだが、それらはこの過程に説得力を与えるように機能しているというよりは、むしろその逆に働いているようにさえ見える。すなわち、物語が進行するにつれて、みゆきが《倉持を選ぶ》という行為がありえないことのように思えてくるのである。

 みゆきにとって倉持はどのような人物であるだろうか。彼は電車内でぶつぶつ歌いながら彼女の尻を触る痴漢であり、剃毛されるために下半身を曝け出している虫垂炎の患者であり、自分ヘの痴漢行為の体験をそのまま綴った破廉恥な官能小説の書き手である。これらのエピソードから形作られる倉持のイメージは利己的で情けない風体の変質者というものであり、基本的にラストまでそのイメージは揺らぐことはない。いや、むしろ物語が進んでいくほど、そのイメージは悪化していくといってよいだろう。みゆきの自動車からガソリンを抜き、わざと停車させたところに偶然を装って現れたり、モデル小説を書いたことに怒る彼女の前で放屁をしたり、彼女が勤務する病院に忍び込み、ナイフをかざして脅したりと、倉持の所業は彼女の感情を逆撫でし続ける。また、倉持がみゆきに自分が痴漢行為やモデル小説を書く動機について語るエピソードも存在するが、曰く、あなたの尻の感触が自殺を思い止まらせた、曰く、あなたをモデルにすれば原稿を書ける気がする、といったように、その告白はあまりにナルシスティックであり、やはり彼に対して彼女が抱くイメージを覆すことはないだろう。観る者も、倉持のひどさにある種の興味を覚えこそすれ、共感や魅力といったものを感じることはない。まさに観客の代理としてみゆきの祖父が―――彼は彼女の結婚に何となく不満や不安を覚えているのにもかかわらず―――断言するように、《あいつはダメ》なのである。

 だが翻って、倉持の目にみゆきはどのように映っているのだろうか。みゆきは倉持にとって魅力的な存在なのだろうか。しかし、これも実に曖昧なのである。彼の彼女に対する思い入れは、彼女に痴漢行為を働くことによってこれまでにない新しい小説が書けるかもしれない、という一点のみにある。これでは昆虫の観察日記をつける小学生のようなものであり、そこには人間的な愛欲のようなものが感じられない。事実、しばしば倉持はまるで人間ではない機械のように行動する。前述したガソリンを抜き取る作業の際の倉持には、女を付け狙う男の妄執のようなものは感じられず、むしろただただ義務を果たしているだけだというような淡々とした風情が漂うのである。また、病院に忍び込んだのも、みゆきを暴力的に所有したいという欲望からではない。倉持は担当編集者に原稿を読んでもらい、二つのことを指摘されていた。1)自転車の後ろに乗っている女が失禁するまで―――これは、倉持が実際に体験したことである―――は妙に生々しいが、それ以降は下手な文芸作品のようにつまらない、2)以前に倉持が好んで書いていたような拉致・監禁、レイプを題材にした原稿を書け・・・倉持は、1)の指摘からみゆきとの体験が自分に新しい霊感を与えていることを確信することになり、2)の要請に忠実に従って彼女を相手にそうした暴行を働こうとしただけなのである。ところで、こうした1)や2)という契機は、表現者が日常的に経験するものではないだろうか。あらゆる作り手たちは、1)のように喚起力のある題材を発見することや、2)のように他者からそうした題材を与えられることを求めている。本作は『痴漢白書』シリーズの終盤近くに製作され、さらにいえばピンク映画草創期から連綿と続く《痴漢もの》の末期に位置する作品であり、ジャンルが新たな作り手たちに具体的な欲望や実感を提供したり喚起したりする能力を失ってしまった段階においてしばしば作られる《表現》や《表現者》についての作品の一つといってよいだろう。《痴漢もの》映画の作り手たち自身を主人公とした『痴漢白書10』(山岡隆資/脚本・井川耕一郎)もそういった作品であったが、作り手たちはジャンルの非生産性にシニカルに対応しているのである。倉持のみゆきに対する身振りは、そうした作り手たちのジャンルに対する身振りに似てシニカルである。彼はみゆきに魅力を覚えるから拘泥するのではない。むしろ、みゆきの魅力というものが存在すること、自分に魅力というものを感じる能力が存在することを信じないがゆえに拘泥するのである。そもそも《痴漢》たちは、対象となる女の顔や目を見ることはない。痴漢にとってそうした身振りは、自分の顔や目を見られる可能性を増すという意味で危険な身振りであり、極力避けなくてはならないものなのである。また、たとえ見たとしてもそこに彼らはその女の魅力を見たりはしない。彼らが欲しているのは、《ある女》《女というもの》の感触や体温であり、《その女》を感じることは禁じられており、また不能なのである。本作においても、倉持はみゆきの体を触る際にその目や顔を見ようとはしていない。また、彼は失禁したみゆきに着替えの服を贈るのだが、それは彼女に全く似合っていない。彼は彼女を見ていないのである。唯一例外的に、病院において剃毛される際に倉持はみゆきの顔を見ようとする。だがその行為は、彼女の同僚である看護士(長曾我部蓉子)によって妨害されるのである。

 さて、本作においては倉持が禁じられ、不能であるように、みゆきもまた禁じられ、不能であることが示唆されている。みゆきの祖父が語るように、彼女の両親は愛欲のもつれから無理心中的な死を遂げており、それ以来彼女は欲情を持つことに対して極めて抑圧的になっているのである。この作品は、みゆきが倉持との交渉によってそうした抑圧から解放されていく過程を縦糸の一つとしているのだが、しかし倉持の描き方と同様、この過程もまたシニカルに描かれていく。みゆきは倉持による痴漢行為の後、電車の中で女子学生の手を痴漢の手であると勘違いして声を上げる。また、婚約者と電車に乗っているときに倉持に体を触られるのだが、その欲情の高まりを彼にではなく婚約者にぶつけている。欲情を喚起したのがたとえ倉持であったとしても、彼は決してその対象とはならないのである。彼女もまた《痴漢》的な存在であり、婚約者だけでなく、倉持にとってもしばしば不可解な存在となる。

 だが、この互いに互いがシニカルな《痴漢》であるということが、《倉持=痴漢を選ぶ》という異様な事態を可能にしてしまう。倉持と婚約者の間の選択を迫られたみゆきは、なんと倉持が―――かつて自分が彼の前でそうしたように―――失禁している姿を目の当たりにしたのをきっかけに彼を選んでしまうのである。婚約者同様、事の次第に呆気に取られている観客の前で、彼女はさらに驚くべき行動をなす。彼女は倉持の正面に対峙するや、その唇にではなく禿げあがった前頭部に接吻するのである(彼らの背後では、花火まで打ち上げられる!)。これは単純にハッピーエンドといって済ましてはいられない事態である。互いに互いの魅力など信じていない二人は、ただただ互いに相似的でありながら、それゆえにねじれて存在していることを確認し合うのである。シニカルな人物たちの邂逅においてのみ、ユートピア的な一瞬が到来してしまう―――こうした図式は、本作に限らず大工原作品全体に散見されるものであり、他の作品においては人物たちのシニカルな属性がユートピアの強度によって巧妙に隠蔽・昇華されるのであるが、『痴漢白書8』はこの図式そのものが露わにされているという意味で特権的な作品であるといえる。

2006-09-30

[][][]大和屋竺『裏切りの季節』論(非和解検査)

「どこまでこけおどしの芝居をやりやがるんだ」「そこはもう、完全な復讐劇のための舞台裏になっていた」「芝居は終わりだ」・・・『裏切りの季節』には演劇、演じることに関する台詞が散見される。こうした台詞は、その他の大和屋関連の作品―――例えば、今回同時上映の『引き裂かれたブルーフィルム』など―――にもしばしばみられるものであるが、そのとき語られる《演劇》とは一体どんなものなのであろうか。それは例えば、ジャン・ジュネがいう「芝居の芝居、映った影のまた影という〈反映〉」(『ジャン=ジャック・ポーヴェールへの手紙』渡辺守章訳)を志向したものではないだろうか。

 密室の中、視覚と聴覚を閉ざされた眉子に対して、保険屋は長谷川の代わりを演じようとする。保険屋の、解放区に入れ、ギャラは倍額出す、という依頼は、中谷が契約している通信社の社員たちによってふたたび語られる。ヴェトナムで黒人兵が中谷に「ジャップ」と呼びかけたように、中谷は黒人との混血青年・ケンに向かって「黒ん坊野郎」と言い放つ。演じることを通して、本来非対称なものが結び付けられ、反映し合う。こうしたあり方を、《裏切り》と言い替えることが出来るかもしれない。

 ジル・ドゥルーズは『恥辱と栄光―T・E・ロレンス』の中で、ロレンスの資質を端的にこう表現している。「事物に、未来に、そして空にまで、自己自身と他者たちのかなり強烈で、それ固有の生を生きているようなイメージを、つねに手直しされ、繕われ、途中でも巨大化しつづけ、ついには想像を絶する大きさになるイメージを投影しようとするある傾向」(谷昌親訳)。こうした資質は大和屋にも当該する。別の非対称なイメージと重ね合せることでしか、イメージを見ることができない資質。裏切りの意識と切り離しえない幻視の力能。ロレンスがアラブの砂漠でこうした資質を自らに見出したように、大和屋もボルネオの奥地で、井出昭―――その監督作品でモンド・ドキュメンタリー『世界を喰らう』に大和屋はアッシャー・Y・ハンセンの変名で協力していると思われる―――や国岡宣行といった人物と交わるうちに、自身の資質に気付いたのかもしれない。

 互いを裏切る事物と事物の間には、まるで歪んだ鏡が置かれたかのようである。非対称性を孕み、産出する鏡。中谷は眉子に、長谷川が作り出したという奇妙な眉子の鏡像について語る。それは中谷が撮影した顔を欠いた眉子のヌード写真に、当の眉子の顔を貼り付けたものである。この語りによって中谷は、眉子を歪んだ鏡が人物を取り囲む世界に誘い込む。映画の後半、大きく引き伸ばされたヴェトナムの戦場写真を眉子に眺めさせた中谷は叫ぶ。「見ろ、お前が居る!」戦場写真という1枚の歪んだ鏡を通して、ヴェトナムと暗い寝室が非対称なまま通底する。「何とまあ親しみ深い景色なんだろうなあ」中谷は嘆息する。しかし、その瞬間すでに、眉子は《裏切り》を起動させていた。それは自らを歪んだ鏡へと変貌させることによって果たされる。

 眉子は自ら被写体となることを通して、ホテルの一室でヌード写真を撮影するという中谷の行為をケンに反復させる。中谷とケンは、眉子という鏡を介して互いを裏切る。中谷の世界に眉子という鏡が侵入することで、そのパースペクティヴが歪み始める。群衆の中に紛れて長谷川と《似ている》男を探す眉子の身振りを、中谷はいつしか反復してしまうのだ。左手のない男を右手がないはずの長谷川と錯視し、中谷は眉子が仕掛けた裏切りの世界へと引きずり込まれる。そもそも眉子が中谷への復讐劇を起動させるきっかけになったのは、密室での拷問のさなかに片方の耳栓が外れたからではなかったか。この瞬間、眉子は左右非対称な顔を獲得し、歪んだ鏡への変貌を遂げたのである。

 眉子の裏切りを契機に、中谷と長谷川の鏡像関係が浮き彫りになる。長谷川の代わりに眉子を愛する中谷。拷問を受けている際には長谷川の名前を呼んだにも関わらず、中谷の前では中谷の名前を呼んだと告げる眉子。長谷川の写真を獲得し、長谷川の代わりに群衆の前で演説する中谷。そして、長谷川と同様、自らの腕を切り落とす中谷。眉子を蝶番にして、ヴェトナム=過去での時間と、現在での時間が折り重ねられる。過去を逃れようとする中谷の身振りは、すでに過去に長谷川によって演じられていたことが少しずつ浮かび上がってくる。時間は単調に流れているわけではない。異なる方向に流れる時間と重ね合わせられ、裏切り合う。それが他の多くの大和屋作品にも共通してみられる時間のあり方である。《裏切りの季節》とは、こうした時間の様態の謂いであろう。その時間の果てに、腕を欠いた中谷は、やはり腕を欠いた長谷川と対面する。ドライアイスによって冷凍保存され、ヴェトナムから空輸された長谷川の死体である。そして時間の最初に長谷川が撃たれたように、中谷も撃たれる。始まりと終わりが重なり合い、時間が停止する。しかし、まさにその瞬間に風に吹かれた傘が動き出す。中谷を仕留め、長谷川の死体を積み込んだ車が猛スピードで走り去る際に生じた風だ。車の速度と傘の速度のずれ。動く傘と不動の中谷のずれ。ふたたび《裏切りの季節》が起動し始める。

 映画のラスト、寝室に一人残された眉子の裸体が映し出される。眉子に光を当てている照明の位置が変化し、その陰影が瞬間的に変化する。1個の肉体の上で、2つのイメージが重ね合わされる。そこへケンがギター伴奏で歌う豊後浄瑠璃が流れる。そして、その歌もやがて別の豊後浄瑠璃に変貌していく・・・


(この批評は、昨年七月のシネマアートン下北沢「大和屋竺作品集」のトークショー(大久保賢一・井川耕一郎)のときに配布された資料からの再録です)

2006-09-23

[][]『寝耳に水』について(非和解検査)

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 井川耕一郎『寝耳に水』は、そのタイトルにも拘らず唐突な事件との遭遇を描いたものではない。主人公坂口の後輩・長島の自殺も、その恋人・弘美の死も、唐突に発生するのではなく、そうした事件が“あった”と回想される対象に過ぎない。何より映画自体が、長島の多分に夢/妄想を含んだ回想を、坂口が回想するという複雑な構成を採っている。事物は残像としての、人物は幽霊としての属性を露わにし、時制は曖昧極まりない。その中で、坂口は自殺を前にした長島と過ごした一夜を語ろうとするのだが、それは事件の再現から必然的に逸脱していくであろう。だが、そもそも映画は事件を語ることなど可能なのかという疑問が一方で生じてくる。事件は人物の眼や耳を揺さぶるものであるがゆえに、事件と呼ばれるのではないのか。坂口の(そして長島の)語り口は、事件の再現不能性を再現自体に巻き込むような趣を示していると思える。それを端的に証している場面を、ここでは二つだけ挙げておきたい。


 一つは、長島の耳をクローズアップする場面。井川のコメントによると、この撮影のために六畳間いっぱいの大きさの耳の模型を製作したということなのだが、例えばこの場面を単にカメラを対象に接近させるだけで処理していた場合に比べて、いかなる効果があるだろうか?ここは長島の回想の場面であり、耳を見ているのは長島だと考えられる。そして耳は、事件―――この場合、弘美の死そのものよりも、死の二日前に彼女が漏らした《いたい》と言う二義的な言葉を“耳”にしたという事実―――によって、鋭敏に(=巨大に?)変貌を遂げたのであり、この場面はそのことを示していると言えるだろう。しかし、耳の大きさが実物と模型の間で揺れ動くことは、耳の変貌のみならず話者である―――そして、その耳の所有者でもある―――長島そのものの変貌=小型化をも示す。その結果、長島の肖像はひどく歪んだものになるであろうが、グラス越しの長島の顔を捉えたショットはそれを予感的に表象した物に見えてくる。この顔は一体誰のものなのか?誰がこの場面を見ているのか?


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 もう一つは、団地のベランダから布団が落ちる光景を反映している坂口の瞳をクローズアップする場面。ここで布団の落下イメージは新谷尚之の手によるアニメーションで処理されている。もちろん、実際に布団の映った瞳を撮影するのは極めて困難であり、こうした処理を施すのは妥当であるが、ではなぜ実写の映像を加工することをしなかったのだろうか。答えは今や明らかであろう。この場面によって、落下―――長島の自殺を暗示している―――という事件と同時に、それを見つめる坂口の瞳も曖昧化されるのである。そもそも、坂口は長島の自殺を実際に見ていないのであり、事件が事件の記憶を壊乱したような印象が残されるのだ(事態は、その逆かも知れないが)。


 しかし、二つの場面は坂口、そして長島が語る物語自体を揺さぶることはない。虚実入り混じり、錯綜した印象を与えるものの、二人の語る物語は観客に理解可能である。映画の中で登場する奴隷契約書―――ドゥルーズガタリが『千のプラトー』で引用したマゾヒストのプログラムを想起させる―――や、引用されるファーブル昆虫記は、この物語の堅固さを象徴しているように思われる。事件による変貌にも拘らず、物語は完成してしまうのである。それゆえ映画にはシニズムの気配が色濃く漂う。《寝耳に水》という慣用句=物語や、《薪》と《口火》の挿話が忠実に演じられる場面―――後者は、澤田幸弘『暴行!』の極めて印象的なオープニングを想起させる―――は、その代表的なものであり、ここで映画は物語の堅固さを摸倣しているように思える。何よりラストの、坂口が実際には“いつ”語っているのかについてを明かした挿話などは、出鱈目に過ぎる《物語》ではないか。ここに至って井川のシニズムは、ユーモアへと突き抜けているように思える。映画そのものが事件と化すような、貴重な一瞬が到来したように思える。そして、このユーモアもまた物語に還元されるのであろうが、井川は物語を嬉々として反復し続けるであろう。なぜなら《語り》には主体も、対象も無く、したがって終わりもまた有り得ないからだ。そして、それはこの作品自体が執拗に《語り》つくしたことなのでは無いだろうか?


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