世間の中心に対抗する方法

成城トランスカレッジ!―人文系NEWS & COLUMN―:『家族の痕跡』読書会チャット報告にて、「オオヤケ」と「Public」の差異という観点から興味深い考察がされています。*1
素晴らしい解説や考察もされているのでアンカテ(Uncategorizable Blog):「オオヤケ」的階層化のYahooと「Public」でフラットなGoogleなどを参照してください。


ここでは「オオヤケ」と「public」、「ワタクシ」と「private」の共通項を考えたとき、間にあると考えられるレイヤーについて考えてみたいと思います。
雑記帳:[MEMO]「社会」についてで指摘されていますが、構図はたぶんこんな感じです。

private → 世間 → public(社会)


さて、日本の場合、世間と社会をつなげる回路が希薄で、社会や世界を変えられるという感覚があまりみられません。これについて阿部謹也は、

「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが。「世間」を変えるという発想はない。近代的システムのもとでは社会変革の思想が語られるが、他方で「なにも変わりはしない」という諦念が人々を支配しているのは、歴史的・伝統的システムのもとでは変えられないものとしての「世間」が支配しているためである。「世間」が日本人にとってもっている意味は以上で尽きるわけではない。「世間」は日本人にとってある意味で所与と考えられていたから、「世間」を変えるという発想は全く見られなかった。明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西欧ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものとして受けとめられていた。 


学問と「世間」 (岩波新書)』 p111-113

と述べているらしいです。*2つまり世間はそれは所与のもので変えられとされてきたのです。


しかし世間が「みんなが思っていると思っていること」だとするならば、それは他称を借りた自己の集積でもあります。

あんな番組はくだらないと思って見ています。しかし、自分だけがそう思っていて、自分以外にその番組を見ている人は、そう思ってないバカだと考えているのですね。多くの人が、同じように思いながら、アホ番組を見ている。その集積が、視聴率を作っているのだと思います。


ご臨終メディア ―質問しないマスコミと一人で考えない日本人 (集英社新書)』 P45

「賢い俺/あたし」と「よそのひと」は違うという意識のあり方が影響してるのではないでしょうか。そしてそういう「よそのひと」たちを変えるのは難しいという考えがあわさると、世間は変えがたいものとして立ち現われてきます。そうだとするととても皮肉です。


自意識の問題を別にすれば、先頭切ってやりたくないということがネックなのではないでしょうか。誰だって矢面に立ちたくないですし。
そして矢面に立ちにくいのは「世間がそれを許さないから非難されてしまう」ためです。そしてその「世間」は何なのさ、となってしまいます。メビウスの輪のようですね。


世間論は無限ループです。だから仮想としての他称(じつは自分の主張もときとして含まれている)という虚構性が問題なのでしょう。世間の中心は空洞なのです。


でも、こんなことは薄々知ってるのではないでしょうか。でも実際には動かない。きっと誰かがやってくれるだろう、といってずるずるときてしまう集合行為問題ですね。


そして、ルーマンは日本でいうところの「世間」を「親密な慣れ親しみの関係」と呼んで次のように書いてるそうです。*3

大抵の親密な慣れ親しみの関係の場合には、信頼〔に値するかという〕問題が独自の熟慮の主題となることはない。それが主題になるときには、親密な慣れ親しみは、反省によってもはや疑う余地なき自明のものではなくなっている。そこでは全き未知性の溝が、登場しているのである――たとえ、もっとも身近な隣人に向かい合っているとしても、そこでの隣人は、ある疑いによって、驚くべき異人性へと遠ざかってしまっているのである。その場合には、〔慣れ親しみとは〕別の、〔信頼に値するかという〕熟慮に耐えるような、信頼の基盤が求められるのである。


信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム』 p58

「公」や「私」が大文字で語られているということを考えると、現在は関係持続経験ベースの信頼が自明のものではなくなったのかもしれません。しかしそうであるならば、それは新しい信頼基盤を形成するチャンスでもあると思います。集合行為問題を何とか乗り越えて考察されるべき時期だと思います。
これについてcedさんは

我々に必要なのは、「世間」を「社会」から隔離することではなく、「社会」の中に「世間」を見出すことではないだろうか。そうすることによって、日本人は「社会」を語り得る可能性を発見できるのではないか。単に内向きな特殊性に閉じ篭るのではなく、開かれた普遍性の中に独自の在り方を見出す必要があるように思う。


雑記帳:[MEMO]「社会」について
http://d.hatena.ne.jp/ced/20060526/1148570978

と提示しています。
publicな部分は共通項をある程度確保しつつ、privateなところでは多様性を実現、みたいなかたちが理想的だと思いますが、実現はなかなか難しそうです。それでもやはり考え続けて行動することでしか、身の回りは変えられないのです。そして、変えられると信じないことには何も始まりません。

*1:特に、「ひきこもっている人は、「オオヤケ」に関わらないことで、異様に純化された「public」を維持することになる(非現実的なまでに)」 という指摘は秀逸。

*2:孫引き・・・。

*3:また孫引き・・・。